一燈照隅

日本が好きな日本人です

彼らは祖国を愛しました…Ⅱ(東京裁判13)

2006年07月15日 | 東京裁判
ローガン弁護人最終弁論Ⅱ

対日経済封鎖

七一、ハル国務長官に依れば「事実上の対日通商停止は一九三八年に始まつた」(a)のであります。
一九三八年七月一日、航空機及び航空機部分品の製造業者、及び輸出業者に対する米国国務省の回章の結果として、日本の商社はアメリカ製の航空機及航空機部分品を輸入する事は、事実上不可能となつたのであります。此のことは堀内日本大使からハル国務長官への書簡の中に指摘されました。彼は此の行為は一九一一年二月十一日附日米通商航海条約第三条第五項の規定に違反したものであると抗議したのであります(b)。
一九三九年七月二十六日此の条約は通告後六ケ月の期限で廃棄されたのであります。ハル国務長官に依れば「……其の条約中の最恵国約款の作用は、日本の通商に対する報復手段の採用に障礙(しょうがい)を及ぼすからである」といふ理由からでありました(C)
(a)法廷証二八四〇、記録二五.四〇九
(b)法廷証二七九九、記録二五.一五四、二五.一五九
(c)法廷証二八四〇、記録二五.四〇八

七三、我々は法廷に対し通商禁止商品及びその禁止効力発生の日附を全部こゝに一々申し上げて法廷を煩さうとするものではありません。然し乍ら此の事柄を含んだ別紙附録「A」に法廷の御注意を喚起致したいのであります。此の附録を一通りざつと御覧になれば日本の一般人の日常生活に絶対に必要な多量の生産品の多くが含まれてゐることが明らかになるのであります。その中の或物は勿論軍需品に変更することができたでありませう。日本は戦争目的に使用せられ得るものを輸入することができなかつたために、この期間に戦争準備をなしたとするリーバート及検察側の主張を調和させることは困難であります。米国は多くの場合斯様な物品の日本に対する唯一の輸出国でありました。

七八、他の国籍の船舶はパナマ海峡通過を許されてゐるに拘らず、日本の汽船三隻が同海峡に於て停止を命ぜられたので一九四一年七月十八日合衆国国務長官代理に対し援助が求められました(a)。
(a)法廷証第二八二五、速記録二五.三〇八

八三、日本を太平洋戦争に突入させたと決定を下すについて当法廷が信頼し得る最も重大な声明は、恐らく唯今述べたルーズヴエルト大統領の言明であります。ルーズヴエルト大統領が前述の声明の作成に当り、健全な経済状態が世界の平和確立に必要であることを十分に認識してゐたことは否定出来ない動かすべからざる結論であります。此は新しい意見ではないけれども、日本との貿易封鎖方針が齎(もたら)した恐しい結果は不健全な経済状態が戦争の主要な基礎原因の一であるといふ見解の正当性を示して居ります。戦争を防止しようとしてゐる不幸な国々に経済援助を与へる戦後政策は、斯様な政策の賢明なことを示して居ります。若し一国に経済的援助をなす事が戦争を防止し得るとするならば、一国を経済的に窒息せしめる念入りな計画は戦争の正当な理由であります。本法廷は十七年間に亙る世界紛争の原因と結果とを吟味する先例なき機会を持つたのであります。此の法廷の判決の光は、世界を戦争の暗黒より平和の光明へと導き出すでありませう。その重要さに於ては、被告の運命を決定する法の深遠なる判定よりも遥かに勝るものがありませう。恐らく前述のルーズヴエルト大統領の声明は、国家的境界を越えての経済的機会均等の世界的承認への道を開くものでありませう

