第三章 予期せぬ運命 ( 8 )
啓介の社会人としての生活が始まった。
最初の二ヶ月間は新入社員全員に対する研修が行われ、終了後に経理部経理課に配属された。
もっとも、研修後の配属先は入社の時点で決められていたので、配属先から研修に出ていたという方が正しかった。
その後もおよそ六カ月ごとに経理部内で配属替えがあり、二年後には茨城県にある主力工場の経理課にも半年ばかり長期出張した。
いずれも実務の戦力として期待されてというより、将来のための英才教育のようなものだった。
大部分の新入社員は、一年を過ぎた頃には戦力としての配属先が固まっていたが、一部の社員には、さらに経験の幅を広げるための配属替えが続いていた。
啓介の父親が、息子のために学歴を付けさせようと必死になっていたのは、決して単なる思い込みではなかったようだ。
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時代は昭和から平成へと移り、バブルの崩壊が噂され始めていた。
平成二年四月の異動で、啓介は経理部を離れた。
取締役でもある経理部長からは、将来必ず戻ってもらうのでそのつもりでしっかり勉強してくるようにと、わざわざ部屋に呼ばれて話があった。各部から若手社員を集めている部署があり、そこでの経験は将来役立つはずなので転勤させることを了解したのだと付け加えた。
啓介が移ることになった新しい部署は、関東電器産業に入社する切っ掛けになった山内氏が所属している部署だった。
今度の異動に山内氏の働き掛けが少なからず影響していることは想像できた。
山内氏とは入社以後も時々顔を合わせていた。
業務で一緒になることはなかったが、三か月に一度くらいは誘われて酒を飲む機会があった。二人だけのこともあったし、山内氏の部下が一緒のこともあった。
啓介は、学生の頃会っていた時と変わらぬ持論を熱っぽく展開する山内氏の下で、一度は仕事をしてみたいと考えていたので楽しみな異動だった。
もっとも、異動といっても同じビルの四階から八階に移るだけのことなので、それほど大きな変化ではない。ただ、この異動を機に独身寮を出ることにしたので、それによる変化の方が大きかった。
独身寮の方が食事の心配がないし経済的にも楽なのだが、啓介の年齢になると寮を出る者の方が多かった。
啓介も、いつか二十六歳になっていた。
新しい住居は、山手線の五反田駅に近い賃貸マンションである。
住居の広さはいわゆる1LDKで、新所帯向けのものらしく、家族向けとしては狭いが一人暮らしには十分だった。
家賃の負担は小さくなかったが、寮を出ると住宅手当が支給されるので、三十歳を過ぎて独身寮に残る者は少なかった。
啓介が新しく配属された総合企画部は、社内では歴史の新しい部署である。
最初は、長期的な経営戦略を練る部署として社長直属の「室」として設置されたのだが、その後、役割の変化や担当分野の広がりもあって、総合企画部として独立した経緯を持っていた。
現在の担当業務は、関係会社の業績管理および経営改善、本社並びに関係会社間の業務調整などであり、さらにグループ全体の戦略の提案まで担っていた。
欧米、特に米国における企業経営は、グループ全体の業績を一体としてみる連結決算が主流で、わが国も同様の流れにあり、グループ経営の重要性の増大に対処するために今回の異動で人員の強化が図られていた。
本社単体の業績管理は経理部で行われており、総合企画部が担当するのは関係会社に限られていた。
しかし、関係会社といっても少ない数ではなかった。商法上の子会社だけでも千社に及び、出資比率の低い会社や、子会社の子会社、いわゆる孫会社まで含めると膨大な数になる。世間的に著名な会社も多いし、上場されている会社だけでもかなりの数に上った。
山内氏はこの時総合企画部の副部長だったが、実質的には運営責任者だった。
今回の異動で各部署から十人の増員が行われていたが、啓介は最年少だった。
所属社員の出身部署は殆どの部署を網羅していたが、担当業務の性格を考えると、経理部出身者が明らかに少なかった。その辺りに、経理のプロが少ないという山内氏の持論に繋がっているように思われた。
