雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

天空に舞う   第二十九回

2010-09-12 10:20:00 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 5 )


公園を出た二人は、美穂子が希望したレストランで食事をした。
その食事の間、美穂子は考え込んでいるように見えた。啓介が話し掛けるといつもの笑顔を見せるのだが、すぐに不安げな様子が窺えた。
その夜はそのまま別れたが、啓介はずっと気に掛っていた。


次の週は決算事務などの関係で夕食を一緒にできなかったが、土曜日に会うことができた。
その日は原宿で待ち合わせた。
美穂子は、煉瓦のような赤系統の深い色のスカートに、淡い蜜柑色の上着という同系色の服装で、仕事の時とはずいぶん違って軽やかに見えた。


駅前に近い辺りで軽食を済ませてから、南参道から入って明治神宮に参った。そのあと南池の辺りを歩き、代々木公園に入った。
そして、少し歩き疲れたこともありベンチを見つけて休んだ時、先週の食事の時元気がなかったことを心配している、と話した。


「ごめんなさい。大切な日の食事なのに・・・。きっと、不愉快な思いをさせてしまいましたのね・・・」
と丁寧な言葉で詫びた。
美穂子は、仕事で接する時は丁寧な言葉を使い、二人で会う時には親しげな言葉を使うように心掛けているようだったが、二人の時にも丁寧な言葉になることが多かった。


「不愉快にはなっていないよ。ただ、少し心配だったんだ。後悔しているのではないかと・・・」
「後悔だなんて・・・。少し恥ずかしかっただけです。だって・・・」

「ああ・・・。怒ってはいなかったんだね?」
「怒っているだなんて・・・。嬉しかったんです、とっても・・・。ただ・・・」


「ただ、どうしたの?」
「ええ・・・、恥ずかしかったこともあるのですが・・・、心配だったんです・・・」


「何が?」
二人は並んでベンチに腰掛けていたが、美穂子は体をねじるようにして啓介を見上げた。
大きな瞳がいつもより静かな光のように見えた。そして、少し体を寄せて、小さな声で言った。


「嫌われないかなって・・・」
「嫌われないかなって、私に?」
美穂子は啓介の顔を見たまま、小さく二、三度頷いた。


「どうして?」
「だって・・・。わたしのこと、嫌いになっていません?」


「どうして・・・。前よりもっと好きになったよ」
「ほんとうですか? 嘘、ついてませんよね・・・」


「嘘なんかじゃないよ。でも、どうして、そんなこと言うの?」
「気になっていたんです」


「だから、何が?」
美穂子はさらに体を寄せて、小さな声で言った。


「キスのこと・・・」
「キスのこと?」
「わたし、男の子みたいだから、うまくキスできたのかどうか・・・、心配だったの・・・」

啓介は、頬を染めながらも真剣な表情の美穂子に、たまらないほどの愛おしさを感じた。昼下がりであることも、人通りの多い公園であることも忘れて、美穂子の背に手を廻して強く抱きしめた。そして、「素敵だったよ。とても素敵だったよ」と繰り返した。
それでもなお不安げな美穂子の表情に、啓介は込み上げてくるような感動を感じていた。


二人は広尾に向かった。今日は啓介の提案で、もう一度チャレンジしようということになったのである。
もう一度チャレンジというのは、美穂子の敵討ちをすることだった。先日と同じ店で食事をするためだったが、もう一度公園に寄ることを二人とも意識していた。


夕食には少し早かったが、先に食事をすることにした。
美穂子は楽しげに振る舞い、「この街に対する恨みもコンプレックスも消えたわ」と笑った。


食事のあと公園に向かった。
公園に行くことはどちらからも話題にしていなかったが、当然のように二人の気持ちは一致していた。


先週より少し遅い時間になっていたが、公園の様子は分かっていたので、真っ直ぐに池に向かいベンチに腰掛けた。
啓介は美穂子の背に手を廻し、キスの意思を伝えた。美穂子は、啓介の顔を真っ直ぐに見つめてから目を閉じた。啓介は唇を合わせ背に廻している手に力を込めて抱き寄せた。美穂子は、されるがままにじっとしていた。


啓介は、唇を離れ、美穂子が目を開くのを待って言った。
「大好きだよ」


美穂子は紅潮した顔に恥ずかしそうな笑顔を浮かべて「わたしも・・・」と小さな声で答えた。

啓介は、もう一方の手を美穂子の胸にそっとあてた。
美穂子の表情は少し動いたが、さらに体を寄せた。啓介の手は服の上からだったが、美穂子の胸の膨らみを捕らえていた。そして、再びくちづけした。
美穂子の胸は激しく脈打ち、啓介の手に伝わっていた。そして、美穂子は、ふさがれている唇を僅かに開いた。


「きっと、うまくやっていける」
啓介は、唇を通して伝わってくる甘い香りに酔いながら、自分自身に語りかけていた。


   **


二人の交際は深まっていった。
夕食を共にする回数はあまり変わらなかったが、休日には毎週のように逢った。夕食の時は手を取り合うだけで別れることの方が多かったが、休日に逢う時は必ずくちづけし体を寄せ合った。


二人が仕事で会うことも少なくなかったが、そのような時の美穂子はてきぱきとした行動に何の変化もなかった。二人で相談したことではなかったが、仕事の席とプライベートで逢う時とは明快に区別していた。


啓介にとって、すでに美穂子は離すことができない存在になっていた。


 

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天空に舞う   第三十回

2010-09-12 10:19:03 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 6 )


五月の連休を利用して啓介は帰郷した。


啓介の会社は一週間連続して休みだったが、美穂子の会社は暦通りで飛び飛びの休みである。それでもこの期間中に、美穂子も実家に帰ることになっていた。


美穂子の実家は千葉市の郊外にあった。もっとも、実家といってもそこは叔父の家である。
啓介は美穂子の生い立ちなどについて詳しく聞いていなかったが、両親は美穂子が小学生の時に相次いで病死していた。そのため父方の祖父母に引き取られたが、祖父母が亡くなったあとは叔父夫妻に育てられてきたのである。


杉井家は江戸時代からの農家だが、この辺りでは有力農家として知られていた。農地解放や相続などでかなりの土地を手放してきていたが、残っている土地も少なくなかった。
それらの土地の大部分は叔父が相続していたが、美穂子も一部の土地を相続していた。


叔父は最初は実家の近くに分家していたが、美穂子の父の死去にともない実家に戻り杉井本家を相続したのである。本来なら美穂子の父が継ぐことになっていたが、祖父が死去したあと次男の叔父が当主として実家に戻り、祖母や美穂子と同居することになったのである。


美穂子は地元の高校を卒業するまでは実家で生活してきた。
叔父の家族と同居したのは中学生になってからだが、叔父夫妻とは幼い頃から行き来していたし、美穂子には優しく接してくれていた。
大学に入ってからは下宿生活になったが、積極的に家を出るという考えがあったわけではない。大学に対しても強い志望があったわけではないが、担任教師の強い勧めに影響を受けた部分が大きかった。


東京生活を始めた頃は実家に帰ることも多かったが、最近では年に三、四回程度の帰郷になっていた。美穂子が東京生活に慣れたことと、叔父夫婦の子供たちが大きくなってきていたこともあった。
叔父の家は祖父から相続した古い建物だが、部屋数の多い広いもので美穂子の部屋は今もそのまま残されていた。それでも美穂子にとって、実家の敷居が少しずつ高くなっていることも事実だった。
今回の帰郷も、叔父からの強い要請があったからである。


   **


啓介はこの時も京都で下車して早知子の墓に参った。
早知子が亡くなってからは、余程のことがない限り帰郷の途中に京都で降りることにしていた。明るい時間であれば墓の前に立って早知子を想い、五条坂を歩いた。時間が許せば、清水寺に参った。舞台からの景色を眺めては、在りし日の早知子を想った。そして、早知子に教えられた秘密の場所から、早知子が眠る墓地を遠望した。


暗くなってから訪れる時は、霊廟の山門で頭を垂れて早知子を想った。そして、暗くなった五条坂を上った。啓介にとって、五条坂を歩く時が早知子を最も身近に感じる時なのだ。
多くのことを語り合い、今もなお変わらぬ絆を確かめ合うことのできる場所でもあった。


帰郷中に古賀俊介と希美に会った。二人はすっかり夫婦になっていて、希美のお腹には二人目の子供が宿っていた。
さらに、俊介は勤めている商社を退職することも決意していた。かねてから希美の父親が社長を務めている会社に移るように誘われていた。延ばし延ばしにしてきていたが、大原家が経営する会社の業容拡大は著しく幹部社員の不足が大きな課題になっていた。

商社での仕事に行き詰まりを感じていたし、希望外の地域への海外転勤も具体化しつつあった。いずれ転職するのであれば、その潮時ではないかと考えていた。


俊介と希美は、啓介の結婚について質問した。特に希美は、早知子のためにも結婚すべきだと涙を浮かべた。
自分が一番苦しい時に手を差し伸べてくれた早知子に恩返しするには、啓介に幸せな家庭を築いてもらうことだと本気で考えていた。
俊介は、決まった人がいないのなら自分に任せろ、と啓介に決断を迫った。


