薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

悩まないで、何事にもひたすら「ありがとう」「愛してる」という言葉を投げかける

2014年07月16日 | 心に安らぎを

悩まないで、何事にもひたすら「ありがとう」「愛してる」という言葉を投げかける

 殺伐とした世相と希望の見えない社会。今の日本をトータルにひとつの色に喩えてみると、どんな色になるでしょうか。わたしにはにぶい鉛色しか浮かんできません。…急速に進む少子高齢化や経済力の衰え、厖大な財政赤字や政治の閉塞状況など、数々のマイナス材料…。孤独感や猜疑心が募り、夢や希望は萎んでいくばかりのようです。…
 人を消耗品のように使いつくす過酷な競争システム。やせ細っていくセーフティーネット。「勝ち組」と「負け組」との激しい格差。若者たちにのしかかる現実は、余りにも酷薄です。ですから、残酷で薄情な扱いを受ける彼ら彼女らに気の利いたふうな精神論をぶつ気にはなれません。そんなことをするくらいなら、生き延びていくためにノウ・ハウを教えるべきです。とくに、「プレカリアート(不安定労働者や失業者)」の境遇を生きなければならない立場の人々には緊急の自己防衛策を教えるべきです。
 ただ、それでも、悩みはつきないものです。
「人間的な」悩みを、「人間的に」悩むことが、生きていることの証なのですから。その意味で本書は…今を生きる若者たちにも何がしかの役に立てると確信しています。…
   2008年4月6日                             姜 尚中

 これは、姜 尚中(カン サンジュン)氏(1950年生まれ、在日韓国人、政治学者、東大名誉教授)の著書「悩む心」(集英社新書)のあとがきの抜粋です。
 姜氏は、「悩み」を手放すこと
なく真の強さを掴み取る生き方を提唱されておられます。
 しかし、これは実に苦しい。小生には、とても着いていけません。
 ときには「まじめに悩む」ことも必要かもしれませんが、氏のような強い精神力を持ち合わせていない者にあっては、心が押し潰されそうになります。
 でも、ご安心ください。姜氏は、本書の中で、スピリチュアルや宗教あるいは何かに頼ることを、決して否定してはおられません。その辺りのことを引き続き抜粋しましょう。

