雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

天空に舞う   第九回

2010-09-12 10:33:20 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 3 )


六甲山に行った日の三日後に、啓介は東京に向かった。


その前の日、早知子は啓介の家を訪ねた。ちょうど啓介の母と妹が連れ立って買い物に出掛けるところだった。
啓介の荷物はすでに東京に向けて送っていたが、まだ少し足らないものがあるとかで大阪まで行くと早知子にも留守を頼んでいた。
早知子が啓介の部屋で過ごすことは、小学生の頃から変わることなく続いていた。


二人は、これから始まろうとしている大学生活について語り合った。殆どは、何度も何度も話し合ってきたことの繰り返しだが、二人にはそのような自覚はなく、真剣な話題に変わりなかった。

啓介にとっては、東京での生活になるので、まさしく新しい出発になる。早知子の場合は、自宅からの通学であり、希美と同じ大学に通うので、環境の変化はあるとしてもそれほど深刻に考えるほどのことではないと考えていた。
しかし、いざその日が近づいてくると、そうではなかった。


啓介と離れることが、早知子が想像していた以上に大きな変化であることが、日ごとに大きくなっていた。
小学三年の時からずっと一緒だった啓介は、早知子にとって家族と同様だった。いつも必要な時には横に居てくれたし、どのような時でも自分のことを見守ってくれる存在だった。


小学生の頃には取っ組み合いの喧嘩をしたこともあるし、二日も三日も口を利かなかったこともあった。
中学生の頃からは激しい喧嘩をするようなことはなくなったが、意見が相当激しく対立することは何度かあった。それでも、考えを一致させることができようができまいと、自分のことを理解し守ってくれるとの信頼が揺らいだことなど一度もなかった。


それは啓介も同じだった。
学校などで意見が対立した時でも、自宅で二人だけで話し合うとたいていのことは理解しあえた。歩み寄りが難しくなったことも時々あるが、殆どの場合啓介が一歩引き下がることになったが、啓介に譲歩されると早知子はすぐに冷静さを取り戻し、対立は解消した。


啓介は、中学の終わりの頃から、早知子に眩しいようなものを感じることが時々あった。
早知子は中学では目立つ存在だった。多くの行事で中心になって活躍することが多かったし、男子生徒だけでなく女子生徒にも人気のある存在で、学校で親しく話し掛けるのに気が引けるほど輝いていた。


一方、早知子が啓介のことを強く意識し始めたのは、啓介が大学に合格してからだった。
早知子にとって啓介は意識する必要のない存在で、父や母が、父や母として意識する必要がないのと同じように、常に横に居てくれるものだと思っていた。啓介を男性として意識したことがないかといえば決してそうではなく、自分にとって一番大切な男性だとの気持ちは持っていたが、それは身内といった感情の方が強かった。


しかし、啓介の東京行きが現実のものになってくると、これまでになかった感情に襲われた。不安というか、胸騒ぎのようなものがじわじわと襲って来ていた。
ハイキングからの帰り道で生まれて初めてのくちづけを経験したのは、どちらかが誘ったものではなかったが、早知子の心の中に浮かんでいた願望を啓介が受け止めてくれたものだと思われた。


東京へ発つ啓介を想う感傷と、溢れるほどに輝く夜景に酔ったこともあったかもしれないが、このままで別れたくないという願いが込み上げてきていた。
光の海を見つめながら訴えるように言った希美の言葉が、大切なものを失おうとしている自分に投げかけられたもののように、早知子は感じ取っていたのだ。


いつか、二人は身体を寄せ合っていた。
「淋しくなるわ・・・」
早知子は、体を預けるようにしてつぶやいた。
「うん・・・。こんなに淋しい気持ちになるなんて思わなかった」


啓介も率直に気持ちを述べた。そして、早知子の肩に手を回してその体を引き寄せた。
二人は並んでソファーに座っていたが、早知子は啓介の動きに合わせるように、さらに体を寄せた。啓介はぎこちない仕草で早知子の胸に片手を当てた。薄いセーターの下に、確かな膨らみが感じられた。


「わたしたち、これからどうなるの?」
早知子は、胸に当てられた啓介の手に自分の手を添えたが、拒絶の意思は示さず、ただ心細げにつぶやいた。


「今までと同じだよ。何も変わらないよ」
「でも、啓介さんは東京へ行ってしまう・・・」


「学校へ行くためだよ。時々は帰ってくるし、何も変わらないよ」
「これまでは、ずっと一緒だったのよ。淋しいわ・・・」


「四年間だけだよ」
「四年経ったら、帰って来てくれるの?」


「もちろんだよ」
「東京で就職してしまうかもしれないでしょう?」


「いや、関西で就職するつもりだよ」
「本当に?」


「うん。それに、もし東京で就職する時は、早っちゃんが東京に来ればいい」
「わたしが東京へ行くの?」


「そう、その頃には、早っちゃんのお父さんやお母さんも行かせてくれるよ、きっと」
「その時は、啓介さんの所に行っていいの?」
「もちろんだよ」


二人はじっと顔を見合わせた。
早知子がさらに体を寄せて目を閉じた。唇が合わさり、早知子の胸にある啓介の手に力が加わった。
二人の二度目のくちづけだった。

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天空に舞う   第十回

2010-09-12 10:32:06 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 4 )


それぞれの大学生活が始まった。


早知子と希美は、自宅から近い女子大学に通い始めた。
恵まれた環境に建つ美しい校舎が印象的な学校である。学校の教育方針や多くの先輩たちのお陰もあって、阪神間では名門として知られた女子大学である。


二人は同じ英文科を選んでいたので、全ての教科を合わせていた。学校以外でも共に行動することが多かった。
新しくできた友達を加えた集まりやサークルで活動することが多かったが、二人が別々のサークルに属することはなかった。
早知子の場合はアルバイトに励む必要があったが、それ以外のウイークデーは殆んど一緒だった。


この学校の学生たちの服装は、センスの良いことで知られていた。ジーパンなどを主体にした学生も少なくなかったが、ちょっとした手直しや小物をあしらえるなどの工夫を施している場合が多かった。
もちろん、本格的なおしゃれのセンスを競うかのような服装の人が多数派だが、けばけばしさや超高級といったものを身に着ける学生は殆んどいなかった。それが伝統だった。


新入生の多くは、入学前に上級生たちの通学服を見に来ていて、自分たちの服装を整えたりしていた。
早知子と希美も二度ばかり見学に来て、二人で相談し合って何枚かを購入していたが、希美が早知子の好みに合わせることが多かった。


早知子は週に二日家庭教師のアルバイトを始めていて、日曜日にも不定期にだが半日ばかり店頭販売の仕事にも取り組んでいた。
希美は、予定のない日曜日とか、早知子に家庭教師の予定がある日には父の会社を手伝っていた。それは、高校生の時にも時々手伝っていたことだった。


俊介は、卒業した高校といくらも離れていない大学に通っていた。
ここも関西では名門の私立大学である。正直なところ、俊介には少々荷が重いと思われた大学だけに、張り切って入学したのだが、新学期が始まるとともに、講義よりアルバイトの方が忙しい生活に変わっていた。
ただ、将来は大手商社勤務と進路がはっきりしているだけに、語学だけはしっかり身に着けるように努力していた。