啓介が縁談を勧められることは珍しいことではなかった。職場において上司などからそれとなく打診してくることが度々あった。東京では早知子のことを知っている者はいなかったので、同僚や歳の近い先輩からはより具体的に勧められることもあった。


しかし、俊介や希美の心配は啓介にとって特別なものだった。今もなお固く結ばれている早知子との絆を承知の上で心配してくれる古賀夫妻の言葉を、聞き流すわけにはいかなかった。


啓介は美穂子のことを話した。
啓介は、美穂子が大切な人になっていることをはっきり認識していた。すでに恋人といえる関係であると確信していた。

美穂子の本心を確認しているわけではないが、いつまでも今の状態のままでいいとは思っていなかった。もし結婚するとすればこの人だという漠然とした意識はあった。
しかしその一方で、京都駅に降り立ち、ひとり五条坂を歩くとき、早知子との断ち難い絆を絶対に捨てることができないことも強く感じていた。


早知子が不慮の事故にあってから、すでに十年近い年月が流れていた。
いつか啓介も三十歳を目前にしていた。自分の人生や両親などの心配を無視しているわけでもなかった。ただ、早知子の存在を押し退けようとするものは、どうしても容認することができなかった。


啓介は二人に美穂子のことを打ち明け、同時に揺れ動く自分の気持ちを率直に話した。


「早知子が啓介さんにとって大切なことは永遠に変わらないことだわ。だからこそ、この世に残った啓介さんは幸せな結婚をすべきなんです。それが、早知子の願いなんです」


希美が激しいほどの口調で訴え、俊介も妻の言葉に同調した。
啓介は二人の言葉に押されながら、そのつもりだと答え、美穂子の姿を思い浮かべた。


   **


五月の連休が終わり、再び慌ただしい日々が始まった。


休み明け早々に啓介は美穂子からの電話を受けた。
仕事上の用件を電話で連絡し合うことは珍しいことではなかったが、会社へ私用目的だけの電話をかけてきたのは初めてだった。特別に決めていたわけではないが、二人は職場で私用のことに触れることを避けてきていた。電話に限らず、そのような考え方は美穂子の方が強かった。それだけに啓介は、今夜にも逢いたいという美穂子の言葉が気掛かりだった。


その夜二人は八重洲口で待ち合わせた。互いに無理のない時間ということでいつもより遅い時間になった。
炉端のような店がいいという美穂子の希望で、前にも行ったことのある大衆酒場のような店に入った。


美穂子は酒が飲める方だが、啓介と食事をする時にはビールをグラスに一杯か、せいぜい中ジョッキくらいだった。日本酒でもウィスキーでもワインでも、啓介が勧めれば断ることはなかったがその量は少なく、いくら勧めても一、二杯を超えることはなかった。
しかし、この夜は様子が少し違っていた。オーダーする料理の量がいつもより少なく、その分ビールの量が少し多かった。


逢った時の表情などはいつもと変わらなかったが、食事を始めてからの口数は明らかに少なかった。
何かあったのかと心配する啓介の問いにも、「お逢いしたかっただけ・・・」と微笑むだけなのだが、その笑顔は心なしか淋しげに見えた。

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天空に舞う   第三十一回

2010-09-12 10:18:00 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 7 )


お互いに口数が少なくなってしまった食事を終え、いつもより短時間で店を出た。
外に出ると、美穂子は啓介の腕に自分の腕をからませ、「歩きたいわ」と言った。
二人は中央通りに出て、日本橋方向に向かってゆっくりと歩いた。


「少し元気ないよ」
「ごめんなさい・・・」


「何か・・・、話があったんじゃないの?」
「ううん・・・。もう、いいの・・・」


「でも、会社に電話をくれるなんて、初めてのことだよ。それに、今夜、ずっと元気ないよ」
「すみませんでした・・・。少し・・・、少しだけ、心配だっただけです・・・」


「心配だったって? 何があったの?」 
「ええ・・・。実家に帰っていて、ちょっと、いろいろあって・・・。そのあと考え事しているうちに、水村さんが、もう逢ってくれないんじゃないかと思えて、そのことが心配だったんです・・・」


「どうして? どうしてそんなこと考えたの?」
「ええ・・・。わたし、少し変よね・・・。でも、水村さんも、実家に帰っておられたでしょう? いろいろあったんじゃないかな、って・・・」


「いろいろって?」
「ええ・・・。たとえば、どなたかに、お会いしたとか・・・」


「それって、女の人のこと?」
「ええ、まあ・・・」


「会ったのは、家族の他は高校時代の友人二人だけ・・・。その二人は結婚していて、子供もいるんだ」
「高校の頃のお友達同士で結婚されたんですか?」


「そう、私だけが除け者」
「よかったわ・・・、水村さんが除け者で・・・」
二人は顔を見合せて、笑った。だが、美穂子の笑顔は、やはり少し翳りがあった。


地下鉄の日本橋の駅への入り口が見えた。

「まだ少し早いわ」
美穂子が、もう少し歩きたいとの気持ちを、啓介の同意を求める表情で見上げた。


「うん。でも、今夜はもう帰った方がいいよ。近くまで送って行くよ」
美穂子は素直に頷いたが、淋しげな表情は消えていなかった。


美穂子のアパートは、地下鉄の西葛西駅から歩いて五分程の距離にあった。二階建てで一棟に八戸あるものが二棟並んでいた。


啓介はアパートの近くで別れるつもりだったが、それを言い出す前に美穂子の部屋に上がる階段の下に着いていた。啓介が暗い階段の下で帰る意思を示すと、美穂子は少しの間だけでも寄って欲しいと大きな瞳を曇らせた。何か切実なものが感じられ、いつもの美穂子とは少し様子が違っていた。


玄関の扉を開けて入ると中は真っ暗だったが、美穂子は探す仕草をすることもなく壁のスイッチをつけた。
そして、玄関の扉にもたれるようにして立っている啓介に体を預けるように身を寄せた。


「キス・・・、キスして欲しかったの・・・」
啓介は消え入るような声をさえぎるように小柄な体を抱き締めた。唇を合わせ、くちづけを繰り返した。


「散らかしていますけど、笑わないで下さいね」
ようやく自分の方から離れた美穂子が、恥ずかしそうな笑顔を見せながら言った。


「ここに座って下さいな」
と座布団を勧め「足は崩して下さいね」と付け加えた。
「これ、電気炬燵なの。わが家の電気炬燵は年中無休なんです」


手早くお茶の準備をした美穂子は、啓介の右側に座ってお茶を入れた。
食卓兼用の小振りの電気炬燵の向こう側には、テレビとステレオが据えられていて、美穂子が座った後ろには大型の書棚があった。
あとは小さな雑誌立があるだけだが、花柄のカーテンが華やかで部屋全体を明るくしていた。


「良い部屋だね」
「こちらの部屋は、まだ、ましなんです。向こうの部屋は、ぐちゃぐちゃ・・・。それに、女の子らしくない部屋でしょう?」


「そんなことないよ、可愛いカーテンだし・・・。でも、本の数は凄いね」
「恥ずかしいわ・・・。なかなか整理できなくて」


「そうだよね。私も、本はなかなか捨てられないなあ」
「ええ・・・。何か、飲みます? ワインならあるし、ビールもすぐ近くに自動販売機があるのよ」


「いや、お酒は、もう十分。それより、何があったの?」
「ええ、ちょっと、ね。でも、もう大丈夫です。水村さん、私にキスしてくれましたから・・・」


「ええっ? どういうことなの?」
「もう、逢ってもらえないような気がしていましたから・・・」


「どうして、そう思うの? 私がお見合いでもしたと思っていたの?」
「いいえ・・・、でも、少しばかりは・・・。それより、わたしのこと、負担になっているんじゃないかって、実家にいる間、ずっと考えていたの・・・」


「どうして? きみのこと好きだって言ったこと、信じられなかったの?」
「信じているわ。とても嬉しかったし・・・。でも、わたしは、キスの仕方も知らなかったし・・・、女の子としてあまり魅力ないし・・・」


「どうして、そう思うの? きみはすごく魅力的だし、キスだって、素敵だし・・・」
「まあ・・・」
美穂子は頬を染め、大きな瞳を見開いて啓介を睨んだ。


啓介は体を移動させて、美穂子を抱き寄せた。
美穂子が女性としての魅力にコンプレックスをのようなものを持っていることが不思議だった。それは、決して謙遜しているのではなく、本心からそう思っているようなのだ。
そのことが啓介には大変不思議で、とてもいじらしかった。


美穂子は、体のバランスを崩しそうになり啓介の腕を掴んでいた。
啓介は、さらに抱き寄せ、畳の上に横たえた。そして、上半身を重ねるようにして顔を近づけた。
一瞬のことで、美穂子は驚いたような表情を見せたが、啓介が顔を近づけると目を閉じた。二人の唇が合わさると、ほんの少し、口を開いた。


それは、男の欲求に必死になって応えようとしている仕草のように感じられた。
啓介は痛々しい行為のように感じ取ったが、右手は美穂子の胸に当てられていた。やわらかな感触が伝わり、啓介の欲求は増した。


