雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

天空に舞う   第十九回

2010-09-12 10:25:58 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 3 )


その年の暮れ、啓介は帰郷しなかった。


母親からはたとえ一日でもいいから帰ってくるように何度も催促されたが、友達と旅行に行く予定になっていると謝った。早知子のいない西宮にどうしても帰る気持ちにならなかった。


友達と旅行に行くというのは嘘だったが、年末近くの三日間で房総半島を一周した。
一人で民宿に泊まり、海ばかり見ていた。三日とも天候に恵まれず、太平洋に続いているはずの海も、啓介が知っている冬の日本海と同じ鈍い色でしかなかった。


自分の心が映っているように思われなぜか苦い笑いが浮かんできたが、そのあと突然のように早知子のことが思いだされた。
打ち捨てられたような海水浴客相手のポート小屋で雨を避け、早知子のことを思い続けた。


「いつまでも、一緒よね」という早知子の声が聞こえた。
「死んだ後も、ずっと一緒よね」と言った時の、眩しいばかりに輝いていた早知子の姿が切なく胸に迫ってきたが、啓介には抱きしめる術が分からなかった。


「ずっと一緒だよ」と、あれほど堅い約束を交わしたのに、どのようにしても、今も一緒だと確認することができなかった。


  **


年が明けた五日に、俊介と希美が東京に出てきた。一泊の予定だったが、二人が啓介のことを心配しての上京であることは確かだった。


希美がグループの親しい仲間とはいえ男友達と一泊するなど祖父たちがよく許したと思われたが、事情を承知していて、希美の父親が宿泊先を提供してくれたのである。
品川にある立派なホテルの部屋を三つ用意してくれていて、啓介も一緒に泊まることになった。


二人は啓介の身をとても心配していたが、希美の落ち込みようも激しかった。
中学三年の時、希美が一番苦しい時に早知子と巡り逢ったのである。それは、巡り逢ったというよりも早知子が手を差し伸べてくれたのである。希美はずっとそう思ってきた。

その後も早知子の好意は変わることなく、、友達が少なかった希美にとって特別な存在になっていった。
大学に入ってからは、ずっと一緒に行動していたといえるほどだ。それだけに、早知子の突然の死は肉親を失った以上のものだったかもしれなかった。


三人は一つの部屋に集まって、夜遅くまで話し合った。
あの時早知子はこう言ったとか、あんな悪戯をしたとか、わたしを助けてくれたとか、そんな話ばかりだった。
次々と話が続いている間はよかったが、話が途切れると、突然のように淋しさが三人を襲った。
淋しさが言葉数を少なくし、会話が少なくなることが淋しさを増した。


「啓介さんは、早知子と結婚する気だったの?」
突然話題を変えて、希美が尋ねた。大学生になってから二人は、早知子、希美という言い方で呼び合っていた。


「うん、そのつもりだった」
「お二人で、結婚について話し合ったことあったの?」


「いや、それはなかった。まだ、結婚について具体的に考えたことはなかったけれど、いつか結婚するものだと考えていたよ」
「早知子にも、その意思は伝わっていたの?」


「伝わっていたと思う」
「本当に?」


「うん、それは間違いなくはっきりと伝わっていたと思う。でも、どうして?」
いつにない希美の強い口調に圧倒されながら、啓介は逆に質問した。早知子が東京まで来たことを希美が知っているのかどうか分からなかった。また、詳しいことまで話すのは、さすがに憚られた。


「早知子、すごく不安に思っていたみたい・・・」
「ぼくたちのことが?」


「そう。啓介さんが東京に行ってから、だんだん離れていくのではないかと心配していたみたい」
「そんなはずないよ。早っちゃんとは、ずっと一緒だと約束していたし、そのことは、よく分かっていたと思う。亡くなる直前にも、ぼくたちは、その約束を確認しあったんだ・・・。早っちゃんの温かい手を通して、はっきりと確認しあったよ」


「そう・・・。そんなことがあったの・・・。ごめんなさい・・・、きついことを言ってしまって・・・。でも、良かったわ。早知子、約束できていたんだ・・・」
希美は、うっすらと涙を浮かべて、視線をそらした。


「そうだよ。啓介と早知子さんは特別なんだよ。啓介が東京へ行ったことぐらいで、何も変わらないよ。希美さんの考えすぎだよ」
短い沈黙の後、俊介が啓介を弁護するかのように口をはさんだ。来る時の列車の中で話題になったことのようだった。


「早っちゃんが、心配だって言ってたの?」
「ううん、そうじゃないの。啓介さんのことを、どうこう話したことは一度もなかったわ。ただね、何だか不安なんだって、言ってたわ」
啓介の問い掛けに、希美はいつもの口調に戻って答えた。


「ぼくたち、どういう関係だろうって話し合ったことがあるんだ」
「最近のこと?」


「昨年・・・、いや、一昨年の暮れだった。ぼくたちは、家族みたいにいつも一緒だった。ぼくは、早っちゃんのこと大好きだったし、早っちゃんも好きだと言ってくれたよ。でも、本当は二人がどういう関係なのかって話し合ったんだ。結婚とか、そういうことまで話さなかったけれど、恋人同士だって、はっきりと確認しあったよ。
早っちゃんの不安って、何だったんだろう・・・」


啓介は話しながら、あの日のことを思い浮かべていた。
「とっても不安なの」と言った早知子の言葉は、何を伝えようとしていたのだろうか。
いくら子供の頃から一緒だったとはいえ、男にすべてを委ねようとすることへの不安なのだと思っていたが、希美にも話していたのであれば、そうではなかったのかもしれない。
やはり、やがて訪れる運命を感じていたのではないだろうか・・・。


「お二人は、恋人同士だって確認し合っていたのね・・・。早知子、啓介さんのことを恋人だと心に刻んで死んでいったのね・・・。よかったわ・・・」


再び、言葉が途切れた。
耐えかねたように俊介が立ち上がり、冷蔵庫からビールを取りだしてきた。それから部屋を出て行き、自分の部屋からもビールとグラスと湯呑茶碗を持ってきた。そして、グラス二つと湯呑茶碗二つにビールを注いだ。


「早知子さんも、一緒に飲もうな」
と俊介が必要以上に大きな声で言った。
希美が、声をあげて泣いた。


「なんで、死んでしまったんだよ・・・」
俊介も湯呑茶碗のビールを一口飲むと、顔を歪めて呻くように呟いた。


三人はたった二本のビールを長い時間をかけて飲んだ。そして、話し続けた。
死ぬということがどういうことなのか。生きているということがどういうことなのか。死んだ者と生きている者とは、どのように関わっていけるのか・・・。
そのようなことを、繰り返し繰り返し話し合った。


僅かなビールに酔いのようなものを感じながら、啓介は一つの結論に近付こうとしていた。
それは、早知子と自分は結婚したのだという結論だった。
「わたしを啓介さんのものにして」という早知子の言葉に応えたのだから、あの日のことが、二人の結婚の儀式だったのだと考えたのだ。


固い友情で結ばれた四人だった。死んだことぐらいで四人の友情が変わることなどない、というのがこの夜の結論だった。
そして啓介は、全く同じことを自分自身に誓っていた。それは、深く結ばれた二人の愛は、ひとりが死んだことなどで変わることなどないという思いだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十回

2010-09-12 10:25:21 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 4 )


人間の記憶というものは、どのような構造から成り立っているのだろうか。


さまざまな事象や衝撃は、それが激しいものであれば記憶として深く刻み込まれ、その肉体がある限り失われないもののように思われる。
また、記憶という働きは、人間のどの部署が受け持っているものだろうか。それが本当に脳の働きによるものだとすれば、その肉体が滅びれば記憶も消え去っていくと思われる。


しかし、もし、記憶というものが心に刻み込まれるものであるとすれば、そして、例えば心というような言葉で呼ばれているものが肉体を超えて存在しているものだとすれば、肉体の消滅に何の影響も受けないことになる。
そしてそれは、記憶する側であれ記憶される側であれ同じことが言えるように思われる。