俊介は、月に一度くらいの割で早知子と希美に声をかけて会うことにしていた。
互いの学校の様子やアルバイトなどについて話し合うことが多かったが、啓介がいない集まりは今一つ盛り上がらなかった。
四人で集まっていた頃、啓介がリーダーシップを取っていたわけではなかった。どちらかといえば、啓介と希美は控えめな行動が多く、俊介と早知子が目立った行動を取ることの方が多かった。


しかし、三人の集まりは、俊介にとっても女性たちにとっても楽しいものではあったが、ぽっかりと穴があいているようなものが感じられることが明らかだった。そして、話題はいつも啓介のことに移って行った。


啓介が最初の一年のうちで帰郷したのは、夏と冬と翌年の春の三回である。
この時には、それぞれの予定を可能な限り調整し合って何度も集まった。四人が集まると、時の経過など何の影響も受けなかったように、以前と同じように楽しく気を許せる会話が弾んだ。


   ***


啓介の学生生活は、初めての下宿生活でもあり生活環境が大きく変わっていた。
下宿には八人の学生が世話になっていたが、全員が同じ大学の学生で新入生は二人だった。新入生の二人は学部が違うこともあり、学校で行動を共にするようなことはなかった。
上級生たちも、歓迎会は開いてくれたが、それ以外は干渉し合わない申し合わせで、気楽な下宿生活だった。


部屋の間取りは、六畳の和室に半畳の押し入れ、小さな炊事場とトイレ、やっと靴が脱げる広さの玄関の板間がついていた。風呂はなく、近くの銭湯を利用することになっていたが、盥を持っていて一年中行水で済ませているという先輩もいた。


炊事場にはガスコンロが設置されていて、自炊ができるようになっていた。ほぼ全員が何らかの炊事をしていたし、啓介も自炊するための食器など準備していたが、外食の方が多かった。下宿している全員が冷蔵庫を持っておらず、自炊といっても啓介と似たり寄ったりの状態だったようだ。


学校や下宿の近くには安い食堂が幾つかあって、自分で下手な料理を作るより美味しいし安かった。味の方も最初はかなりだだっ辛く感じたが、すぐに慣れた。
洗濯機は卒業していく先輩たちが順繰りで寄付してくれているものが二台あり、共用だったが不便はなかった。


東京生活を始めるにあたって、啓介の母親は、家事の真似事などさせたことのない息子の一人暮らしを大層心配していたが、いざ始めてみると心配するほどのことでもなかった。


啓介が最初に帰郷したのは、八月に入ってからである。
夏休みに入ってからも七月中は家庭教師のアルバイトを続け、それが終わってから帰郷した。
旧盆が終わるまではアルバイトは休みで、実家で過ごすことにしていた。

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天空に舞う   第十一回

2010-09-12 10:31:23 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 5 )


八月早々に実家に帰った啓介は、荷物を置くとすぐに早知子の家を訪ねた。
早知子の家は同じ区画にありすぐ近くだが、土産品を届けるというのは口実で、早知子に会うのが目的であることは家族も承知のことだった。早知子の母親も啓介の訪問を喜び、東京の生活ぶりなどを次々に質問した。
そのあとは、しばらくの時間を早知子の部屋で過ごした。


四か月ぶりに会う早知子は驚くほど変わっていた。化粧はしていなかったが、色が白くなり体全体が柔らかな感じになっていた。
早知子は小さい頃から活発な女の子だった。高校でもテニスをしていたので、いつも日に焼けていた。それがこの四か月の間にずいぶん白くなっているように思われた。
夏の盛りのことでもあり、結構日焼けもしていたのだが、高校生の頃に比べると、見違えるほど白くなっているように啓介には見えた。


「運動、あまりしなくなったの? ずいぶん白くなったよ」
啓介が肌が白くなったことを述べると、早知子は両頬を手で擦った。


「もともと真黒だと思っていたんでしょ」
と、啓介を睨むような表情で答えた。春までにはなかった表情だった。
啓介は早知子の体を抱き寄せたい気持ちに襲われたが、懸命に堪えた。そして、そっと手を重ねた。


「淋しかったわ・・・」
早知子は啓介の手を握り返し、訴えるように言った。
瞳がきらきらと輝いていた。


次の日は、四人が大原家に集まった。
全員が集まるのは、六甲山へハイキングに行った時以来である。あれから僅か四か月しか経っていないが、全員がかなりの変貌を遂げていた。
激しく成長する年代であり、それに、大学生活というこれまでに比べて格段に増えた自由と、大人になったような気持ちが作用しているのかもしれない。


啓介には、自分や俊介に比べて、二人の女性の方が大きく変わっているように見えた。女の子から女性へと表現を変えなくてはならないほどの変化に見えた。
そのことを俊介も同感だと応じたが、女性たちからは、男の二人の方が大きく変わったと違う意見を言った。


早知子と希美によると、時々会っている俊介の変化は承知していたが、啓介の変化には驚いたと異口同音に感想を述べた。


女性二人の変化も一様ではなかった。
啓介が気づいたように、早知子は肌がかなり白くなり、行動も淑やかになっていた。淑女を養成する学校だとの評判が高いだけに、早くもその効果が出てきたのかとも啓介は思ったが、反対に希美は、春よりかなり行動的になっていた。顔や腕なども去年より日に焼けてきて元気そうに見えた。


それは俊介も感じていたらしく、「会うたびに二人が近づいているみたいだ」という言葉で表現した。


「わたしたち、いつも一緒だから、だんだん似てきたのよ」
と、希美が笑った。
春先までなら、間違いなく早知子が応えていた言葉だった。


この日は大原家でご馳走になり、長い時間話し合った。
それぞれの学校の様子を報告しあったが、女子大学のことが中心になった。啓介も東京生活を詳しく話し、自炊生活の様子も話した。


啓介が帰郷している間に、四人はこの後も三回集まった。
春からそれぞれに大きく成長し変化もていたが、集まってみれば、その友情に何の変化もないことが確認できた。
六甲山上から夜景を見ながら、やがて四人が離れ離れになるのではないかと感じた怖れは、卒業直後だったことと、夜景があまりに美しかったことからくる感傷だったのだ、と希美は思った。


啓介と早知子は、帰郷中毎日のように会った。四人で会う時以外は、互いの家を訪問し合うことが多かった。
啓介は旧盆が終わるとすぐに東京に戻ることになっていた。
早知子もその日に合わせて京都の祖父母を訪ねることにしていた。京都まで一緒に行って、半日遊ぶという計画を立てていたからである。


早知子の父方の実家は京都で、清水寺に近い辺りに祖父母が元気に暮らしていることは啓介も知っていた。
早知子は子供の頃から時々泊まりがけで遊びに行っていたし、この日も一泊する予定だった。


二人は阪急電鉄で大阪に出てJRに乗り換えた。啓介は新幹線の遅い時間のものを京都から乗れるように取り、京都までは在来線で行った。
京都駅に着いた時には昼を少し過ぎていたので、荷物を駅のロッカーに入れてから昼食にした。食事が終わると、啓介が乗る列車の時間まで五時間足らずしかなかった。