九四、凍結令の日本民間人の生活に与へた甚しい衝撃は証拠により充分に証明された。多種の貿易産業、日用品など、その存在そのものが原料輸入と軍需品生産に関係なき製品の輸出とに依存したのであつたが、これ等は直ちに影響を蒙つた。これ等のあるものは次の通りである―
セメント、アルミニユーム、鉄、銅、石炭、米、陶器、玩具、ガラス及びガラス製品、薄荷脳(はっかのう)、茶、大豆、燐鉱石、油脂及油引物品、鞣革及鞣革製品、ポタシユーム塩、小麦及び小麦粉、亜鉛、砂糖、材木、織物機械、硫黄及硫酸、羊毛及羊毛製品、海産物、ソーダ、灰分、苛性ソーダ、化学窒素、人造絹糸及人造繊維、自転車、電気装置、絹織物、綿
布、ゴム及びゴム製品、人造絹布及原棉(a)。
証拠はなほ凍結令が米、飼料、家畜、砂糖、肥料、塩其他の如き(b)基本的日用品に影響したことを示してゐる。多くの民間人が日常生活上依存した綿布、羊毛、絹及人造絹の如き物資に関係ある日本の織物業が実際休止の状態に置かれた(c)。
(a)書証三七一四、速記録三六.九六八、弁護証五〇〇A-一-五〇〇A-三七
(b)書証三七一〇-A、速記録三六.九六六
(c)書証三七一二-A、速記録三六.九六八

九五、日本船舶が地球上の諸地点に運搬してゐた種々の商品は、凍結令の結果全く輸送されなくなつた(a)。日本の輸出入の蒙つた影響の程度は品名別、国名別、政治団体別に如実に裁判所に提示された(b)。
われわれはこゝで序に一九三六年に総噸数約五百万噸に上る殆んど二千艘の外国船が、大連に入港した(c)ことが認められる時は、検察側のいふ満洲国との外国貿易は、同国建設後実際休止したといふ主張は根拠がないことを述べて置く。
(a)書証三七一一-A、速記録三六.九六七
(b)書証二七六六-A、書証二七六六-B
(c)書証三七一三-A、速記録三六.九六八

九八、証拠は、凍結令を含み米国の採つた前進的手段の結果として、日本の憤怒は益々高まり、近衛は和解運動に主導的役目を採り、野村大使は総理大臣近衛よりの書簡を手交して大統領にこれを知らせた。油はソ聯へ送られ蒋介石にはマグルーダー大将を首班とする軍事委員を送る決定がなされたと声明されたのはこの頃であつた(a)。情勢は緊迫して磯田〔三郎〕少将は代将シヤーマン・マイルズに次の如く指摘した―「日本は窮地に追ひつめられた。日本をこゝまで押し込めることが出来る。これからはたとへ米国との戦争は日本の最も望まない処であつても、日本の国民的名誉と保全を救ふためには米国と戦はねばならぬであらう」。マイルズ代将はまた米国参謀長に送つた覚書で「磯田少将の訪問は日本大使及国務省間に今進行中の会談と明かに並行してゐる」と述べた(b)。
(a)書証二八三五、速記録二五.三六〇、二五.三六三
(b)書証二八五六、速記録二五.五八五、二五.五八七

一〇一、戦争が勃発した場合の船腹についても、また調査が行はれた。噸数の損失、石炭及び鉄獲得の不能、手持物資の消耗のため、日本の反撥力は疑問であると感ぜられた(a)。
陸海軍及民間の持合せた油の総量は、日本がもし戦争に駆り込まれた場合、強国に対し、空中に於てまる一ケ年、海上作戦に於て一ケ年間持続し得るのみなることが示された。船舶業に関する観測と結論とは、いかなる延長戦の遂行にも船腹が悲しむべき程に欠乏してゐることを示した。
(a)速記録二四.八七〇

一〇二、日本人が米政府の誠実さの程度を疑ふに至らしめたことが、一九四一年十一月十日附のグルー大使からの覚書に述べられてゐる。彼は次の如く述べた。「日本の大臣は日本がその存在のため原料を必要とすることを訴へた。そして米政府がこの事実を認めなければ会談の成立は六ケ敷(むつかしい)だらう」と。彼は、六ヶ月以上日本政府は、米国の見地に歩み寄るやう当て込んだ提議をなしたが、米政府は少しも譲歩しなかつたと指摘した(a)。
(a)書証二八三八、速記録二五.三九四