一方で、どんな悲しみであっても時が解決してくれる、という見事なまでの処世術を多くの人が教えてくれる。
人間が多くのことを記憶することができるのが、神さまなり造物主なりが与えてくれた能力だとすれば、時間の経過とともに記憶が薄れてゆき、時には完全に忘れ去ることさえあるのも、これもまた、天が人間に与えてくれた何にも増して勝れた能力だということになるのだろうか。


しかし人は、忘れることができるものは忘れることができるが、忘れることのできないものは絶対に忘れ去ることができないことも事実である。


  **


啓介は茫然自失の状態で日を過ごしていたが、それでも、一つの流れに身を任せたかのように大学に通い家庭教師を続けていた。


早知子のことはできるだけ考えないことにして、大学仲間と馬鹿騒ぎをしたり、あまり余裕のない金で遊んでしまったりした。
東京に来てからの友人たちは、早知子のことや不幸な出来事について知らせていなかったので、馬鹿騒ぎをしても余計な気遣いをされることがないので気が楽だった。


しかし、夜中にふと目を覚ました時などに、頭に浮かんでくるのは早知子のことだった。
一度浮かんだ早知子の面影は、切なく啓介に語りかけ激しく彼の心を揺るがせた。手を少し延ばせば触れることができそうな早知子だったが、その面影が捉えることのできない存在であることは啓介も承知はしていた。


早知子は、今どこにいるのか・・・。
それが、いつも啓介が辿り着く疑問だった。早知子がすでにこの世の人でないことは、よく分かっていた。死んでしまった以上、二度と逢えないこともよく分かっていた。
しかし、逢いたかった。


早知子と逢えないことの淋しさや悲しさに襲われることより、どうすれば逢えるのか思いつめて苦しむことの方が多かった。早知子が亡くなったことでもう逢えないのだということが、どうしても自分自身に納得させることができなかった。


啓介が早知子の面影を追い求めて行った時、必ず行き着くのは「とっても、不安なの・・・」という哀しげな表情だった。
早知子が言った「不安」とは、何を指していたのだろうか。
「もしかすると、早っちゃんは、死ぬことを予感していたのか・・・」


早知子が病気だったとしたら、そのようなことも有り得ることのように思えるが、突然の事故による死まで予感することなど出来るものなのか。そして、遥々東京まで来たのは、自分の運命を感じ取った上での行動だったのか。


それは、早知子の理性が承知していることではなく、もっと違う形で予感したものだったのかもしれない。
もしそうだとすれば、あの日の早知子の行動は、二人の愛の今生の思い出とするためのものだったのか。さらに、その先まで続く二人の愛を確認するためのものだったのか・・・。


ぐるぐると、啓介は出口を見つけだすことができない煩悶を繰り返していた。
これは、ずっと後で俊介が話したことだが、俊介と希美が東京まで訪ねてきたのは、啓介の自殺を心配する部分もあったらしい。


啓介が死について真剣に考えていたことは事実だった。
ただそれは、自分が悲しみに耐えかねて死ぬということではなかった。死の意味を知りたかったのである。死んだ先のことを知りたかったのである。


いくら煩悶を繰り返しても確信できるものを何一つ掴んでいなかったが、早知子という存在が「死」という現象ですべて消滅するということだけは有り得ないとの考えが固まりつつあった。


「ずっと一緒よね」と言った早知子の言葉の意味を考えた。
「死んだ後も、ずっと一緒よね」と言った早知子の本当の意思を知りたかった。


啓介は、心中や後追い自殺や殉死といったことをテーマとした小説や文献を読み漁った。
それらを通して、そのような行動をした人が先の世で想う人に巡り逢えたという確証が得られたら、自分も早知子の後を追ってもいいという考えも漠然とであるが抱いていた。


同時に啓介は、生まれ変わるということも気掛かりであった。早知子が真剣に考えていたからである。
早知子が再びこの世に生まれてくるかもしれないという思いも否定できなかった。早い機会に生まれ変わってきた時のためには自分がいなくてはならないとも思った。
ただ、そのようなことが起きるとしても、早知子に再び巡り逢えることができるのか確信できなかった。


手当たり次第に読んでいった書物の中には、具体的な事例も数多く示されていたが、いずれも啓介を確信させるものではなかった。


早知子の夢を見ることも時々あった。
かなり明確なストーリーを伴うこともあるが、たいていは目覚めた後断片的な場面しか思いだせないことが多かった。早知子の姿にしても、夢の中で早知子だと認識することは少なく、目覚めた後で早知子だったのだと気付くことの方が多かった。


啓介はこれまで夢について特別な思い込みは持っていなかった。
正夢であるとか、夢占いなどは信じていなかったが、単純に五臓六腑の患いだと割り切ることもできなかった。
早知子の夢が、早知子からの何らかのメッセージを伝えるものとまでは考えなかったが、早知子の気配を感じることも確かにあった。


 その早知子の気配のようなものは夢の中だけではなく、校舎の片隅で一人考えごとをしている時、繁華街の雑踏をさ迷っている時、風の音に振り返った時・・・、いずれも突然のように早知子の気配のようなものを感じた。
声が聞こえたわけではなく、姿が見えたわけでもない。感触でも香りでもなかった。それは、紛れもなく気配だった。


早知子が今どうしているのか、まだ確信することができていなかった。次の世界のことを示してくれる答えは、まだ見つけることが出来ていなかった。しかし、気配はあった。


早知子は、意外に身近な所にいるのではないかと、啓介は考え始めていた。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十一回

2010-09-12 10:24:48 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 5 )


その後も定期的に、時には波状的に早知子との関わりを持ちながらも、表面的には啓介の生活は以前の状態に戻っていった。


その年の春休みも帰郷しなかったが、旧盆の季節には実家に帰った。十か月ぶりの帰郷だった。
早知子の母親とも長い時間話し合った。早知子の母親は、娘を失った悲しみから全く抜け出せていないのに、啓介が早く元の生活を取り戻すようにと心配する姿が、余計に痛々しかった。


三沢家の家族がお墓に参るのに同道して京都へも行った。
いつか早知子が指差した、あの広大な墓地の谷深い辺りに三沢家の墓があった。
石碑は長い歳月の風雨に曝されたものだが、最近造られたらしい墓誌は新しく、刻まれた名前が悲しかった。


三沢家の人々は祖父の家に集まることになっていて、啓介も誘われたが謝絶した。
大谷本廟の石橋の前で三沢家の人々と別れ、交通事故の起こった辺りでしばらく佇んだ後、五条坂を上った。


早知子と歩いた時は、冷たい雨が降っていた。今は、茹だるような暑さが厳しい。
五条坂から清水道に入り、清水寺に参った。早知子に教えてもらった秘密の場所から墓地を遠望した。
それらしいものが白く光っていたが、早知子の墓は谷深くにあり、見えているものとは方向が違った。


いつかあの墓地で眠るのだと言った早知子は、あの時すでに来たるべき運命を予感していたのだろうか。もしもあの時、自分なり早知子自身なりが運命を予感していることに気付いていれば、避ける方法があったのだろうか。


照りつける太陽を避けようともせず、啓介は樹木の向こうのきらきらと光る辺りを見続けていた。


  **


この時以降は、最初の年と同じペースで帰郷した。
帰郷する時は、新幹線を京都で降り早知子の墓に参った。花も線香も持たずに参ることもあったし、遠くから手を合わせるだけの時もあった。


時間が遅くなり早知子の墓まで行けない時は、墓地の中を縫うように続く大谷道を行った。途中に墓地を見渡せることができる場所があり、そこから谷深くに向かって手を合わせた。
それは、すでに日が沈んでいたり雨が激しい時などで、さらに淋しさが募った。


帰郷した時は、俊介や希美とは必ず会った。連れ立って早知子の家を訪ねることもあった。


大学生活も交友関係が広がり、青春の日に相応しい経験をすることも増えていった。
啓介が通う大学は圧倒的に男子学生が多かったが、よくしたもので、他の大学の女子学生と集まる機会も少なくなかった。そのような場を取り仕切る特異な才能の持ち主はなぜか居るもので、合同で遊ぶことは結構多かった。


