一燈照隅

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南京虐殺、朝日の捏造

2007年03月16日 | 支那事変
南京事件朝日の捏造より
こうして写真のほうは、決着がついた。だが日記は本物だと、なおも朝日は突っ張る。しかし本来、写真と日記はともに一心同体で、その兵士が写し、かつ書きつづったものだと強調したのではなかったのか。聯隊会の人々は、そう言われては鉾先をおさめるわけにはいかない。
「何としても汚名を雪がねば、亡き戦友に申し訳がたたぬ」との思いに、かられているのである。ではその日記なるものは、いったいどのようなものであったのか。あの時、読みあげられた箇所の幾つかをあげてみよう。

昭和十二年七目二十七日
「午後三時、突如師団からの電報により動員下令。将校集合のラッパ。週番司令から各中隊週番士官に通達された」
この読みあげられた日誌の一部について、聯隊会の幹部の→人吉川正司氏は、文藝春秋の六十二年五月号でこう反論している。吉川氏は南京戦当時の中隊長であり、以後は師団、軍の作戦参謀などをつとめた人である。
「上等兵が、どうして師団から電報がきたことが分かるのか。それに、午後三時とあるが、その時刻には将校は全員在営しているから、命令は聯隊長から直接将校へと下すはずだ。週番司令というのは、五時、聯隊長の帰営後に警備のため勤務するもので、動員令などの重要な命令を伝達する権限などはない」
と、述べているが、そう言われれば素人でもなるほどと合点がゆく。どうみてもこれは見当違いもはなはだしい。確かにこれは、上等兵がつけた日記ではない。

