反日マスコミが日本にとって、いかに害悪を垂れ流しているか慰安婦の問題で改めてよく分かる。
日本の国益を無視し日本人を貶めるのは当たり前。日本人としての誇りを無くすようにしている。何処かの国のエージェントのようです。
自分達の報道が事実と違うことが分かったら、論点をすり替えてあくまでも主張する。己の捏造や間違いは決して認めない。このようなマスコミは犯罪者です。
終戦記念日を間近に控えた、昭和59年8月5日の朝日新聞に「南京虐殺現場の心情 元従軍兵士の日記見つかる」と題した記事が掲載されました。
朝日新聞大阪版
日本の国益を無視し日本人を貶めるのは当たり前。日本人としての誇りを無くすようにしている。何処かの国のエージェントのようです。
自分達の報道が事実と違うことが分かったら、論点をすり替えてあくまでも主張する。己の捏造や間違いは決して認めない。このようなマスコミは犯罪者です。
終戦記念日を間近に控えた、昭和59年8月5日の朝日新聞に「南京虐殺現場の心情 元従軍兵士の日記見つかる」と題した記事が掲載されました。
朝日新聞大阪版
日記と写真もあった南京大虐殺悲惨さ写した三枚
宮崎の元兵士後悔の念をつづる
朝日新聞に載った七段ぬきの大見出し、そしてその上のほうには三枚の写真がついているのだが、その残虐な写真には思わず、どきっとさせられる。しかし写真もさることながら、文中の日記というのも、これまた読むにたえぬ強烈さだ。
「それぞれ色々な方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒草なるままに罪もない支那人を捕えて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突っ込んだり木片でたたき殺したり」
と、残虐な描写が続き、この三枚の写真もそうした「南京虐殺の際の写真」だと、常々家族に語っていたという。その元兵士はすでに亡くなったのだが、生前この日記と写真を見ては思い悩み、死の直前にも、「罪もない人問を殺した崇りで、こんな病になってしまった」そうもらしていた、とある。そして最後に、「日本側からの証言、証拠が極端に少ない事件だけに、事実を物語る歴史的な資料になるとみられる」そう、結んでいるのであった。
これを見た、ある中学生が、「爺ちゃんたちは、悪い人間じゃねえ。戦争中こんなひどいことをしたんか」と、声高に祖父をなじった。その日記や写真が発見されたという、同じ宮崎県下でのことであった。その子は、祖父が戦争中、南京作戦にも従軍したことを聞かされていたからである。
「何を言うか。爺ちゃんたちは、お国のために命を捨てて戦った、立派な人問ばかりじゃ。悪いことなど、なんもしておらん」
老爺も、思わず大きな声をだしてしまった。すると子供は、その新聞を突きつけ、「そんなことあるかい、これ見い。こんなひどいことをしとるじゃないか。新聞は嘘つかん」と、言いきった。
爺ちゃんは、眼に入った大きなその見出しに戸惑いを感じながらも、とにかくその記事を読んでいった。そして、思わず唸ってしまったのである。それには、都城二十三聯隊の元兵士とある。
これでは、孫がああ言うのも無理はない。しかし自分の知るかぎりにおいては、そのような事実はないし、そんな話は聞いたこともない。老元兵士は、新聞を前にして、次第に激しい怒りがこみあげてくるのを、どうすることもできなかった。
これは、今から十年ほど前の昭和五十九年八月のことで、ロサンゼルスでは、オリンピックが華やかに開かれている、その最中であった。
朝日の報道に激怒したのは、この老爺だけではなかった。宮崎県下はもとより、遠くに住む戦友たちからも、
「いったい、どういうことなんだ?」と戦友会である、宮崎の二十三聯隊会事務局へ、怒りの問い合わせが相ついだ。そのような日記を書いた者など、いるはずもないのだが、とにかくことの真相を追及すべく立ち上がったのである。
まず現場の北郷村へ調査に出向いたのは、その時八十六歳という高齢の坂元昵氏と、事務局長の中山有良氏であった。二人は早速、そこの生存者数名に心当りをたずねたのだが、分らなかった。しかし、「北郷村出身の元上等兵で、四十九年に腎臓病で亡くなった人、そして職業は農林業」というのだから、かなり焦点は絞られている。年金や恩給関係から、あるいはお寺の過去帳からと次々に当っていったが、やっとのことでそれらしき人物を捜し当てたのである。ところがその未亡人は、「日記なんかつけてはいませんでした。それに、写真機など持つような身分ではありません」と、言うのである。調査は行きづまってしまったが、とにかく幹部の人たちは、朝日新聞宮崎支局へと抗議に出かけることにした。