一〇三、前述のことは日本の存在そのものに肝要な日本の貿易が封鎖されたから、ケロツグ長官及びこの法廷が宣言した事実及び法律上からして、日本が攻撃に出たのは正しかつたことを充分に証拠立てる。この結論を支持する証拠は、日本側よりのみ出てゐるのでなく、封鎖の当初に西洋諸国の正当な代表者達によつてなされた声明からも引出されてゐることは、注意すべきことである。既述の経済的証拠に加ふるに、われわれは今また日本の戦争決意に主要な役目を演じた軍事的包囲の脅威に関する事実を指摘する。

対日軍事行動

一〇四、前述の如き、日本に対する経済的圧迫の政策を以て西欧列強は相提携して、軍事力を以てその政策を強行する為一層強硬な而も峻烈な措置をとるに至りました。中国に対し軍隊と戦争資材とを提供し、その結果として中国の土地に日本人の血潮を流す事になり、而もそこに対日侵略はなかつたと検察側は果して正当に主張し得られませうか。日本が日本を取り巻いて固く張りめぐらされてゐた軍事上の包囲陣に対して反揆すべき正当な理由を持つて居つたかどうかを証拠を調べて検討して見ませう。事実は日本が自己防禦の為に攻撃を加へるべき正当な挑発権を持つて居つたといふ事を充分に証明するのであります。

一一三、日本を目的として行はれました次の手段は、昭和十六年(一九四一年)四月シンガポールに於いて開催されました極秘の米、蘭、英会談でありました。此等の会談の報告は次の如く述べて居ります。
「日本占領地及び日本本国に対する航空作戦を立てる事が重要であります。経済的に封鎖し、海軍に依る圧迫を加へ、又航空機に依る爆撃を加へれば、日本はその結果崩壊するでありませう」。
それは又潜水艦及び空軍の作戦にとつて、ルソン島が攻撃基地として価値ある事に言及致しました。そして中国に同様の部隊を設けると共に、ルソン島に爆撃部隊を維持する様あらゆる努力が払はれるべきであると勧告しました。又それは「陸軍及び空軍の雇傭(こよう)計画」といふ題名の下に、「中国ゲリラ部隊は聯合国に依り武器を供給され、装備され、指示を受けて活躍して居つた事」を指摘して居ります。この様な作戦を立てる為、手段は英国政府によつて已(すで)に講ぜられてありました。合衆国政府は同様のゲリラ部隊を組織する事を勧告されて居ります。
その報告は尚次の様に述べて居ります―
「日本及び占領地域に於ける破壊工作の組織。此の様な種類の工作は已に英国政府に依つて組織されつゝあります。合衆国も又此の様な工作を企てるべきであり、英国と協力して該工作を密接に組織立てるべきことが勧告されて居ります」(a)。
(a)法廷証二八五一号-A、記録二五.五四七、二五.五四八、二五.五五〇

一一四、昭和十六年(一九四一年)五月二十七日ルーズヴエルト大統領は無制限の国家緊急状態が存在すると主張し、彼は亦、合衆国の計画はこれに対して大砲や戦車や飛行機や艦船を造るべき時間的猶予を与へたと述べました。当時彼は亦「アメリカ諸国に於ける我々は、我々アメリカ人の権益が攻撃されるか或は我々の安全保障が脅かされる様な事態が生ずるかどうか、又起るとするならば何時何処でなどゝ云ふ問題に関しては、我々自身で決定して行くだらう」といふ重大発表を行ひました。これは根拠のない申立ではありませんでした。若し合衆国が何時自国の安全保障が脅かされるにいたつたかといふことを、合衆国自身で決定すべき権限を持つべきであると主張するならば、同様の法則は日本に関しても適応されるべきであると提案されます。

一一六、昭和十六年(一九四一年)六月五日野村大使は合衆国国務省官吏に、日本がABCD包囲陣から受ける脅威に関して関心を持つてゐる事を申述べました。報告によればアメリカ人飛行機搭乗員の重慶派遣等、種々なる方面に於いてアメリカが蒋介石を援助しつゝあるといふ事を野村大使は申述べました。アメリカの供給物資は馬来(マラヤ)及び蘭領東印度へ送られつゝあつた事、又彼の様な海軍軍人にとつては、儀礼的といふよりも寧ろ一層大きな重要性を帯びたものであると思へる様なアメリカ艦隊のオーストラリヤ訪問があつた事、そして更に極東ロシヤに対するアメリカの援助の見通し、及びシベリヤに於けるアメリカ空軍基地の獲得などの事に関する観察を申述べました(a)。
(a)記録二五.七三三