十一月四日
「…(不明)…の命により、軍は上海南方八十里の…(不明)…地区にまず第五師団をもって敵前上陸を敢行。F第一線を占領し…」
「これもまた、一兵卒が知りうることではない。二十三聯隊は第六師団に属していたが、このほかどこの部隊が来ているのかなど、中隊長の私でさえ知らなかった。昭和四十九年に日本軍の公刊戦史を見て、その時はじめて第五師団の国崎支隊が来ていたことを知ったのである。それを、一上等兵がその日の日記に書くことなどありえない。さらにFというのは、将校が図上演習のおり用いる略語で、敵を意味している」
つまり下士官、兵はFなる記号についてはまったく知ることはなかったというのだ。これと同じようにつじつまの合わぬことが、以下連続なのである。中でも決定的なのは、
「虐殺の日々が続いたという十二月二十一日以降は、宇和田氏の所属する第一中隊は、南京城内の警備にあたっていて、虐殺現場という南京城の西方にはいない」ということだ。
これでは、この日誌なるものが宇和田元上等兵が書いたものでないことは明らかだ。第一同氏が戦後に書いた回想的な日誌は、戦友たちが見ているのだ。その時は、そんな記事はもちろん記入されていない。虐殺に関する記入など、まったくなかったのである。
そして戦史編纂のおりに、この中から採用されたニケ所を確めるため、聯隊会の人がその日を指定し読みあげてもらったのだが、その部分は中村支局長が読みあげたものと、ぴたりと一致する。これで朝日のいう実在する日記なるものが、宇和田氏のものを元として、それに空白部分を記入したものであることがはっきりとした。
あとは、その日記を見せてくれれば、筆跡により宇和田氏記入の部分と、誰かが記入した部分との違いがはっきりとする。宇和田氏の筆跡は、戦友がもらっている手紙があるし、照合は簡単だ。これでは中村支局長が日記を遠くからしか見せないというのもよく分る。筆跡が所によって違うのが分ったら、すべてが明白になってしまうからで、朝日が日記を見せられないのも当然であった。
宇和田氏のその日記なるものが、紛失後いかなる経緯で朝日の手に入ったかは知る由もないが、ではいったい誰が空白の部分を記入していったのか。それはある程度軍隊にたいする知識がある者、ということになる。しかし実際に軍隊経験があるか否か、はなはだ疑問である。
以後も朝日の対応を見守っていた聯隊会の幹部たちは、もしや朝日がその日記を焼却してしまうのではないか、と恐れた。証拠品が失われては、たとえ告訴しても論争は不毛のものとなるからである。そこで幹部は、「日記の保全と公開」とを、小倉の簡易裁判所に申し立てをしたのである。舞台が小倉になったのは、日記はすでに宮崎支局から西部本社へと移されていることを知っていたからである。四ケ月後に出された判決は予想どおり、聯隊会の主張をほぼ認めたものであった。
「問題は残虐行為の部分であるから、その十二月十五日から二十八日までを写真にとらせるように」
と、朝日側に言い渡したのであった。
「今度こそ、すべてが明らかにできる」
と、聯隊会の人々は喜んだ。筆跡を照合すれば宇和田氏の部分と、書きこまれた残虐行為の部分とが、はっきりと区別できることになるからだ。しかし朝日側はなおもねばり、今度は福岡地方裁判所小倉支部に、抗告の手続きをとったのである。本裁判にかけ、時間かせぎをしようという引きのばし作戦にでたのであった。
これには、聯隊会の人々は困惑した。この時の状況を、吉川氏は文藝春秋でこう記している。
「我がほうの状況は、責任者の坂元昵氏が八十八歳、最後の聯隊長だった福田環氏が八十九歳、比較的若い私でも七十三歳という高齢である。これから先、何年続くか分からぬ裁判に、どれだけ皆が頑張りとおせるか。実際坂元氏は心労のあまり昨年暮れに入院し、私もまた酒の力を借りなければ眠れぬ夜が続いた。酔って寝ても夜半に目が覚め、やがて睡眠薬を飲むようになっていた」
という、まことに気の毒な状況にあった。
「さらに高齢にくわえ、金銭上の問題もあった。老後のためのわずかな貯えを、これ以上皆に放出させるは忍びない。裁判には、かなりの金がかかる。朝日はおそらく、露骨な引きのばし作戦に出てくるだろう。判決まで十年はかかる。それまでわれわれの余命があるのか。あれこれ考えると、今後裁判をたたかい抜く見通しがたたない。私は、一件の終焉を考えざるをえなくなった」
まことに、胸打たるるものがある。坂元氏は祖先伝来の田畑を全部売り払っても闘うとまで言いきった。だが、周囲の人はそれをさせるわけにはいかない。老境にある人々の無念の思いが、短い文章の中から切々として伝わってくる。
吉川氏は、朝日の人々と話し合い、都城二十三聯隊は、虐殺には関係ないという一文を全国版に載せることを条件に、和解しようと考えたのである。聯隊会の人々も、状況からして涙をのまざるをえなかった。
吉川氏の和解案を、朝日は待っていたかのように受け入れ、何と翌日にはその小文をのせ、同時に聯隊会がするはずの告訴取り下げの書類まで取りに来て、その日のうちにすべてをすませてしまったのである。
記事捏造が発覚するのを、いかに朝日が恐れていたか、こうした間髪を入れぬ素早い行動も、それをよく物語っている。だが、とにもかくにも、二年五ケ月の長きにわたる朝日との闘いは終ったのであった。そして年余の後、その吉川氏は亡き人となられた。
「資金面より寿命のことで告訴は断念せざるをえず、その心理的重圧が吉川様を死に至らしめ、私の脳梗塞を引き起こしたものと考えられます」
これはその後、年余の長い療養生活を送ることになった中山有良氏の述懐である。内容を分りやすくするため、ほとんど省略せざるを得なかったが、坂元氏や中山氏など幹部の人々の東奔西走、その心労の様、経済的な負担など、実際何とも慰めの言葉もない。
世の中をより良くするために、与えられた報道の自由なるものが、たった一握りの心なき人々のために、こうして歴史が歪められるのみならず、多くの人々を傷つけ、損害を与える凶器となっているのだ。
「仕組まれた南京大虐殺」大井満著 展転社


  