啓介の大学生活を通して、個人的な交際までいった女性はできなかった。何度かそのようなチャンスはあったし、相手の女子大生は魅力的な人だったが、次の一歩を踏み出すことができなかった。
時間の経過とともにその存在は小さくなっていたが、啓介の心の中に早知子があることに変化はなかった。


  **


昭和六十年。啓介は四年生となり就職の問題が重要性を帯びてきた。


大学生にとって労働環境に恵まれた時代で、就職することに苦労することはなかったが、どの会社を選ぶかが重要な問題であることに変わりなかった。
特に啓介が席を置く学校などは「引く手数多」ということが決してオーバーではなく、三年の夏に実質的な内定を受けているものも少なくなかった。

啓介の場合も、それぞれの会社に就職している先輩を通じて十数社から誘いを受けていて、そのうちの何社かは期限になれば必ず内定を出すとまで言われていた。


啓介は就職する場合は関東電器産業と決めていた。
その会社に特別興味があるわけではないし、入社の勧誘をしてくれる先輩も特別親しい人物ではなかった。啓介が関東電器産業と考えるようになったのは、山内氏と知り合ったことからである。


啓介が指導を受けている教官の中に、将来を嘱望されている若手助教授がいた。若手といっても、その世界での若手ということで四十歳を過ぎていたが、マスコミなどに登場する機会も多い国際金融の専門家である。
啓介はこの助教授に可愛がられていて、大学院から大学助手の道に進むように奨められていた。


啓介も、自分が実業界より研究者としての分野に適性があるように、漠然とながら感じていた。助教授の指導を受けていくことに魅力を感じ、就職することとの選択に迷っていた。


ただ、学術の世界で生きて行くためには経済的な裏付けが必要だということも少しは分かっていた。
苦学して大成した学者も少なくないが、大学教授の多くが恵まれた経済環境を持っていることも事実だった。
大学院で学ぶ費用やその後の助手などの生活は、親からの援助やアルバイトなどが必要なことは間違いなく、自分には無理だとも考えていた。


啓介が山内氏を紹介されたのは、その助教授からである。
山内氏は関東電器産業に在籍していたが、助教授とは大学時代からの親友で時々顔を見せていた。その関係から、学生たちも加わって議論することがあった。
もちろん学外のこととしてだが、その後で食事をご馳走になることも何度かあった。ラーメンとか丼物程度のものだか、その間に山内氏が持論を展開することが少なくなかった。


山内氏の持論は、大学はもっと実業で通用する経済学者を育成せよ、というものだった。
親友の助教授に対しても、国際金融も重要だろうが経営全般を引っ張れる経理マンが少ないと、持論を展開することが少なくなかった。


啓介が大学に入った頃は、就職は大阪に本社がある会社を優先するつもりでいた。しかし、今は関西に戻る気持ちは薄かった。むしろ、帰りたくなかった。
両親の本心は、家に帰って来れないまでも実家に近い所に就職して欲しいというものだったが、子供の将来を束縛するつもりはないとも言ってくれていた。


関東電器産業に入社したからといって、山内氏が熱っぽく語るような仕事が自分にできるとも思っていなかったし、新米社員に与えられる仕事がどの程度のものなのかは啓介も少しは分かっていた。
それに、山内氏に惹かれるところがあるとしても、同じ部署で働けるわけでもなかった。

山内氏に社内でどれほどの力があるのか知らなかったが、関東電器産業はわが国を代表するほどの大企業で、社員の数は膨大であり同じ学校から就職する者だけでも毎年数十人に上る。
自分に特別な配慮がされるはずもなかった。


それでも啓介は、四年目の新学期が始まる頃には、大学に残ることは断念して関東電器産業に就職する決心を固めていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十二回

2010-09-12 10:24:12 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 6 )


啓介が就職先の選定に腐心していた頃、俊介と希美も卒業後の進路を固めていた。


俊介は大阪に本社がある大手商社への就職を決めていた。商社勤務が大学に入った時からの希望だった。
希美は父の会社に勤めることになった。本当は金融関係の会社に就職したかったのだが、面接などを受けているうちに何だか父に逆らっているような感覚に襲われたのである。


希美の父親は、母が健在な時でも子供の教育などにあまり口出しをしなかったが、母が亡くなった後は希美に対してまるでガラス細工を扱うように接し、希美の希望に反対することなど殆どなかった。
就職活動を途中で中止し、父にその旨を報告した時の嬉しそうな顔を見て、これでよかったのだと思った。


早知子が健在だったら自分はどうしただろう、と思うことがあった。早知子の死は希美にとっても小さなものではなく、学生生活にも影響を与えていたが、就職活動を止めてからはこれまで以上に早知子のことを考えることが増えた。
そして、一人思いあぐねて苦しくなると、俊介に連絡を取った。啓介の居る東京はやはり遠く、早知子のことを語りあえるのは俊介しかいなかった。


気を遣いながら俊介の自宅に連絡することが少なくなかった。
電話に出るのはたいてい俊介の母親で、早知子のことで希美が淋しがっていることを心配してくれた。異性の家に電話をすることに引け目を感じている希美は、その母親の応対に救われる思いをすることが多かった。
俊介もまた同じで、余程の用件がある時以外は、予定を変更してでも希美のために時間を作った。二人にとって、早知子という媒体があったとはいえ、互いに支えあう大切な人になっていった。


  **


啓介が大学生活最後の正月に帰郷した時、三人で早知子の家を訪れた。昨秋には三回忌も終え、悲しみの日から二年四カ月近くが過ぎていた。
早知子の母親は三人の訪問を喜び、早知子の思い出話に耽った。
三人が無事に大学を卒業できそうなことや就職先などを報告すると、涙を流して喜んだ。母親を悲しませてしまったことを三人が気遣うと、あなた方だからこうして遠慮なく泣けるのですよ、と感謝しているのだと語った。


「あなた方が元気に社会に出て行かれることが、本当に嬉しいんですよ。わたしは大丈夫ですよ。わたしの心の中では、早知子もあなた方と同じように成長しているんですよ。あなた方がお元気だと、わたしの心の中の早知子も元気なんです。あなた方に元気がないと、早知子も泣いているんです・・・。あなた方が活躍してくれれば、わたしの心の中の早知子も頑張ってくれるんですよ・・・」


早知子の母親は、頬を伝う涙を拭おうともせず、笑顔を見せた。
その笑顔は、限りなく深い悲しみの表情として若者たちに迫った。二年や三年などという年月は、深い悲しみを癒すのに何の効果もなく、さらに深い悲しみを積み重ねる時間であるように思えた。


「お母さんの心の中には、早ちゃんが生きているんだ・・・」と啓介は思った。そして、自分の中にも早知子は確かに居る、と思った。


啓介は自分の中に存在している早知子と向かい合った。
事故直後に比べれば、早知子に対して冷静に対応できるようになっていた。時間の経過が早知子の存在を薄めているということなのかもしれなかったが、少なくとも啓介にはそのような認識はなかった。


啓介が早知子のことを想う時、今も変わることなくありありと姿が浮かんでくる。
その姿は、優しく微笑んでいたり、自分の手を取って駆け出して行く時の顔であったり、あの日の不安げな表情であったりした。


早知子とはいつでも逢えるし、住む世界が異なったとしても新しい関わり方を見つけ出せるという漠然とした思いもあった。
しかし、啓介の心の中にある早知子は、さまざまな表情を見せはするが、いずれも生前の姿だった。早知子の母親が話したような、その後の成長した早知子の姿に逢ったことがなかった。


早知子との新しい関係を、啓介はなお模索し続けていた。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十三回

2010-09-12 10:23:39 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 7 )


三月の中旬から啓介は自宅で過ごした。
就職することになった関東電器産業の入社式は四月になってからだが、寮の方へは三月中に手続きを完了するように指示されていた。
勤務地は本社に決まっていたし、独身寮は大田区にある寮が割り当てられていた。


社会人になれば長い休暇は難しくなるので、これが最後の長期休暇だった。
この間には俊介や希美と当然会うつもりでいたが、今回は帰郷する前から俊介の方から連絡してきていた。折り入って相談があると、いつもの俊介らしくない神妙な話しぶりだった。