あまり時間が取れないことは分かっていたので、特別な計画は立てておらず、京都駅の近くを歩き、一、二か所寺院などに立ち寄ることにしていた。

二人は七条通りに出て、東に向った。最初は国立博物館に向かうことになった。
啓介は京都の街は詳しくなかった。学校からの旅行などで何度か来ていたが、観光地として有名な場所が主体である。名高い寺院や神社などに何か所か行っているが、少し京都に詳しい人から見れば、それらはほんの一部分にもあたらないだろう。


早知子の方はもう少し詳しかった。子供の頃から、毎年何度か祖父母の家を訪れていたし、続けて何日か泊まることもよくあった。
主な観光地は殆んど行っていたし、祖父母の家がある東山方面はかなり詳しかった。


鴨川に架かる七条大橋を渡ったあとは、古い街並みの狭い道を選んで歩いた。人通りが少ないところでは、どちらからともなく手をつないだ。
八月十六日の夜は大文字の火が焚かれる。京都が持つ多くの行事の中でも幽玄さにおいて屈指のものだ。その直後のことで、観光的には端境期にあたると思っていたが、夏休み中のことでもあり行き交う旅行者と思われる人の姿も少なくなかった。

二人は博物館に到着した。啓介は初めてだったが、落ち着ける場所として早知子が選んだのである。
展示されている物もさることながら、歴史を感じさせる建物や広大な庭がすばらしく、外の暑さと強い日差しを避けるためもあって、ここで長い時間を過ごした。


博物館を出た後は喫茶店に寄っただけで、京都駅に戻った。二人は家を出る時から、駅のロッカーの前で別れることにしていた。
新幹線のホームまで送りに行きたいと早知子は言ったが、啓介は断り、早知子がバスに乗るのを見送った。自分が送られるのが早知子に残酷なような気がしていたのだ。


京都から東京に着くまでの間、啓介はずっと外を見ていた。
新幹線に乗るのも数えるほどの経験だった。茜色の景色が、薄墨を流したような暮色に変わり、やがて点在する灯りが増えて行った。
啓介は、刻々と変わっていく景色を飽くこともなく見続けていた。


早知子と別れたことが淋しく、次に会える正月までの日数が、とてつもなく長いものに感じられた。
啓介が初めて経験する感情だった。早知子と初めてくちづけを経験した直後に東京に向かった時とは違う淋しさだった。
あの時も、早知子と離れる淋しさはあったが、新しく始まる大学生活への希望の方が大きかった。


やっぱり、早っちゃんはとても大切な人なんだ、と啓介は思った。


 

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天空に舞う   第十二回

2010-09-12 10:30:28 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 6 )


その年の冬は、十二月二十七日に帰郷した。
啓介の帰郷したいという気持ちは夏より遥かに強かったが、家庭教師のアルバイトがあり年末近くになったのである。


この日は、新幹線に乗ってから早知子に連絡していたので、新大阪まで迎えに来てくれていた。
梅田に喫茶店に入りしばらく話したが、この日に帰ることは自宅にも連絡していたのであまり遅くなるわけにはいかなかった。四か月ぶりの再会であり、早知子を思い切り抱きしめたい思いにかられたが、うまい切っ掛けを見つけることができなかった。


翌日の夕方は、阪急電鉄の西宮北口に集まり四人で忘年会の真似事をした。
お互いに大学生らしくなってきたなと笑い合ったが、夏に会った時のような変化は啓介には感じられなかった。

その日も、俊介は直接バスで帰り、三人は阪急電鉄で帰った。甲東園駅で啓介と早知子が降り、いつものように希美は次の仁川駅まで行くのである。


二人は回り道して小さな公園に寄った。
啓介は早知子の手を取って引き寄せ、コートに包まれている体を抱きしめた。そして、くちづけをした。
早知子も予期していたらしく、さらに体を寄せた。


「淋しかったわ・・・」
唇が離れたあとも、顔を啓介の胸に埋めるようにして、小さな声で言った。
昨日の喫茶店で話した時には、淋しそうな表現は口にしなかった。


その次の日は、二人で京都に向った。
年末の慌ただしい時期だったが、啓介は正月の五日には東京に戻ることになっていたので、この日を選んだのである。
二人が一緒に出掛けることは、双方の母親も承知していた。どちらの親も、二人を恋人同士のようにはみていなかったが、その一方で、まるで許嫁同士のような錯覚をしている風もあった。


阪急の河原町駅に着いたのが十時少し前だった。デパートも開店していない時間だが、京都の代表的な繁華街らしくすでに大変な人出だった。
時節柄、観光客というより新年に向けての買い物客が多いように感じられた。


二人は人並みに飲み込まれたようになりながら商店街を進んだ。別に買い物の予定があるわけではないが、人波の中を揉まれながら歩くと何となく年の瀬らしい雰囲気が伝わってくる。
二人は、押されるのを防ぐような形で、いつの間にか腕を組んでいた。


「恋人同士みたい」
早知子は啓介の顔を見上げるようにして囁いた。
早知子は女性としては背が高い方だが、啓介と並ぶと大分身長差があった。
啓介は答える言葉が見つからず、「うん」とだけ応えた。


商店街を押されるままにしばらく歩いたあと大通りに出た。そして、東に向った。
四条大橋を渡り、なお真っ直ぐに進み八坂神社に着いた。


「ここが、祇園さんの本家よ」
早知子は神妙に手を合わせていたが、早々とお参りを終えて突っ立っている啓介の腕を取って、また顔を見上げるような仕草を見せながら言った。


啓介は、神社や寺院では必ず手を合わせていたし、そのことに別に疑問のようなものを感じることもなかったが、同時に、拝むことで何らかの助けや利益が得られるとも考えていなかった。
いわゆる、ご利益というものをあまり信じていなかった。


八坂神社を通り抜けて丸山公園に出た。
薄曇りの空の下で、公園は寒々としていた。行き交う人も足早で、散策を楽しんでいる人は少なかった。
公園のシンボルともいえる枝垂れ桜も、葉を落とした姿が寒さを強調しているように見える。その姿を見ながら、さらに真っ直ぐに進むと人通りは殆んどなくなった。


京都の冬は寒く、少し山影に近付くだけで寒さが増してくる。
早知子は群青色の、啓介は黒のコートを着ていたが、二人は期せずしてその襟を立てた。
公園も、それに続く木立の景色も冷たい色に包まれていたが、早知子の鮮やかな群青色のコートが浮かび上がるように映えていた。


「恋人同士みたいだって、言ったよね」
早知子の鮮やかな色のコートを抱くようにして、啓介が尋ねた。


「ええっ? ああ、あの時ね」
「ぼくたちは、どんな関係なんだろう」


「単なる親友・・・、では、ないでしょう?」
「うん、早っちゃんは特別の人だよ」


「わたしにとっても、啓介さんは特別の人よ」
「でも、恋人かなあ・・・」


「わたしは、啓介さんのこと好きよ。大好きよ」
「ぼくだって同じだよ。早っちゃんのこと、大好きだよ」


「でも、恋人ではないの?」
「うーん。よく分からないんだ。恋人だなんて、あまり考えたことなかったんだ。だって、ずっと、一緒だったもの」


早知子は立ち止って、啓介に寄りかかった。
「でも・・・、キスしてくれたよ・・・」
「すごく、好きだったから・・・」


啓介は早知子の体を抱きしめた。そして、その体制のまま道の少し横に入った。啓介が早知子の顔を見つめると、その視線をしっかりと受け止めたあと、目を閉じた。


「すごく、好きなんだ・・・」
短いくちづけのあと、啓介が言った。囁くような声が少しかすれていた。
早知子は、目を開けると、はにかんだような表情を浮かべた。そして、ふたたび目を閉じた。