第5章「信じる者」は救われるか 
・「スピリチュアル」百出
 …前世、来世…臨死体験…。世の中を注意してみると、新興宗教を含めて「スピリチュアル」と言われるもの…が百出しているのに気づきます。…
 こうした状況を、くだらない世迷いごととして嫌悪する向きもあります。しかし、私はそうは思いません。「時代の病理」というあいまいな言葉で片付けてしまうことにも抵抗を感じます。というのも、多くの人がスピリチュアルに魅かれるということはーーそれによりかかる度合いはともかくとしてーー、いまの人びとの「心」がかなり抜き差しならないところまできているせいではないかという気がするからです。
 昔から、「信じる者は救われる」と言われます。…「信じる」という行為は、人にとってきわめて重要なことで、それは、「ものごとの意味を問う」という近代的な問題と密接に関係しているのです。…
・宗教は「制度」である
 …かつての宗教は、人びとが生きている世界そのもの、生活そのもの、もっと言えば、人びとの人生と一体化したものでした。…
 共同体の生き方そのものですから、そこに生きる人にとって疑問の余地のない説得力を持っています。ゆえに、「私は何を信じたらいいのか」という問い自体が生まれてきません。これは非常に幸せな状態だったと言えます。
・人は「自由」から逃げたがる
 …近代以前は、人が何を信じ、ものごとの意味をどう獲得するかという問題は、「信仰」によって覆い隠されていたとも言えます。そして、信仰の覆いがはずされ、「個人」にすべての判断が託されてしまった近代以降、解決しがたい苦しみが始まったと言えます。
 …宗教などを抜きにして、自分がやっていること、やろうとしていることの意味を自分で考えなさいーー。これは非常にきつい要求です。何かを選択しようとする度に、自我と向きあわねばならず、その都度、自分の無知や愚かさ、醜さ、ずるさ、弱さといったものを見せつけられることになります。その点では、逆説的に聞こえるかもしれませんが、「現代人は心を失っている」という言い方は間違いで、前近代のほうがよほど心を失っていたのです。
 これは人にとってはたいへんな負担ですから、当然、耐えられない人が出てきます。そこで、心のよずがとして、やはり何らかの宗教が必要とされる、ということになるわけです。
 …ところが、ここに不幸が立ちふさがります。一つは、世界は科学と合理主義の洗礼を受けて「脱魔術化」された後ですから、どんな宗教も、近代以前の「宗教」に比べれば「擬似宗教」にならざるをえないということです。二つ目は、以前のように虚心に信じることができないことです。…
 では、どうしたらいいのでしょうか。多少のことには目をつぶって「えいや」で飛びこむか、うすうすインチキとわかりながら信じたことにするかーーと、ここでまた人の心が引き裂かれます。
 信仰が生きていた時代のほうが幸せだったと先ほど言ったのはこの点においてです。
・「一人一宗教」「自分が教祖」
 …「個人」の問題は、その後ますます大きくなって、いま、そろそろ究極の状態に達しつつあるような気がします。マスコミでも「個人の時代」「個人の自由」「個人情報」と、たいへんな個人ばやりです。
 それに従って、人びとの心も相当危ういところまできている気がします。バラバラに切り離された個人個人が、…何を信じたらいいかわからない、何も信じるものがない、と無機的な気分になっているのではないでしょうか。
 だからこそ、その虚無感を無意識のうちにも満たすものとして、擬似宗教であるスピリチュアルが魅力的に映っているのだろうと思います。…
 ただ、いまのわれわれはそこに逃げっぱなしになったり、身を預けっぱなしにしたりできるほど無邪気でもありません。だからこそ、…自分の都合にあわせて着脱可能な「プチ宗教」として利用する状況になっているーーと、言ったらいいでしょうか。
 そうは言っても、人がそれによって何らかの答えや満足感を得ているなら、私はそれでいいと思います。…
 要は、「それが、その人にとって信ずるに足りるものであるかどうか」ということが重要なのです。そして、再び出発点に戻っていくようですが、それを信じるか信じないかというのも、個人の自由なのです。
 ですから、究極的には、「信じる」ということは、「何かを信じる」ということではなく、「自分を信じる」ということになると思います。
 言うなれば、「一人一宗教」「自分が教祖」なのです。
・確信するまで悩むしかない
 人生とは、自分がどうすべきなのか選択せざるをえない瞬間の集積であり、それを乗り越えていくためには、何かを信じて答を見つけなければなりません。生身の人間ですから、どうしていいかわからなくて、たじろぐこともあるでしょう。たとえば、誰かを愛したとき、どんな関係を選びとるのか。相手に対する気持ちがわからなくなったとき、どうするのか。子供を産むのか産まないのか。苦しい経験をしたとき、どう乗り越えるのか。治らない病気になったとき、死とどう向きあうのか。
 意識していようといまいと、人は信ずるところのものから、ものごとの意味を供給されます。意味をつかめていないと、人は生きていけません。
 そのための方法はいくつかあると思います。擬似宗教に拠った生き方をする方法もあるでしょう。時に応じ、場合に応じ、何かに身を預けて危機を切りぬけていく方法もあるでしょう。要は、そこから与えられた答えに納得して生きていけるなら、それでいいのです。あるいは、最初から何も考えず、滑っていくことに妥協できるなら、それも一つの方法かもしれません。
 しかし、そのどれにも納得できないなら、何ものにも頼らずに…自分の知性だけを信じて、自分自身と徹底抗戦しながら生きていくしかありません。これは相当苦しい方法で、…気が狂いそうになることもあるかもしれません。…
 そして、かく言う私も、自分を信じるしかない、「一人一宗教」的に自分の知性を信じるしかないと思っています。 (引用ここまで)

 いかがでしたでしょうか。
 現代はますますストレス社会になってきたと言われますが、なぜにそのようにストレスが強くかかるようになったのか、その根本原因はなにか、ということについて、姜尚中氏はズバリ言い当てているのではないでしょうか。
 そういう姜氏は、「まじめに悩む」「悩み続ける」ことによって、「瞬間瞬間の一つ一つの事象に対して自分の知性だけを信じて答を見い出していく」という生き方を選択されているのですから、正しくストレスの塊みたいな方に思えてしまいます。そして、そのストレスを楽しんでいるのでは、といっては失礼にあたりますが、果敢にストレスに立ち向かっていく、という凄まじい生き方です。