胸のボタンをはずしにかかったとき、美穂子は目を開けて恥ずかしそうに微笑んだ。しかし、拒絶する様子はなく、再び目を閉じた。
ブラウスの前ボタンを全て外し、下着とブラジャー越しに乳房を両手で包むようにした。そして、下着をたくし上げ、ブラジャーの下に手を差し入れた。
美穂子は、わずかに息を洩らし、一層強く目を閉じていた。


啓介は美穂子の極度の緊張を感じながらも、手のひらに直に感じる乳房の感触に冷静さを失いかけていた。
ブラジャーに差し込んでいた手を抜くと、腰に手をやり、スカートのジッパーを下ろした。スカートがわずかに下げられたとき、美穂子は両手でそれを防ぎ、顔を激しく動かせて拒絶した。


啓介は戸惑い、手の動きを止めた。美穂子の真意を計りかね、行動を諦め両肩を抱くようにして、くちづけした。美穂子の唇が少し開けられているのを確認するようにくちづけを繰り返した。
そして、自分の気持ちが落ち着くのを待ってゆっくりと体を起こし、美穂子の服の乱れを直そうとした。


「ごめんなさい・・・」
美穂子はすばやく身を起こし、啓介に抱きついて謝った。


「そんなつもりじゃないんです。お願い・・・、もっと抱いて下さい・・・」
美穂子は、啓介が合わせたブラウスの胸がはだけるのも構わず抱きついた。柔らかな感触が伝わってくるのに耐えながら、啓介は美穂子の背中を撫で続けていた。


 


 

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天空に舞う   第三十二回

2010-09-12 10:17:21 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 8 )


次の週は一緒に食事をする機会がなかった。
決算資料などの打ち合わせが多く、二人とも逢う時間を取るのが難しかったからだが、どこかに気恥かしさのようなものが双方にあったことも原因していた。啓介自身もそのことを自覚していて、土曜日に郊外に行くことを提案した。


啓介には、美穂子の部屋でのことに今一つ納得できないものがあった。
あのとき啓介が、欲望を激しくぶつけたことは否定しないが、自分の気持ちは美穂子に受け入れられていると思っていた。それだけに、美穂子の激しい抵抗は、啓介の予想を超えていた。


職場を通してみる美穂子は理知的で、その行動はシャープさに溢れていた。しかし、男と女として逢うときの美穂子は、むしろ幼さのようなものを感じさせることが多かった。
美穂子の抵抗は、そのためによるものと啓介は受け取っていたが、そうだとしても面映ゆさが残っていた。


美穂子には、女性としての魅力にコンプレックスを持っているような言動や仕草が時々見られるが、それも啓介には理解しにくかった。
どちらかといえば小柄な方だが、きびきびとした姿は好感が持てるし、大きな瞳は印象的だった。くちづけや、触れ合うときの体の感触も、女性として強く惹かれた。


美穂子がそのようなコンプレックスを持っているらしいことは今も理解できていないが、当初は必要以上の謙遜のように啓介は受け取っていた。
啓介が美穂子に幼さのようなものを感じるのは、肉体的な意味ではなく精神面のことだった。初めて会ったときから、およそ人を疑うということを知らないかのように、真っ直ぐに啓介に接してきた。

大学の先輩であるとか、山内氏という信頼する人物の紹介があったからだとしても、無防備といえるほど心を開いているように思えてならなかった。どこか学生時代の延長線にあるような感覚が感じられた。


あの夜、啓介が美穂子を送って行ったのに他意はなかった。部屋に入ったあとも、その気持ちに変わりはなかった。抱きしめたのも、意図していたことではなく流れとしての行動だった。


欲望だと言われればその通りだし、美穂子の気持ちを汲んでいなかったのかもしれない。しかし、それにしても、あれほど激しく拒絶されることは考えになかった。
それに、そのあとで、むしろ積極的に身を任そうとしている様子さえ感じられる美穂子の行動は、愛おしさを超えて痛々しさのようなものが感じられた。


   **


郊外に行く提案を、美穂子は大袈裟なほどに喜んだ。二人は何度も電話し合い、一日中子供のように遊びまわるという計画を立てた。
美穂子は腕によりをかけて弁当を作ると張り切っていたが、当日は朝から激しい雨になってしまった。


啓介は朝早くに電話を掛けた。少し早過ぎるとは思ったが、弁当の準備をしてしまうと気の毒なので中止の連絡を急いだのである。
美穂子はすでに起きていて、中止することを残念がり池袋で待ち合わせることは予定通りにすることにした。


それから十分程すると、今度は美穂子から電話がきた。待ち合わせ場所を五反田に変更して、啓介の部屋へ行きたいと言ってきた。
弁当をたくさん作ってしまっているので、一緒に食べて欲しいというのがそ理由だった。


待ち合わせ場所の目印を伝えて電話を切ると、パジャマ姿のまま部屋の掃除に取りかかった。
啓介は割合几帳面な性格で、部屋も男の一人暮らしとしては綺麗な方だが、美穂子が来るとなると掃除が必要だった。


啓介の部屋の間取りは、四畳半の和室と十畳ほどのダイニングルームである。和室の方にカーペットを敷いてベッドを入れていた。ダイニングルームには、食卓と椅子四脚がセットになったものを置いていた。
あとは来客を考えてのソファーベッドとテレビがあり、本棚も立派なものがあったが机はなかった。書き物などは食卓を使い、パソコンは専用台を使っていた。少し場所を取るが機能を重視してデスクトップ型を使っていた。


美穂子が五反田に着いたときも、明け方よりも小降りになっていたが雨は降り続いていた。
美穂子は大きな鞄を提げていて、啓介が持っても重いほどだった。


「凄く重いよ」
「そうでしょう。お弁当がいっぱい!」


「あれから作ってくれたの?」
「本当は、あのとき半分以上できていたの。それで、どうしても食べていただきたくって、お電話してしまったの」


「そう、雨で残念だったけど、お弁当は楽しみだね。でも、朝大変だったでしょう、早起きで」
「嬉しくって、五時前には起きてしまったの。小学生みたいでしょう」


この前とは違い、美穂子は明るさを取り戻していた。大きな瞳をクリクリと輝かせ、生き生きとしていた。


「とっても綺麗なお部屋ですねぇ」
美穂子は部屋に入ると、啓介に甘えるように体を寄せた。
「そのかわり、朝から大掃除」


「大切なお客さまをお迎えするために?」
「そう、素敵なお姫さまを、お迎えするために」
美穂子は嬉しそうに微笑み、「わたくしは、お姫さま」と歌うように呟いた。


お茶を入れよう、という啓介を制して、美穂子は大きな鞄を開き魔法瓶を取り出した。啓介がコーヒーカップを用意して、二人はコーヒーで乾杯した。
そのあと二人はソファーに移り、並んで座った。体を寄せ合い、当然のようにくちづけした。


「この前は、ごめんなさい・・・」
くちづけのあと、美穂子は啓介の顔をじっと見つめて言った。そして、体をさらに寄せた。
「水村さん、優しくして下さったのに、わたし、応えられなくて・・・」

最後の方は聞き取れないような声になっていた。啓介は美穂子の体を抱きしめた。ずっと、気にしていたらしいことが痛々しかった。


「わたしって、駄目ですよね・・・」
消え入るような声だった。この部屋に入ったときの明るい表情は消えていた。


「そんなに、気にしないで。突然だったし・・・、きみこそ、怒っていない?」
「わたしがですか? そんな・・・。あのとき・・・、嬉しかったんです・・・、とっても・・・。だのに・・・、わたしって、どうしてなのかしら・・・」


泣き出しそうな声だった。とんでもない失敗をしたような表情で、怯えているようにさえ見えた。
啓介は片手を背にまわし、片手を胸に当てた。美穂子の鼓動が微かに伝わってきた。そして、美穂子が拒絶しないのを確かめてから、少し力を加えて膨らみを確認した。


「辛くない?」
美穂子は小さく頷き、「嬉しいの・・・」と言った。声が少し震えていた。
啓介は短くくちづけしたあと、美穂子の胸のボタンに手をかけた。水色の上着は部屋に入ったときに脱いでいて、着ているのはこの前と同じ感じのブラウスだった。そのボタンを一つずつ外していくと、下着はなく白いブラジャーが素肌に浮かびあがっているように見えた。


啓介はブラウスの片手を脱がせ、さらにもう片方も脱がせた。
美穂子は、啓介の手がブラジャーにかかるよりも早く、両手で胸を覆った。その手の力は強く、やはり簡単に外せないほどに力を込めていた。


啓介は両手で胸をかばっている美穂子の上半身を、そのまま強く抱きしめた。先日と同じ状態になりながらも、啓介に戸惑いはなかった。美穂子の体が、その意思に反して拒絶しているらしいことが想像できたからである。 


「大丈夫? 無理しなくていいからね」
啓介は美穂子の体を抱きしめたまま、耳元で囁いた。
しばらくその状態が続いたあと、美穂子の背に落ちているブラウスを引き上げて肩にかけ、両手で守られている胸のあたりも覆うようにした。