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天空に舞う   第十三回

2010-09-12 10:29:48 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 7 )


丸山公園を出た二人は、高台寺に向かう道を進んだ。
ねねの道と呼ばれている石畳の道が続いており、旧い京都の雰囲気を色濃く伝えているこの辺りは、旅する人の人気が高い散策路である。


二年坂、三年坂と名付けられている可愛い坂を過ぎると、清水坂に行き着く。
二人は清水寺に向かって進んだ。道の両側には土産品や特産品を扱う店が並び、河原町周辺と変わらないほどの人波である。


清水寺は、京都を代表する大寺院であり、観光地としても最も有名な場所の一つである。「清水の舞台から飛び降りる」という表現で知られているように、壮大な懸崖に組み上げられた舞台はあまりにも有名である。
その歴史は古く、平安朝初期、嵯峨天皇の頃には国家鎮護の道場とされたとあるが、開基はさらに遡る。京都王朝より古い歴史を有する観音霊場でもある。


啓介も、これまでに二度ばかり来た記憶があった。早知子の方は、祖父母の家に近いことから、数え切れないほどの回数来ていた。
舞台から見る風景は壮大なもので、春の桜、秋の紅葉が有名だが、雪景色はさらに美しい。
ただ、二人が眺めている景色は、冬の杜がもつ厳しい淋しさが感じられるものだった。


二人は奥の院の舞台にも立った。舞台は狭いが、本堂の舞台の脚組がよく見え、スケールの大きさがよく分かる。


「わたしの秘密の場所、教えてあげる」
早知子は、並んで立っている啓介に、少し背伸びをするようにして耳打ちした。悪戯っ子のような表情をしていた。


早知子は啓介の手を取って、舞台を降り少し先に進んだ。
参拝者のための歩道は先に延びていて、崖側には安全のための柵が作られている。
早知子はその柵をバッグを持った手で握り、右手で遠くを指差した。


「ほら、あそこ・・・。木と木の間よ」
早知子が指差した方向には、寺院を囲むように森林が広がっている。木々の上に広がる空の色も、淋しげな杜の色を映してか鉛色をしていた。


「木と木が両側から重なっているところ、その先よ」
早知子は、自分が指差している方向と啓介の顔を交互に見ながら、真剣な表情をしていた。啓介も目を凝らして、指さす方向を見つめた。
確かに、空とは違う白い山か建物のようなものが見える。


「あの、白い建物みたいなものかな?」
「そうそう・・・。あれ、お墓よ」


「お墓? 白く見えるのは、石碑なんだ」
「そうよ。ここからは、微かに見えるだけだけれど、あの辺り一帯、谷の底まで全部お墓よ」


「大きな墓地なんだ・・・」
「そう、すごく広いのよ。あそこが大谷本廟のお墓の一番高い部分だと思うの。わたしの家のお墓も、あそこにあるのよ」


「早っちゃんとこは、京都だったものね」
「ええ、お祖父さんの家はここからすぐよ。わたしも・・・、わたしも、いつか、あのお墓で眠るの・・・」


「ええっ・・・。変なこと言わないでよ」
「ずっと先のことよ・・・。でもね、わたし、一人でここへ来ると、いつもここに立って、あの辺りを見ているように思うの。そして、時々、ああ、わたしもいつかあそこで眠るんだって思うことがあるの」


啓介はうまく返答することができず、早知子の手を強く握り締めた。
先に進み、坂を下って音羽の滝の前を抜けた。下から見る舞台はさらに迫力があった。


「やっぱり、早っちゃんは、ぼくの恋人だよ」
「ほんとう? ありがとう・・・。でも、どうしたの、突然・・・」


「うん。さっきから考えていたんだ。早っちゃんは、ぼくにとって、どういう人だろうって・・・。とても大切な人だということは確かだし、大好きなことも間違いない。でも、今まで、恋人だということに気がついていなかったんだ、きっと。こんなに好きな人は、やっぱり恋人なんだって、そう、思ったんだ」
「啓介さんは、わたしの恋人なのね・・・。キスも、してくれたもの、ね・・・」


最後の方は、体を寄せて小さく囁いた。
高校までの早知子からは想像できないような仕草と、甘えるような声だった。


清水寺の境内を出て、来た道を少し戻り途中から左の道を進んだ。五条坂である。


先程までとは人の波は少なくなった。小さなレストランで昼食をとった。
食事が終わり、外に出ると、霧のような雨が降っていた。
一本しか持ってきていなかった折りたたみ傘に二人で入った。
啓介は、早知子が濡れないように背中から手をまわして、抱くようにしてゆっくりと歩いた。
道の両側には飲食店や陶磁器などを扱う店もいくつかあったが、静かな通りだった。


「雨の五条坂は淋しいわ・・・」
早知子も、啓介の体に縋るようにして歩いていた。


「寒くない?」
啓介は早知子をさらに抱き寄せるようにして尋ねた。
「大丈夫よ・・・。このまま、ずうっとこのまま、歩いていたいわ・・・」


辺りは夕暮のように暗くなっていた。
五条坂を抱き合うようにして歩いた日のことを、啓介はいつまでも忘れることができなかった。


 


 

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天空に舞う   第十四回

2010-09-12 10:29:14 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 8 )


春休みも啓介は帰郷した。
この時は帰る途中に京都で下車した。早知子の希望で京都駅で合流することにしたからである。
京都で会っても時間はあまり取れないのだが、同じ電車に乗ってほんの少しであるが旅行気分を味わいたいというのが早知子の希望だった。


京都駅で待ち合わせ、すぐに遅い昼食場所を探した。
学校が休みであり、僅か数日であるがしばらくは毎日会えるので、二人とも気持ちが浮き立っていて賑やかな昼食となった。それに、一緒に食事をするため午後二時頃まで辛抱していたので、二人ともかなり空腹だった。


食事のあと、河原町まで歩くことにした。啓介は大きなバッグを提げていたが、早知子は小さなショルダーバッグという姿である。
上は光沢のあるクリーム色のブラウスで、下は黄緑色の長めのフレアスカートである。颯爽と歩くさまは、高校生の頃の早知子に比べさらに眩しさが増していた。


冬に会った時から三か月近く経っていた。
その間に何度も電話で話していたが、会いたい気持ちが募っていた。それは啓介も早知子も同じだった。


阪急河原町駅からは、電車を一台待って並んで座ることにした。特急の車両は二人掛けの座席が並んでいるので、貴重な時間を持つことができるからである。

甲東園駅に着いたのは七時を過ぎていた。
この日も、少し回り道して、小さな公園に寄った。


   **


啓介の帰郷は五日間だった。
四人では一度集まり、半日を過ごした。早知子とはたとえ短い時間でも毎日会った。
東京に戻る前日には、二人で神戸に向かった。


京都からの電車の中で映画を見に行く約束をしていた。映画に行く場合大阪に出ることもあったが、その後の一緒に過ごす時間のことを考えて神戸にしていた。


三宮で映画を観たあと、JRで神戸駅まで行った。
いわゆる神戸の繁華街の中心は三宮で、ハーバーランドが開発される前の神戸駅周辺は繁華街の中心というイメージはなかった。
映画のあとわざわざ電車に乗ってまで神戸に来たのは、あまり賑やかでないところを歩きたかったからである。