三人は啓介が帰郷したその日の夕方に集まった。
いつにない硬い表情の俊介が切り出した用件は、希美と正式に交際を始めたいということだった。

二人は並んで立って啓介に頭を下げた。
わざわざ改まった形で報告するのがいかにも俊介らしくて微笑ましかった。二人が交際するということについては、何となく啓介には予感があったので、特別に驚くほどのことでもなく率直に祝意を伝えることができた。


「ただ、何か申し訳なくて・・・。希美さんも気になると言うので、啓介の了解を得て正式な交際をスタートさせようと思ったんだ」
俊介が、ほっとした表情で語った。


「希美さんが気にしているって? ぼくに?」
「うん・・・。いや、希美さんだけではなく、俺も同じ気持ちなんだ」


「それは・・・。早ちゃんとぼくのことを言っているのか?」
「そう・・・。啓介と早知子さんは、ずっと前からの仲だろ。俺たちだけでなく、周囲の誰もが認めていた仲だよ。それが、早知子さんが、あんなことになってしまって・・・。だから、俺たちが正式に交際することも、啓介の了解を得たいんだ」


「ぼくの了解など必要ないよ。二人が交際することに大賛成だけれど、了解するとかしないとかいうのは変だし、必要ないよ」
「しかし、俺たちはそうしないと気が済まないんだ・・・。
俺たちが、お互いに意識し始めたのは早知子さんが亡くなってからなんだ。希美さんは早知子さんを頼りにしていたから、それは大変な落ち込み方だった・・・。もちろん、啓介、お前の場合はそれ以上だったことは分かるし、俺も辛かったよ。でも、大学生になってからは、希美さんは早知子さんとずっと一緒だった。その早知子さんが亡くなって・・・、お前は東京だ・・・。希美さんは仕方なしに俺を頼りにしたのかもしれないが、俺は嬉しかった。出来ることなら、ずっと助け合いたいと思うようになったんだ。
でも、やっぱり啓介の気持を考えると、複雑な気持ちなんだ・・・」


「何を言ってるんだ。いいい話だよ。ぼくも嬉しいし、きっと早っちゃんも喜んでいるよ。相談してくれて本当にありがとう。俊介、大切に交際を深めるべきだよ」
「ありがとう・・・。啓介がそう言ってくれると嬉しいよ」


「自分たちのことばかり言って、ごめんなさい・・・」
二人の会話をうつむき加減で聞いていた希美が、紅潮した顔を上げていった。
その表情は、喜びというより悲しげなものだった。


「ぼくたちは、ずっと仲良くやってきた四人なんだよ。俊介と希美さんがうまくいってくれると何よりだよ。なに、ぼくたちのことを気にすることはないよ。ぼくと早っちゃんは、ずっと仲良くやっていくよ。俊介と希美さんが仲良くなり、ぼくと早っちゃんもこれまで通り仲好しだ。そして、この四人もずっと仲好しだよ・・・」


「啓介さんは、ずっと早知子さんと仲良くしていますの?」
希美がなお悲しげな表情のまま、啓介をまっすぐに見つめて言った。
「もちろん、仲良しだよ・・・。仲好しというより、愛しているよ。だんだんそのことが分かってきたし、強くなっている。ぼくと早っちゃんは、ずっと一緒だよ・・・」


啓介が、以前からこのような考えをはっきり持っていたわけではなかった。俊介や希美と話しているうちに出てきた言葉だったが、自分の気持ちを整理する切っ掛けとなる言葉でもあった。


社会人として出発する時期にあたって、俊介と希美は大きく飛躍しようとしていた。
啓介もまた、自分の心の中の早知子と真剣に対峙することになった。二人の新しい関係を模索してきた結論は、まだ見つけ出すことができていなかったが、いつまでも一緒に生きていくのだという道筋が固まりつつあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十四回

2010-09-12 10:22:53 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 8 )


啓介の社会人としての生活が始まった。

最初の二ヶ月間は新入社員全員に対する研修が行われ、終了後に経理部経理課に配属された。
もっとも、研修後の配属先は入社の時点で決められていたので、配属先から研修に出ていたという方が正しかった。


その後もおよそ六カ月ごとに経理部内で配属替えがあり、二年後には茨城県にある主力工場の経理課にも半年ばかり長期出張した。
いずれも実務の戦力として期待されてというより、将来のための英才教育のようなものだった。


大部分の新入社員は、一年を過ぎた頃には戦力としての配属先が固まっていたが、一部の社員には、さらに経験の幅を広げるための配属替えが続いていた。
啓介の父親が、息子のために学歴を付けさせようと必死になっていたのは、決して単なる思い込みではなかったようだ。


  **


時代は昭和から平成へと移り、バブルの崩壊が噂され始めていた。

平成二年四月の異動で、啓介は経理部を離れた。
取締役でもある経理部長からは、将来必ず戻ってもらうのでそのつもりでしっかり勉強してくるようにと、わざわざ部屋に呼ばれて話があった。各部から若手社員を集めている部署があり、そこでの経験は将来役立つはずなので転勤させることを了解したのだと付け加えた。


啓介が移ることになった新しい部署は、関東電器産業に入社する切っ掛けになった山内氏が所属している部署だった。
今度の異動に山内氏の働き掛けが少なからず影響していることは想像できた。


山内氏とは入社以後も時々顔を合わせていた。
業務で一緒になることはなかったが、三か月に一度くらいは誘われて酒を飲む機会があった。二人だけのこともあったし、山内氏の部下が一緒のこともあった。
啓介は、学生の頃会っていた時と変わらぬ持論を熱っぽく展開する山内氏の下で、一度は仕事をしてみたいと考えていたので楽しみな異動だった。


もっとも、異動といっても同じビルの四階から八階に移るだけのことなので、それほど大きな変化ではない。ただ、この異動を機に独身寮を出ることにしたので、それによる変化の方が大きかった。
独身寮の方が食事の心配がないし経済的にも楽なのだが、啓介の年齢になると寮を出る者の方が多かった。
啓介も、いつか二十六歳になっていた。


新しい住居は、山手線の五反田駅に近い賃貸マンションである。
住居の広さはいわゆる1LDKで、新所帯向けのものらしく、家族向けとしては狭いが一人暮らしには十分だった。
家賃の負担は小さくなかったが、寮を出ると住宅手当が支給されるので、三十歳を過ぎて独身寮に残る者は少なかった。


啓介が新しく配属された総合企画部は、社内では歴史の新しい部署である。
最初は、長期的な経営戦略を練る部署として社長直属の「室」として設置されたのだが、その後、役割の変化や担当分野の広がりもあって、総合企画部として独立した経緯を持っていた。


現在の担当業務は、関係会社の業績管理および経営改善、本社並びに関係会社間の業務調整などであり、さらにグループ全体の戦略の提案まで担っていた。
欧米、特に米国における企業経営は、グループ全体の業績を一体としてみる連結決算が主流で、わが国も同様の流れにあり、グループ経営の重要性の増大に対処するために今回の異動で人員の強化が図られていた。


本社単体の業績管理は経理部で行われており、総合企画部が担当するのは関係会社に限られていた。
しかし、関係会社といっても少ない数ではなかった。商法上の子会社だけでも千社に及び、出資比率の低い会社や、子会社の子会社、いわゆる孫会社まで含めると膨大な数になる。世間的に著名な会社も多いし、上場されている会社だけでもかなりの数に上った。


山内氏はこの時総合企画部の副部長だったが、実質的には運営責任者だった。
今回の異動で各部署から十人の増員が行われていたが、啓介は最年少だった。
所属社員の出身部署は殆どの部署を網羅していたが、担当業務の性格を考えると、経理部出身者が明らかに少なかった。その辺りに、経理のプロが少ないという山内氏の持論に繋がっているように思われた。


経理業務を狭い意味で捉えると、どちらかというと守備的で独創性の少ない業務のように見られている。特に、オイルショックを克服したわが国経済は、力強く、あるいは狂乱的といえるほどの凄まじさで名目成長を遂げていったが、その過程で、有能な経理マンが少なくなっていったというのが山内氏の持論だった。