美穂子は目を開け、胸から両手を離して啓介の右手を握った。
「ごめんなさい。水村さん、お願い、止めないでください・・・」


啓介は美穂子の肩を抱き寄せた。
「無理をしなくてもいいよ。無理をしなくても、私の気持ちは変わらないから・・・」


「お願い・・・。とっても・・・、抱いて欲しいんです。お願い・・・」
美穂子の声は泣きじゃくっているように聞こえた。


啓介は美穂子を立たせた。少しふらついた美穂子の、ブラウスが落ちて剥き出しになった両腕に手を添えた。

「いいの?」
美穂子は、泣きそうな笑顔で大きく頷いた。
啓介は美穂子の腰のあたりに手を回し抱き上げた。そのまま隣室の襖をあけ、ベッドに美穂子を横たえた。


美穂子は乱れたスカートの裾を気にするようにして半身を起こし、ベッドに座る形に姿勢を変えた。
啓介は美穂子の前で自分も服を脱ぎ、トランクスだけの姿になって両膝を畳につけて美穂子に向かい合った。
美穂子は眩しそうに啓介を見つめ、立ち上がってスカートを脱いだ。


啓介はそれが美穂子の意志と受け取り、ベッドに寝かせた。そして、ブラジャーの上から乳房に手を当てた。
その状態で啓介は自分自身の呼吸を整えた。踏み越えようとしているものに、僅かなとまどいがあった。

ごく短い時間が流れた。
啓介は、乳房に当てている手に力を加え自分の意志と決意を伝えた。そして、ブラジャーの隙間に手を差し入れようとしたとき、美穂子は反射的に両手で啓介の手を押さえた。
啓介は美穂子の目を開けさせて「いいね・・・」と囁いた。
美穂子は小さく何度も頷き、手の力を抜いた。


部屋の明かりは消えていたが、雨とはいえカーテン越しの昼の光があり、開け放たれた隣室の明かりも差し込んでいた。
啓介は、美穂子が手の力を抜いたのを感じ取ると全てのものを脱がせていった。
無防備な美穂子の体は白く輝き、わずかに震えているように見えた。

「とっても・・・、とっても綺麗だよ」
美穂子は閉じていた目を開き、「ほんとうですか・・・」と眉を寄せたあと、「わたしのこと・・・、わたしのこと・・・」と繰り返した。
必死な視線が啓介を見つめていた。


「とっても綺麗だ・・・」
啓介はもう一度繰り返し、自分の体を寄せた。啓介の動きに応えるように、美穂子の全身の力が緩んだ。
激情の時が二人を包んだ。

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天空に舞う   第三十三回

2010-09-12 10:16:42 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 9 )


二人は、結ばれたあとも長い時間体を寄せ合っていた。


少し離れると美穂子はすごく恥ずかしがったが、体を寄せ合っているときは啓介の手や体の動きを拒むことはもうなかった。


正午を過ぎた頃、シャワーを浴びた二人は美穂子が持参してきた弁当を開いた。朝の五時から取り組んだ弁当が、二人の新しい門出を祝う膳になった。


「お味のことは言わないでね」
と美穂子はしきりに謙遜したが、世辞ではなく、美味しく見栄えも立派なものだった。


「食べ方が上手な人は料理も巧い、ということを聞いたことがあるけれど、本当みたいだね」
と啓介が感心すると、
「わたしのこと?」と美穂子は念を押し、「良いお嫁さんになれるかな・・・」と頬を染めた。


弁当の内容も素晴らしかったが、大きめのお結びが二十個程も添えられているのには驚かされ、相撲部屋へ行くつもりじゃなかったのかと笑うと、
「このお結びが無くなるまで、わたし、水村さんのお部屋にいるつもりだったの・・・」
と頬を染めたまま啓介を睨んだ。


食事のあとは、ラジオから流れてくる曲に合わせて踊った。
二人とも正式なダンスはできなかったが、お腹がいっぱいなので踊ろうということになり、手を取り合いスローな曲に合わせてゆったりと踊った。


踊っているうちに、啓介は美穂子の柔らかな感触に耐えられなくなり、ソファーをベッドの状態にして美穂子を横たえた。
初めてのあと、美穂子が少し辛そうにしていたことを知っていたが、再び体を合わせた。


美穂子は特に辛そうな仕草は見せなかったが、このときも自分の体のことを気にしていた。自分に失望していないかと、消え入りそうな声で尋ねる様子は、恥かしげというより痛々しいように啓介には見えた。


再び衣服を改めたあと、二人は様々なことを話し合った。
子供の頃の話や、二人で描こうとしている将来像のことなどを、思いつくままに話し合った。
その中でも、美穂子が啓介との結婚に不安を持っているらしいことが言葉の端々に窺われた。


啓介がそのことを指摘すると、美穂子は口ごもりながら答えた。
一つには、自分が女性としてあまり魅力がないことと、もう一つは、啓介には結婚を約束している人がいるように思っていたからだというのだ。


美穂子は、実家に帰ったとき叔父から見合いを勧められたことを打ち明けた。もう少し働きたいと断ったが、啓介という人がいるとは話せなかったと淋しそうにに語った。
啓介が自分に優しくしてくれていることは十分感じられたが、それは魅力のない後輩に対する同情のようなもので、もっと大切な人がいるのだとずっと感じていたと、少し口ごもりながら話した。


啓介が連休に帰郷したときには、その人とのことが具体化するのだと思い悲しくて仕方がなかったのだと、いつもとは違い啓介の顔から視線を避けるようにして話した。


自分の心の中にある早知子の存在を美穂子は感じ取っていたのだ、と啓介は思った。別に隠すつもりはなかったが、同時に、周囲の人に感じ取られる存在だとも思っていなかった。
それは、美穂子に対しても同じだと思っていた。


早知子のことは、自分の心の中に存在する大切なものとして、自分だけで護っていくつもりでいた。そのうえで、美穂子となら新しい家庭を築いていけると思えるようになっていた。
しかし美穂子は、啓介の心の奥にある人を敏感に感じ取っていたのである。


啓介は早知子について話した。
小学生の出会いの時から、二十歳を目前にした別れの時までのことを詳しく話した。早知子が亡くなって十年という歳月を経た今も、自分の心の中に大きな存在としてあることも率直に話した。これから先も、早知子のことを忘れてしまうことなどできないことも正直に述べた。


美穂子は啓介の言葉に聞き入っていた。
大きな瞳から溢れてくる涙を拭おうともせず、啓介と早知子との長い長い関係と、あまりにもはかない恋の結末を一言の言葉も挟むことなく聞いていた。
そして、啓介の話が一段落して無言の時間が流れているときも、瞬きを忘れてしまっていたような瞳から涙を流しながら、啓介の顔を見つめていた。


「別に隠すつもりはなかった・・・」
沈黙のあと、啓介が独り言のように呟いた。
その言葉で我に返ったような表情を見せた美穂子は、啓介の胸に縋りついて泣きじゃくった。


「ごめんなさい、ごめんなさい・・・」
と何度も繰り返し、激しく身をよじった。
啓介はどう対応すればよいのか分からず、ただ嗚咽を続けている美穂子の背を撫でていた。


しばらくたって、ようやく静かになった美穂子は、今度は眠ってしまったのかと思うほど身じろぎもせず啓介の胸に顔を埋め続けていた。
その状態が啓介が心配になるほどの時間続いた。


ようやく顔を上げた美穂子は小さく呟いた。
「わたしなんかでは、早知子さんに叱られてしまう・・・」


言葉の意味を確認しようとする啓介を制するようにして立ち上がり、笑顔を作った。
複雑な感情が入り交じったような笑顔である。


「せっかくの美人が台無し・・・」
美穂子はおどけたような口ぶりで、涙に崩れた化粧を隠すような仕草を見せて洗面所に向かった。


戻ってきたときの美穂子は、いつもの表情に戻っていた。
「若くに亡くなられて残念だったでしょうね・・・。でも、短くても、きっと、お幸せな人生だったのでしょうね」
と早知子について語り、啓介の返答をさえぎるようにして話題を変えた。


美穂子は、自分の子供の頃のことについて短く話した。
両親と早くに死別していることは聞いていたが、子供の頃の様子などを詳しく聞くことはこれまでなかった。


理知的で魅力的な女性である美穂子が、自分では女性としての魅力に対してかなり大きなコンプレックスを持っているらしいことが啓介には不思議だった。
啓介は、美穂子を傷つけないようにと気を遣いながらそのことに触れた。


「本当は、水村さんもそう思っているのでしょう?」
と、それほど深刻そうではなく、冗談っぽく言った。そして、中学生だった頃の話をした。


それによると、どうやらその根本にあるものは、中学一年のときに言われた教師の一言にあるように思われた。
その頃もクラスの中で小柄な方だったが、マット体操などは得意で俊敏な子供だった。教師に悪気はなかったと思われるが、活発に動き回る美穂子をさして「男の子みたいだ」と大勢の前で言ったのである。
その言葉が、ずっと美穂子の心のどこかに引っかかっていて影響を与えていたようである。