一一七、又昭和十六年(一九四一年)七月二十日野村大使がターナー提督に依つて記録されました会談に於いて、合衆国が中国に対して与へつゝあった援助について不平を訴へ、若し中国に対し産業上、軍事上の支持を与へないで放置しおくならば重慶政府は現在の事変を継続してゆく事が不可能となり、さうなれば日本は中国の大部分の地から撤兵する事が出来る様になるだらうと指摘した事実から推して、日本は軍事的包囲陣の事を知つて居り、且つこれを恐れて居つたといふ事が判明するのであります。彼は又合衆国がビルマ道路を改善し、重慶へ送られるべき飛行機及び搭乗員を補給しつゝあつた事及びこれらの搭乗員が合衆国軍隊から供給されて居つた事等を指摘しました。彼は又英国が重慶政権を支持する方針に益々献身しつゝあつた事も述べました。且つ又彼は、日本が南方から若し攻撃を受けた場合、日本の安全保障の為に、及び尚一層重慶の活動を抑制する為に、仏領印度支那の占領が必要になつたので、日本は二、三日中にこれを実施する積りであるといふことを明らかにしました。彼は又日本軍が仏領印度支那を占領しつゝあるといふ事が知られたならば、合衆国は直ちに日本に対して経済、軍事両方面に亙つて更に進んだ行動をとる様になるだらうといふ懸念を申述べました(a)。
(a)法廷証二八二五、記録二五.三〇八、二五.三〇九

一二二、十一月二十七日海軍作戦部長スターク大将及び陸軍参謀総長マーシヤル大将は大統領に覚書を用意し、相当数の陸海軍増援部隊がフイリツピンヘ至急派遣されたこと、又「総兵力二万一千名に上る地上軍が昭和十六年(一九四一年)十二月八日迄に合衆国を出港する予定である」ことを報告致しました(a)。経済封鎖が効を奏した事、及び日本は遂には戦争に捲き込まれつゝあるといふ事を明瞭に知りながら、合衆国陸軍省より十一月二十七日に通牒が発せられました。それは「日本政府が元に戻つて交渉を継続する事を申込むならばといふ、誠に儚ない可能性があるのみで、日本との交渉はすべての実際的目的にとつては終止符を打たれた様に思はれる。今後の日本の行動は予測出来ません。併し何時でも敵性行動をとるだらうといふ事は考へられます。若し戦争が(翻訳者註-原文不備)不可避的なものであるならば、合衆国は日本が最初の明瞭な行動をとる事を希望します」(b)といふことを述べたものでありました。殆んど同一のメツセージがハワイヘ発せられ、マーシヤル将軍からフイリツピンに於けるマッカーサー将軍の許へ電報が送られました。又同様のメツセージが海軍からも発令されました(c)。
(a)法廷証二八五九、記録二五.六二二
(b)法廷証二八六〇、記録二五.六二〇
(c)法廷証二八六一、記録二五.六二一、法廷証二八六二、記録二五.六二二

