純真な子供たちの前には、月日を重ねただけの経験など、何の意味もないのかもし
れません。
昨日の「地域講座」での生徒たちの反応が、心にまだ強く残っているんです。
ひとつは反省なのですが、生徒たちに本当に役立つ話しが出来たか?と云う疑問。
もうひとつは純真な子供の前には、大人の都合のよい思惑など通じないと云う、得難い体験だったからなんです。
一応、「地域講座」のために数日前から、構成と話す内容は考えていました。
しかし、実際にはこちらの思い通りには反応せず、その場でかなり内容も変えた
りしたんです。
素直な子供たちには、小手先の話術など通用しませんね。
今まで大人数の前で話す機会は何度かあり、話しのツボもある程度心得ていたつもりなんですが、無垢な生徒たちの前では“つもり違い”だったようです。
むしろ、途中の休憩時間に生徒たちに取り囲まれ、ノートに描いたラフスケッチやマークの下絵を見せたのですが、彼らのその時の歓声の方が驚きでした。
こちらも純真な気持ちで描いたものだったので、多分通じたのでしょう。
今回の「地域講座」に出て、最近、その純真さが欠けているのに、気付かされました。
このところ、私に連続して起こる“小さな不幸”も合点がいきます。
多分、“神々”の怒りなのでしょう。
例えば昨日、山ノ神が作った弁当に、箸が入っていませんでした。
コンビニに行く時間もないので、私は仕方なく2本のボールペンを逆にして食べたのです。
(何とか食べれました。人生で初の体験です・・・)
家に帰り、山ノ神に話しても日頃の報いだと、取り合ってもくれません。
今日はある得意先から、支払いサイトの変更の相談を持ちかけられ、資金繰りに頭が痛いです。
(多分、先日の女神たちの怒りでしょう・・・)
象徴的だったのは、先日眼鏡を壊したことかもしれません。
どの神を怒らせたのか分かりませんが、目を覚ませということでしょうか・・・
美しいものには種類があります。
目に見える整ったカタチや色。
耳で聴こえる音やメロディー。
精神の気高さ。
一番基本なのは“無垢な心”かもしれません。
「地域講座」で生徒たちと接し、そんなことを思いました。
“女神たちよ汚れた心をお許しあれ”です・・・
れません。
昨日の「地域講座」での生徒たちの反応が、心にまだ強く残っているんです。
ひとつは反省なのですが、生徒たちに本当に役立つ話しが出来たか?と云う疑問。
もうひとつは純真な子供の前には、大人の都合のよい思惑など通じないと云う、得難い体験だったからなんです。
一応、「地域講座」のために数日前から、構成と話す内容は考えていました。
しかし、実際にはこちらの思い通りには反応せず、その場でかなり内容も変えた
りしたんです。
素直な子供たちには、小手先の話術など通用しませんね。
今まで大人数の前で話す機会は何度かあり、話しのツボもある程度心得ていたつもりなんですが、無垢な生徒たちの前では“つもり違い”だったようです。
むしろ、途中の休憩時間に生徒たちに取り囲まれ、ノートに描いたラフスケッチやマークの下絵を見せたのですが、彼らのその時の歓声の方が驚きでした。
こちらも純真な気持ちで描いたものだったので、多分通じたのでしょう。
今回の「地域講座」に出て、最近、その純真さが欠けているのに、気付かされました。
このところ、私に連続して起こる“小さな不幸”も合点がいきます。
多分、“神々”の怒りなのでしょう。
例えば昨日、山ノ神が作った弁当に、箸が入っていませんでした。
コンビニに行く時間もないので、私は仕方なく2本のボールペンを逆にして食べたのです。
(何とか食べれました。人生で初の体験です・・・)
家に帰り、山ノ神に話しても日頃の報いだと、取り合ってもくれません。
今日はある得意先から、支払いサイトの変更の相談を持ちかけられ、資金繰りに頭が痛いです。
(多分、先日の女神たちの怒りでしょう・・・)
象徴的だったのは、先日眼鏡を壊したことかもしれません。
どの神を怒らせたのか分かりませんが、目を覚ませということでしょうか・・・
美しいものには種類があります。
目に見える整ったカタチや色。
耳で聴こえる音やメロディー。
精神の気高さ。
一番基本なのは“無垢な心”かもしれません。
「地域講座」で生徒たちと接し、そんなことを思いました。
“女神たちよ汚れた心をお許しあれ”です・・・
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