中学から高校にかけても、美穂子がクラスメイトや教師から評価されるのは勉強の成績のことで、女の子として可愛いと言われた記憶がない、と笑いながら話した。
その話しぶりから深刻なものは感じられないが、少なからぬ影響を受けていることが伝わってきた。


二人は二度目の食事を済ませたあとも、さらに話し合った。
お互いが心の中に抱いているものを見せ合うことで、二人にとっての新しい将来が開かれていくと考えていたし、言葉でもそのことを伝えあった。


いつか雨は上がっていたが、夕闇が窓の外を包んでいた。
明日は日曜日なので、このまま帰したくないと啓介は美穂子の顔を覗き込んだ。大きな瞳が揺れ、啓介の心に沁み込んでくるような光を放っていた。


「わたし・・・。鞄の中に、着替え入っていますの・・・。笑わないでくださいね・・・」
その言葉に応えるように啓介が体を抱きしめると、
「今日、抱いてもらえなかったら、どうしょうかと思っていたの」
と、甘えるように打ち明けた。


美穂子の言葉に込み上げてくるような感動を啓介は感じていた。この人を幸せにしたいとの思いが大きく膨らんでいた。


 

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天空に舞う   第三十四回

2010-09-12 10:15:53 | 天空に舞う

   第四章  新しい出会い ( 10 )


この日を境に二人の関係はさらに進んだ。
愛の芽生えという観点からいえば、二人にとって重要な出発点は、おそらくもっと以前だと思われる。この時、と決めつけることはできないが、二人が互いに愛を感じたのは、もっと前であることは確かだ。


しかし、体の関係を持つということが大きな意味を持っていることも否定できない。二人を固く結びつけるということに、女性にとってだけでなく男性にとっても持っている意味の大きさに変わりはない。


啓介と美穂子も、当然のこととして結婚という次のステップを考えていた。
二人はこれまでと同じようなペースで夕食を共にしていたが、将来のことを語り合うことが会話の中心になっていった。仕事のことや、ごくありふれた世間的なニュースに関する話もあったが、何かを切っ掛けにして二人の将来のことへと話題は移っていった。


それでも二人は同棲するような形にはならなかったし、結婚の日取りについて具体的に決める形にも進み切っていなかった。
二人がこれまで身に付けてきた理性のようなものが働いていたともいえるが、互いに無意識のうちに拘るものがあったのかもしれない。


それでも、土曜日か日曜日のどちらかには毎週逢うようになり、美穂子が啓介の部屋を訪れるときは、当然のように体の関係を持った。
時には、夕食のあと啓介が送って行き、美穂子の部屋で愛を確かめ合うこともあった。


七月の下旬、古賀俊介が上京してきたとき、美穂子を紹介して三人で食事をした。
俊介からは大阪に返ったあとすぐに電話があり、美穂子のことを褒めちぎったあと「あの人を絶対に逃がすな」と、啓介に命令するように言った。


しかし、啓介と美穂子の仲は、この頃がピークだったのである。


男と女は、めぐりあい、そして別れて行く。
人と人との出会いには、必然的なものなどあるのだろうか。偶然的なものに操られ、何か大きな力を持つものの気紛れのように思われてならない。
男と女の出逢いも同じことで、赤い糸で結ばれているとか、運命的な出逢いなどというものが本当にあるのだろうか。


別れもまた、偶然的なものに操られていると思われる。男と女の別れに限らず、大切な人との別れには、理性や理屈では納得できないものが多すぎる。


   **


啓介が美穂子との関係に違和感のようなものを感じたのは、九月に入った頃のことである。
もっともそれは、あとになって悲しい時の流れを振り返ったときに思い当たることであって、その時は特別に気付く出来事は見当たらなかった。


啓介は八月の旧盆休みにも帰郷した。
このときも新幹線を京都で降りた。荷物は駅のコインロッカーに入れ、タクシーで大谷本廟に向かった。早知子の墓に参り、五条坂を上って清水寺に参った。
午後の日差しは厳しく、風もなく茹だるような京都の夏だった。
流れる汗を拭いながら、啓介はただ黙々と歩き続けた。手持ちのハンカチでは間に合わず、土産用のタオルを買って拭い続けた。


この日、早知子の墓前に立つまでは、美穂子のことを早知子に報告するつもりだった。
美穂子との結婚については、すでに考えが固まっていた。美穂子の意志は確認していなかったが、美穂子に家族などの障害はなく、あるとすれば仕事上のことだった。ちょうど仕事が楽しくなってきたところで、 一人前のアナリストになりたいという希望を持っていた。
それ以外には美穂子が自分との結婚を拒絶する理由はないと啓介は考えていた。


啓介にも美穂子との結婚に対する障害はなかった。ただ、あるとすれば、事前に早知子に報告することだけだった。早知子に報告して、自分自身を納得させることだけだった。


しかし、墓前に額ずんでも、早知子は何も答えてくれなかった。啓介の心の中の早知子は、ただ静かに微笑んでいるだけだった。


古賀夫妻とも会った。
希美はしきりに美穂子に会いたがり、早知子も喜んでくれると繰り返した。俊介にいたっては、来月にも式を挙げろと急かし、もし関西で披露宴をする場合は全て自分が仕切ってやると張り切っていた。


両親や実家に帰って来ていた妹も、啓介の結婚について少なからぬ関心を示していたが、美穂子のことを具体的に話すことができなかった。
東京にいる時と、早知子との思い出が詰まっている土地にいる時とでは、啓介の心境に微妙な差があった。


二人の関係に隙間風のようなものが発生した原因を考えたとき、啓介に思い当たるものは早知子のことしかなかった。
啓介としては、早知子とのことは大切なものとして護っていきながら、美穂子と新しい家庭を築けるものと心の整理をしたつもりだったが、どこかに滲み出てくるものがあったのかもしれなかった。


そうだとすれば、美穂子に申し訳ないことをしてしまったが、同時に、早知子を全面的に否定することなどできないし、されたくもなかった。


十二月初旬、二人の関係が駄目になりかけていることを知った俊介は、わざわざ上京して美穂子に会った。
そして、「啓介には、あなたが絶対に必要なんだ」と二人の関係の修復を強く訴えたが、美穂子は静かに首を横に振った。


「他の女性と比べられるのなら、水村さんに愛されるよう努力します。でも、相手が早知子さんなら、とても勝負になりません。わたしがいることが、さらに水村さんを苦しめているのです」
と、淋しく微笑んだ。


   **


十二月の終わり近く、クリスマスが終わった日に啓介と美穂子は広尾へ行った。
二人は食事をし、あの公園を歩いた。
この街は、二人の愛の始まりの街ともいえる。しかしこの日は、二人とも互いのことを話すことはなかった。これが最後だと、どちらもが承知していた。


「やり直す方法はないのだろうか」という言葉が込み上げてきていたが、啓介はそれを押さえこんでいた。
そのような言葉で心を動かせる女性でないことは、一年余りの交際を通じて啓介は承知していた。


どこかでボタンを掛け間違えたときのように、一度ずれてしまった心の絆は、どこまで進んでも修復することなどできるものではなかった。
元に戻ることを互いが望んだなら別の方法もあったのだろうが、この時の二人は、まだ若く純粋に過ぎた。


「お別れに、キスして欲しいわ」
美穂子が立ち止まり、啓介を見上げた。きらきらと輝く、あの印象的な大きな瞳が、かすかに揺らいでいた。


「楽しかったわ、とても・・・。ほんとうに、ありがとうございました」
大きな瞳が啓介の顔を真っ直ぐに見続けていた。


啓介は、美穂子の小さな肩を抱き寄せて、くちづけした。甘酸っぱい香りと後悔に似た感情が切なく込み上げていた。


   **


翌年の四月上旬、啓介は美穂子からの退職した旨の挨拶状を受け取った。差出地は、すでに千葉市の住所になっていた。

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天空に舞う   第三十五回

2010-09-12 10:11:10 | 天空に舞う

   第五章  激動の時 ( 1 )


美穂子の退職は驚きだった。アナリストとしての仕事に興味を持っていたことでもあり、会社を辞めることなど啓介は全く予期していなかった。


美穂子との最後の逢瀬となった広尾での別れのあと、啓介は仕事に没頭した。
かつて、早知子を亡くしたときに逃げ込んだ場所が学業だったように、大切な人との別れの痛手を忘れる場所は、今度は仕事だった。


啓介は、自分がそうであるように美穂子もまた仕事に打ち込んでいるものと思っていた。
二人で将来を語り合っていた頃、仕事が楽しくなってきたという話を何度もしていた。美穂子がアナリストとしての能力が高いことを啓介は認めていた。
そして、その思いのどこかには、時間をおくことで二人の関係を修復させる可能性を計っている部分もあった。


それだけに美穂子が大東洋証券を退職したという現実は、驚きというより落胆という心境といえた。
美穂子の後任の社員からは、結婚のための退職らしいと聞かされたが、それも啓介には信じられなかった。しかし、美穂子が既に東京での生活を引き払って千葉の実家に戻ったという事実は、啓介を拒絶する明確な意思だと思えた。