この朝日新聞のおわび記事を見て読者のどれだけの人が気づくだろうか。よっぽど注意してみてない限り気づく人はいないだろう。
これを読んだとき、昨年の「富田メモ」と同じように思えた。これも未だに検証したと言われる人以外、他の人に見せていません。
マスコミが記事を捏造するときは、このようにするのかと腹立たしく思う。しかもはっきりと分かるように訂正をしないから記事だけが一人歩きをしてしまいます。
珊瑚礁の落書きと違い、冤罪で被害を受ける人が居るのです。しかも歴史の事実となってしまう恐ろしいことです。
このような記事を捏造してまでも、日本を貶めようとする輩は許されるべきではないだろう。




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8 コメント

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文科系ごろつきとかちんぴらとかそれとも悪魔? (人生の厄介息子)
2007-03-17 02:41:19
安倍首相にも捏造したとか国会答弁で
指摘されても反論も掲載せずの朝日新聞
どこまでも人間の存在をなめていますね.
ようするに世の中の悪い奴の典型なのに
世の人がわかってないというのが
こんなのありか?とおもってしまう典型なんでしょう.
それが現実にうごめいているというのが限りなく
不気味ですね.
一灯照隅で魔を破ってください..これからも
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ぞっとしました (おれんじ)
2007-03-17 23:32:39
朝日が捏造だらけという事はネットで学びましたが、まさかこんなに酷いとは…。メディアは自分達が報復されるのを恐れて他の新聞やテレビ局を批判できないのですね。一度どこかのテレビで朝日大批判をやって欲しいのですが(笑)。後、選挙直前に各議員がどんなことをやってきたか総括する特番もやって欲しいです。
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Unknown (まさ)
2007-03-19 22:55:45
人生の厄介息子さん。
マスコミ業界、特に朝日、毎日は酷すぎますね。
報道の自由は言いますが、それによって起こる責任については全く認めない。
無責任なマスコミです。
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Unknown (まさ)
2007-03-19 22:58:21
おれんじさん。
マスコミは連日報道される、企業の不祥事の隠蔽などを責める資格があるのでしょうか。
自分達も同じようなことをしています。
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南京大虐殺が否定され続ける理由 (核心)
2007-03-29 10:02:03
なぜ、南京大虐殺が否定され続けるのか?

グースさんの掲示板で大神さんという方に、随分馬鹿げた質問で困らせられました。
武器の山は本当は2階建ての家屋だったかもしれない、と言われたのです。


ホロコーストのことを考えていて、その理由がわかりました。
アウシュビッツでは殆どの作業はユダヤ人自身で行なっていました。
ドイツ人は最後に薬品を天井のまどから投げてあるくか、そんな作業だけでした。
それに対して南京大虐殺は幕府山の件でも分かるように、まさに人格者、ヒューマニストだった両角業作氏、山田栴二氏、などなどが直接の責任者だったのです。
これはまさに軍隊の否定です。
それゆえ、これほどまでに気ちがいじみた否定が行なわれているのです。
「郷土部隊戦記1」を読めばよく理解できます。
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平林貞治氏の戦友会の活動 (核心)
2007-04-03 09:48:19
平林貞治氏の戦友会における活動について手元にある資料でお伝えしておきます。

昭和60年4月28日 連隊合同慰霊祭(祭典副委員長)
昭和61年9月13日 第12回歩65戦没者慰霊祭(祭典委員長、歩65残桜会会長)
平成2年8月31日  第14回歩65慰霊祭(祭典委員長、歩65残桜会会長)

父は昭和61年9月13日に名刺を頂いてます。名刺に日付が記載されています。
戦友会の会長になるような人が虐殺を認めるなんてことを考えること自体が馬鹿げていると思うのですが。
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Unknown (まさ)
2007-04-03 22:23:57
核心さん。
事実としてはっきりしている支那による南京事件や、一般人が暴行、略奪、殺害された通州事件と違って、日本人なら南京大虐殺を認める事自体が馬鹿げたことなんですね。
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Unknown (うな)
2007-07-10 14:15:32
日記は本物だよ
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