神戸駅を北側に出て、少し行くと湊川神社がある。二人が選んだ行く先はこの神社だった。
湊川神社は神戸では大変有名な神社で、楠木正成を祭神としていることもよく知られている。「なんこうさん」と親しみを込めて呼ばれていて、その紋章の菊水も、社名や商品名などによく使われている。
しかし、その歴史は意外に新しく、創建は明治五年のことである。


後醍醐天皇の時代、天皇を中心とした公家勢力と北条氏を中心とした武家勢力が激しく対立していた。
さらに、公家勢力間にも主導権争いがあり、武家勢力もそれぞれの勢力拡大を目指して合従連衡を繰り返していた。やがて時代は、足利氏が台頭し天皇との協力と対立が目まぐるしく展開され、南北朝と呼ばれる混乱期に移って行く。
太平記の世界である。


楠木正成は、この時代に活躍した武将である。
河内国の小豪族に過ぎなかった正成は、戦力的に極めて劣勢にあった後醍醐天皇を助けて獅子奮迅の活躍をする。その知略と厚い勤皇の志は高く評価され、太平記の主要人物として描かれている。


建武十三年 (1336) 五月、正成は、大軍を擁して東上してくる足利尊氏と摂津国湊川で不利を承知の戦いに臨み、敗れ去った。
敗色濃厚の戦陣の中で、正成と弟正李は、七度生まれ変わって天皇のために忠義を尽くしたいと誓いあい、互いの胸を刺し合って自刃した。
四十二歳の頃であったと伝えられている。


その後、その終焉の地に墓所が造られたが、やがて時代は戦国時代へと移り、墓所は荒れるにまかされていた。
徳川の時代になって、正成の人物と業績を高く評価していた水戸光圀は、その墓所を修復し、自ら揮毫した「嗚呼忠臣楠氏墓」とある碑を建てられたのである。


さらに、幕末の頃には、勤皇の志士と呼ばれる人々に崇められ、その存在は大きなものになっていった。
そして、維新間もない明治五年、明治天皇の沙汰により、終焉の地と墓所を含む地域一帯を神域として、湊川神社が創建されたのである。


   **


啓介と早知子は、湊川神社の正面東側にある楠木正成の墓所に立ち寄った。
この神社が正成を祭っていることは二人とも知っていたし、歴史の授業を通じてその業績の一端は承知していた。
しかし、戦後教育を受けた人たちの多くがそうであるように、正成がどのように忠臣であったのかなどはあまり興味がなく、歴史上の人物の中で、それほど上位を占める存在ではなかった。


「この方が、あの有名な黄門さんよね」
と、早知子は光圀の像の方を見ていた。
「そう、黄門さんがこの碑を建てられたんだって」
啓介が「嗚呼忠臣楠氏墓」の碑を差して言った。墓所に参っているのは二人だけだった。


「後醍醐天皇の頃よね・・・」
「そう、太平記の時代だね」


「あの時代は嫌い。難しいもの」
「ああ、南北朝など、複雑だものね」


「楠木正成はここで亡くなったの?」
「そうらしいよ。この神社の本殿近くらしいよ。そこで自害したんだ。七度生まれ変わって朝敵を討つと誓って死んでいったということで、忠臣の代表のような人物らしいね」
啓介は、以前に何かで読んだことを思いだしながら説明した。


二人は本殿にも参拝した。

「結婚式場もあるみたいよ」
早知子が体を寄せて囁いた。

「予約する?」
「ええっ? まさか・・・」
早知子は、少し頬を染めて啓介を見上げた。


神社を出たあと駅には向かわず、神社の塀に添って反対側に歩いた。
静かな歩道が続いていて、神戸地方裁判所の建物が見えた。


「生まれ変わるなんて、本当にできるのかしら・・・」
早知子が独り言のように呟いた。啓介が顔を見つめると少し首を傾げ、思いつめたような表情をしていた。

「楠木正成は、七度生まれ変わるって誓ったのでしょう? 生まれ変わることできたのかしら・・・」
「さあ・・・」


「啓介さんは、そんなこと、考えたことない?」
「うん・・・。あまりないなあ。生まれ変わるって、よく聞くよねぇ。でも、本当かなあ」


「本当はどうなんでしょうね・・・。正成が本当に生まれ変わったかどうか、そんな研究した人いないのかしら」
「さあ、少なくとも、有名な本としては無いと思うなあ。それに、生まれ変わるなんて、科学的に証明できることなのかなあ」


「どうなんでしょう・・・。仏教から来たことなのかしら」
「多分、そうと違うかな。輪廻転生というのは仏教の考えだけれど、生まれ変わるってことは、外国でもある話だよ。特定の宗教に関係なく、沢山あるのと違うかなあ」


「じゃあ、本当なんだ」
「それはどうかな。単なる人間の願望かも知れないよ」


「それでも、生まれ変わったとか、生まれ変わりだとかいう話、よくあるでしょう? 人間だけでなく、獣とか鳥になったとか・・・」
「うん、それはそうだけど…。どうしたの、急にこんな話になって・・・」


「ええ・・・。何だか、わたし、少し変よね。楠木正成さんに取りつかれたのかな」
早知子は立ち止って、啓介の腕を取り体をあずけてきた。
啓介はその体を抱きとめた。さらに強く抱きしめたい思いに駆られたが、自制した。人通りが少ないとはいえ明るい街の中なのだ。


「わたし、最近、いろんなことを考えるようになったの」
「最近?」

「そう、最近・・・。啓介さんの恋人になれてから・・・」
「負担に感じているの?」


「負担って?」
「束縛されているような気がするとか・・・」


「そういうことではないわ。束縛されるのなら、その方が嬉しいけれど、そうだと啓介さんに迷惑かけるわ」
「迷惑なんか、ないよ。早っちゃんになら、いくら束縛されても迷惑なんかしないよ」


「嬉しいわ・・・。ずっと、一緒に居たいわ・・・」
啓介は早知子の手を強く握った。早知子が自分の中でどんどん大きな存在になっていることが痛いほど感じられた。

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天空に舞う   第十五回

2010-09-12 10:28:35 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 9 )


五月の連休にも啓介は帰郷した。
ゴールデンウィークは、休みの日数も少ないし交通の混雑が大変なので帰らないつもりでいたが、早知子に会いたい気持ちに負けての帰郷だった。


この時も四人は集まった。
啓介と早知子の関係は、二人の間では大きく変化していたが、俊介も希美も特別に何かを感じている様子はなかった。
啓介と早知子の仲は、グループだけでなく多くの友達が承知していることだった。四人にとっても、それぞれが対等の関係にある親友であることは確かだが、啓介と早知子の仲はごく自然に特別なものと考えられていた。


夏休みは八月の旧盆を挟んで十日ばかり帰郷し、自宅で過ごした。
この時も四人で二回集まったが、早知子とは毎日のように会った。

早知子とは、互いの家で会ったり、京都や大阪にも出かけた。何度かくちづけする機会があり、啓介にはさらに進みたい欲求も小さなものではなかったが、まだその時でないことを自分に言い聞かせていた。