「日記の持ち主ですか、それは言えません。迷惑をかけることになりますから」
「それでは、何中隊と書いてありましたか?」
「そこまでは確認しませんでした。今度、見ておきます」
「新聞によると、その日記は一月一日から十二月三十一日まで、一年間一日も缺かさず書いてあるというが、本当ですか?」
「そのとおりです。表紙はぼろぼろになっているし、白い紙も褐色に変じ、インクの色も変色しています。昭和十二年当時に、記載されたものに間違いないと判断しました」
これ以後も、激しいやりとりがあったが、論議はかみ合わず、とにかく第一回の交渉を終えたのであった。
聯隊会の人々は、誰しもがこう思っていた。
一、虐殺など、聯隊の誰もが見たこともないし、聞いたこともない。したがって、そんな日記などあるわけがない。あるとすれば、後になって誰かが意図的に書いたに違いない。
二、日々行軍と戦闘に明け暮れ、疲労の激しい兵隊が、毎日、日記を克明につけることなどありえない。それでも聯隊会では、改めて日記をつけていた者がいたかどうか、またそれを見た者がいたかどうかを確認している。もちろん、その結果はすべて否であった。
三、それに鉛筆ならいさ知らず、インク書きとは不可解である。当時の万年筆は、インク瓶からスポイトでインクを入れるものしかなかったのだが、戦場にそうした道具を持ち歩くことなど考えられない。
四、ましてカメラなど、戦場に持ち歩くことなどありえない。将校でも、カメラを持っていた者は、聯隊の中に一人もいなかった。この辺のところは、当時の大隊長坂元昵氏や、中隊長吉川正司氏らが確認している。
今日では、カメラなどはごくありふれた日用品だが、戦前はたいそうな高級品であった。また万年筆とて、高価なものであったが、それを山間の僻地出身の、しかも貧しい青年が持っていたということ自体が、きわめて不自然なのである。
それに、鉛筆書きで、時折書き残していたメモくらいなら、多少の信懸性もあろうというものだが、一日も缺かさず、万年筆で書いた博文館の日記恨となると、それではまるで軍司令官の陣中日誌となってしまう。
それから、しばらくたってのことである。ある戦友から、
「死亡の年月は違うが、同じ北郷村で、しかも上等兵だった宇和田弥一君というのがいた。彼が戦後思いついては書いていた日記ふうのものがあって、それを聯隊史編纂の折に使ったことがある」
という話が、幹部にもたらされた。もちろん朝日の言うような、虐殺などの記述はまったくない。ただニケ所を戦闘記録として載せたのだという。
朝日のいう日記なるものとはまったく違うが、何か妙な予感を幹部たちは抱いたのである。あるいはこれが、改竄を思いつくもとになってはいないか、ということである。
記事の訂正を求めていた聯隊会と、朝日新聞宮崎支局との二回目の交渉が開かれたのが、記事が載ってから半年もすぎた、翌六十年の二月四日のことであった。
その問も、さまざまな経過をたどってはいたが、朝日は何としても記事の訂正には応じなかったのである。ところがその日、支局長は、冒頭から、
「日記が本件のポイントだとのご指摘ですから、今日はその日記をお目にかけます」
と、言いきった。聯隊会の代表五人は、これを聞いて色めきたった。支局長は、後ろの棚からポリ袋に入っているものを取りだし、およそ五メートルほど離れたところへ行って、そこで日記帳なるものを左右に開いて見せたのである。
聯隊会の一人が椅子から立ちあがり、そばへ寄ろうとすると、
「近寄ってはいけません。書体が分ると、誰が書いたか分りますから」
と、手で制する。しかし聯隊会の人々はいずれも高齢で、最年長の坂元氏は八十六歳であり、他の方々も七十代後半なのである。その人たちの眼では、それだけ離れただけでも、それが日記帳であるかどうか、それすら判別ができなかった。
日記とやらは、そうしてちらっと見せただけで終ってしまった、しかも日記の持ち主も明らかにせず、記事の訂正にも応じない。両者の話し合いは堂々めぐりで少しも進まなかったが、ただ日記の持ち主が、当初聯隊会が見当をつけた人ではない、という返答だけは得られた。すると残るのは、やはり宇和田元上等兵ということになるのだが、この場合死亡の年月が記事とは違っている。
