反日左翼は沖縄集団自決を、軍の強制があったとして教科書に載せようと必死に蠢いています。
しかし集団自決は梅澤元少佐と赤松元大尉の名誉回復のため「沖縄集団自決冤罪訴訟」として現在大阪地裁で裁判が行われています。
現在裁判が進行中の事を教科書に事実として載せるのは、いくら何でもやってはいけないことだろう。
しかも最近、自決は軍命令の強制はなかったという事実が出てきています。
そのようなおかしな事を、教科書執筆者や教科書会社、反日左翼は平気で行おうとしています。
それとも、裁判の被告に有利に働かすための活動も含まれているのだろうか。
「沖縄集団自決冤罪訴訟」での、梅澤元少佐と赤松秀一氏(赤松元大尉の弟)の意見陳述書を掲載します。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
集団自決、軍命令を否定する証言
しかし集団自決は梅澤元少佐と赤松元大尉の名誉回復のため「沖縄集団自決冤罪訴訟」として現在大阪地裁で裁判が行われています。
現在裁判が進行中の事を教科書に事実として載せるのは、いくら何でもやってはいけないことだろう。
しかも最近、自決は軍命令の強制はなかったという事実が出てきています。
そのようなおかしな事を、教科書執筆者や教科書会社、反日左翼は平気で行おうとしています。
それとも、裁判の被告に有利に働かすための活動も含まれているのだろうか。
「沖縄集団自決冤罪訴訟」での、梅澤元少佐と赤松秀一氏(赤松元大尉の弟)の意見陳述書を掲載します。
原告 梅澤裕 意見陳述書
沖縄集団自決冤罪訴訟第一回口頭弁論
(平成十七年十月二十八日)
一、梅澤裕でございます。現在、満八八歳になります。
座間味島島民の集団自決は私の命令によるものと報道されて以来、今日に至るまで、約半世紀にわたり、汚名に泣き、苦しんで参りました。
それら辛酸の数々と、この裁判に賭ける思いを、裁判官様に是非ともご理解戴きたく、この場をお借りして意見を述べさせて戴きます。
二、戦時中、私は、当初、昭和一四年九月から騎兵、戦車兵として従軍して参りましたが、昭和一九年一月、船舶兵への転科の命を受けました。
瀬戸内で夜間の猛訓練の後、同年九月、海上挺進第一戦隊の長となり、座間味島に入りました。
座間味島の人達は、当時沖縄で最も愛国的な村民で、誠心誠意の人達でありました。皆一致団結して軍に協力して戴いたので、私達も大いに感謝し、私以下部隊は親睦に留意し、非違行為は一件もありませんでした。
昭和一九年一〇月に座間味島で空襲があり、兵舎として使用していた学校が焼失し、我々が座間味村落内に舎営し分散した際も、老人婦人方には若い兵を息子の様に大事にして戴き、双方より食料を分かち合い、甘味品を分け合いました。
この空襲の際に優秀な鰹舟が煙を発したのを見て、隊員は危険の中を飛び込み消し止めました。之も村民に対する感謝の気持の現れに他なりません。座問味島の人達との関係は、極めて良好なものでした。
三、昭和二〇年三月二三日、沖縄本島に先がけ座間味島に米軍の空襲が始まりました。翌二四日に猛爆が始まり、二五日は戦艦級以下大艦隊が海峡に侵入し、爆撃と艦砲射撃で島は鳴動しました。このとき壕に隠していた特攻用の舟艇は殆ど破壊されてしまいました。
問題の日は翌三月二五日のことです。夜一〇時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が五名来訪して来ました。助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎、校長玉城政助、吏員宮平恵達、女子青年団長宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。
その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
1、いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。
2、老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
3、就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。
以上聞き届けて下さい。
その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。昭和一九年一一月三日に那覇の波の上宮で県知事以下各町村の幹部らが集結して県民決起大会が開かれ、男子は最後の一人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです。
私は五人に、毅然として答えました。
1、決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。
2、弾薬、爆薬は渡せない。
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、五人は帰って行きました。
四、終戦後、私は鹿児島の疎開先にて療養に励みましたが、座間味島の戦闘で受けた骨髄炎の傷が癒えませんでした。左膝が曲がらなかったため、尻をついて鍬を使い、畑を耕しておりました。
五、ところが昭和三三年頃、週刊誌に慶良間諸島の集団自決が写真入りで載り、座間味島の梅澤少佐が島民に自決命令を出したと報じられました。
私は愕然たる思いに我を失いました。そして一体どうして、このような嘘が世間に報じられるのかと思いました。
たちまち我が家は、どん底の状態となりました。人の顔を見ることが辛い状態となりました。実際に勤めていた職場にいずらくて仕事を辞める寸前の心境にまで追い込まれましたし、妻や二人の息子にも世間の目に気兼ねした肩身の狭い思いをさせる中で生きることになりました。
