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ヒゲの参軍

2006-06-27 07:20:29 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読む-Ⅲー118 ヒゲの参軍



哀帝、名は丕(ひ)。即位後二年にして病床に臥し、その一年後に崩じた。弟の瑯瑯王(ろうやおう)があとを継いだ。帝奕(えき)と呼ばれているのがこの人である。
帝奕、諡はなく、本名を取って、帝奕という。成帝の末子。即位ののち、会稽王司馬(しばいく)を丞相とした。




 桓温は、哀帝の時に大司馬(三公の筆頭)になり、内外の軍事を統括したばかりか、行政面においても全権を掌握し、さらに揚州の長官をも兼任して、水陸の要衝姑孰(こじゅく)に駐屯した。その腹心の部下だったのが参軍の“ち超”と主簿(幕僚長)の王(おうじゅん)である。そのため世間では、「ヒゲの参軍チビの主簿、桓温さまのごきげんは、いつもふたりの思うまま」とはやしたてたものである。




哀帝の末年、洛陽は燕軍の包囲攻撃を受けて陥落し、守備にあたっていた将軍沈勁(しんけい)も殺された。四年の後、桓温は大軍を率いて燕討伐に乗り出したが、枋頭(ほうとう)の一戦に惨敗を喫して逃げ帰った。
ところで、桓温の軍を撃退したのは、燕王の叔父慕容垂(ぼようすい)であった。この功績により、垂の声望は高まる一方であったため、燕王“慕容い”の憎しみを招き、ついに秦に亡命する事態となった。
秦は王猛を総司令官として燕に出兵し、ついに国都“ぎょう”を包囲した。秦王苻堅(ふけん)は“ぎょう”に入城し、燕王“慕容い”を捕虜にして帰国した。  




晋では桓温がかねてより帝位を奪おうとの下心を抱いていた。夜中寝付かれぬままに嘆息し、「男子たるもの、後世に令名をうたわれることができぬほどなら、いっそ末代まで悪名を残してやりたい」と言ったと伝えられている。
 彼は野心達成の手順として、まず軍事上の大功をたて、九錫の栄誉を受けようと意図した。だが枋頭の敗戦以来、その声望もにわかに衰え始めた。ここで桓温に献策したのが“ち超”である。「殷の宰相伊尹が王の太申を追放し、漢の大司馬霍光が帝賀を廃した故事にならうべきです。でなければ権勢を高めることはかないますまい」
 桓温は意を決して入京し、皇太后に迫ってついに帝奕を退位させた。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




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