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南北の屋台骨―謝安と王猛

2006-06-27 07:18:56 | 十八史略を読む Ⅲ
十八史略を読むⅢー117 南北の屋台骨―謝安と王猛



秦王の符健が亡くなり、子の生が位を継いだ。姚襄は、殷浩との確執がもとで秦と手を切ったのち、燕に服属し、北方の許昌(きょしょう)を根拠地として、やがて洛陽に進攻した。晋は桓温を総司令官として姚襄討伐にさし向けた。




晋軍は黄河のほとりに到達した。桓温は幕僚とともに軍船の司令塔に登り、北方の中原をはるかに見渡して、つくづくと嘆息した。「この神州の地をむざむざと夷狄の手に百年も握らせおって・・・・。これもみな、王衍(おうえん)ども清談の徒の責任だわい」桓温は、洛陽の南方伊水(いすい)のほとりで姚襄と戦い、潰走させた。その後、洛陽の東の金よう城に入り、代々の帝陵に参拝し、守備隊を残して帰国した。




いっぽう、敗れた側の姚襄は、西方に兵を転じ、関中の地を奪取しようとして、秦との間に攻防戦を展開したが、敗れて斬られた。姚襄の弟の萇(ちょう)は、残りの手数もろとも秦に降伏した。




秦では、王の符生が徒弟の符堅(ふけん)に殺された。符堅は自立して秦の天王と称した。臣下のすすめで王猛と会うと、たちまち旧知のごとくうちとけ、自ら蜀漢の劉備と諸葛亮孔明にたとえるほどの親密な間柄となって、その後一年のうちに五回もその官職を昇進させた。符堅は、このように人材を抜擢し、官制を整備するとともに租税の負担を公平にし、困窮者をいたわったので、秦の人民の圧倒的な支持を集めた。




晋では、征西大将軍の桓温が謝安(しゃあん)を幕僚にした。この謝安という人物は、若い頃から傑物としての評判が高く、朝廷から召されること数回に及んだが一度も出仕しようとしなかった。そこで士大夫たちはみな「安石出ずんば蒼生をいかんせん(謝安どのが出馬しなければ、天下万民はどうなることやら)」と言ったものである。その謝安が、いまや齢四十を過ぎてはじめて出仕したというわけだった。




「十八史略 Ⅲ 梟雄の系譜 :徳間書店、奥平卓、和田武司訳、1987年7月七刷」から




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