この夏休みの間に、早知子の家族が出かけていて、早知子の部屋で半日二人で過ごす機会があった。
この時は、くちづけのあと二人は体を重ねた。啓介は早知子の上着のボタンをはずし、胸の膨らみに直接触れた。早知子の胸は波打ち、啓介の鼓動も激しく打っていた。
早知子は啓介に全てを委ねるつもりだったが、それ以上には進まなかった。


「早く、学校を卒業したいなあ」
啓介は早知子の上着の乱れを直しながら、言い訳するようにつぶやいた。


「今でも、いいのよ・・・」
早知子は必死の思いで気持ちを伝えたが、啓介は「ありがとう」と小さく言っただけで、それ以上には進まなかった。


旧盆が過ぎ、啓介が東京に戻ると、早知子は大きな不安に襲われた。
これまでにも淋しさに耐えられないような気持ちになることがあったが、今度はそれより遥かに激しく異質のものだった。
淋しさというより、取り残されるような恐怖感に近いものだった。


   **


九月になってすぐに、早知子は東京に向かった。
家族には、啓介に東京を案内してもらうのだと正直に話していた。啓介は少し驚いていたが、歓迎するといって喜んだ。


東京駅には十二時過ぎに着いた。啓介が列車の降り口まで迎えに来ていた。
荷物をコインロッカーに入れてから食事をした。


早知子は東京に二度来ていたが、地理は全く分からなかった。啓介も東京生活が一年半になっていたが、案内できる場所は限られていた。


二人は銀座を四丁目まで歩き、その後日比谷公園と皇居前公園を経由して東京駅に戻った。
ホテルは新橋の近くに早知子が予約していた。啓介も同じホテルに泊まることにしていて早知子に予約を依頼していた。当然部屋は別々に取るつもりでいたが、早知子はツインルームを取っていた。早知子の兄の名前で予約したいるのだと、悪戯っぽく笑った。


チェックインしたのが五時前頃で、夕食には早い時間なので部屋で少し休むことにした。
部屋に入り、鞄を置くと同時に、早知子が体を投げ出すように啓介に抱きついた。啓介はその体を抱きとめ、強く抱きしめた。
早知子が自分から積極的に抱きつくことなどこれまでになかった。
何か、必死なものが感じられた。


「すごく不安なの・・・」
くちづけのあと、早知子はなお表情を緩めず、少し悲しげに言った。


啓介は、もう一度唇を合わせたあと早知子をベッドに座らせた。
早知子の表情や行動に、いつもとは違うものが感じられ、座らせた早知子の肩を抱き寄せて尋ねた。


「何かあったの?」
「何かって? ううん、何もないわよ・・・。何か変?」


「うん・・・。何だか、少し、悲しそうだよ」
早知子は首を横に振り、「ごめんなさい」と謝った。
その瞳は、泣いているように啓介には見えた。どう対応すればよいのか分からず、髪をそっと撫でた。
早知子は顔を啓介の胸に埋めた。体が少し震えていた。


時間が静かに流れた。
啓介は早知子の心境を測りかねていた。
かなりの時間が過ぎたあと、早知子は顔をあげて微笑んだ。無理をした笑顔であることが痛々しかった。


「汗だらけ・・・」
突然啓介の体を両手で押し、それを弾みにするようにして早知子は立ち上がった。早知子は自分の汗のことを言ったようだが、啓介の体も汗ばんでいた。


早知子はシャワーを浴びると言いながら浴室を確認し、「わたしが先でもいい?」と明るい声をかけた。そして、唖然としている啓介の答えを確認することもなく鞄を提げて浴室に消えた。
啓介も、長い時間歩いた後の汗が今さらのように気になり、早知子と交替にシャワーを浴び、持ってきていた着替えを使った。


啓介が部屋に戻ると、早知子はぼんやりとベッドの端に座っていた。
遠くを見つめている様子だか、視線の先にあるのは何の飾り気もないホテルの壁だった。
啓介はいつもと違う早知子の様子が強く気に掛かった。声を掛けにくいような雰囲気を全身に漂わせていたからである。近寄りがたいような、それでいて悲しげなものが溢れていて、啓介の胸に切ないものが迫ってきていた。


啓介もベッドに並んで座り、早知子の肩をそっと抱いた。
早知子は、驚いたように啓介の顔を見つめ、悪戯を見つけられた子供のような表情で微笑んだ。淋しげな笑顔だった。


啓介は、肩を抱いていた腕を背中に移し、強く抱きしめた。
早知子はくちづけを求めるように顔を上げて目を閉じた。今までに見せたことがない積極的な意思表示だった。そして、唇が合わさると、強く反応した。


啓介は早知子を仰向けに寝かせ、体を重ねないように自分も横たわり、くちづけを続けた。
しばらくして顔を上げた啓介が、ベッドの端で不安定な状態の早知子を動かそうとすると、早知子はその意思を察して自分から体を動かせた。

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天空に舞う   第十六回

2010-09-12 10:27:52 | 天空に舞う

   第二章  それぞれの旅立ち  ( 10 )


早知子が東京へ行きたいと言って来た時から、啓介には予感があった。
自分の欲望を抑えきれないような予感であり、一泊の予定である以上早知子も拒まないだろうという気持ちもあった。ただ、まだ二年以上ある学生生活をどのように過ごせばよいのかが、決断を鈍らせていた。


啓介に僅かな逡巡はあったが、早知子をベッドの中央に移すと、その胸に手を当てた。確かな感触を確認し少し力を加えた。
布越しに早知子の体温が感じられ、啓介の心臓は高鳴った。つい半月前、直接触れた時の感触がはっきりと思いだされた。
早知子は目を閉じ、片手で啓介のシャツを掴んでいた。


上半身を起こした啓介は、両手でボタンをはずし左右に開いた。ブラウスの下はブラジャーだけで、その白さが痛々しげに見えた。
愛おしさと痛々しさが入り混じったような感覚が啓介を襲い、二人の将来のことも頭に浮かんだ。


しかし、それは一瞬のことで、右手はブラジャーを押し上げるようにして、早知子の膨らみを直に掴んだ。
早知子は、啓介の手と共に自分の胸を抱くようにして、はにかむように微笑んだ。そして、戸惑いながら模索する啓介の手と、それを押さえていた早知子の手が助け合うようにして、ブラジャーが外された。


啓介の目に豊かな二つの膨らみが輝いて見えたが、早知子は素早く両手で覆った。
啓介は早知子の手を剥がそうとしたがその手の力は強く、数度試みても剥がすことができなかった。


啓介は諦め、手を早知子の頬に当て、唇にくちづけした。
唇が離れると、早知子は啓介の顔をじっと見つめ、「ごめんなさい」とかすれた声で謝り、両手を離した。
二つの膨らみが露わになり、微かに震えていた。


啓介は大切なものを扱うように両手で包み込んだ。柔らかな感触が啓介の全身を駆け巡り、理性と欲望がせめぎ合っていた。
その葛藤は、男としての欲望と純粋に独占したいという願望とが重なりあったものに、早知子の本当の気持ちに対する配慮も加わっていた。


しかし、啓介の気持ちの葛藤はごく僅かな時間で、次の行動に移っていた。手が早知子のスカートに移り、さらにその奥に進もうとした時、早知子の呼ぶ声が聞こえた。
やはり、かすれたような声だった。そして、その声が啓介の理性を呼び戻した。
啓介は手を引き、息を整えるようにして、早知子の顔を覗き込んだ。