経理業務を通じて経営全体を管理し運営し計画することができるはずなのに、驚異的な名目成長の継続がそのような提言を打ち消し、生産が重視され、販売が優先され、資金運用が経理の最重要部門と考えるような風潮が、優秀な経理マンを育てる土壌を失っていったのだと山内氏は考えていた。


生産であれ、営業であれ、その他のどの部署も企業にとって重要でない部署などない。それらが有機的に機能することが大切なことは、業種や企業の規模を問わない原理だ。
また、育ってきた分野より人物そのものだということも確かである。


しかし、例えばプロ野球の監督の場合を見てみると、人望や能力や熱意などを含めた個人の資質が監督の絶対条件のようであるが、現役時代のポジションが微妙な影響を与えることも事実である。つまり、リーダーを育てるのに適したポジションというものは有るのである。
経営のリーダーについても同じことがいえ、その適したポジションの一つが経理であるはずだと、山内氏は考えていた。


啓介には会社での昇進にそれほど強い関心がなかった。
良い仕事というか、興味の持てる仕事をしたいとか、そのために必要なポジションに就きたいという希望はあったが、もっと先の上位職のことまで考えていなかったが、山内氏の熱弁を聞くのは楽しかった。
啓介には、山内氏のいうプロの経理マンとしての認識はなかったが、営業や研究所などに適性があるとも考えていなかった。


新しい職務は、啓介にとって興味の持てるものだった。関係会社千数百社を十のグループに分けて担当するのだが、実際に担当会社を訪問したり、そこの社員と交渉することも多く、これまでの仕事に比べて変化に富んでいた。


啓介は最初に配属されたチームで六か月余り仕事をした後、山内氏の直属の部署に移った。そのチームは、各チームから上がってくるデーターを取りまとめることと、主要な二十数社を担当していた。
担当会社は直系の大企業ばかりで、経営指導などできる対象ではなく、その点での面白みは少なかったが、千数百社の業績を管理していく仕事には張りがあった。


  **


この年の五月、俊介と希美が結婚した。
啓介も披露宴に出席したが、立派な体格の俊介と淑やかな希美は大変似合っていて、素晴らしいカップルだった。豪華な披露宴は、有望な若手商社マンと成長著しい流通企業の社長令嬢というまことに華やかなものだった。


平成四年の秋には、 三歳年下の妹和子が結婚した。
同じ職場に勤めている青年と結ばれ、明石市に新居を持った。
西宮の家は、両親だけの生活になった。


この間に啓介にも縁談の話が何度かあった。職場の女性社員とも互いに意識し合うような関係になりそうなこともあった。
しかし、いずれの場合も啓介の方が退いた。退くというより、入口に立ったままで奥に進もうとしなかったという表現の方が正しかった。


早知子のことは、日常生活の中で影響を受けることは殆ど無くなっていた。
心の中の早知子といくら対峙しても新しい関係を見つけだすことはできなかった。ただ、止まることのない時の流れが、啓介の心の深い傷を優しく包み始めていた。大切な、何よりも大切な存在として、啓介の心の奥深くで静かな住処を得ようとしているようにも思われた。


しかし、啓介の心の中の早知子は、静かな存在ではあったが、人生の岐路に立った時などには無視することのできない存在でもあった。
その存在は、時の流れやあらゆる空間を超えて固く結ばれているいのちといのちの証として、啓介から消えることはなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十五回

2010-09-12 10:22:19 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 1 )


水村啓介が杉井美穂子に初めて会ったのは、平成四年の秋である。啓介が妹和子の結婚式に出席した直後のことだった。
新しい部署に移って二年半程の月日が経ち、中堅社員らしい迫力が仕事面に出てきた頃である。


その頃の啓介の担当職務は、有力企業六社を担当することと関係会社全体の研究開発投資の分析だった。
担当している六社については、千社を超える関係会社を部全体で把握する作業の一環であり、研究開発投資の方はグループ全体で検討するための基礎データーを取り纏める主管者としてだった。


担当企業が六社というのは一番少ない数で、小さい企業を担当している社員の中には百社に及ぶ者もいた。
ただ、六社といっても担当している会社はいずれも上場企業で、関東電機産業グループの中核をなす二十数社の中の六社なので簡単なことではなかった。その六社が有する子会社群は百社を超えていて、全体像を把握するのは容易なことではなかった。


それに、六社ともそれぞれの分野ではわが国のトップクラスにある企業で、親会社といえども経営方針に強い影響を与えることなどできず、本社との利害の調整を仲立ちすることが主な仕事というのが実態だった。


一方で、研究開発投資の取り纏めは難しい仕事だった。
現状は実態の把握に僅かばかりの検討意見を付加する程度だが、今後重要なテーマになっていくとの予感が啓介には早くからあった。
研究開発部門への投資は、どの会社でも錦の御旗のような位置を占めていて、効率のよくない投資も相当額に上ると推定されるが、その実態を把握することは簡単なことではない。

さらに、研究分野についても本社やグループ各社間で重複しているものは膨大な金額になると思われるが、それぞれが社運をかけている場合もあり簡単に調整できるものでもなかった。
その難しさは、関東電機産業内の各部署の研究テーマでさえ重複部分の調整が容易でない現実を考えれば、全グループの調整など夢のような話といえた。

しかし、永遠に拡大するようにさえ見えていたわが国の経済成長は急変していた。
バブルの崩壊後の経済環境の変化を読み切れず、研究開発部門への投資を極端に絞る行動が顕在化してきていた。この状態が続けば、技術革新に後れをとる企業や部門が出ることが懸念された。


投資資金が細りつつある時こそ、グループ内での研究開発の協力や集約が重要課題になることは当然で、すでにその動きが顕在化してきていた。


  **


杉井美穂子は、大東洋証券の調査部に勤務していた。いわゆる、アナリストの卵である。
大学卒業とともに大東洋証券に入社し、ずっと調査部に在籍していたが、この夏から担当先を持って調査活動にあたっていた。


美穂子の担当先の中核にあるのが関東電機産業グループだった。前任者から引き継いだ後は、山内副部長を頼りに取材を進めていた。
関東電機産業に限らず、このクラスの会社になると殆どの情報は広報担当から発表され、重要情報が一部に漏れることに極めて神経質で、スクープなど簡単に取れるものではなかった。


しかし、公式な発表とは別に、それぞれの情報について少し角度を変えて見れば、投資のための新しい視点が顕れることも少なくなかった。


美穂子が大学の先輩である山内副部長を頼って取材している過程で、関東電機金属という会社の将来性について「取材するだけの価値はあるよ」と教えられたのである。
美穂子は、山内副部長の言葉に鋭く反応して、もっと詳しく教えてもらえる人物を紹介して欲しいと訴え、同社を担当している啓介と出会うことになったのである。


啓介が受けた美穂子の第一印象は、きらきらと輝く瞳が目立つことだった。
どちらかといえば体は小柄の方だが、背筋を真っ直ぐに伸ばし、視線を同じく真っ直ぐに向けて話すことも印象に残った。きらきらと輝く瞳は強い意志を表していて、しっかりとした口調も含めて少し才能が表に出すぎるような感じがあったが、笑顔になると、人懐っこく、そして幼いような表情に変わる落差が印象的だった。


啓介は美穂子から質問されるままに率直に答えた。
質問の内容はオーソドックスなもので、特別の情報を自分だけが得たいというような様子は感じられなかった。事前に調査してきた内容の確認と、いくつかのテーマがその会社にどのような影響を与えるのかを、啓介の個人的意見を聞くことに重点を置いた質問が多かった。自分の考えでは参考にならないという啓介の言葉に、山内副部長は頼りにできると言っていたと悪戯っぽい笑顔を見せた。


啓介はその笑顔に誘われるように、興味があるのなら工場を見学すると良いとアドバイスした。
美穂子は即座に反応した。直ちに自社に電話を入れて出張の許可を取り、啓介に紹介を依頼した。その行動力は見事だった。