些細なこととはいえ、記事のいう年月に亡くなった北郷村出身の元上等兵はいないのだから、こんなところからも、前記のカメラや万年筆のことと併せ考え、記事全体の虚構性がさらに強くにおってくるのであった。
その四日後、都城二十三聯隊会は、その名において朝日新聞宮崎支局長あてに正式な抗議文を出した。記事の取り消しは、文書で申し入れてくれという支局長の発言を受けてのことであった。
すると一週問ほどたった二月十四日に、今度は支局長から電話があり、
「今日ご来社願えますか。ただし、中山さん一人で来てください。他の人には聞かれたくない相談がありますから」
と、いうことであった。中山有良氏は聯隊会の事務局長であり、朝日との交渉の中心的存在でもあった。一人とは妙な話だが、とにかく中山氏は支局へと出かけたのであった。すると、支局長の応対は意外なほどの低姿勢で、
「抗議の文書確かに受け取りました。そのことですが、『お詫び』だけは勘弁してくれませんか。その記事を出せば、私は首になります」
「ほう。でも仕方ないじゃないですか。嘘の記事を、あんな大見出しをつけて全国版に掲載したんですから。責任をとるのは、当然でしょう」
「ええ、責任は重々感じています。しかし首になると困るんです。私の家族のために、助けてください。このとおりです」
と中村支局長は、両手をついて頭を下げたのである。中山氏は困惑した。しかし、亡き戦友の名誉を守るという責務がある。記事を訂正し、そんな事実はなかったということは、是非とも書いてもらわねばならない。
支局長の申し出は続いた。
「お詫びとか、記事取り消しという言葉は使わないが、都城二十三聯隊にはそのような虐殺などなかった」
そういう趣旨の記事を、全国版と地方版に載せることで勘弁してほしい、と言う。彼は東京の本社から、相当てひどくやられたのかもしれない。
やむなく中山氏はそれに合意した。だが実際には合意というより、彼の家庭にまで悲劇が及ぶのはしのびないと思い譲歩したのであった。そして安楽秀雄会長ら幹部も、それを了とした。
あの虐殺記事がでてから、すでに半年もたっていたが、この約束によって、とにもかくにも朝日新聞に大略次のような記事が載ったのである。
「都城二十三聯隊会の代表は、宮崎支局を訪れ、同聯隊は南京大虐殺とは無関係であったと表明した。同会で調査した結果、事件に関係した証言はえられなかったとしている」
これでは、いかにも虐殺は、他であったかのような書きかたである。それに、朝日自身の責任にはまったく触れていない、というのも妙だ。
しかし、聯隊会の人々はやむなく、これで我慢せざるをえなかった。地方の小さな戦友会にとって、朝日という巨大な組織の壁はあまりにも厚い。訂正や謝罪の記事など、一蹴されてしまえばそれだけのことで、それ以上にはいかんともなしがたい。
ところが、である。この追加記事は宮崎版だけで、約束の全国版には載っていないことが分ったのである。支局へ出向いた中山氏がそれを質すと、中村支局長は、言う。
「全国版ですか?それには載せていません」
「えっ……。それでは約束が違うじゃないですか」
「そんな約束をした覚えはありませんよ」
「何を言ってるんです。あの日、あなたは頭を下げ、堅く約束をしたじゃないですか」
激しい怒りを感じながらも、中山氏はそれをぐっと押さえた。そして責任を思い、これからでも全国版に載せてくれるようさらに頼んだが、中村支局長はそれを無視した。
「あれは、訂正記事ではない。ただ聯隊会から抗議があったことを載せただけです」
と、開き直ったのである。そして、訂正記事など出す必要はない、とばかりに、
「あの記事はすべて正しい。南京虐殺については、西部本社、東京本社ともにこの問題を専門にしている記者が本多勝一氏はじめかなりいる。そうした記者とも相談し、資料とも突き合わせて書いた。創作やでっち上げではありません。事実です」と、言いきったのである。
とにかく約束は反古となった。それでも中山氏はなお一度、これからでも全国版に載せれば、この件は終りになるがと念を押したのだが、支局長は答えなかった。
「しかし、あなたは卑怯ですね。あの時私に、一人で来てくださいと言われた意味が、これでよく分りました」
