第四章 新しい出会い ( 4 )
二人が初めて休日の日に会ったのは、初対面から半年程経った三月下旬のことである。
仕事のあと時間を調整しあって夕食を一緒にすることは、すでに当然のことのように二人の生活の中で定着していた。食事のあとは喫茶店に寄ることが多かったし、酒が主体の店に行くことも何度かあった。
しかし、二人とも休みの日に会いたいと思いながら、なかなか切っ掛けをつかむことができなかった。たまたま演劇の話になり、それを機に劇場へ行く約束ができたのである。
不器用な交際といえるが、啓介には美穂子との交際をさらに一歩進めることに、何処かにこだわりが残っていた。
土曜日の午後、JRの有楽町駅で待ち合わせて劇場へ行った。観劇の後の予定は決めていなかったが、夕食は一緒にすることにしていた。
劇場を出る途中で啓介の予定を確認したあと、美穂子は広尾へ行きたいと希望を言った。啓介に異論はなかったが、広尾へは一度も行ったことがなかった。
地下鉄に乗り、広尾の駅近くの喫茶店に入った。夕食にはまだ少し早かった。
「わたし、この街には敵意を持っていますの」
ショートケーキを前にした美穂子は、大きな目を輝かせて啓介を見つめた。生き生きとした表情からは予想できない意外な言葉である。
「敵意? 何だか、物騒な話だね」
「ええ、そうよ。とっても物騒なお話よ。でも、本当は、憧れ、かな・・・」
「ここへは、よく来るの?」
「学生の頃には時々来ていたわ。でも、卒業してからは今日が初めてなの」
「それで、何で敵意なの?」
「ええ、本当は、敵意と憧れが入り混じったような気持ち、かな…。学生の頃、とても仲の良い女の子がいたの。その子の友達が、ここの女子大に通っていて、ね。それで、その子に連れられてここへ遊びに来ていたの。ここの女子大生何人かとも一緒になって、よくおしゃべりしたわ。とっても楽しかったけれど、全然違うのよ。ほら、ここのケーキ、憎らしいほど美味しいでしょう。街の雰囲気も違うし、女の子が着ている服なんて、レベルが違うんですよ。わたしたちといったら、男の子か女の子か分からないような服装なのに、ここの学校の人はレディを絵に描いたような服装なんですよ。敵意が湧くのが当然だと思うでしょう?」
「へーえ、うちの学校の女の子はあまり素敵じゃなかったんだ」
「ここの人に比べたら、女の子の部類にも入らないほどよ。センスが違うって感じ」
「そうか・・・。杉井さんでも、そのようなことを考えていたんだ」
「そのようなことって?」
「今の話さ。他の人のおしゃれなんかが気になるんだ」
「気になりますよ・・・。わたしが、おしゃれのことなんか考えると変ですか?」
「そういうことではないけど、杉井さんて、そういうことにあまり価値を認めないと思っていたから」
「そうですか・・・。やはり、日頃の服装など、センス悪いですか・・・」
「いや、そういう意味ではないよ。いつもシャープな感じで、とても好感が持てる服装だよ」
「でも、あまり女の子らしくないんでしょう?・・・
ごめんなさい、学生時代のことを思いだして、あの頃の敵討ちを水村さんでしようとしているみたい・・・。もう、こんなお話、止めましょう」
二人は店を出て、少し先にある公園に入った。
啓介がこれまで会っていた美穂子の服装は濃い色のスーツが多く、シャープなキャリアレディとして隙のないものが多かった。
美穂子の会社では、内部事務用の女性の制服があるが、外出の時は私服が慣例だった。美穂子の場合は、社内にいる時でも来客と会うことが多く制服を着ることは殆どなかった。
啓介は美穂子のシャープな服装と背筋を伸ばして颯爽と歩く姿が好きだった。美穂子が言うようにセンスが悪いなど考えたこともなかった。
しかし、美穂子の話を聞いてみると、職業上のことといえるが、日頃の服装は地味なもので彩りも限られていた。
美穂子の今日の服装は、淡いグリーンのブラウスに濃いグリーンのスカートで同系色で統一されていた。羽織っている薄いカーディガンも淡い黄緑色で、啓介には洗練された服装に見えていた。
公園の中を少し進んでから、今日の服装が素敵なことを率直に述べた。
「本当ですか?」
喫茶店での話のあとだけに、わざとらしいと取られないかとの懸念があったが、美穂子は嬉しそうな顔で見上げた。
「もちろんだよ。すごく良いと思う」
「ありがとうございます。水村さんが褒めて下さると、とても嬉しいんです・・・。でも、わたしって、なかなか女の子として認められないんですよ、ね」
「女の子として認められないって?」
「ええ・・・。子供の頃からそうだったし、大学の時もそうだったんです。勤めるようになってからも、あまり女性として認めてくれていないみたい・・・」
「そんなことないですよ。それは、杉井さんは仕事ができる人だから、周囲の男性が対等に接するからでしょう」
「どうでしょうか・・・。わたし、それほどお仕事に熱心なわけではないんですよ。どうも、女性として魅力がないみたい・・・」
「そんなことないですよ。現に私は、杉井さんにすごく魅力を感じています。もちろん、女性としてですよ」
啓介は立ち止まって、真っ直ぐに美穂子の顔を見て言った。
いつもは大きな瞳を輝かせている美穂子だが、この時は視線を伏せていた。そして、その姿勢のまま少し歩いてから言った。
「わたし、いつか素敵な人に巡り逢えたら、この街で食事をするんだと、ずっと考えていたんです。水村さん、その役引き受けてくれます?」
啓介は美穂子の肩に手をやって、力を込めた。美穂子も啓介に体を寄せた。
啓介は力いっぱい抱きしめたい衝動に駆られたが、それを抑えて「もちろんだよ」とだけ答えた。そして、いかにも間の抜けた返答だと自分でも思いながら、ゆっくりと歩いた。
夕暮の公園に人通りは少なく、美穂子は啓介の腕を取った。
ゆっくりと歩調を合わせながら、啓介には自分が一歩踏み出そうとしている予感があった。心の中に早知子の姿が一瞬浮かんだが、その行動を押さえるようなことはなかった。
啓介は美穂子を正面にして抱き締めた。
美穂子は啓介の胸に顔をうずめていた。その顎の辺りに手をあてて、顔を上げさせた。美穂子は、きらきらと輝く瞳で啓介を見つめた。そして、そっと目を閉じた。
二人の初めてのくちづけだった。
美穂子の唇は少し震えているように感じられた。なぜか痛々しいような感覚を受けて、啓介はすぐに離れた。
少し遅れて、美穂子は目を開いた。その瞳は泣いているように潤んでいた。
「好きになっていいんだね」
と啓介は囁いた。美穂子は小さく頷き、再び目を閉じた。
啓介は再び唇を合わせ、美穂子の体を抱き締めた。美穂子も背を反らせるようにして抱かれ、懸命に応えた。
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