啓介は仕事の中に自分を追い込んでいった。余計なことを考えるひまを自分に与えないように、仕事の量を増やしていった。担当している関連会社の調査や分析は、範囲を広げ出すと切りがなかった。
経理本部の次長からは、戻らないかという打診を受けたが、現在の仕事を続けたい旨の希望を伝えた。
経験とともに仕事の幅も広がり、社内や社外の人脈も積み上がっていた。


平成八年四月、山内部長が転出した。
山内氏は平成六年に取締役部長に昇格していたが、今回の移動は関係会社への転出だった。
近い将来、関東電機産業を背負って立つ男とまでいわれていたが、五十歳代での転籍はそれが否定されるものだと推測された。部内では、やはり我々の部は本流ではないのだと不満を漏らす声も少なくなかった。


確かに関東電機産業におけるトップ争いということでは敗れたということかもしれないが、五十歳代でわが国を代表するような大企業の取締役に就いており、さらに上へ行けなかったことを指して、まるで敗北したかのような噂話は啓介には理解できなかった。


正式の辞令が公表されて数日経ったとき、啓介は山内氏から夕食に誘われた。
しばらくは個人的な時間を作れないからと、声をかけてくれたのである。落ち着いた料亭に案内され、長い時間話を聞くことができた。
その席で啓介は噂話のことを率直に伝え、山内氏の考えを尋ねた。


山内氏は、「いろいろな考え方はあるだろう」と前置きした上で、参考になるかどうか分からないが自分の考えを話しておこう、と言葉を続けた。

「社長にまで上り詰めなければサラリーマンとして敗北だというのなら、自分は負けたということになる」と山内氏は切り出した。

「しかし、そのようなことを言い出せば、サラリーマンは殆ど全員が敗北者になってしまう。決して負け惜しみではなく、サラリーマンがそのような哲学を持ってしまうと、絶対に幸せなサラリーマン生活を送ることなどできないと思う。たとえ運良く社長になれても、だよ。
我々は何のためにサラリーマンになったのか。いろいろな理由があるとしても、一番根本にあるのは、生活のためだということは否定できない。つまり、収入を得るためだということだね。


だが、我々のサラリーマン人生は長い。生活のためとはいえ、どんな仕事でも辛抱できるものではない。それが何年も何十年も続けばなおさらのことだ。
やりがいのあるもの、興味の持てるもの、少なくとも耐えられるものを求めるのは自然なことだといえる。


サラリーマンが昇進を望むのは、それに経済的な恩恵が伴うことが主な理由だろうが、社会的な地位とか世間体のようなもの、もっと自分本位の仕事をするためにという面もあるだろう。
豊かで幸せな生活のためには昇進が絶対の条件だと思っている人も多いが、果たしてどうだろう。昇進が収入の増加に繋がっていることは確かだが、幸せに繋がっているかどうかは簡単に判断できない、と思う。


実力以上の職責に就いてしまった人の不幸を、私はたくさん見てきている。それも単なる不幸ではなく、犯罪に走ったり、精神的に、あるいは肉体的に病んでしまったり、性格まで卑しくなっていった例は数えきれないほどある。
さらにもっと怖いことに、そういう人の下で働かなくてはならないサラリーマンもいるということを考えると、部下の数が増えるということは安穏な生活を保障してくれるものではないことが明白だと思う。


特に、わが社のトップに立つということは、技術に明るいとか、人脈があるとか、人遣いが巧いからなどといった程度のことで務まるものではないよ。
努力をしたとか、才能があるとか、運が良かったとか、そんなことでなれるものでもない。天運というか、何かそのようなものによって決められるように思うんだ。


わが社のトップなどは、望んでなれるものでもなければ、幸せな生活を約束してくれるものでもないよ・・・」


山内氏は熱っぽく語り続けた。
啓介が学生だった頃の、あの迫力があり惹きつけられるような魅力は少しも変わっていなかった。
啓介が関東電機産業に就職したのは、山内氏に出会ったからだった。


啓介はそのことを話し、今も付いて行きたい気持ちでいっぱいだと訴えた。
山内氏は「ありがとう」と嬉しそうな顔で頷き、啓介が注いだビールをうまそうに飲みほした。


「きみを連れて行くなんて、人事部が承知する話ではないよ。きみがどの程度自覚しているか知らないが、きみはわが社の幹部候補の一人だよ。今の部署に引きとめておくだけでも抵抗が強いんだ。
きみには、これからもっともっと大きなチャンスが与えられるだろう。無難にこなして行くだけでも、私程度にはなれるだろう。しかし、きみにはそんな仕事の仕方はしないで欲しい。無難にこなすという意味なんだけれどね・・・。
まあ、そういうやり方は、きみにはできないだろうね。そう、経理本部からの誘いを断ったらしいじゃないか。賢い生き方ではないよ、ね。ハハハ・・・」


啓介には、自分が幹部候補だなどという認識はなかった。経理本部からの打診もそれほど意味のあるものとも思っていなかった。
啓介も人事評価の結果がはっきり見える年代になってきていた。たいした業績も上げていないはずの自分がトップクラスを走っていることに、過大評価されているようなものを感じていた。


山内氏の転出は、自ら望んだもののようである。
山内氏が移籍する会社は、大阪に本社がある名門企業だった。長い歴史を持つ一部上場企業で、含み資産の厚いことでは関西屈指の会社だった。
関東電器産業は古くから筆頭株主の立場にあるが、子会社ということではないし、業績面での問題も発生したことがなかった。
ただ、人事面での繋がりは深く、OBを何人も送り込んでいた。


しかし、数年前から構造的な問題が表面化し、業績の落ち込みが顕著になってきていた。さらに、阪神淡路大地震により主力工場が大きな被害を受け、バブル崩壊による落ち込みも回復の兆しが見えず、創業以来最悪の赤字決算となっていた。


業績の抜本的な立て直しのため人材派遣の求めがあり、会長に就いているOBの強い要請で山内氏に白羽の矢が立ったのである。
そして、この山内氏の移籍が、啓介に大きな影響を与えることになる。

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天空に舞う   第三十六回

2010-09-12 10:10:32 | 天空に舞う

   第五章  激動の時 ( 2 )


啓介が属している部署のトップだった山内氏の転出により、部内の配置にも大きな変動があった。
啓介も管理職昇進の辞令を受けた。すでにチームリーダーのような仕事をしていたので、業務の内容に大きな変化はないが、周囲の対応が少し変わった。給料もいつもの年より増え方が大きかった。


管理職になったからといって、特別仕事の内容が変わったわけでもないが、社内でも社外でもこれまでと違う対応をされることがあり、仕事を進める上では有利なことが多かった。山内氏が話してくれたように、上位職に就くほど自分のペースで仕事ができるようになるのかもしれない、と思った。
その代わりというわけではないが、複数の上司から縁談の打診があった。


啓介も三十二歳になっていた。
管理職では最年少ということもあるが、独身の管理職は多くなかった。かなり熱心な話もあったが、具体化する前に啓介から謝絶した。
美穂子のことが重く残っていた。美穂子を超える女性と出会えるとは思えなかったし、また相手を傷つけてしまうかもしれないとの思いも強かった。早知子の存在も、消し去ることなどできることではなかった。


その後も、旧盆と正月休みには帰郷していた。
そのときには必ず京都で降りた。早知子の墓に参り、五条坂を歩いた。時々は清水寺まで足をのばし、早知子に教えられた秘密の場所から早知子の眠る墓所を遠望した。


早知子の夢を見ることは、もう大分前から滅多になかったし、深く考え込むことも少なくなった。
しかし、京都の地に立ち、五条坂を歩くと、早知子との日々が昨日のことのように浮かんでくる。その思い出は、重く切ないものではあるが激しい悲しみを伴うものではなかった。ただ懐かしく、ただただ、切なかった。


いつまでも早知子のことに拘っていては駄目だと、両親ばかりか早知子の両親にまで言われた。古賀俊介や希美は、もっと強く啓介に結婚を迫った。それも希美の思いが特に強かった。


希美にとっても早知子の存在は特別なものだった。
中学生のとき、母を亡くし、さらに転校も重なって淋しい日々を送っていた希美に、手を差し伸べてくれたのが早知子だった。力強く手を取って、引っ張り続けてくれたお陰で四人のグループの仲間になることができた。
それ以外の友達も、殆どが早知子を介してできたものなのだ。

四人のグループも、啓介と早知子は公認のような仲だったし、啓介と俊介も強い友情で繋がっていた。早知子と俊介も快活な共通するような性格を持っていた。
四人で集まるようになった当初は、希美は二人の男子生徒に馴染めなかった。早知子の後ろに付いて歩くような関係で始まった交際も、いつか四人でいることで心が和むようになっていった。


早知子は、四人でいるときも、それ以外の友達といるときでも、いつも希美の方を見ていてくれた。それは、啓介を加えた三人でいるときでさえ、啓介にではなく希美のことを気遣ってくれていた・・・。


運命というものがあるとすれば、そしてそれが何処でどう繋がり、それにどのような意味があるのか知らないが、早知子は二十歳の誕生日さえ迎えることなく逝ってしまった。
そして希美は、俊介と結ばれ、子供も得て幸せに日々を送っている・・・。