 小生は、姜氏(小生より2歳若い)の生き方にあこがれは持ちますが、高齢者となって気力が萎えてきたこともあって、冒頭で申しましたとおり、とても着いていけません。一方で、小生は、逃げ道として例示された「スピリチュアル」(この言葉自体は本来は“霊歌”を言い、“霊魂や神など超自然的存在との見えないつながりを信ずること”を示す言葉は元来は「スピリチュアリティ」ですが、俗にこれを「スピリチュアル」と言うようになりました。)を完全に否定する立場にいますから、何かそれに変わる逃げ道を用意せねばなりません。
 
 有り難いことに、小生は、「瞬間瞬間の一つ一つの事象」などと、四六時中アンテナをピーンと張って何ごとにも注視を怠らないほどの繊細さは全くなく、どちらかというと鈍感力を持ち備えていますから、“悩む”というのは、まれに何か特別なものに遭遇したときだけのことです。
 そうしたとき、“どうしたものか?”と、以前は“まじめに悩む”状態が延々と何日も続いたものですが、つまるところ“悩んだところで、なるようにしかならない”ことが多く、これが分かりかけてきて、“もう悩むのを止めにする”よう努力することにしました。
 しかし、単なる自由意志でもって“悩むのを止めにする”ことは極めて難しいです。
 一時、他の事柄に注意を向けたとしても、しばらくすれば、その悩みが脳の思考回路に舞い戻ってきて、心はそれに支配されっ放しになります。
 よって、どうしても悩みの元になっている事象に正面から向き合うしかありません。
 そこで、一つ見出したのが、表題の言葉です。これは「思想」とでも言えましょう。

 自分にとって、問題になる事象、都合の悪い事象、苦しい事象、逃げたくなる事象といったものに遭遇しても、一切悩まないで、そうした何事にもひたすら「ありがとう」「愛してる」という言葉を投げかける、というものです。

 とても、そんなことはできない。小生も初めはそうでしたし、今でも、大してできません。
 でも、今は、その「思想」に一歩一歩近づいていこうと思っています。
 そして、「その思想を信じることによって救われる」ということが、小生の「
心のよりどころ」になってほしいと願っているところです。

 悩まないで、何事にもひたすら「ありがとう」「愛してる」という言葉を投げかける

 現代は、高度文明社会になってしまい、身体の面においては、楽をしたがって生活習慣病が蔓延し始めました。そして、精神の面においては、姜尚中氏がおっしゃるように、何を信じたらよいのか分からなくなって心はますます苦しくなり、精神を病む傾向が大きくなってきました。
 身体と精神、この両方が健全であって、初めて健康であると言われます。ところで、WHO(世界保健機関)における「健康」の定義は次のようになっています。
 1948年設立時:身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態…
 1999年改定後:身体的、精神的、霊的、社会的に完全に良好な動的状態…
 ここで、「社会的」とは、社会福祉の充実や雇用制度の公平さなど差別がない社会生活基盤がしっかりしているか否か、といったことになるようでして、今日の日本では、この面における健康も危うさが生じていることになります。
 そして、「霊的」が新たに追加されたのですが、高度文明社会にあっては、何か信ずるものがなくては心の健康が保てず、いわゆる「スピリチュアル」あるいは宗教にでも頼らなければならない、といったことになるのでしょうか。
 「社会的」も「霊的」も「健康」の概念に入れることに、小生は違和感を持つのですが、個人的には、
「精神的」と「霊的」の2つを1つにくくって「心(こころ)」なり「心的」として捉えていこうと思っています。

 小林正観さんという方(2011年没)がいらっしゃいます。心学研究家として紹介されています。このブログでも、その思想を何度か取り上げ、カテゴリー「心にやすらぎを」や「心の病から脱却」などに入れてあります。
 小林正観さんは、たとえば次のようにおっしゃいます。

 この世の中には「幸」も「不幸」も存在しません。そう思う心が存在するだけなのです。
 過去のすべて、現在のすべて、未来のすべてを受け入れることです。
 自分の口からはいつも「うれしい」「楽しい」「幸せ」「大好き」「愛してる」「ありがとう」という言葉が発せられていれば、生きているのが楽しく、面白く、幸せになれるでしょう。

 そのように思い、思い込み、これらを信ずることは、なかなかできるものではありませんでした。今までは、少しは真似をして楽になりたい、といった程度のものです。
 ところが、最近、「ホ・オポノポノ」というものを知りました。
 これは、古くからハワイの少数民族に伝わる集団による問題解決法でして、“全責任を負う”ことを原理とする“癒しの方法”です。これを、1980年代にモナ・ミメオナが個人で行う手法として創始し、今、イルアカラ・ヒュ-レン氏に継承されています。
 ここで、ヒューレン氏のインタビューの中から抜粋します。[
出典:あなたも魔法使いになれるホ・オポノポノ(著:滝澤朋子)(発行:㈱トータルヘルスデザイン)]