中山氏は撫然として席を立った。昔気質の人々にとって、たとえ口約束であっても、男どうしの約束の意味は大きい。
これでは聯隊会の人々の怒りが、再燃するのも無理はなかった。だがその怒りを汲んでくれたかのように、今度はよき援護射撃が入った。それは、世界日報の記事で、
「虐殺の様子から本人の苦悩、それに家族や識者の談話まで載せているが、調査の結果捏造記事であることが判明した」
と、いうのである。さらにこれに続き、朝日が記事とともに、その証拠として載せた残虐な写真について、それはまっかな偽ものだとすっぱぬいたのである。
「朝日、こんどは写真悪用、南京虐殺事件をねつ造。南京大虐殺の動かしがたい証拠だとしたこの写真は、昭和六年ごろ朝鮮や南満洲で市販されていたもので、中国軍が満洲の鉄嶺で捕らえた馬賊を処刑した時のものと判明した」
と、ある。
これはその当時、朝鮮の最北国境付近にある会寧というところで売っていたもので、これを国境警備隊にいた佐藤進氏(藤沢市在住)らが買い、日本へ持ち帰っていたのだが、写真には、
「鉄嶺にて銃殺せる馬賊」
と刷りこまれている。その刷りこみされた文字の部分を切りとって、南京虐殺の写真としたわけである。
こうなると、これを今度は雑誌社などが取り上げ、文藝春秋、週刊新潮、正論などが、次々と朝日の捏造報道を記事にしていったのである。
聯隊会のような地方の小団体がいかに抗議したとて、それを無視することはできる。しかしこれだけ有力誌に次々と書かれては、さすがの朝日もこのまま押し通すわけにはいかぬ。それはともかく、この頃から、朝日の聯隊会にたいする態度も一変した。以前から、
「他のマスコミ関係者には、この話はしないでほしい」
という中村支局長の申し出であったが、朝日がそれをいかに恐れていたかを、このころから実感されたのだが、形勢不利とみるや、威丈高な態度が急に鄭重になるというのも、人間としていかがなものか。
そして同時に、朝日からは聯隊会に和解の申し出が何回となく電話で入っていた。これには、不買運動の動きがあることも影響していたかもしれぬ。やはり「株式会社朝日新聞」としては、たとえ一部の地域といえど、新聞が少しでも売れなくなるということは恐ろしいことに違いない。
だが聯隊会では、記事を撤回しないかぎり和解はありえない。それどころか会員の怒りは少しもおさまらず、ついに六百余の戦友たちが集まり、
「朝日新聞粉砕総決起大会」
を開くに至った。あらぬ汚名を着せられた怒りが、いかに激しいものであったかということだが、ここで、
「日記の公開と記事訂正、そして謝罪」とを要求し、それが容れられぬ場合は、告訴と不買運動にふみきることを決意したのであった。
だが、それでも朝日は日記の公開をしぶった。それはそうであろう。これが世問に知れ渡ったら、今まで力を入れてきた"南京大虐殺"のキャンペーンが、根底から揺らいでくるからだ。
だが、形勢はいかにも不利、やむなく朝日はその非を認め、昭和六十→年一月二十二日ついに全国版にお詫びの記事をだしたのであった。
「写真三枚については、南京事件当時のものではないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」
新聞の活字で、わずか五行である。しかもその前には日記は現存するとあり、聯隊会のことまで含めて、一段十四行、しかも社会面の前の頁の、それも最下段の片隅に、小さく載っているだけなのである。これでは、いったいどれだけ読者の眼にふれるというのか。
とすれば、一般の読者はあの虐殺を事実として報じた大きな記事のみが、強く印象として残っていくに違いない。したがって、たとえお詫び記事をだしたとて、朝日の目的は充分達成されたわけだ。
それに、この場合写真に刷りこみがあったり、写真の持ち主がいたりと、明確な証拠があったからいいようなものの、おおかたの場合、嘘だということを証拠だてることはきわめてむつかしい。それはほとんど、不可能といっていいだろう。
とにかくお詫びを出すなら、その写真や記事と同じくらいに大きく掲載してもらいたいものだ。
それでも、前の記事を読んだ人すべてが訂正に気づくとはかぎらないのだ。
なお中国側は、今日でもなおかつこの写真を"南京大虐殺"の証拠品として、中国全土に配布しているのである。
ー南京事件朝日の捏造