一燈照隅

日本が好きな日本人です

テロ特措法は戦略的に。

2007年10月27日 | 時事問題
テロ特措法を本来議論しなければならないのに、油の量とか何処に使われたとか細かいことばかりが議論されています。
日本の自衛艦がインド洋に居ると居ないとで日本にとってどう影響するか、あるいはどう利用できるかであって、油の量とか何処に使われたとか議論して貴重な時間を使うのはあまりにも戦略がなさすぎます。

日本のシーレーンを自国で守る意思表示はどうなるのか。

それと今回のことで安易に防衛予算の削減に繋がらないようにして貰いたい。


【野口裕之の安全保障読本】存在感示す中国 インド対抗も日本は無策

アフリカ・マダガスカル北部にインドが租借・設置したレーダー・通信傍受施設がひそかに活動を始めた。インド初の海外軍事施設で、インド洋の艦船動向を掌握し、自国の権益を守るねらいがある。軍事は外交の一部だという真理を、インドが忠実に実行した結果にすぎないが、日本はその対極にある。インド洋での海上自衛隊による補給活動は、11月1日に法律上の期限を迎え中断される。「シビリアンコントロール=文民統制」を強調する割に、自信を持って軍事組織を外交に活用できない日本の姿は面妖だ。

 インドの当該軍事施設の運用は7月上旬に始まった。対テロ・海賊監視も任務の一つである。日印はともに、国連安全保障理事会の常任理事国の座を狙っているが、国際平和に向けた軍事貢献に限れば、インドに大きく水をあけられた格好だ。だが、最大の目的はエネルギー資源獲得に向け、アフリカ・中東にコネクションを構築し、輸送とその護衛のための海運・海軍拠点をパキスタンやミャンマー、バングラデシュ、スリランカなど、インド近隣諸国に張り巡らしつつある中国への対抗である。インドの石油輸入もまた、約9割が海上輸送に頼っているのだ。
 モーリシャスから租借した環礁にも同種の施設建設を計画している。インド国内のムンバイ、コチンの既存監視施設と、マダガスカル、モーリシャスの施設がリンクすれば、喜望峰とモザンビーク海峡からアラビア海に至る石油輸送航路の監視・警戒能力が飛躍的に向上する。昨年はモザンビークとの間で、同国沿岸の定期的哨戒協定を締結するなど、アフリカ東海岸へのインド海軍艦艇派遣により、プレゼンスを強化している。ムカジー外相は「海洋外交はインド外交政策の不可分の一部。インドの海洋権益は、領海をはるかに超えて増大している」とまで述べている。

 実は、海洋地下資源やエネルギー輸送航路など海洋権益の確保に関してわが国は有利な立場にある、はずだった。外洋を長期間航海できる装備・練度を誇る海軍力を保有しているからだ。
 海軍は軍事だけでなく海賊取り締まりなど、海上警察権も行使できるうえ、親善寄港や共同訓練、示威など外交・友好の権能も備えている。艦=基地ごと移動できる、陸空軍にはない海軍の効用がここにある。「軍事」「警察」「外交」が三角形を形成することで、時代と政府の要請により、三角形は二等辺であったり正三角形であったり、どの権能に重きを置くかで変幻自在に組織を変えることが可能だ。
 第一次大戦における大日本帝国海軍の戦略もこの「三角形」の延長上にある。欧州戦線が膠着(こうちゃく)すると、連合国は日本に陸軍派遣を強く要請したが、これを断ると同盟国・英国からも非難された。そこで、シーレーン防衛などを担うべく艦隊をインド洋や地中海に派遣。連合国に既占領地の権益を認めさせ、日英同盟決裂も回避ならしめた。時の政府が海軍の外交力を理解していた証しといえる。

 現下の日本の立場は第一次大戦時に似ている。米海軍の試算によると、地球上の枢要なシーレーンの安全を図るには1000隻態勢が必要だという。だが、展開可能な米海軍艦艇は280隻に満たない。同盟・友好国の支援が不可欠なのだ。
 政界でも、海自のインド洋における活動を「日米同盟」や「輸入立国・ニッポンのシーレーン安定」に資する-などと意義を訴える声はあった。だが、野党は海自が供給した燃料の「量」「使われた場所」などの追及に時間を費やした。だが、「力・利益」こそ国際政治の「支配的原則」だという、現実と国益を踏まえた議論は主流には成り得なかった。ドイツ出身の国際政治学者ハンス・モーゲンソー・シカゴ大教授は国際政治の正体をこう看破している。

 「利益は人間行動の支配的原理であり、対外政策の目的もまた利益である。力と利益の概念は国際政治において、時として道徳主義や法治主義に優先する」

 もっとも、この考え方は教授だけにとどまらない。実は、2500年も前に、孫子も同じ考えを説いているのである。