 解釈や意味をつけて納得するという作業は、実は潜在意識=「記憶」に操作されているのです。理屈と意味は、あまり必要ないんです。できるだけ考えないようにしてください。
 ただ、「無」でいたらいいんです。問題が起きれば、私はそれをクリーニングして、「無」にすることができます。
 問題が起きたときがチャンスなのです。その問題は、それが「記憶」として存在していることを見せてくれているのですから、それを消しにかかることができます。「記憶」を消せば消すほどクリーンになります。クリーンになって、「無」の状態がつくれれば、「光」をさえぎるものがなくなり、インスピレーションがやってくるのです。
 私たちが考えて分かることなど、たかが知れています。でも、「神聖なる知能」は、すべてを知っています。比べ物にならない。どちらの情報を選ぶかという話です。
 いつも自分に問いかける、大切な質問があります。知識がほしいのか、それとも叡智がほしいのかということです。知識を手放す、ということは「世界」を手放すということ。だから、叡智が入ってくるのです。
 ところで、どれが「記憶」でどれが「光」かなど、私たちには知りようもないんです。私が「無」の状態であるかなど、私にはわかりようがない。
 だから、クリーニングし続けるしかないのです。
 ホ・オポノポノには、「記憶」のクリーニングのための4つの言葉があります。
  ごめんなさい(I'm sorry)
  許してください(Please forgive me)
  愛しています(I lo
ve you)
  ありがとう(Thank you)

 この言葉を単に自分の内側に向かって唱えるだけでいいのです。
 言葉に心を込める必要も、声に出す必要もないです。ただやるだけでいい。
 なお、4つの言葉を全部唱える必要もないです。「愛しています」「ありがとう」の2つだけでもいいです。私は以前、「許してください」「愛しています」の2つを何度も何度も言い続けていたこともあります。(抜粋ここまで)

 このような「記憶」のクリーニングをし続けているとどういうことが起きるでしょうか。
 なんと、「自分の心を癒すことで、他人の心まで癒される」のです。
 これが、ホ・オポノポノの本質になっています。

 小林正観さんの6つの言葉、ホ・オポノポノの4つの言葉、ともに発し続けるだけでよいということになるのですが、共通する言葉は「愛してる」「ありがとう」です。
 ここで、思い出しました、「五日市剛さんのツキを呼ぶ魔法の言葉」(講演筆録)(発行所:とやの健康ヴィレッジ)という小冊子の中に出てくる言葉。

  「ありがとう」「感謝します」「ツイてる」「運が良い」

 この言葉は、五日市剛さんがまだ学生だった26歳のとき、イスラエルを1か月間一人旅をしたときに泊めていただいた、独居老人のお婆さんから教えてもらった言葉です。
 彼女は、彼にこう言ったのです。(同上講演筆録より抜粋引用)

 ツキというのはね、簡単に手に入るものなのよ。ツキを呼び込む魔法の言葉があるのよ。これさえ唱えていれば、誰でもツキっ放しになるわよ。
 誰でもよく使う言葉なんだけど、2つあってね、1つは「ありがとう」、もう1つは「感謝します」。ねっ、簡単でしょ。
 この2つは、もちろん、どんな時でも自由に使っていい言葉なんだけど、そうねぇ…、「ありがとう」という言葉は、何か嫌なことがあった時に使ったらどうかな。朝寝坊しちゃって遅刻するなんて時、イライラするでしょ。そんな時、「イライラさせていただき、ありがとう」と言うの。車を運転中に事故っちゃった時も「ありがとう」。あなたの親が亡くなった時も歯を食いしばって「ありがとう」と言うのよ。どうしてかというとね、イヤな事が起こると、嫌な事を考えるでしょう。そうするとね、またイヤな事が起こるの。不幸は重なるというけれど、これは間違いなくこの世の法則なのよ。だけど、そこで「ありがとう」と言うとね、その不幸の鎖が断ち切られちゃうのよ。それだけでなく、逆に良い事が起こっちゃうの。「災い転じて福となす」という言葉があるでしょう。どんな不幸と思われる現象も、幸せと感じる状況に変えてくれる。絶対にね。だから、「ありがとう」という言葉はね、魔法の言葉なのよ…。
 …何か良いことがあったら、「感謝します」と言ってみてはどうかな。…そうそう、この言葉はとても便利でね、たとえまだ起こっていない未来のことでも、「明日、晴れました!晴れさせていただき、感謝します」とか、「1週間後、〇〇に合格させていただき、感謝します」とイメージしながら言い切っちゃうと、本当にそうなってしまうのよ。何の疑いも不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込めればね。
 …五日市さん、言ってはいけない言葉があるのよ。言っちゃうとツキが吹っ飛んじゃうの。まずはね、汚い言葉。…汚い言葉を平気で使う人というのはね、そういう人生を歩むのよ。だから、きれいな言葉を使いなさい。
 それからね、絶対に人の悪口をいってはダメよ、絶対ダメ。…それに、人を怒ってもツキは逃げて行っちゃうわ。怒れば怒るほど、あなたがせっかく積み重ねたツキがどんどんなくなっていくのよ。だから、ネガティブな言葉は使っちゃダメ。分かった。…(引用ここまで)