早知子に援けられた自分だからこそ、啓介に幸せな結婚をして欲しいと思っていた。それが、若くして亡くなった早知子の願いだと、希美は真剣に考えていた。


   **


平成十年秋、啓介は山内氏から連絡を受けた。
山内氏は移籍先で常務取締役に就任していたが、移籍した川上重機工業の業績は低迷を続けていた。
この日、関東電機産業の本社で会議があり、川上重機工業の経営陣数人が来社していた。


その夜、啓介が案内された割烹料理の店には、山内氏の他に同じく関東電機産業のOBである川上重機工業の遠山会長が一緒だった。そしてもう一人、関東電機産業の畑野取締役も招かれていた。


啓介は畑野取締役の名前や顔は知っていたが、挨拶するの初めてである。営業部門の担当で、啓介と直接の接触はなかったが、六十歳位の温厚な人物だった。
山内氏から連絡を受けたときは、二人だけで食事をするものだと思っていたので、大先輩三人の席に自分が加わるのに少し緊張した。

前菜だけを前にしてビールを軽く飲み交わしたあと、山内氏から「率直な考えを聞かせて欲しくて来てもらったのだ」と話があった。
そして、そのあとを引き継ぐ形で遠山会長が話し始めた。


川上重機工業の状況は、一般に知られているより遥かに深刻な状態にあり、抜本的な対策が必要で、この二日間の会議はそのためのものだった。
その深刻さは、通常の努力などではどうにもならないところまで来ていると遠山会長は眉を寄せた。


この数か月でかなり詳しく実態を精査したが、とても外部になど発表できない内容で、文字通り解体に近い対策が必要だと話を続けた。
そのため、次の総会までに山内氏の社長就任を固め、同時に関東電機産業の全面的な支援を受けて全事業を見直すとの方針を決めたのである。
今回の会議では、関東電機産業の了解と、人材の派遣、業務提携、必要な場合は金融支援までバックアップすることを受け入れてもらうためのものだった。


川上重機工業側の申し出に幾つかの条件は付けられたが、ほぼ全面的な支援の確約を受けることができたようである。
そして、一番重要な人材派遣の柱が、畑野取締役と啓介だという話になった。

畑野取締役というのは理解できるとしても、一番下っ端の管理職に過ぎない自分を加えるのは大袈裟だと、啓介は率直に話した。
啓介の言葉に、遠山会長は何度も大きく頷いた。そして、助けを求めるように山内氏の顔を見た。
山内氏は、まだビールを一口しか飲んでいないのに、顔を赤らめ大きく息をついた。そして、突然のように手を打って、仲居を呼び料理の準備を依頼した。


一通りの料理が並べられると、川上重機工業からの公式の挨拶は遠山会長の話で終わりなので、このあとは食事をしながら本音の話をして欲しい、と山内氏が言った。
遠山会長も表情を崩し、他の三人にビールを注ぎ食事を勧めた。


「近々、出向の話が正式にあると思うが、よく考えてから決めて欲しい」
と、山内氏は小振りのグラスに注がれたビールを一息に飲むと、啓介の顔を見つめて言った。


そして、「この出向は、きみの将来にとってプラスにならない話だと思う」と付け加えた。さらに、関東電機産業の人事担当者は、啓介の将来を潰す気か、とまで言って反対したと苦笑いした。


かねてから啓介は、山内氏から声が掛かれば、どんな条件でも付いて行くつもりでいた。今回食事に誘われたときも、予感のようなものがあった。
よく考えろと言われても、山内氏が考え抜いたうえで声を掛けてくれたのだとすれば、改めて自分が考えることなど無いと思った。
ただ、山内氏は自分のことを過大評価しているという思いもあった。


山内氏は啓介の返答に、過大評価しているつもりはないと明言した。
川上重機工業にも若くて有能な人材はいるが、残念ながら彼らでは身を削るような改革はできない。能力の有無ではなく、自分の育ってきた会社を解体してしまうような対策は打てないからだ。啓介に、彼らのリーダーになって欲しいのだと訴えた。
それともう一つ、きみとはいつか一緒に身体を張った仕事をしたいと思っていたこともある、とも話した。


山内氏は来年六月の株主総会を経て社長就任を受けるつもりだが、二年で成果が出なければ辞職するつもりだと語り、会長にもそれまでは付き合ってもらうのだと遠山会長の顔を見た。


遠山会長は今度の関東電機産業への支援依頼にあたって、自分も責任を取ると決意していたが、本社からは慰留されていた。その裏には、山内氏の強い意向が働いていた。
遠山会長の人格を山内氏は尊敬していたし、関東電機産業のトップと互角に渡り合える人物は、子会社や関係会社の中に多くは居なかった。


啓介の会社から子会社への出向の例は数多くあった。
しかし、若い頃の出向は研修が目的で、先方の戦力としての出向は早くても四十歳代後半である。出向の内示があったとき、直属の上司からは断ってもよい内示だからと何度も説明されたが、啓介の決心は変わらなかった。

啓介が今必要としているものは、何もかも忘れて必死に打ち込めるものだった。

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天空に舞う   第三十七回

2010-09-12 10:09:59 | 天空に舞う

   第五章  激動の時 ( 3 )


雪が窓を打っていた。
夕暮にはまだ早い時間だが、窓の外は暗く、どの辺りを走っているのか景色も見えない。車内灯が照らし出すのは一面の雪だけである。
名古屋を過ぎてからスピードを落とした「ひかり号」は徐行運転が続いていた。


啓介は窓の外を見続けていた。
窓硝子に映る自分の顔と車内の様子、その向こうを駆け抜けて行く暗い雪景色。そして、時々突然のように浮かび上がる影絵のような建物が流れて行った。
見慣れた土地を走っているのに、雪のためか未知の地に向かっているような錯覚に襲われていた。


「このまま、いつまでも走り続けてくれればよい」
啓介は、ふと、そう思った。
それは、徐行運転からくるものではなく、この闇の中をいつまでも走り続けて欲しいという感覚だった。果てしなく走り続けてくれるのなら、身を委ねてもいいような気だるいような感覚だった。


平成十一年一月、啓介は大阪に向かっていた。
新天地へ向かう意気込みより、失ったものの多い東京生活から離れる無力感のようなものが啓介を包んでいた。


米原を過ぎると列車のスピードが回復した。すでに予定より四十分程遅れているとのアナウンスがあった。啓介の席は二階建車両の二階部分だったが、乗客の数は少なく静かだった。
「ひかり号」は、京都に到着しようとしていた。啓介は網棚の荷物を下ろそうとして、その横にある花束に気が付いた。


「ああ・・・」と小さく呟き、荷物を下ろすのを止めて座り直した。下車するのは新大阪なのだ。
新幹線で帰ってくるときは、京都で降りのが習慣になっていた。呆然とした感覚の中でも、列車が京都に近付くと体が反射的に反応しているのが自分でも可笑しかった。


しかし今日は、新大阪まで直行することになっていた。それを気付かせた花束は、東京駅で同僚たちから贈られたものである。
東京駅から大阪に向かう列車の旅は、新しい職場に移るためのものだった。


   **


新大阪に着いたのは、午後六時を少し過ぎていた。やはり四十分近い遅れである。


「お疲れさん。雪で大変だったな」
改札を通り抜ける前に大きな声が聞こえた。俊介だった。
俊介は啓介のスーツケースを取り上げるようにして持つと、「ようやく、帰って来たな」と嬉しそうな顔で笑った。


「遅れたので、ずいぶん待ったんだろう?」
「なあに、たいしたことないよ。遅れることは分かっていたから、お茶を飲んでいたんだ。まあ、話したいことは山ほどあるが、それはわが家に着いてからだ。希美も待ちかねているからな」


「世話を掛けるな。奥さん、元気?」
「元気、元気。どこにあれほどのバイタリティがあったのか、不思議なくらいだよ。ああ、こっちだよ。混んでいるかもしれないが、車の方が楽だからタクシーで行こう」


千里中央駅から歩いて十分程の距離にあるマンションが、俊介の新しい住まいだった。
二人は新大阪駅からタクシーで直行したので、啓介には駅からの距離や方向などはよく分からなかった。周囲には大規模なマンションが幾つもあり、この辺り一帯は大阪のベッドタウンとして知られた住宅地である。


啓介は、俊介の家族に賑やかに迎えられた。
俊介の新しい住居を訪ねるのは初めてだが、前の家には毎年一、二度は訪問していたので子供たちとも顔馴染みである。
住居は八階にあり、居間からの遠望が素晴らしかった。すでに暗くなっていて風景などは見えないが、ちりばめたような灯りが美しかった。


挨拶もそこそこに風呂に入るように勧められた。着替えを持ってきていたが、寝間着兼用の浴衣と丹前が用意されていた。しかもそれらは、これからは頻繁に使うようになるからと啓介専用に用意されたものだった。
啓介に続いて俊介も風呂に入り、男たちが丹前姿になったところで食事になった。カーテンが開けられていて、夜景を借景にする形でテーブルが置かれていた。


「まず、乾杯よ」
希美が最初にワイングラスを持った。
「栄転、おめでとう」
と俊介が続き、子供たちもぶどうのジュースなのか赤ワインと同じ色の飲み物が入ったお揃いのグラスを掲げた。


