一燈照隅

日本が好きな日本人です

祝日はその日に意味がある。

2007年10月08日 | 今日は何の日
ハッピーマンデー法により、「体育の日」が10月の第2月曜日になりました。
祝日は日々にも意味があるので、それが毎年変わるようでは祝日の意味が薄れてしまいます。
「体育の日」も、戦後の焼け野原から復興した日本の姿を改めて世界に示した東京オリンピックの開催を記念して作られたものです。
しかも、連合国(国連)からすれば旧敵国と言うことで、スポーツの世界でも対等に扱って貰えない時期もありました。
東京オリンピックのもう一つの大きな意味は、西欧以外のアジアの国で初めて開催された事です。
そう言う意味でも、この10月10日は人々の心に大きく残っていることでしょう。
祝日は祝日となる日に意味があるからその日に決めます。それを忘れることをしては文化の破壊にも繋がるでしょう。
「体育の日」から「東京五輪の日」に変えても良いのではないだろうか。


Japan On the Globe(182) 国際派日本人養成講座----------
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_/ 人物探訪:フレッド和田~二つの祖国
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_/ _/_/_/ 敗戦後、肩身の狭い思いをしてきた日系人たちは、
_/ _/_/ 祖国日本から来た水泳チームに熱い期待を抱いた。


■1.日系人たちの期待■

 昭和24年8月13日早朝、選手8名からなる日本水泳チームがロサンゼルスに到着した。18日からの全米水泳大会に出場するスポーツ界戦後初の海外遠征である。

 当時、日本はいまだ占領下にあり、保有外貨はゼロ。民間人の海外渡航は難しい時代だった。それを可能としたのが在米日系人の支援であった。飛行機代と滞在費で2千ドルが必要なところ、日系人たちの寄付は3千ドル以上も集まった。

 ロスを中心とする西海岸だけで10万人以上の日系人が住んでいたが、彼らは日本の敗戦で肩身の狭いをし、白人から「ジャップ」と蔑まれてきただけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。

 選手たちは出迎えたフレッド和田の車で、彼の自宅に向かった。和田は野菜や果実を中心としたファーマー・フレッズ・マーケット10店舗の経営者で、巨額のローンで2百坪の邸宅を購入したばかりだった。和田はそこで選手たちの宿泊から食事まですべて自費で面倒見ようと申し出ていたのである。

■2.身を立てる■

 フレッド・和田勇の父、和田善兵衛は明治25(1892)年に和歌山県からカナダのバンクーバーへ出稼ぎ漁師として移住、その後、同郷の玉江と結婚し、1907(明治40)年にフレッドが生まれた時には、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。

 しかし生活苦のため、フレッドは4歳の時に和歌山の母方の祖父母に預けられた。9歳で米国に戻ったが、弟たちが次々と生まれ、居場所がなくなって、12歳の時からシアトル郊外の農園に住み込んで、雑役夫をしながら学校に通った。

(略)  

■6.和田夫妻の思い入れ■

 前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、日本は参加できず、日本選手権を同時期に開催して記録の上で競うことにした。1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速い世界新記録だったが、公認されなかった。

 日本のプールは短いに違いないとか、日本のストップウォッチは壊れているとか書き立てるアメリカの新聞に和田らは悔しい思いをしていた。そこで日本の選手たちに良い環境を提供して万全の体調で臨んで貰おうと和田は考えたのである。妻正子は、茄子のみそ汁や牛肉の照り焼きなど、おいしく、栄養のつく日本食でもてなした。

 日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。選手の一人の橋爪は、フレッドや正子と同じ和歌山出身であり、故郷の茶粥に舌鼓を打った。練習のためのオリンピック・プールへの送り迎えはフレッドが担当した。

 選手達は、日系人達の思いに、深く期する所があった。

■7.再建日本の姿■

 8月16日の大会初日、1500メートル自由形予選A組に橋爪が出場した。橋爪は最初から飛ばし、200メートルで早くも2位以下の米国勢に完全に水をあけた。飛ばしすぎではないか、途中で息切れするのではないか、と和田は心配した。

 しかし橋爪はそのまま2位を150メートル以上も引き離してゴールインした。タイムは18分35秒。それまでの記録を一気に20秒以上も短縮した世界新記録である。

 続くB組ではライバルの古橋が好スタートを切った。1000メートルを過ぎたころから記者席がざわつき始めた。最後の100メートルでは腕でぐいぐい引っ張る泳法に変わった。疲労しきって、最後の力を振りしぼって頑張るときに見せる古橋独特の泳法である。和田は、必死に泳ぐ古橋の姿に胸を打たれた。