「キスして・・・」
早知子が、泣き出しそうな声で言った。


「ごめん。辛かったんだ・・・」
「そうじゃないの。キスしてほしいの・・・」


啓介は早知子の上半身に被さるようにして、唇を合わせた。早知子の胸の膨らみが、自分の薄いシャツを通して感じられ、鼓動が伝わってきた。
唇を離し少し体を浮かせ、ふたたび乳房の片方に手を当てた。早知子が辛がっていないか確かめながら、少し力を加えた。


「すごく不安なの・・・。だから、わたしを啓介さんのものにして…」
「無理しなくてもいいよ。無理しなくても、早っちゃんは、ぼくのものだよ」


「お願い。いますぐ、啓介さんのものにして…。そして、ずっと一緒に居たいの」
「ずっと一緒だよ、ぼくたちは。いまは離れているけれど、しばらくの辛抱だよ。早っちゃんは、ぼくとずっと一緒だよ」


「嬉しいわ・・・。ほんとうに、ずっと一緒よね」
「そうだよ、できるだけ早く一緒に暮らすんだ。そして、死ぬまで、ずっと一緒だよ」


早知子は、「ありがとう」と言いながら体を動かし起きようとした。自力だけでは動ききれず、啓介に助けられるようにして半身を起こすと、スカートを脱いだ。背中の下に残っている衣服を横に除け、さらに最後のものも脱ごうとした。


「早っちゃん、無理しなくていいんだ」
啓介は早知子の剥き出しの上半身を抱きしめて言った。


「お願い、啓介さん。どうしても、啓介さんのものになりたいの・・・、手伝って・・・」
下着に手をかけたまま訴える早知子の表情は真剣なもので、悲壮感さえ感じられた。


「ほんとうに、いいの?」
何度も頷く早知子をそっと倒し、早知子の手をはずし自分の手で脱がせにかかった。


ふたたび二人が体を合わせた時には、共に一糸まとわぬ姿になっていた。
互いに手探り状態で確かめあい、躊躇いがちに受け入れようとする早知子は、うわごとのように呟いた。


「嬉しい・・・。一緒よね。ずっと一緒よね。死んだあとでも・・・」
啓介は、早知子の言葉を聞きながら、さらに進んだ。

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天空に舞う   第十七回

2010-09-12 10:27:08 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 1 )


水村啓介が実家からの連絡を受けたのは、三沢早知子との愛を確かめあった日から十日程過ぎた九月中旬のことだった。


その日は学校は休みだったが、午前中は家庭教師の仕事があり、そのあと買い物などしていたので、下宿に戻ったのは午後四時を少し過ぎていた。
その時に、至急自宅に電話をするようにとのメモを見たのである。下宿には赤電話が設置されていたが、緊急の場合の連絡は隣接している家主宅に連絡することを承知してくれていた。


不吉なものを感じながら掛けた電話には、妹が出た。
妹の和子は、兄からの電話の遅いことを泣きながら責めた。肝心の用件を伝えるのを忘れたように、激しく泣きじゃくっていた。
啓介がなだめすかすようにして聞き出したことは、早知子が交通事故に遭ったということだった。重傷らしく、朝方早知子の母親から連絡があり、両親は病院に行っているとのことだった。


和子も一緒に行きたかったが、啓介からの電話を待つため留守番をしていたのだと、再び連絡が遅かったことを責め、すぐに病院に向かうように住所と電話番号を伝えた。
そして和子は、自分もすぐに家を出ると泣きながら話し、電話を切った。


和子は早知子の母親が連絡してきた電話以外に事故の状態を聞いていなかったが、母だけでなく父まで病院に向かったということは、事態が安心できるものではないことが想像された。


啓介は手元にあるだけの現金と着替えを入れた鞄を持って下宿を飛び出し、東京駅に向かった。
和子から聞いた病院の住所は京都だった。新幹線の中から病院に電話をして、父か母に連絡を取ろうとしたが取り次いでもらえなかった。ただ場所の確認をすることができた。
そこは、五条坂に近い辺りだった。


啓介が京都駅に着いたのは九時を大分過ぎていた。駅前でタクシーに乗り行く先を告げたが、幸いにも運転手はその病院を知っていた。
病院は、早知子と歩いたことのある五条坂の交差点の近くだった。


病院の入口に父が立っていた。啓介の姿を認めると駆け寄り、急ぎ足で病室に案内した。
怪我の状況を尋ねる啓介に、「大変な状態なんだ」とだけ低い声で伝え、それ以上何も話そうとしなかった。


病室の前に何人かいて、啓介の母と和子もその中にいた。
和子は、兄の姿を見ると駆け寄り抱きついて体を震わせた。

病室に入ると、早知子の母親が啓介に縋りつくようにして言った。
「啓介さん、来てくれたのね。早知子が、大変なの・・・」


後の方は聞き取れないほど細い声で、啓介の手を取ってベッドに案内した。その表情は、ついひと月前に会った時とは別人のようになっていた。頬がこけ、目が落ち窪み、体全体が小さくなったようにさえ見えた。


早知子は、頭に包帯をしていて酸素吸入を受けていたが、顎の辺りに小さな擦り傷があるだけで、顔の表情はいつもとあまり変わらないように見えた。血色も良く、単に眠っているだけのように見えるが、呼吸は荒々しく顔の表情と似つかないものだった。


啓介はベッドの際に立ち、布団から出ている早知子の手を取った。
点滴のチューブに繋がれてはいるが、その手は暖かく、大変なことなど何も起きていないように感じられた。


いつか、周りにいる人も、医療機器や重苦しい空気も、啓介の視界から消えていた。

「早っちゃん、早っちゃん」
啓介は早知子の手を強く握り締めて呼び掛けた。

早知子の母親も娘の顔を覗き込み、
「早知子、早知子、啓介さんが来てくれたのよ。聞こえるの? 聞こえているんでしょう・・・。だったら、だったら、目を開けて・・・」と、激しく呼び掛けた。


「早っちゃん、早っちゃん」
啓介は優しく呼び続けた。
早知子の母親のような感情の高ぶりは湧いてこず、「早っちゃん、早っちゃん、どうしたの? 眠いの?」と呼び続けた。


その時、啓介の呼びかけに早知子は応答した。少なくとも啓介にははっきりと感じられた。
啓介の呼び掛けに応えるように、握っている手を握り返してきたのだ。ほんの僅かな力だったが、啓介にははっきりと伝わってきた。
そして、その微かな反応は、二人の間の意思疎通には十分なものだった。


「あっ、早知子が笑っている。ほら、見て。早知子が笑っている・・・」
早知子の母親が叫ぶように言った。周囲にいた人たちが近寄り、一斉に早知子の顔を覗き込んだ。


早知子の表情が和らぎ、微かに微笑んでいた。呼吸も苦しげなものではなくなっていた。
早知子の手ははっきりと、生きた証を啓介に伝えていた。


日付が変わるのを待っていたかのようにして、早知子は息を引き取った。


   **


夢の中のような数日間が過ぎた。


葬儀が終わった後でも、啓介は、何が起こっているのか理解できない状態にあった。京都の病院に着いた時から、夢の中のような時間が流れていた。


古賀俊介と大原希美が早知子の大事を知ったのは、翌朝になってからだった。
二人は早知子の自宅に駆けつけ、近所の親しい人たちとともに遺体となって帰ってきた早知子を迎えた。