一二七、南部仏印に進駐前日本政府は、其の頃までに欧洲諸国に依てなされた積極行動に就て充分承知してをり、且つ其れに対応する行動を採つたのであります。日本が知つてをりましたことは、合衆国海軍が昭和十五年五月以来日本の脅威として布畦(ハワイ)に碇泊してゐたこと(a)、軍備拡張の目的で合衆国は各種の経費を計上しました、其の結果合衆国の海軍は一層強大となりましたこと(b)、ハル国務長官が之より先き昭和十五年七月英国に対しビルマ経由の援蒋中止に対する抗議をしましたこと(c)、ヤーネル提督が又昭和十五年七月八日既に対日強硬政策を提言してをりましたこと(d)、昭和十五年八月にはアラスカに第十三海軍区が創設され(e)、昭和十五年九月には太平洋に於ける合衆国領土に対し、八百万弗に上る海軍建設予算の細目に関する発表があり(f)、次いで昭和十五年九月には両洋艦隊建設並に空軍増強に関する合衆国政府の声明があり(g)、昭和十五年十月にはノツクス海軍長官がアメリカは三国同盟の挑戦に応ずる用意ありと宣言し(h)、昭和十五年十月東亜在住の婦人子供に対する引揚勧告が発せられ(i)、昭和十五年十一月には蒋政権に対し一億弗借款成立の発表あり(j)、同月マニラ及びシンガポールを連絡する汎米空路の設立あり(k)、英国に於てはイーデン外相が下院に於て対日非協力を宣言し(1)、又ルーズヴエルト大統領が昭和十五年十二月二十九日アメリカは三国同盟と戦ふ民主主義の造兵廠たらんと放送し(m)、又モーゲンソウ大臣が昭和十五年十二月三十日蒋介石及びギリシヤに対する借款拡大の用意ありと演説し(n)、昭和十五年十月及び昭和十六年四月にはシンガポール及びマニラに於て米、英、蘭陸海軍代表に依る各種協議あり(o)、昭和十六年二月には蒋政府が二百台のアメリカ飛行機の購入契約を完了せりとのノツクス大臣の発表あり(P)、昭和十六年二月には濠洲、東南亜細亜、泰、シンガポール及び蘭領印度に対し合衆国より海軍顧問及び軍事視察員の派遣あり(q)、昭和十六年三月及び五月には支那ゲリラ軍に対する英国の指導(r)、昭和十六年三月には合衆国艦隊のニユージーランド及び濠洲訪問(s)、昭和十六年三月には対支援助並にビルマに対する共同防衛案を含む英支軍事協定の調印(t)、昭和十六年四月にはマニラに於ける米、英、蘭代表会議(u)、昭和十六年早々米、英、濠、新、蘭に依る太平洋地域又は其の附近に於ける根拠地の武装(v)、昭和十六年五月旅団長クラゲツト将軍が蒋介石軍隊援助の為めに重慶に到着し(W)、昭和十六年五月にはシンガポールに於て英支会談が開催され(x)かくしてマニラ及びシンガポールを枢軸とする対日包囲戦線の強化が着手されつゝあつたこと等であります。然し此の証拠は今まで論駁されたこともなく、又何れの証人に対しても反対訊問は試みられなかつたのであります。
(a)記録三六.二四七
(b)記録三六.二七四
(c)記録三六.二四五
(d)記録三六.二四七
(e)記録三六.二四六
(f)記録三六.二四六
(g)記録三六.二四七
(h)記録三六.二四七
(i)記録三六.二四八
(j)記録三六.二四八
(k)記録三六.二四六
(1)記録三六.二四八
(m)記録三六.二四五
(n)記録三六.二四五
(o)法廷証三五六七 記録三四.六八二
(P)記録三六.二四五
(q)法廷証三五六六 記録三四.六七七
(r)法廷証三五六七 記録三四.六八二
(s)法廷証三五六六 記録三四.六七七
(t)法廷証三五六七 記録三四.六八二 
(u)法廷証三五六六 記録三四.六七七
(v)法廷証三五六六 記録三四.六七七
(W)記録三六、二四五
(x)法廷証三五六七 記録三四.六八二 

一二八、昭和十六年七月二十一日、日仏間に相互防衛に関する諒解成立し、正式に文書の交換が行はれました。其の翌日此の協定に基いて日本は南部仏印に進駐したのであります。
昭和十六年七月二十九日、日仏間に仏印共同防衛に関する議定書の正式調印をみました(a)。所が其の間に於て、日本の南部仏印進駐はアメリカの国防及び利益を害ふものであるとの名目のもとに、アメリカは昭和十六年七月二十六日、対日一般経済断交を強行するに至りました。
併しながら斯(かか)る名目は正当であると言へませうか。
(a)法廷証六五一、記録三六.二五一、三六.二五二