「ありがとうございます」
啓介が神妙に応えて頭を下げた。
全員が席に着くと拍手が起きた。子供たちが最初だったから母親から教えられていたのだろう。

そして、拍手が鎮まるのを待って「おかえりなさい」と、希美が胸を詰まらせたような声で啓介を見つめた。溢れた涙が頬を伝い、子供たちが心配そうに母親の顔を見た。
「ごめんなさい。何だか、あまりに嬉しいものだから・・・」
希美は、自分でも予期していなかった涙に戸惑い、しきりに言い訳をしながら子供たちにも食事を勧めた。


賑やかな食事が始まった。
俊介の家族に混じって食事をするのは度々のことなので、子供たちも楽しそうに啓介に話しかけていた。


古賀家には男の子と女の子がいて四人家族である。上の男の子が小学二年生で、女の子は春に小学校に上がる年齢である。
食事中の話題は、女の子が小学校に行くことになることと、男の子がサッカークラブに入りたいのに母親が反対しているので啓介に説得して欲しいということだった。


食事のあとも子供たちは、啓介の心ばかりの土産品に大騒ぎしたり、秘密の宝物を披露したりしていたが、母親に追い立てられるようにして風呂に入り、ようやく自分たちの部屋に引きあげていった。


子供たちがいなくなると、突然のように静かになった。
三人は飲むというほどではなかったが、新しいワインを注ぎ合って夜景に見入っていた。時々、僅かな言葉を交わすときだけ顔を見合わせた。


「やっぱり、三人しか居ないんよね・・・」
希美が呟いた。涙が頬を伝っていた。
啓介と俊介は顔を見合わせたが、何も言わなかった。
重い沈黙が三人を包んだ。


「早知子、何で死んでしまったのよ・・・」
沈黙に耐えかねたように希美か呟き、泣きじゃくった。
三人のグラスは、ほとんど減っていなかった。


「早知子さんは、今も俺たちの仲間だよ。早知子さんが死んだからといって、俺たちから離れていったわけじゃないんだ。それは、希美が一番知っていることだろ? 泣いたりしたら、早知子さんが悲しむだけだよ・・・」
俊介は妻の手を取って、諭すように言った。その目も赤くなっていた。


「ごめんなさい・・・。よく分かっているんやけど…」
「俺たち三人の中では、早知子さんはずっと生きているんだよ。なあ、啓介」
啓介は、俊介の念を押すような言葉に、感情をあらわさず、ただ頷いた。


啓介はそのとき、夢の中をさまよっているような感覚に襲われていた。
遠い過去のこととなってしまった日のことが脳裏に浮かび上がっていた。窓外の灯の海が、遠い日の六甲山上から見た夜景に繋がっていた。四人はまだ高校生で、啓介の横には早知子がいた・・・。


早知子と希美、そして、啓介と俊介・・・。つい昨日のように思われる、あの輝くような日々は遠くに去ってしまっていた。
早知子が亡くなってすでに十五年の歳月が過ぎ、残された三人も、いつか三十五歳になっていた。

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天空に舞う   第三十八回

2010-09-12 10:09:13 | 天空に舞う

   第五章  激動の時 ( 4 )


俊介の家で一泊した翌日、啓介は西宮の実家に戻った。
川上重機工業へ出向するにあたり長期の休暇が与えられていた。普通休暇を取ることなど殆どなかった啓介に、上司が配慮してくれたものである。
山内氏からも、仕事が始まると休めなくなるので休暇中は仕事のことは忘れて思い切り楽しむようにと言われていた。


一日自宅で過ごしたあと、啓介は明石に住んでいる妹の家を訪ねた。三歳年下の妹和子は、市役所に勤める山本弘志と結婚していた。すでに三歳になる女の子がいるが、三月には第二子が誕生の予定で、かなり目立つお腹をしていた。


弘志とは職場結婚で、長女が生まれる直前まで自分も同じ職場にいたことを忘れたように、公務員は給料が安くて大変なんだと漏らしていたが、最近の厳しい経済状況は主婦にまで浸透しているらしく、公務員で良かったと笑っていた。


その日は夕食をご馳走になり、弘志と久しぶりに長い時間話し合ったが、和子が言うほど公務員も楽ではないですよ、と苦笑していた。


和子は啓介が大阪に戻ってきたことを大変喜んでいた。
父の秀介も昨年定年を迎えていた。今はまだ嘱託として元気に勤めているが、昔のようではなくなったと年寄りめいた口ぶりで話した。そして、詰まるところは啓介の結婚の話となる。


和子は、兄と早知子との関係はよく承知していた。和子自身も幼い頃から早知子に可愛がられていた。どちらも姉妹がいなかったこともあり、早知子は和子を本当の妹のように可愛がっていた。
母親にひどく叱られたときなどに、和子が早知子の家に逃げ込むことが何度もあった。


「でも、あれから、もう十五年よ・・・。早知子姉さんだって、兄さんの結婚を望んでいるはずよ」
と、和子は遠くを見るようにして呟いた。


早知子も啓介の結婚を望んでいるはずだということは、周囲の多くの人から言われることだった。啓介自身も、自分が結婚することを早知子が望んでいるかどうかはともかく、反対はしないだろうとの思いはあった。
しかし、美穂子との経験から、啓介は女性との交際に臆病になっていた。早知子との思い出を消し去ることができない自分は、自分の意図に反して女性を傷つけてしまうのだと感じていた。


   **


早知子の家では、早知子の母親と長い時間話し合った。
早知子には兄と弟がいたが、二人とも独立していて啓介の両親と同じように夫婦だけの生活になっていた。
二人の男の子を独立させ、そういう意味では落ち着いた生活だともいえるが、やはり夫婦の心の中には早知子のことが大きな部分を占めているように感じられた。
早知子の母親は啓介の母親より少し年上ではあるが、それ以上に髪の白さなどが悲しみの日々を物語っているように思えた。


「いつまでも早知子のことを大切に思ってくれるのは嬉しいのですが、啓介さんも早く結婚して欲しい」
と、いつもの言葉を繰り返し、「早知子とは、次の世で逢ったときに仲良くしてやって下さい」と付け加えた。


「次の世では、また逢えるのでしょうか?」
啓介は早知子の母親の言葉に神妙な表情で尋ねたが、次の世というものに対して、明確な考えを持っているわけではなかった。


そのようなことが書かれた本や仏教に関する本も何冊かは読み、何度も何度も考え抜いてきたが、自分を納得させるような結論を掴むことはできていなかった。
考えは揺れ動き、願望と絶望が渦巻き、無力感に苛まれることもあった。そのような経験を経て啓介が確信できたことは、今も自分の心の中には早知子が生き続けているということだった。もっとも、生きているというのは正しい表現ではなく、存在しているというのが啓介の実感に近かった。


「逢えますよ・・・。いえ、逢ってやってくれないと困ります・・・。でも、それはずっと先のことで、啓介さんはそのようなことは考えないで、今の世を生きなければなりません。今の世を力いっぱい生きて、寿命を全うしないといけないのです。そうしないと、次の世で逢ったとき、早知子が悲しみますよ」


「はい・・・。でも、本当に、次の世というものは存在しているのでしょうか?」
「さあ、どうなのでしょうか・・・。ただ、わたしは、有るのだと思えるようになりました。他の人のことは知りません。でも、わたしには有るのだと、最近になって、やっと確信できるようになりました」


「お母さんには有る、ということですか?」
「はい・・・。わたしだけでなく、早知子にも有ると思います。向こうで元気に過ごしてくれていますよ、きっと・・・。
あの娘が、どうしてあの若さで亡くなったのか・・・、ずっと、そのことを考え、苦しんできましたが、あの娘は、一番幸せな時に死ぬことができたのだと思えるようになりました。あなたや、多くの方々のお陰で、早知子のこの世での生活は、とても楽しいものだったのだと思い当たりました。幸せなまま死んでいったのです。次の世でも幸せに生きるために、ほんの少しだけ先に行っただけなんです・・・。
わたしは、また必ず逢えるのだと思っています・・・。ですから啓介さんも、早知子のことはあまり心配して下さらないで、あなた自身の幸せをもっともっと大切にして欲しいんです・・・」


来世というものが本当にあるのか、単なる想像上のものなのか、何度も何度も繰り返し考え悩んだことだった。
もし有るとすれば、それはどのようなものなのか、この世とはどのように繋がり、どのように関わり合っているのか、それを知りたかった。もし無いとすれば、来世に関する多くの説話や伝承は、いずれも巧みに作られた創作に過ぎないのか。


そして、次の世が無いということは、この世の終わりがすなわち全ての終わりだということになる。
全てが終わるということもまた、啓介にはどうしても理解できないことだった。


早知子の母親は、次の世について自分自身を納得させているかに見えた。啓介の悲しみをも遥かに超える深い悲しみや苦しみが、早知子の母親に新しい心境を与えたのか、それとも、もっと違う何らかの働きからくるものなのか・・・。
啓介は、透き通ったような老いた母の横顔に早知子の面影を探していた。


 


 

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