関東電機金属の本社は同じ丸の内だが、美穂子に訪問を勧めた主力工場は茨城県にある。
関東電機金属の広報担当者とは面識があったので、工場見学の希望を伝えた。上場会社の広報担当者にとって大手証券会社のアナリストの訪問は歓迎すべきことで、あらゆる機会をとらえて市場関係者に好印象を与えておきたいというのが本音である。


二人は、翌朝上野駅で待ち合わせる約束をした。
啓介が同道することに美穂子は恐縮していたが、工場見学を勧める以上は一緒に訪問するつもりだった。そして、それが二人に新しい人生を開くことになった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十六回

2010-09-12 10:21:47 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 2 )


翌朝、啓介は一度出社してから上野に出た。
九時に待ち合わせる約束だったので十分ばかり早く着くように行ったが、美穂子はすでに来ていて切符の手配まで終わっていた。
発車時刻には大分時間があったが、列車は早く入線することになっていたのでホームで待つことにした。


車内に入った二人は、改めて自己紹介しあった。昨日、山内副部長から紹介されて互いに挨拶を交わしていたが、事務的な気持ちの強い挨拶だった。
二人が大学の同窓だということは教えられていたが、学部もゼミまで一緒なのが分かった。


美穂子は啓介より四歳年下で、ちょうど入れ替わりで入学したので二人が大学で一緒になることはなかったが、社内の話題は大学時代のことが中心になった。
校内のことや近くの食堂のことなど目まぐるしく話題を変えているうちに目的の駅に着いた。五十分程の列車の旅は二人には短過ぎた。


工場は駅から少し離れていたので、二人はタクシーで向かった。
工場の入り口には、昨日啓介が連絡した広報担当者が待っていた。彼は丸の内の本社勤務なのだが、わざわざ出向いてくれていたのである。
啓介より一歳年上の彼とは、これまでにも何度か情報交換していたので便宜を図ってくれたようだ。


二人は広報担当者と工場の開発担当者二名の三人に案内されて、生産現場の幾つかを見学した。幹部社員との面談は午後になるとのことで、設備などの見学が先になったのである。
昼食の時間になると、社内食堂にも案内したあと隣接している来客用らしい部屋に案内された。


「お昼は、社員食堂のものしかご用意できないのですが・・・」
と言葉では申し訳ないと言いながら、広報担当者の話しぶりは快活なものだった。
「社内規定がそうなっているのですが、うちの本社などに比べると余程いいものですよ」
と、むしろ自慢げな笑顔で二人に着席を促した。


その部屋には、副所長と開発担当の課長が同席していた。
副所長は関東電機産業のOBで、この会社の開発部門の最高責任者であるとともに将来の社長候補と噂されている人物である。啓介は会議などで何度か顔を合わせていたし会話する機会もあったが、このような席に加わるのは異例のことだと思われた。


啓介は恐縮しながら謝意を述べ、美穂子を紹介した。
美穂子は副所長と開発課長に言葉少なに丁重な挨拶をした。そして、「お昼をご馳走になったりすると、上司に叱られるかもしれません」と、かなり真剣な表情で言った。


「買収される恐れがあるからですか?」
副所長は美穂子の真剣な言葉を軽妙に受け止め、
「なあに、私どもの食堂がどういう食事を提供しているかを知ることも、会社を観察する上で案外重要なポイントかもしれませんよ。お昼も情報提供の一つですよ。さあ、どうぞ召し上がれ」
と、大げさな身振りを加えて食事を勧めた。


同社の三人と、啓介と美穂子の二人が向かい合う形で席に着いていて、女子社員が食事を運んでくれていた。
社員食堂で用意されているものをアレンジしたものだとのことだが、相当のボリュームがあった。


「それではご馳走になります」
啓介と美穂子は異口同音に礼を述べたが、その後で美穂子は目を大きく見開いて「それにしても、大変なご馳走」と、感嘆したように言った。
この言葉が少し硬かった座の空気を和らげた。特に会社側の三人は、何かすごく褒められたような気がしたらしく、実に嬉しそうに笑った。


自分の言葉の反応が大きかったことに恥じるような表情を見せながら、美穂子は割箸を取り「いただきます」と手を合わせた。そして、同じように食事を始めようとしていた啓介にささやいた。


「水村さん、ちょっと助けて下さい」
「ええっ?」
啓介は美穂子の言葉の意味が分からず顔を見た。必死といえるほど真剣な表情だった。


「何か・・・」
「ご飯を・・・、ご飯を半分助けて下さい」


「ご飯?」
「ええ、とても全部は食べられません」


「残せばいいですよ」という啓介の言葉に、美穂子はまるで哀願するような表情で小さく首を振った。
「じゃあ、私のに移して」と、啓介はご飯の盛られている茶碗を美穂子の横に置いた。軽く盛られているようだが、茶碗は大ぶりのもので女性には少し多すぎるようだ。


美穂子は自分のご飯の半分程を啓介の茶碗に移し、ご飯の量が増えた茶碗を返しながら「すみません」と小声で礼を言った。
そして、その様子を向かい側に座っている副所長たちに見られていたことに気付き、首をすくめるような仕草をした。


しかし、その後の美穂子の食べっぷりは鮮やかなものだった。
これは、啓介がこの時気付いたことではないが、美穂子は実に美しい食べ方をする女性だった。正式なマナーとしてどうなのかは別にして、食べ方がスムーズで無理がなく、特に、出されたものを残すようなことは滅多になかった。自分が食べられる量が計ったように分かるらしく、多すぎる場合は箸をつける前に自分の器から除くことがよくあった。


この時も、季節のものらしく塩焼きされた見事な秋刀魚が一尾丸ごと出されていたが、物の見事に頭と尾と骨だけを残して食べていた。


  **


食事の後、部屋を移ってからコーヒーが出された。
五人で話し合える時間を作ってくれたようである。


「お二人の付き合いは、長いのですか?」
コーヒーが全員に行き渡るのを待っている時、副所長が尋ねた。


「いえ、昨日初めて紹介されたのです。杉井さんは何度か本社に見られていたようですが、私がお会いしたのは昨日が初めてです」
啓介は「付き合い」という言葉に不思議なものを感じながら答えた。


「ほう・・・」
副所長は意外な答えを聞いたように、にこにことした笑顔で少し首を傾げた。


「何か・・・」
「いえ、ね、先程、杉井さんがご飯をあなたに移していたでしょう。実にいい光景だったので、ずいぶん前からのお知り合いかと思ったのです」


「どうも、すみません。わたし、厚かましいものですから・・・」
と、美穂子が口を挟んだ。そして、美穂子は食事を残すことができない癖があるのだという話になり、しばらくその話題が続いた。


その後、話は本題に入り、美穂子はノートを出して幾つかの質問をした。答えるのは主に開発課長だったが、副所長も時々言葉を加え、かなり詳しい内容まで話す場面もあった。副所長が美穂子の質問が的確なことを認めたからだと思われた。


それらの話の中で、明らかに啓介を意識していると思われる話もあった。
それは、現在開発中の製品の事業化に目処がついたものがあり「当社で製造を担当することができれば、長期に渡って当社の収益構造を変えるものだ」とまで言い切った部分である。


その開発中の製品の詳細については、まだ発表できないと言葉を濁したが、そんな大型案件があることさえ外部には発表されていなかった。


その製品は、当社と親会社である関東電機産業とで共同開発してきたもので、すでに商品化が決定されていた。もともとの基本構想は当社のものだが、開発にはかなりの人材と資金を必要とするため親会社と共同開発になったもので、その量産化については親会社にしてもかなり魅力があり、どちらで生産を担当するかの検討が進められていた。

副所長がこの話を出したのは、美穂子にお土産を持たせるつもりもあったのだろうが、当社と親会社の調整を担当している啓介にプレッシャーをかける意味を持っていることは、十分伺えるものだった。
話の途中で副所長は意味ありげに啓介の顔を見るので、啓介としては苦笑するしかなかった。