一三〇、昭和十六年七月二十九日の日仏議定書及び日本軍の南部仏印進駐が、何(ど)うして合衆国又は英国の国防や利益を脅威することになるのであるか、吾々は之を理解するに苦しまざるを得ないのであります。日本の国策は昭和十五年九月二十二日に締結された前記の協定に明白に示されてありました。同年即ち昭和十五年六月十二日、日本が泰国と締結した二国間の友好関係の保持及び領土保全の相互的尊重に関する条約の前文に於ても、同じく東亜の平和と安定とは、両国共通の関心事であると確信するが故に、本条約を締結するに至つたのであると宣言されてゐるのであります。日本が泰、仏印間の国境防備紛争を仲裁せむと申出たのは、日本の国運に最も重大な影響を及〔ぼ〕すところの仏印及び泰国の平和と安寧とに関する事件に他ならなかつたからであります。昭和十七年の友好条約は、此の仲裁が成功した結果として締結されたものであります(a)。
(a)法廷証六四七、記録三六.六二五

一三二、本議定書を注意深く吟味し之に就て熟慮を巡らしてみるならば、吾々は単に自衛の為めといふ消極的目的を以て締結せられたる本議定書が、如何にして米英への脅威を構成するに至るのか、その理由を発見するに苦しまざるを得ないのであります。斯様な次第でありますから、米英両国にして仏印の安全を脅威するの意図が無ければ、前記解釈の通り此の議定書は両国にとつて全く無害であつたのであります。それは要するに、日本にとつて自衛の手段に過ぎなかつたのであります。両国はこの自衛手段こそ米英に対する脅威であると称して、原因と結果とを転倒して考へてをるのであります。

一三三、対仏印工作当時、海軍軍令部第一部長は、蒋政権に対する米英の援助が及ぼしつゝある影響のため斯る手段が不可避となつたのであると述べました。援蒋は目に見えて活溌となつて来ました。米、英、支、蘭は、所謂A、B、C、D、包囲陣を形成する為めに協力一致の行動をとりつゝありました(a)。太平洋に於ける国防の重責を担へる日本海軍は、昭和十六年七月に於ける米英蘭の対日戦闘準備を知悉(ちしつ)してゐました。而して日本はぢりぢりと包囲されつゝあるといふのが、海軍の信念でありました(b)。
(a)記録二六.九一一、二六.九一二
(b)記録二六.七一二

一三四、上記の如く考へれば、米英が日本の仏印南部進駐を重視したのは、日本に対する資産凍結及び経済関係の断絶を行ふための単なる口実に過ぎなかつたといふ結論に自ら達するのであります。米英は全く平地に波瀾を捲き起したものであると云ひ得るのであります。日本の仏印進駐の是非及び資産凍結の問題は暫く措くとしても、日本が自国が脅威を受けつゝあつたこと、そして自衛の為めに昭和十六年七月の議定書締結が必要であると正直に信じたことは、前述の事情が充分に之を実証してゐると述べ得るのであります。前述の事柄が確証する西欧諸国の諸行動の為めに、昭和十六年七月二十六日以後事態は益々日本にとつて忍び難きものとなりました。

一三五、御前会議の開かれた昭和十六年十一月五日及びそれに先立つ渾沌たる国際状勢を説明して、被告の一人は簡潔に然かも的確に日本の苦境を次の如く描出してをります。
「聯合国は、吾々が之を世界に認めさせるのが困難なほど効果的に、日本に対する経済封鎖を実行しました。吾々は驚愕を以て合衆国の増大する軍備を眺め、之が独逸一国のみを相手とする戦争の為めの軍備であるとは推論することが出来なかつたのであります。アメリカの太平洋艦隊は、ずつと前から西海岸基地から布畦に移動し、日本に対する脅威となつてゐたのであります。合衆国の対日政策は、妥協なき諸要求の貫徹を強行せむとする決意を示すなど、厳格にして非同情的でありました。又アメリカの対支軍事経済援助は、日本民衆の気持に最も深刻な苦痛を与へたものでありました。聯合諸国は、はつきりと日本に敵意を示せる軍事会議を度々開催しました。当時日本の感じた気持は、一種身動きならぬ張りつめた陥穽にをちいつた様な気持でありました」(a)。
(a)法廷証三五六五、記録二四.六五八、二四.六五九-嶋田

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