経理業務を狭い意味で捉えると、どちらかというと守備的で独創性の少ない業務のように見られている。特に、オイルショックを克服したわが国経済は、力強く、あるいは狂乱的といえるほどの凄まじさで名目成長を遂げていったが、その過程で、有能な経理マンが少なくなっていったというのが山内氏の持論だった。
経理業務を通じて経営全体を管理し運営し計画することができるはずなのに、驚異的な名目成長の継続がそのような提言を打ち消し、生産が重視され、販売が優先され、資金運用が経理の最重要部門と考えるような風潮が、優秀な経理マンを育てる土壌を失っていったのだと山内氏は考えていた。
生産であれ、営業であれ、その他のどの部署も企業にとって重要でない部署などない。それらが有機的に機能することが大切なことは、業種や企業の規模を問わない原理だ。
また、育ってきた分野より人物そのものだということも確かである。
しかし、例えばプロ野球の監督の場合を見てみると、人望や能力や熱意などを含めた個人の資質が監督の絶対条件のようであるが、現役時代のポジションが微妙な影響を与えることも事実である。つまり、リーダーを育てるのに適したポジションというものは有るのである。
経営のリーダーについても同じことがいえ、その適したポジションの一つが経理であるはずだと、山内氏は考えていた。
啓介には会社での昇進にそれほど強い関心がなかった。
良い仕事というか、興味の持てる仕事をしたいとか、そのために必要なポジションに就きたいという希望はあったが、もっと先の上位職のことまで考えていなかったが、山内氏の熱弁を聞くのは楽しかった。
啓介には、山内氏のいうプロの経理マンとしての認識はなかったが、営業や研究所などに適性があるとも考えていなかった。
新しい職務は、啓介にとって興味の持てるものだった。関係会社千数百社を十のグループに分けて担当するのだが、実際に担当会社を訪問したり、そこの社員と交渉することも多く、これまでの仕事に比べて変化に富んでいた。
啓介は最初に配属されたチームで六か月余り仕事をした後、山内氏の直属の部署に移った。そのチームは、各チームから上がってくるデーターを取りまとめることと、主要な二十数社を担当していた。
担当会社は直系の大企業ばかりで、経営指導などできる対象ではなく、その点での面白みは少なかったが、千数百社の業績を管理していく仕事には張りがあった。
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この年の五月、俊介と希美が結婚した。
啓介も披露宴に出席したが、立派な体格の俊介と淑やかな希美は大変似合っていて、素晴らしいカップルだった。豪華な披露宴は、有望な若手商社マンと成長著しい流通企業の社長令嬢というまことに華やかなものだった。
平成四年の秋には、 三歳年下の妹和子が結婚した。
同じ職場に勤めている青年と結ばれ、明石市に新居を持った。
西宮の家は、両親だけの生活になった。
この間に啓介にも縁談の話が何度かあった。職場の女性社員とも互いに意識し合うような関係になりそうなこともあった。
しかし、いずれの場合も啓介の方が退いた。退くというより、入口に立ったままで奥に進もうとしなかったという表現の方が正しかった。
早知子のことは、日常生活の中で影響を受けることは殆ど無くなっていた。
心の中の早知子といくら対峙しても新しい関係を見つけだすことはできなかった。ただ、止まることのない時の流れが、啓介の心の深い傷を優しく包み始めていた。大切な、何よりも大切な存在として、啓介の心の奥深くで静かな住処を得ようとしているようにも思われた。
しかし、啓介の心の中の早知子は、静かな存在ではあったが、人生の岐路に立った時などには無視することのできない存在でもあった。
その存在は、時の流れやあらゆる空間を超えて固く結ばれているいのちといのちの証として、啓介から消えることはなかった。
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