取材が終わった時も、美穂子は丁重に礼を述べ、自分のノートを見ながら幾つかの項目について公表してもよいかどうかを確認した。
そして、副所長が少し話し過ぎたと思われる例の製品について、今の段階で記事にするのは待って欲しいと言うと、美穂子は即座に了解した。同時に、公表できる時には必ず教えて欲しいということを付け加えることも忘れなかった。
この辺りの対応は実に気持ち良く、美穂子のアナリストとしての能力は相当のものだと啓介は思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十七回

2010-09-12 10:21:12 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 3 )


美穂子は十日に一度位の割で関東電機産業を訪れていたが、その時には必ず啓介に挨拶するようになった。啓介が担当している別の会社に一緒に訪問することもあった。


最初に関東電機金属を訪問してから三週間ほど経ってから、美穂子の記事が載った冊子を持参してくれた。
その冊子は大東洋証券が顧客用に発行している週間の調査報で、この前の取材を中心としたものが二ページに渡る記事になっていた。
業績見通しなどは会社が公表しているものに若干の推定を加えたものだったが、記事の中では同社が大きく変貌しようとしていることが強調されていた。


関東電機金属がわが国有数の特殊金属メーカーであることはよく知られていて、高い技術力と安定した業績は高く評価されているが、少量多品種生産の傾向が強く成長へのダイナミック性にやや乏しい面があった。しかし、ここ数年の大型製品開発への投資は顕著な増加がみられ、その努力が開花しようとしている。当社の成長をこれまでと同じ尺度で測ることは間違いで、大きく羽ばたこうとしている当社を注目したい、と記事は結ばれていた。


さらに、この調査報の別の記事では、関東電機金属に対する投資方針が最上位に引き上げられていた。美穂子の取材が、あの大証券会社に影響を与えたのだと思うと啓介は嬉しかった。
関東電機金属の副所長からも「良い記事だった」とわざわざ電話をもらい、啓介まで誇らしい気持ちになった。


啓介は美穂子にお祝いをしようと夕食に誘った。お祝いなんてオーバーだと美穂子は恥ずかしがったが、楽しい食事になった。
そして、これを機に二人は定期的に夕食を共にするようになった。


啓介は二年余り前から、独身寮を出て一人暮らしをしていた。
一人暮らしも悪くはないが、食事が少し負担になっていた。独身寮では食事の心配がなかったが、一人暮らしを始めてらは毎日食事のことを考えなくてはならなかった。
マンションに移る時に調理道具などを一通り揃えたのだが、夕食は殆ど外食になっていた。


美穂子も一人で暮らしていた。大体自炊しているが週に一、二度は外食になっていた。
そのような事情もあって、時々一緒に食事をしようという啓介の提案を美穂子は即座に応諾した。


最初の二回は啓介が誘う形で場所も決めた。普段の夕食は五反田付近が多かったが、美穂子と一緒の時は東京駅の近くを選んだ。
美穂子の会社は日本橋にあり、住居は江戸川区の西葛西だったので交通の便を考えたからである。


食事は贅沢なものではなかったが、いつも食べているものより少し高いものを選んだ。代金も折半にして欲しいという美穂子の申し出を断っていた。酒はビール一本を分けて飲む程度なので費用は大したものではなかった。


二回目の食事のあと二人は喫茶店に寄ったが、美穂子は続けてご馳走になったことことに対して丁重に礼を言った後、驚くような質問をした。


「水村さんは、お金持ちですか?」
「えっ?」
と小さく声を出して、啓介は美穂子の顔を見つめた。質問の意味を理解できず答えに詰まった。
美穂子は大きな瞳をクリクリと輝かせて、真っ直ぐに啓介の顔を見つめていた。ふざけている様子ではなかった。


「うーん。いや、残念ながら金持ちじゃないなあ・・・。何とか一人暮らしができている程度ですよ」
「そうですか。わたしも同じなんです。貧乏というほどではないですが、家賃を払った後お給料で生活するのがやっとです」


「サラリーマンなんて、いやオフィスレディーというんですかね、男性でも女性でも給料で生活している人は大体そんなものではないんですかね」
「そうですよ、ね。それでね、水村さんもわたしと同じくらいの貧乏だとして、提案があります」
さすがにこの時の美穂子の表情は、悪戯っ子のような笑顔になっていた。


「貧乏な私に提案?」
「ええ、提案です。これからも、ぜひ夕食をご一緒させていただきたいのですが・・・、いえ、時々でいいのですけど、お願いしたいのです。それで、ね。これからは、安くて美味しいお店を探して行くことにしません?」


「安くて美味しいお店?」
「はい、あるんですよ、そういうお店」


「それはそうですね。学生時代もそうだったけど、ほら、学校の周りでも、美味しい店はみんなよく知っていたよね」
「そうでしょう。この次は、わたしが行く店を探しておきます。そして、その次は水村さんが決めて下さるの。いえ、もし、美味しくなくてもお互いに責任はないんですよ」


「なるほど・・・。確かに楽しい提案だけど、私か選ぶと杉井さんのようなレディに合わないかもしれませんよ」
「まあ・・・。わたしがレディというのは、お世辞が過ぎますよ」


「お世辞なんかじゃ、ありませんよ」
「ありがとうございます・・・。でも、お店なんかいくら汚くても大丈夫です。このレディは、美味しいお店を探す冒険が大好きなんです」


こんな会話があって、毎週少なくとも一度は一緒に食事をするようになった。
十二月には、お互いのボーナスで豪華な食事を招待しあったが、それ以外は実質的な店での食事になった。美穂子が当番の時は、費用も美穂子が支払った。
当番というのは少し変であるが、二人の間では店を決める番の方をそう呼ぶようになった。


行く店を決める場合も、相手の好みを考えるのではなく、自分の好みで決めるということも約束しあっていた。その方が良い店に行ける可能性が高いし、これまでとは違う傾向のものを食べられる楽しみがあるというのがその理由だった。
幸い啓介にも美穂子にも食べられない物は殆どなかった。どちらも下手物の類は苦手なのだが、それ以外は苦手という程の物はなかった。


啓介が店を選ぶ場合は、それらしい店があれば前もって試食しておくことが多かったが、どちらかといえば美穂子が選ぶ店の方が安くて美味しかった。
これまで啓介が食事をするのは五反田周辺が多かった。その中には、美穂子が提案する安くて美味い店もあるのだが、美穂子を連れて行くのには少々汚過ぎた。


特に、よく利用している「おでん屋」は、味は格別だが汚い方の代表のような店でもあった。これまで何度か考えてはみたが誘えなかったのだが、会話の中でおでんが話題になったことから美穂子を案内することになった。

小さな商店街の裏筋にあり、屋台を少し大きくした程度の店構えである。客筋はサラリーマンが主体で女性が一人では入りにくい店だったが、数人連れでは女性客も珍しくないが、若い二人連れは少ない。
しかし美穂子は、店の構えや雑多な雰囲気などは全く意に介せず、おでんの味をオーバーな程に喜んだ。


美穂子は、食事をする姿が実に美しい女性だった。
おかしな表現であるが、別に立派な食事でなくても、実に優雅な食べ方をした。
啓介は美穂子の食事をしている姿が好きで、そのことを率直に話したことがあるが、その時も「わたしは食いしん坊なので、きっと食べている時が一番生き生きとしているのだと思います」と恥ずかしそうに笑った。


啓介は美穂子の何があのように優雅に感じさせるのか観察したことがある。
どうやらその一つは、食べるものを絶対といっていいほど残さないことだった。自分の食べる量が正確に分かっているらしく、多いと思う時は事前に量を指定するか別の皿などに取ってもらうのである。時には最初の時のように啓介に助けを求めることもあった。
このことは啓介も影響を受けて、食事を残さないようになっていった。


もう一つは、魚の食べ方が実に巧く骨などの残される部分は見事なほどに少なかった。啓介も魚が好きで食べ方も下手な方ではないと思っていたが、とても及ばなかった。
そして何よりも、箸のさばきが鮮やかだった。特別な動きがあるわけではないのだが、所作が実にスムーズで優雅な雰囲気を醸し出していた。