 異国の地での、このお婆さんとの出会いで、五日市さんの人生がガラリと好転しました。彼は次のように語っています。(同上講演筆録より抜粋引用)

 お婆さんの話は、何ていうか、決して飛び抜けて変わっているわけではなく、とても道徳的な話ですよね。…自分の口から発する言葉が自分の人生を創る。…とにかく、お婆さんが言ったことは、すべて腑に落ちました。
 それ以来、ひたすら「ありがとう」「感謝します」を実践しています。意外と早くきれいな言葉を使えるようになりました。そして、もう人を怒れなくなりました。本当ですよ。その結果、自分の人生は、ガラッと変わってしまいましたね。「ツイてるツイてる、ツキっ放し!」。だから、こうしたお婆さんの話、自分では、とってもいい話だなぁ~と思っているんですね。
 実はね、イスラエルのお婆さんに出会ってから今に至るまで、2回交通事故を起こしているんです。恥ずかしい話なんですけどね。1回目は学生時代。豊橋でお婆さんをバイクではねちゃったんです。…でもその時、自然と「ありがとう」という言葉が出たんですね。
 (2回目は)会社に就職してからのことですが、(3歳の子を乗せた母親が運転する対向車の前方不注意で正面衝突)…お互いの車の前方はグシャグシャになってしまいました。でも、その時も、ぶつかる瞬間「ありがとう!」と大声で言えたんですね。するとね、妙に心が落ち着き、全然怒りが出てこないのですよ。
 (1回目の事故の後)…豊橋のお婆さんは…僕の結婚披露宴のとき…三河太鼓を叩いてくれたんですよ。あれは見事でしたね。…バイクでひいたお婆さんに、まさか自分の披露宴で太鼓を叩いてもらうなんてね。信じられます?…
 (2回目の事故の後)今でも家族ぐるみのお付き合いが続いています。特に彼女のご主人とは何かと気が合いましてね。人の出会いとは、実に不思議なものですね。
 まぁ、つまらない例でしたけど、やはり、口から発する言葉のエネルギーというのはスゴイな~と実感しましたね。(引用ここまで)

 随分と長い引用になってしまいましたが、「ありがとう」「感謝します」と、この2つに多少の使い分けがありますが、ひとまとめにして「ありがとう」と言ってもいいでしょう。
 さて、小林正観さん、ホ・オポノポノ、イスラエルのお婆さん、この3者に共通して言えるのが、どんな場面でも「ありがとう」という言葉を発するということです。なお、イスラエルのお婆さんの口からは出ていませんが、汚い言葉を使わない・悪口を言わないとなれば、必然的に誰に対しても「愛してる」という感情を持つことになるのではないでしょうか。
 小生はそのように理解したいと考えています。
 日本人、ハワイ人、ユダヤ人と民族文化がまるっきり違うけれども、いずれにおいても「ありがとう」「愛してる」という言葉が、悩みを消すばかりでなく、心に安寧をもたらし、はたまた、楽しくもし、ツキも呼び、幸運も運んでくれるようです。
 なお、ツキや幸運は、五日市剛さんに訪れただけでなく、小林正観さんのおっしゃることを実行なさった数多くの方々、ホ・オポノポノを実践なさった方々(ホ・オポノポノの著者:滝澤朋子さんを含む)にも訪れていますから、この面でも共通しています。

 素晴らしいではありませんか、「ありがとう」「愛してる」という言葉の投げかけ。
 小生も、いつでもどこでもこれができるよう、日々精進したいと思ったところです。


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