 18分19秒。橋爪が出したばかりの世界新をさらに16秒も縮める大記録である。スタンドのアメリカの選手たちは、全員ボーと眺めているのみであった。古橋と橋爪をたちまち50人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。

 両選手の大記録には日本でも号外騒ぎだった。読売新聞はこう報じた。

 両選手の世界新レコードが場内にアナウンスされた瞬間こそ再建日本の姿がスポーツを通じて全世界に認識された瞬間であり、われわれは改めて両選手の功績に対して深い感謝の意を表するものである。

■8.一夜にしてジャパニーズ■

 翌日の決勝は古橋と橋爪のデッドヒートとなった。結局1位古橋、2位橋爪、3位田中と日本勢が独占した。観衆は総立ちで選手を讃え、そこここで日系人たちのバンザイの声がわき起こった。フレッドも正子もバンザイをしながら、止めどなく涙があふれた。

 結局日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも圧倒的な得点で優勝を飾った。

 日本選手団がスタジアムを出ると、興奮さめやらぬ大勢の日系人が玄関で待ち受けていた。その中から年老いた一世の老婆が一団に近づき、「ありがとうございました」と拝むようなポーズをとって、ハラハラと涙を流した。会釈を返す選手たちも涙を誘われた。和田は再び胸が熱くなった。

 和田邸での内輪の祝賀パーティーて、乾杯のあとでフレッドは、涙を浮かべつつ、次のように挨拶した。

 さきほど監督さんが新聞社との電話で、在留邦人が理解してくれたおかげだと言うてくださいました。しかし本当にお礼を申し上げなければならないのは、私たち日系人なんです。古橋さんたちの活躍によって、ジャップと呼ばれておったのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになりました。さっき一世のお婆さんが皆さんに手を合わせて感謝しておりましたが、拝みたくなる気持ちはよう分かります。

■9.東京にオリンピックを■

 全米水泳大会以来、和田は日本からやってくる各種競技選手団の面倒を見続けたが、1964(昭和39)年のオリンピックを東京に誘致することになり、岸首相から日系人でただ一人、東京オリンピック準備委員会委員を委嘱された。

 オリンピックを契機に、産業道路が整備され、それによって自動車産業が発展するなど、経済基盤、社会基盤の強化が進み、またアジアで最初のオリンピックを日本で開くことで、国民の精神作興も期待できる。和田は燃えた。

 僕は東京でオリンピックが開けるのなら、店のことなどどうなってもええ思うとる。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることができるやろう。

 しかし、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなども立候補するという情報が入っていた。和田は中南米諸国の票がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと提案した。

 首相からの親書と、外務大臣の手配で、和田は特命移動大使級の権限を与えられた。昭和34(1959)年3月29日、フレッドは、正子と共に、プロペラ機に乗り込んで、10カ国を一ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。

■1.ムチャス グラーシャス■

 東京でのオリンピック開催への支持を訴えるべく、和田夫妻が最初に訪れたのは、メキシコのオリンピック委員クラーク将軍だった。フレッドは、いきなりスペイン語で挨拶し、スペイン語の名刺を渡した。

 クラーク将軍が頬をゆるめて、「スペイン語ができるのですか?」と聞くと、「ロスの店ではメキシカンをおおぜい雇っているので、挨拶ぐらいは自然にできるようになりました。」と答えた。将軍は一層気をよくした。

 フレッドがメキシコからは野菜や果物を沢山仕入れており、自分は大のメキシコびいきだと言うと、将軍も「私は親日家です。改めて握手しましょう」と応える。そして和田が東京オリンピックへの支持を訴えると、将軍はこう言った。

 和田さんの熱意には感服しました。ロペス大統領は私が責任を持って説得します。五輪大会と称されながら、アジアで一度も開催されていない点に重きを置くべきですよ。アジアで最初にオリンピック大会を開催できる国は日本をおいてほかにはないでしょう。

 将軍はその場で中南米諸国のオリンピック委員全員に対して、東京開催を支持するよう依頼する書状を書いてくれた。和田は天にも昇る気持ちで「ムチャス グラーシャス ヘネラル クラーク(ありがとうございます。クラーク将軍)」とうわずった声を上げた。

■2.革命直後のキューバ■

 メキシコで首尾良く支援の確約をとりつけてから、二人はキューバに赴いた。革命直後でまだ戒厳令下にあり、空港の至る所で兵士達が銃を構えている。オリンピック委員のモインク氏は、二人を危険な目に会わせてはならないと、ホテルまで出向いてきた。

 革命直後のキューバにお出かけいただいただけでも、感謝しなければなりません。和田さんご夫妻は、ラテンアメリカを1ヶ月以上もかけて回るそうですね。祖国のためとはいえ、そこまでなさる熱意に頭が下がります。

 正子が答えた。

 フレッドは、「東京オリンピック」に限らず、祖国のことになりますと、夢中になってしまうんです。

 和田の祖国愛に胸を打たれたモインクは、東京への投票を確約してくれた。

■3.ブラジル日系人の思い■

 ブラジルの委員からは、東京開催を支持するが、総会の開かれるミュンヘンまでの旅費2千ドルを援助していただけないか、と依頼された。和田は「結構です」と即答した。ブラジルには日系人もいるし、もし寄付が集まらなかったら自分で出そうと思ったのだ。それを聞いたブラジルの日系人会幹部は言った。

 和田さんご夫妻がこんなにご苦労されているのに、われわれが手を拱いているとしたら、ブラジル日系人の恥ですよ。2千ドルぐらい何とでもしますから、われわれにまかせてください。

 それを聞いて和田は胸が熱くなった。祖国日本に思いを寄せている日系人は、ブラジルにも大勢いるのだ。

 チリでは、オリンピック委員が総出で、空港まで和田を出迎えた。祖国のために自費で歴訪している和田の姿は、各国に感動の渦を巻き起こしていた。

■4.圧勝■

 5月初めにようやく長旅を終えて、ロスに帰った和田は、その月末には国際オリンピック委員会総会の開かれるミュンヘンに飛んだ。店の方を心配する正子を、5日間だけと、なんとかなだめて出てきたのだった。和田は中南米の委員達と食事を付き合いながら、それとなく東京への投票の念押しをした。

 投票の結果は、1回目で東京が58票中34票の過半数を獲得して、招致を決めた。2位のデトロイトが10票で、文字通りの圧勝だった。アジアと中南米の票が決め手だった。

 日本からのオリンピック委員はホテルで結果を待つ和田に一刻も早く知らせようと、会場を出た。駆けつけてきた和田を見つけると、バンザイでもするように両手を高く掲げて、こう言った。

 和田さん、決まったよ。34票もとった。驚いたよ。こ
んなにとれるとは思わなかった。和田さんのお陰だ。ほん
とうにありがとう。

 二人は抱き合って喜んだ。和田が中南米の委員達の所にお礼
に行くと、みなが東京開催を祝福してくれた。

 和田は日本オリンピック委員会の名誉委員に任命され、引き続き、東京オリンピック成功に向けての助力が要請された。さらに同行した東龍太郎・東京都知事が、和田へのお礼として名誉都民の称号を与えたいので、このまま一緒に東京に行ってもらえないか、と聞いた。しかし、正子に電話すると、「男なら帰ってらっしゃい。子供が褒美をもらいに行くようでおかしいですよ。」と一喝されて諦めた。

■5.日本はこれで一等国になったのや■

 昭和39(1964)年10月10日、東京オリンピック開会式。
フレッドと正子は、ロイヤルボックスの前方シートに座っていた。やがて全観客が起立して、天皇皇后両陛下、続いてアベリイ・ブランデージ国際オリンピック委員会会長を迎えた。メーンポールに五輪旗、日章旗、東京都旗がはためく中で、君が代が吹奏された。フレッドも正子も、君が代を聴くと、いつもながら粛然とした思いと、熱い思いがないまじった身の震えるような感動を覚える。

 続いて選手団の入場。和田夫妻が東京誘致を働きかけた国の 一つ、キューバの選手団は、ロイヤルボックスの前で、内ポケットから日の丸の小旗を取り出し、一斉に振りながら行進していく。拍手と歓声がスタンドにこだました。フレッドはキューバのモインク委員の親日的な態度を思い出した。

 続いて、ブランデージ会長が挨拶で「オリンピック大会は全世界のものである証左として、ついにここ東洋で行われようとしています。」と述べた。引き続き、天皇陛下が開会宣言をされると、聖火台の下でファンファーレが鳴り渡った。フレッドは涙がこぼれてならなかった。

 日本はこれで一等国になったのや。戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った。

 天皇陛下とマッカーサー元帥の並んでる写真は忘れられませんねえ。新聞で見たときパパが悔し涙を流したのを覚えていますか?

 あたりまえや。あんなショックは生まれて初めてやった。マッカーサーはノータイで、シリのポケットに両手をつっこんどった。天皇陛下はモーニング姿の正装だったのに、、天皇さんがオリンピックの開会を宣言したことは、日本が一等国になった証やと僕は思う。ほんまよかった。

 (略)
■6.「よし、引き受けた」■

 続く1968年のオリンピックでは、和田は東京招致を支援してくれたお礼に、2ヶ月近くもメキシコに滞在して、招致活動から開催までのあらゆるノウハウを伝授した。和田の献身的な協力に感動したロペス大統領はメキシコ招致成功の礼状と記念品を和田に贈った。

 さらに1969年には、ロサンゼルス市長からオリンピック開催の協力を求められた。ロス港の港湾委員会委員という要職に任命して、その立場からオリンピック誘致を支援して貰いたいという。和田は快諾し、オリンピックだけでなく、ロス港と和歌山港、清水港との姉妹港関係締結などを通じて、日米貿易発展に尽力した。

 和田は後には、港湾委員会委員長まで務めたが、71年に余生を日系人の老人ホーム建設に打ち込む決意を固めて、港湾委員会を辞任することとした。ところが、ロス市議会は満場一致で和田の留任要請決議を行ったのである。市議会始まって以来の椿事だった。ある議員はこんな支持発言をしている。

 ミスター・ワダに頼み事をして叶えてくれないことはありません。どんなことにも、嫌な顔をせず、「よし、引き受けた」と言ってくださいます。ミスター・ワダほど誠実で心やさしく、実行力のある人をわたしはほかに知りません。

 市会議員たちが自宅に詰め寄っても、和田の決心は変わらなかった。市長は記念の盾と感謝状を贈って、和田の功績を讃えた。しかしその後、和田はロサンゼルス・オリンピック組織委員の51人の中でただ一人東洋系人種の中から選ばれ、再び、日系老人ホーム建設とオリンピック誘致・準備と、多忙な毎日を続ける。

■7.日系引退者ホームの父■

 パイオニアとして働いてきた日系一世たちは年老いている。
いまこそ、お世話になった彼らに恩返しをすべきだ。和田はそう考えて、1961年に日系二世の有力者と相談して、日系社会福祉財団を組織し、シティ・ビュー病院を賃借して日系人のための診療を開始した。年取った一世たちにとって、日本語で日本人の医者と看護婦に診てもらえることは、何よりの安心だった。

 69年には、看護病院の敬老ナーシング・ホームを開設したが、施設建設のために、50万ドルの融資が必要となり、和田や他の日系人リーダーは、自宅を担保物件として提供した。港湾委員長を辞任した71年には、姉妹施設として南敬老ホームの開設にこぎつけた。
 
 75年には、3エーカーの土地と大小13棟からなるユダヤ系老人ホームを100万ドルで購入し、日系引退者ホームを開いた。資金は和田がリーダーとなって、わずか5ヶ月の募金活動で調達した。一世たちは体が言うことをきかなくなると、日本人の生活に戻りたくなる。日本食をとり、日本語で仲間と語り合う生活こそ、望みなのである。

 しかし、老人たちを救うだけが目的ではありません。三世、四世の若者達に後顧の憂なくアメリカ社会で仕事をしてもらうためにも、引退者ホームは必要なんです。・・・
ビジネスの世界で失敗するとお年寄りの面倒が見切れないとか、老後が心配だとかいうので、お前たちが失敗しても大丈夫なように、おまえたちのお年寄りは全部面倒見てやる、だから失敗を恐れずに思い切って仕事をやれと僕は言うとるんです。

 和田の考えは、常に前向きである。

■8.アメリカで根付いた日系社会■

 1989年3月17日、5階建て収容人員154名の日系引退者ホーム新館が完成し、オープンセレモニーが開かれた。新館建設のための募金活動は日本でも行われ、和田は何度も来日して、各方面に働きかけた。今まで和田にお世話になったスポーツ関係者や政財界が和田の呼びかけに積極的に応え、日本での寄付総額は4億36百万円に達した。

 式を前に、広場で新館を見上げる和田夫妻の目は潤んでいた。
正子は言った。

 この施設は、アメリカ全体の日系社会のシンボルになると思います。そして3世、4世へと時代を超えて受け継がれてゆくんです。

 うん。僕たちの苦労は報われたのや。

 パパは7人、私は5人兄弟で、わたしたちの従兄弟は26人おるけど、それぞれがファミリーを持って、二世、三世へと扇のようにひろがってくるんですねえ。日系社会はアメリカで根づきましたが、われわれを受け入れてくれたアメリカに感謝しなければなりませんねえ。

 二人はいつのまにか、老人達の輪の中にいた。和田に向かって手を合わせる老人もいる。寄る辺のない日系老人達にとって和田は拝みたくなるような存在だった。「元気そうやねえ」と、和田に優しく手を握られ、涙ぐむ人も多かった。

「誠実、勤勉、奉公」など戦前の日本人が大切にしていた生き方を台湾では「日本精神」と呼ぶが、和田に代表される日系人たちは、その生き方で北米や中南米の地に受け入れられ、しっかりと根をおろしたのである。
(文責:伊勢雅臣)

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