六、以後、沖縄返還問題に絡め、集団自決の問題はマスコミの格好の標的とされました。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで、ありもしなかった「自決命令」のことが堂々と報じられるとは、一体どうしたことか。座間味島の人達と励まし合いながら、お国の為に戦って来たのに、どうして事実が捻じ曲げられて報じられるのか。どうしてそのようなことが許されるのか。余りの屈辱と、辛さと、理不尽さに、人間不信に陥りました。孤独の中で、人生の終わりを感じたことすらありました。
七、しかし、昭和五七年六月二三日に「ざまみ会一同地蔵尊建立慰霊祭」が座間味村で行なわれた際に、私は昭和二〇年三月二五日に私を訪ねた五人のたった一人の生き残りであった宮城初枝さんから「戦傷病者戦没者遺族援護の申請の際に、梅澤隊長の自決命令があったと記載しましたが、それは事実ではなく梅澤隊長は自決命令を出しておりません。申し訳ありません」と詫びて貰いました。
さらに昭和六二年三月二八日には自決した宮里盛秀氏の実弟で座間味村の戦傷病者戦没者遺族の援護を担当した宮村幸延氏からは援護申請のために梅沢隊長の自決命令があったと虚偽を記載して申請したことを、申し訳ありませんと詫びの念書を貰いました。
これで、世間もおさまってくれるだろうし、座間味の人の苦労を考えると補償が得られ、助かり、沖縄が復興するのであるから私一人が悪者になったことも意味があったかとも思いました。
ところが私に対する事実に反する誹諺中傷はなお、やまないままでありました。
沖縄が復興し、皆が豊かになった今は私の名誉を回復したいとの思いが日々強くなりましたが、一人ではいかんとも出来ない状態でした。
八、しかしながら、長年の思いが実り、様々な方のご支援とご協力を得、この度ようやくこの場に立たせて頂くことが出来ました。
戦後六〇年が経ち、日本は平和を取り戻しました。しかしながら、真実に反する報道が続いている限り、私自身に終戦は訪れません。理不尽なことに沈黙したまま、名誉を汚され続けた状態で人生を終えることは、正に痛恨の極みという他ないのです。
私は沖縄の復興を衷心より願っておりますが、沖縄が復興し、豊かになった今、私の名誉回復を果たし、一刻も早く心の平穏を取り戻し、日本国民と同じ心境で、今日の平和のありがたさを心から享受したいと切に願っています。
どうか私の長年の思いをご理解戴き、踏みにじられて来た私の名誉が回復出来ますよう、切にお願い申し上げます。
平成一七年一〇月二八日
梅 澤 裕
原告 赤松秀一 意見陳述書
沖縄集団自決冤罪訴訟第一回口頭弁論
(平成十七年十月十八日)
原告 赤松秀一
沖縄戦当時、25歳で元海上挺身第三戦隊の隊長を務め、特攻断念ののち、渡嘉敷島の死守を命じられた赤松嘉次大尉の弟の秀一です。
そもそもの事の起こりは、沖縄タイムスからの昭和二十五年に出版された『鉄の暴風』によって兄が『神話的大悪人』に仕立て上げられました。当時は終戦間も無いドサクサの時期で、渡嘉敷島に渡ることすら出来ない中、直接関係のない証言者からの聞き取りを元に米軍の占領下にあった沖縄の風潮にあわせてでっち上げられたものです。これが一人歩きしまして昭和三十四年には時事通信社から沖縄タイムスの編集長上地一史氏が『沖縄戦史』、続いて岩波書店から中野好夫氏の『沖縄問題二十年』家永三郎氏の『太平洋戦争』などが何れも『鉄の暴風』の孫引きで出版されましたが、当時は兄や家族に対する批判はそれほどひどいものではありませんでした。
沖縄返還(昭和四十七年)を目前にした四十五年三月末、兄は渡嘉敷村長はじめ村民の招きを受けて『集団自決二十五回忌の慰霊祭』に参加する為、戦友の方々と共に沖縄に渡りましたが、兄は独り労働組合、反戦団体などの抗議集団に取り囲まれて渡嘉敷島に渡ることが出来ず、翌日船をチャーターして花束を贈るという事件が起こりました。これを、全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて兄の悪評が一気に広がりました。大江健三郎氏の『沖縄ノート』は、この風潮に便乗するが如く、その年の九月に岩波書店から出版されました。その中で兄は住民に集団自決を命令した悪の権化であると決めつけられただけでなく、嘘と自己欺隔を繰り返す恥知らずな人間として描かれました。
一方、「人の罪をこのような明確さでなじり、信念をもって断罪する神のごとき裁きの口調に恐怖を感じ」、そこに描かれた神話的大悪人の話に疑問を抱かれた曽野綾子氏は、九月に行われた慰霊祭参加報告会を皮切りに多くの関係者に積極的かつ精力的に取材され、関連文献を調査されてついに四十八年五月、『ある神話の背景沖縄渡嘉敷島の集団自決』を出版され、兄の戦隊が特攻に出撃しながったのは兄の上官である大町船団長の命令であること、軍からは自決命令は出ていないこと、軍は島民の食糧は徴発していないことなど細部に至るまで検証されており、この本が兄や家族をはじめ戦隊の方々の大きな心の支えになったことと思います。
私自身も新聞、雑誌があまりにも書きたてるので或るいはと疑いを持ったこともありましたが、お蔭で兄への信頼感は揺るぎないものとなりました。
悪評を書いた著者もこの本を読んで誤りに気づきおいおい廃刊に至るであろう、これで一件落着と思っておりましたが、五十五年には兄も亡くなり、『ある神話の背景』が絶版となった後も岩波書店では『沖縄ノート』などは現在に至るまで版を重ねてたいした修正もなされずに出版されていることを最近になって教えられました。また学校の歴史の教科書にまで『軍命令で集団自決』と書かれていることを知りました。
本土防衛の犠牲となった多くの沖縄の方々のためならと、汚名を忍ぶことで年金が給付されるならと、敢えて沈黙を守った兄の気高い心情が踏みにじられていると感じました。名状し難い心の痛みとともに、虚偽がまかりとおる今の世の中に対して強い怒りを覚えました。
兄の無念を晴らし、後の世に正しい歴史を伝える為にもと今回の提訴を決意しました。
裁判所におかれましては、この想いを受け止めて下さり、公正迅速な審理を遂行していただけますよう、心からお願い申し上げる次第です。
平成17年10月28日
赤松秀一
(沖縄集団自決訴訟を支援する会会報より)
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
集団自決、軍命令を否定する証言