車が到着すると、二人は人目も憚らず遺体に駆け寄り、泣き叫んでいた。
啓介は彼の家族とともに、早知子が乗せられている車に付き従うようにして到着したが、泣き叫ぶ二人の姿も、現実のものとして受け取れていなかった。


事故は五条坂の交差点で起きた。
早知子が乗っていたタクシーが左折しようとしているところに大型トラックが追突したものだった。夕方であり、雨も激しく降っていた。
トラックが運転を誤ったものらしいが、タクシーが急に左折しようとスピードを落としたことも原因の一つといわれていたが、後部座席左側に乗っていた早知子は直撃される形になったのである。
タクシーは何回転かしてガードレールにぶつかり、運転手も重傷を負っていた。


不運といえばそれまでのことだが、この事故には何か不思議な偶然があるように思えた。


早知子が京都を訪れたのは祖父の家へ行くためで、これはよくあることだった。
しかし、早知子は普段は阪急電鉄を利用していた。自宅からだとその方が便利だからである。ところがこの日は、新大阪で人と会う約束があり、JRを利用したのである。


JRの駅からでも普通はバスに乗るのだが、雨が激しいことと荷物が多かったためタクシーを利用したらしいのである。
早知子は一人でタクシーに乗るのを嫌がっており、祖父の家を訪ねるのに一人でタクシーを利用したことなどこれまでにはなかったはずなのだ。


事故の後、すぐ近くの病院に運び込まれたが、一度も意識を取り戻すことなく、事故から三十時間程のちに亡くなったのである。




 

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天空に舞う   第十八回

2010-09-12 10:26:33 | 天空に舞う

   第三章  予期せぬ運命 ( 2 )


啓介は、ひと月余り学校を休んだ。
初七日の法要のあと、啓介の家族や三沢家の家族も普段の生活に戻ろうとしていたが、啓介は東京に戻る気持ちになれず、毎日のように早知子の家を訪れた。西宮の街の早知子と歩いた辺りを歩き、京都へも行った。


早知子の母親の顔を見るのは辛かったが、早知子の霊前に座らないと気が済まなかった。
白木を主体とした仮の祭壇に遺影やお骨が祭られていた。造花の蓮の華や回り灯籠がきらびやかで違和感があったが、一本立てた線香の煙の流れるのを見つめているうちに、いつか早知子の遺影と語り合っているような錯覚に襲われ、気持ちが落ち着いてくるように思われた。


啓介は、後ろに早知子の母親が座っていることさえ忘れたように長い時間を過ごした。
少し微笑んでいるように見える早知子の遺影は、啓介の心を鎮めてくれた。周囲の音が消え、早知子と過ごした日のことが思いだされ、人目を気にすることなく込み上げてくる悲しみに浸った。


一人でいると、悲しみというより無力感の方が強く、自分が何をしだすのか不安を感じるのだが、ここに座っている時は無心になることができた。
ただひたすらに、今のこの時にこみ上げてくるものに埋没し続けた。


啓介の両親はもちろんのこと、早知子の家族も心配して、早く立ち直るようにと逆に励まされたりもした。
啓介の心の中でも、早く西宮から離れたいという気持ちと、何のために東京に戻るのかという気持ちが交錯していた。いまさら大学に戻ることに何の意味があるのか、分からなくなっていた。


それでも、家庭教師の方が気掛かりになって東京に戻った。
早知子が亡くなってから三週間ほどが経っていた。

東京に戻っても、家庭教師の遅れを取り戻すことに専心して、大学はなお休み続けた。
啓介が家庭を訪問して教えている子は、二人とも高校一年の男子生徒だが、彼らが通う高校はいずれも進学校として有名な学校で、一年生といえどもすでに大学入試が視野に入っていた。


啓介の都合で後れを取ると、彼らの人生にさえ影響を与えることになるので真剣にならざるを得なかった。
そして、彼ら若い高校生への真剣な指導が、啓介の気力を蘇えさせるのに役立ったようである。

十月の下旬から大学の講義に出席し始めた。
遅れた部分は友達にノートを借りたが、語学などはどうにもならなかったが、同時に、抜けた部分も大した量でもなかった。
生活が少しずつリズムを持ち始め、啓介は以前にも増して勉強に打ち込んだ。余分なことを考える時間が発生しないように、自分自身を追い込むように勉強した。


しかし、いくら厳しく自分を縛ってみても、早知子のことを忘れることなど出来るものではなかった。


事故に遭う僅か十日程前のホテルでのことが、思いだされてならなかった。
めくるめくようなあのひとときは、早知子が最後の力を振り絞って、自分に全てを与えてくれたように思えてならなかった。今生での命の短いのを知って、せめての思い出を残してくれるために、その肉体の全てを投げだして、そのたましいの全てを燃やして、あの一夜を与えてくれたのだと思えてならなかった。


「とっても、不安なの・・・」と言った早知子のあの言葉は、何だったのだろうか。
啓介に初めて体を与えようとしていたことへの不安だったのか、それとも、十日後に起こる事故を漠然と予感したものだったのだろうか・・・。
啓介の心に強く残っている疑問だった。


そして、もう一つあった。
早知子が息を引き取る直前まで、啓介は早知子と会話を続けていた。言葉ではなかったが、繋ぎあった手の温もりを通して、早知子は啓介に話し続けていた。


「ずっと一緒よね。死ぬまでずっと一緒だと言ってくれたよね。そして、死んだ後もずっと一緒だと約束したよね・・・」


あれは、二人が初めて結ばれようとしていた時、早知子が言った言葉でもあった。あの時早知子は、やがて起きようとしている自分の運命を予感していたのではないだろうか・・・。


啓介には、そのように思えてならなかった。
今になって思えば、早知子は自分の運命を予感していたとしか思えないのだが、それは、あの時だけのことではなかった。


早知子は、清水寺から遥か向こうに見える墓地を指差して、あそこで自分も眠るのだと言った。冗談で言ったものではなかったのだ。
若い女性が、それも恋人宣言したばかりの男に言う言葉ではないはずだ。早知子が非常識な振る舞いをするような女性でないことは、啓介が誰よりもよく知っている。
あれは、自分の運命を予感していたのだ・・・。


さらに、湊川神社を訪れた時の、生まれ変わるということに対する早知子の異常なほどの関心は、日頃の早知子とは明らかに違うものだった。


そして、それらのことが運命を予感したものだとすれば、早知子自身は、それを意識していたのだろうか・・・。それとも、無意識のうちに表現していたのだろうか・・・。


はち切れるほどの幸せと希望の時から、突然に底知れぬ絶望の淵に落とされた若い心は、早知子との思い出に泣き、交わした約束を果たす手段の虚しさを思い、旅立っていった人の存在を求めて激しく揺れ動いていた。


これまでに学んだことも教えられたこともない未知の世界のことを模索し、確信できるものを掴めぬもどかしさに苦しみ続けた。
しかし、啓介の激しい心の揺らぎなど何の関係もないように、時間だけは一瞬も休むことなく流れてゆき、日が過ぎて行った。


 

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