このことは啓介が感じていただけではなかった。
啓介がたまに利用する一品料理を主体とした店に案内した時、カウンターで食事をしていた二人に板前でもある主人が、「お嬢さんは、実に良い箸さばきをしているねぇ。料理が生きて見えるし、ほれぼれするよ」と褒めたことがあった。
美穂子は、自分ではそのことを認識していないらしく、その時も恥ずかしそうに笑っただけである。しかし啓介は、その親父さんの言葉が嬉しくて、誇らしい気がしていた。


話をするとき美穂子は、相手に真っ直ぐに視線を向ける。大きな瞳が印象的で、真剣になるとその大きな瞳をきらきらと輝かせて、強く訴えるような話し方をした。
身長は百五十五センチ位で啓介より二十センチほど小さかったが、歩く時は真っ直ぐ背筋を伸ばして颯爽とした歩き方をした。その姿は、実際の身長より高いように見えた。


仕事で一緒の時の美穂子は、実に的確で鋭い質問や意見を述べるのだが、啓介と二人でいるときは、時々突拍子もない話を持ち出したりして、天真爛漫なところが伺える会話が多かった。
啓介の中で、美穂子の存在が少しずつ膨らんでいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天空に舞う   第二十八回

2010-09-12 10:20:40 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 4 )


二人が初めて休日の日に会ったのは、初対面から半年程経った三月下旬のことである。


仕事のあと時間を調整しあって夕食を一緒にすることは、すでに当然のことのように二人の生活の中で定着していた。食事のあとは喫茶店に寄ることが多かったし、酒が主体の店に行くことも何度かあった。
しかし、二人とも休みの日に会いたいと思いながら、なかなか切っ掛けをつかむことができなかった。たまたま演劇の話になり、それを機に劇場へ行く約束ができたのである。
不器用な交際といえるが、啓介には美穂子との交際をさらに一歩進めることに、何処かにこだわりが残っていた。


土曜日の午後、JRの有楽町駅で待ち合わせて劇場へ行った。観劇の後の予定は決めていなかったが、夕食は一緒にすることにしていた。
劇場を出る途中で啓介の予定を確認したあと、美穂子は広尾へ行きたいと希望を言った。啓介に異論はなかったが、広尾へは一度も行ったことがなかった。


地下鉄に乗り、広尾の駅近くの喫茶店に入った。夕食にはまだ少し早かった。


「わたし、この街には敵意を持っていますの」
ショートケーキを前にした美穂子は、大きな目を輝かせて啓介を見つめた。生き生きとした表情からは予想できない意外な言葉である。


「敵意? 何だか、物騒な話だね」
「ええ、そうよ。とっても物騒なお話よ。でも、本当は、憧れ、かな・・・」


「ここへは、よく来るの?」
「学生の頃には時々来ていたわ。でも、卒業してからは今日が初めてなの」


「それで、何で敵意なの?」
「ええ、本当は、敵意と憧れが入り混じったような気持ち、かな…。学生の頃、とても仲の良い女の子がいたの。その子の友達が、ここの女子大に通っていて、ね。それで、その子に連れられてここへ遊びに来ていたの。ここの女子大生何人かとも一緒になって、よくおしゃべりしたわ。とっても楽しかったけれど、全然違うのよ。ほら、ここのケーキ、憎らしいほど美味しいでしょう。街の雰囲気も違うし、女の子が着ている服なんて、レベルが違うんですよ。わたしたちといったら、男の子か女の子か分からないような服装なのに、ここの学校の人はレディを絵に描いたような服装なんですよ。敵意が湧くのが当然だと思うでしょう?」


「へーえ、うちの学校の女の子はあまり素敵じゃなかったんだ」
「ここの人に比べたら、女の子の部類にも入らないほどよ。センスが違うって感じ」


「そうか・・・。杉井さんでも、そのようなことを考えていたんだ」
「そのようなことって?」


「今の話さ。他の人のおしゃれなんかが気になるんだ」
「気になりますよ・・・。わたしが、おしゃれのことなんか考えると変ですか?」


「そういうことではないけど、杉井さんて、そういうことにあまり価値を認めないと思っていたから」
「そうですか・・・。やはり、日頃の服装など、センス悪いですか・・・」


「いや、そういう意味ではないよ。いつもシャープな感じで、とても好感が持てる服装だよ」
「でも、あまり女の子らしくないんでしょう?・・・
ごめんなさい、学生時代のことを思いだして、あの頃の敵討ちを水村さんでしようとしているみたい・・・。もう、こんなお話、止めましょう」


二人は店を出て、少し先にある公園に入った。


啓介がこれまで会っていた美穂子の服装は濃い色のスーツが多く、シャープなキャリアレディとして隙のないものが多かった。
美穂子の会社では、内部事務用の女性の制服があるが、外出の時は私服が慣例だった。美穂子の場合は、社内にいる時でも来客と会うことが多く制服を着ることは殆どなかった。


啓介は美穂子のシャープな服装と背筋を伸ばして颯爽と歩く姿が好きだった。美穂子が言うようにセンスが悪いなど考えたこともなかった。
しかし、美穂子の話を聞いてみると、職業上のことといえるが、日頃の服装は地味なもので彩りも限られていた。


美穂子の今日の服装は、淡いグリーンのブラウスに濃いグリーンのスカートで同系色で統一されていた。羽織っている薄いカーディガンも淡い黄緑色で、啓介には洗練された服装に見えていた。
公園の中を少し進んでから、今日の服装が素敵なことを率直に述べた。


「本当ですか?」
喫茶店での話のあとだけに、わざとらしいと取られないかとの懸念があったが、美穂子は嬉しそうな顔で見上げた。


「もちろんだよ。すごく良いと思う」
「ありがとうございます。水村さんが褒めて下さると、とても嬉しいんです・・・。でも、わたしって、なかなか女の子として認められないんですよ、ね」


「女の子として認められないって?」
「ええ・・・。子供の頃からそうだったし、大学の時もそうだったんです。勤めるようになってからも、あまり女性として認めてくれていないみたい・・・」


「そんなことないですよ。それは、杉井さんは仕事ができる人だから、周囲の男性が対等に接するからでしょう」
「どうでしょうか・・・。わたし、それほどお仕事に熱心なわけではないんですよ。どうも、女性として魅力がないみたい・・・」


「そんなことないですよ。現に私は、杉井さんにすごく魅力を感じています。もちろん、女性としてですよ」
啓介は立ち止まって、真っ直ぐに美穂子の顔を見て言った。
いつもは大きな瞳を輝かせている美穂子だが、この時は視線を伏せていた。そして、その姿勢のまま少し歩いてから言った。


「わたし、いつか素敵な人に巡り逢えたら、この街で食事をするんだと、ずっと考えていたんです。水村さん、その役引き受けてくれます?」


啓介は美穂子の肩に手をやって、力を込めた。美穂子も啓介に体を寄せた。
啓介は力いっぱい抱きしめたい衝動に駆られたが、それを抑えて「もちろんだよ」とだけ答えた。そして、いかにも間の抜けた返答だと自分でも思いながら、ゆっくりと歩いた。


夕暮の公園に人通りは少なく、美穂子は啓介の腕を取った。
ゆっくりと歩調を合わせながら、啓介には自分が一歩踏み出そうとしている予感があった。心の中に早知子の姿が一瞬浮かんだが、その行動を押さえるようなことはなかった。


啓介は美穂子を正面にして抱き締めた。
美穂子は啓介の胸に顔をうずめていた。その顎の辺りに手をあてて、顔を上げさせた。美穂子は、きらきらと輝く瞳で啓介を見つめた。そして、そっと目を閉じた。
二人の初めてのくちづけだった。


美穂子の唇は少し震えているように感じられた。なぜか痛々しいような感覚を受けて、啓介はすぐに離れた。
少し遅れて、美穂子は目を開いた。その瞳は泣いているように潤んでいた。


「好きになっていいんだね」
と啓介は囁いた。美穂子は小さく頷き、再び目を閉じた。
啓介は再び唇を合わせ、美穂子の体を抱き締めた。美穂子も背を反らせるようにして抱かれ、懸命に応えた。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする