一燈照隅

日本が好きな日本人です

彼らは祖国を愛しました…Ⅰ(東京裁判12)

2006年07月15日 | 東京裁判
東京裁判の弁護側最終弁論の一つで、右田政夫、広田洋二、ウイリアム・ローガンの3人が起草した最終弁論があります。
ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)の問題から、アメリカから挑発された自衛のための戦争であり、責任は聯合国にあると述べています。
そして最後に、祖国を愛するが故に戦端を開かずを得なかったとして最終弁論を締めくくっています。
かなり抜粋になりましたが、
日本人ならこの最終弁論をぜひ読んで欲しいと思います。


〔起草者〕
右田政夫
広田洋ニ
ウイリアム・ローガン
一、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋に於ける公然の戦争行為の開始を告げた時より十三年前、アメリカに於きましては著名なる政治家の一団が、今は有名なケロツグ・ブリアン平和条約に対しアメリカが之を批准することの是非を議する為にワシントンの国会議事堂に集つて居つたのであります。そしてこの一団中には同文書共同草案者の一人たる時の国務長官フランク・B・ケロツグその人が交つて居りました。

二、その時に行はれました審議は議事録に収められ居るのでありますが、その審議の進行中、ケロツグ長官は「国家が攻撃されるのではなくつて経済封鎖を受けるとしたら―?」といふ質問を受けました。ケロツグ長官は「戦争しないで封鎖などといふことはありません」と答へました。その時一上院議員が「さういふ事は戦争行為です」と云ひますと、ケロツグ長官は「断然戦争行為です」と云つて之に同意しました。

三、同じ会議中、ケロツグ長官は上院議員一同に対して次の如く述べました。「先に御説明申上げました通り、私は今日、或る国家にとつて回避することの出来ない問題である、〈自衛〉若くは〈侵略者〉といふ語について之を論じ定義する事は、地上の何人と云へども恐らく出来ないであらうと思ふのであります。そこで私は次の結論に達したのであります。即唯一の安全な方法は、どの国家も、自国が受けた攻撃は不当なりや否や、自国が自衛の権利を有するや否やを自国の主権に於て自ら判断する事であつて、たゞこれに就いては、その国家は世界の輿論に答へなければならないといふ事であります」(a)。
(a)第七十回国会外交委員会審議、一九二八年十二月七日金曜日

四、右は之を以てアメリカの政治家達又は政治指導者達に対する兎角の批判の材料によるとして引用したのではなく、唯一国家の経済安定に干渉することは恐るべく且つ劇烈な行動なのであるといふ考へ方は、少くともアメリカ合衆国には確固として存在する思想なのであるといふ事を示さんが為であります。

五、パリ条約の草案者自身がかゝる経済干渉を以て断然戦争行為であると見倣して居りました事実を、本法廷に対して指摘いたします為に、我々はこの偉大にして博識なるアメリカ人が、一国家がその実際に遭遇してゐる状勢に立脚しての自国の自衛権の有無を判断するのは、国家としての当然の権利であるといふことを、極めて率直に容認した事実を簡単且つ明瞭に示す為に、そのケロツグ長官自身の言葉を弦に引用いたしたのであります。

六、次に申述べます意見は本法廷が戦争の開始せられました一九四一年十二月八日以前の暗黒期に於て、太平洋域に存在しました状勢の真相を把握せらる、ための御便宜に供せんとして、提言いたすものであります。我々は次の諸問題を提出致し度い叱思ふのであります。即、日本は予め樹てた計画の帰結として、即ち日本がそれまで恰も小児的信仰を以て、自国の経済維持の源泉として依存して来た諸強国に対し、之を打破し且つ支配することを、その唯一の目的とする野望的計画の実現化として、欧米列強に対する侵略戦争を教唆し遂行したのでありましたらうか。それとも日本は日本存立を脅威する諸外国の侵害に対して、国際上承認せられた自衛権―即、如何なる筋に於ても、之を彼等の主権に属する処として異議を差挿むことのないものでありますが―之の行使を試みたものでありましたらうか。

七、戦争の道具は多種多様であります。人間が進化すれば科学は進歩し、各国は自国維持の必要上相互に依存し合ふ程度が増大してくるのでありまして、さうなりますと戦争の仕方も、火薬を爆発せしめそれによつて敵を殺す方法ではなく、それとは異り、しかも相手国の抵抗力を減じ自国の意志に服従せしめんとする、同様に恐るべき性質の手段を取るやうになります。今日我々は第三次の世界大戦といふ病気を未然に防止する為には、経済療法が必要であるといふ叫を世界の至るところに於て聞くのであります。一国からその国民の生存に必要な物資を剥奪することは、確かに、爆薬や武力を用ひ強硬手段に訴へて人命を奪ふのと変るところの無い戦争方法であります。と申しますのは、それは緩慢な行動を以て相手国の抵抗力を減じ結局は在来の敵対行為として用ひられた方法と同様確実に之を敗北せしめることになるからであります。そしてこの方法は、緩慢なる餓死といふ手段で徐(おもむ)ろに全国民の士気と福祉を減耗する事を目的とするものでありますから、物理的な力によつて人命を爆破し去る方法よりも、一層劇烈な性質のものであるといふ事さへ出来るのであります。

八、検事側は連合国は日本に対して専(もっぱ)ら軍用品供給の削減を目的とする経済封鎖を行つたと申立てて居りますが、証拠はこの経済封鎖が、日本民間の総ゆる種類の物品や貿易、更に追て明かにいたします如く、食物にまで影響した事実を物語つて居ります。

九、之は一国家を圧倒的優勢の船舶を以て包囲しその貿易の自由を奪ふ従来の封鎖の方法以上のものでありました。即それは経済的に有力、且つ非常に優越せる諸強国が、その存立並に経済を世界貿易に依存する一箇の島国に対して採つた行動であつたのでありました。

十、アメリカが採つた行動は、起訴状に於て告訴せられてをります如く、日本の対中国侵略を抑制する手段であるとして正当化しようとする検事側の理論に対しまして、日本側は欧米諸国が東洋に於ける実状を理解することを拒んだのであるといふ声明を以て、断乎之に答へて居ります。一国の主張するところが正しかつたか否かを論じますことは重要でなく且不必要であります。証拠としての実際の価値は次の事実にのみ存するのであります。即ち、日本と欧米諸国との間に正当な論争点が存立したといふ事-即国家主義的な考へ方
からでありませうとも、さうでない考へ方からでありませうとも、何れにいたしましても日本が脅迫威圧せられて居つたといふ結論に到達せしめうる問題―が実際に存立した事を示すことに証拠の価値は存するのであります。もしこの敗戦国政府の指導者達が、日本は脅威せられて居るといふ概念を抱きました事に対し、その当時、正当な根拠があつたのでありますならば、一国家が危殆に置かれた場合は、自衛の為の決定権を有するといふ諸国家一致せる国際的発言に従つて、侵略といふ要素は消散するのであります。この点を念頭に置きまして、我々は一歩進んで聯合国の対日経済活動を指摘致し法廷の御参考に資し度いと存じます。而して我々は独り彼等のこの経済活動に関して事実を明らかにしますばかりでなく、更に進んで同じく聯合国の対日提携軍事活動について明かに致すでありませう。

十一、日本はかゝる事実を喜ばなかつたとはいへ、聯合国が行ひました経済封鎖は日本に対する戦争行為に外ならないものであると断定する権利を有(も)つてゐたのであります。がそれにも拘らず日本はその特有の忍耐力を以て、円満にこの争を解決しようと試みたのでありました。然るに経済封鎖は強化せられ、軍事的包囲の脅威と相俟って、遂に日本をして自国の存立の擁護の為には、最後的手段として戦争に訴へざるを得ないと考へしむるに至つたのでありました。日本がこの聯合国の経済封鎖を以て直(ただ)ちに宣戦布告に等しきものなりと解釈する事なく、平和的解決を交渉に依て忍耐強く追求いたしました事は、永遠に日本の名誉とするに足る処であります。更に我々が見逃し得ざる事は、この期問中聯合国は軍事的活動をしてゐなかつのではなく、その反対に、中立国の合法的行動としては殆ど承認致し難い方向に向つて彼等の計画を進めて居つた事であります。日本は之等の行動を明瞭に敵性行為であると認めて之に対する反対行動を起したのであります。日本は長年の間東洋の諸問題に干与し来つて居つたのでありまして、西半球に於ける出来事、特にアメリカの事柄に干渉してゐたのではなかつたといふことは、永久に忘れてならないものであります。地球の向側の世界に対し強ひて干渉を行つたのは欧米諸国であつたのであります。

十二、検事側は侵略戦争の何たるかを論じたる冒頭陳述に於きまして、侵略といふ語を左の如く定義して居ります。即ち「最初に挑発せられずして行える攻撃乃至戦闘行為、最初の加害行為、若しくは戦争乃至紛議を惹起せしめる最初の行為、襲撃、又侵略戦争の場合の如き攻撃乃至侵略の実施」。

十三、「紛争の解決に当り、調停を為すこと又は調停を受けること、若くは其他の平和的手段を受諾することを拒否し、武力の行使若くは戦争行為に訴へようとする国家」といふ定義であります。

十四、本法廷に既に提出せられました申立の事実によりまして、太平洋戦争は日本による侵略戦争ではなかつた事が検事側自体の下した定義に於て既に示されてゐる、といふことが明確に立証されてをります。其れは不当の挑発に基因した、国家存立のための自衛戦争であつたのであります。

日本経済は戦争を目的として計画し発展したるものに非ず

十五、この裁判の結論に到達する前に、日本が数世紀に亙つて平和を愛好する国家であつたことを考へて戴き度いのであります。日本国民はその固有の文明、永き年月に亙る高度の文化、太古より伝つたその道徳と伝統を尊んで満足して居りました。その為、その港を鎖し、自ら外界と絶縁し、その島内の資源によつて甘んじて約(つつ)ましやかな生活を楽しんで来たのであります。然るに西洋諸国が戦争と武力征服の永き歴史を内容とする彼等の所謂文明がこの国の門戸を開き、その海港に交易を求め来り、海外との接触を誘ふに至つて、始めて日本は波瀾の中に乗出したのであります。帝国主義と武力による植民地開拓は正に酣(たけなわ)でありました。日本が強ひられてひと度その長き隠遁の生活から一歩表に出づるや、忽(たちま)ち世界の紛争と陰謀と戦争の真直中に飛込んでしまつたのは、何の不思議もありませんでした。日本はこの新生面に興味を持ち始めました。その人口は急激に増加しその国内資源を以てしては国民を賄ふことは出来なくなりました。法廷が熟知せらるゝ如くこの国は耕地は極めて狭小であり、しかもその勾配のある土地にあつては耕作は非常に困難なのであります。やがて利用し得る耕地のみでは国民を支へることが出来ないと考へられ、殊にその人口が毎年百万人も増加して行く為一層それが痛感されて参りました。法廷証第八六五号(GG-24)の検察側の解釈は、小畑〔忠良〕証人の証言(a)によつて否定されました。人口政策の主目的は保健に関するものであつて、昭和十六年迄は明確ではなかつたのであります。
(a)記録二九、一五一-二九、一五二

十六、日本政府は耕地の拡張並に作物の輪作によつて食料増産を図り、一応は成功致しました。更に朝鮮、台湾に於ける農業開発に努め、これも亦成功を収めました。ついで移民が奨励されましたが、これは欧米諸国の与へた種々の障碍(しょうがい)によつて失敗に了りました。経済的窮乏に直面し乍ら政府が唯手を拱いて空しく坐してゐるならば、その罪を責めなければなりません。

三八、更に米国国務省報告によれば昭和十二年七月七日、支那事変勃発後数ケ月間は、日本経済は全面的に表面、平時の基礎の上にあつたことは事実である。即ち戦略上の必要から緊急の必要品を要することとなつた時に初めて戦時統制政策が講ぜられたといふことであります(a)。又同報告は戦前でも日本は戦時経済は発達せしめ得ず又同時に其政策に応じて製品の取引も出来なかつたことは明かであると指摘してをります。
(a)書証二七九七、速記録二五、〇九三

四九、一九三八年(昭和十三年)三月十七日近衛公は国家総動員法の提出に就て演説した
(a)。それが一九三八年五月に終に法律と成つたが、之は支那事変が始つてから十ケ月後のことであつた。一九三八年二月二十四日斎藤〔隆夫〕氏は国家総動員法採用の必要に就いて議会で演説した(b)。彼は支那事変は吾人の「想像以上に重大な規模となるに至り」日本の不拡大方針や現地解決主義は実現不可能に陥つたことを指摘した。彼は事変の将来を予言は出来ぬが、併(しか)し前途は頗(すこぶ)る遼遠(りょうえん)であると考へてゐた。彼は又此の事変は凡(あら)ゆる紛擾(ふんじょう)の源泉を成すことを立証するもので、日本の将来には幾多の大困難が附纒(つきまと)つてゐる。故に人員、天然資源及物資に対し、或る程度の統制を加へ、国防の強化を計らねばならぬことを強調してゐる。近衛公も亦此の法案は軍需品の補充及戦争遂行に必要なる、凡ての国家的活動を円滑ならしめる為に必要なることを説いてゐる。
此の法案の眼目とする所は、政府をして時局の現実的要求に即応して緊急手段を取り得る様にせしむるにある。彼はその当時一九一八年の軍需工業動員法が存在してゐたことを指摘してゐる。併しながら此の法律はその範囲が充分でなかつた上に、支那事変が発生したので、その欠陥を補ふ為に此の法案が提出されたのである。彼は又「此の法案の内容はその大綱に於て軍需工業動員法と支那事変に関する諸種の臨時法規に盛られた諸事項を基礎としたものである」と述べてゐた(c)。該法案には評議員会の設置に関する特別の規定が含まれてゐる。此の規定に関し、合衆国国務省は評議員会を設けんとする該法案の規定は、此の法案の軍事的権能を無効にしてゐると報告して斯く云つてゐる。即ち「併乍(しかしなが)ら此の法典の適用の下に採らるべき手段を審査する為、五十名の評議員(大部分貴衆両院より撰ばれる)から成る国家動員評議員会の設置を決定したことは、工業の国営化に対する闘争に於ける軍の武器としての此の法の効果を無効にする傾きがある」と(d)。合衆国の報告には尚又日本の一有力刊行物から次の記事を引照してゐる。即ち「一九四〇~一九四一年に於てですら日本の経済は大体に於て個人企業に依つて融資され経営されてゐた。そして此の個人企業は比較的軽微な政府の干渉の下に、自己の純益と配当を処理してゐたのである。各種の工業の上に励行された広範な国家的計画の意味に於ける統制は、尚未成期にあつた」云々(e)。植村に依つて証言された通り、事実上日本は国家動員に対する準備に於ては、他の国々に比し遅れてゐた。彼は国家総動員法の立案に際しては第一次世界戦争当時の大英国統一国防法、及之に随伴する伊太利及チエコスロヴアキアの国家総動員法、及一九三五年米国国会に提出され、当時上院で審議中なりし合衆国国家総動員法第五五三九号等を参照したと述べてゐる(f)。
(a)書証二七九四、速記録二五、〇六九、二五、〇七一
(b)書証二七九二IC、速記録二五、〇六一、二五、〇六三
(c)速記録二五、〇六八、二五、〇七一
(d)書証二七六八、速記録二五、〇九九
(e)書証二七六八、速記録二五、一〇〇
(f)書証二八〇二、速記録二五、二一〇、二五、二一五

六三、一九三七年七月二十九日、人造石油工業法律案及帝国燃料開発会社法律案が議会へ提出された。右法律案中に、日本は石油資源に於て、甚だ乏しきこと、及び日本は現に多額の費用を費消し、且石油の需要が増加したことに付て述べてある。又是等法律案の目的は自給自足にあると述べてある(a)。日支事変が始まるまで、日本に於て、石油の貯蔵が全然なかつたと岡田は証言した。日支事変が始まつてから、アメリカ原油と最小限度の飛行機用ガソリンを陸軍用として、輸入した。これこそ、我陸軍の初めての貯油であつた。当時、日本は総体として、著しくガソリンに不足し、民間のガソリンを陸軍用へまはしても辛うじて一年間に対する陸軍航空を賄ふに足るに過ぎなかつた。
(a)法廷証二七八一-A、記録二五.〇一三

六四、検察側は石油工業の計画的増加に言及して居るが、右の増加が、一九三九年までは採用されなかつたことは認めて居る。
一九三四年と一九三五年との間に一九三九年の計画を実行する為め、法律案が通過したといふ検察側の主張は、当然維持することは困難である。検察側は一九三八年三月(a)
官民用石油消費規制の為め、配給制度が実施されたる事実に就き言及してゐる。日支事変で、戦争が進行中である以上、此消費規制は不思議ではない。各国に於ては事実上、戦争に入る前に於てさへ配給を行つた。
(a)F一三

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