一燈照隅

日本が好きな日本人です

ニューヨーク州立大学病院の壁に書き残された詩

2007年03月25日 | Weblog
安岡正篤先生生誕百十年、 関西師友協会創立五十周年記念大会の記事に書きました神渡良平さんが紹介されていました、ニューヨーク州立大学病院リハビリセンターの壁に書き残された詩を書きます。

大きな事を成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱をあたえられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

求めた物は一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬ物であるにかかわらず
心の中で言い表せないものは全て叶えられた
私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されていたのだ






安岡正篤先生生誕百十年、 関西師友協会創立五十周年記念大会

2007年03月25日 | 朝聞暮改
今日、「安岡正篤先生生誕百十年」「関西師友協会創立五十年」記念大会が大阪都ホテルで行われましたので私も記念講演に行ってきました。

安岡正篤先生生誕百十年記念大会
関西師友協会創立五十周年

式典並びに講演会         

式典               会場「浪速の間」4F
開会               司会 中嶋天佑
国歌斉唱
綱領朗読             青年部長 石井隆義
式辞               会  長 安部川澄夫
祝辞               元財務大臣・本会名誉顧問 塩川正十郎


講演
講師 「創立50周年を祝す」
(財)郷学研修所・安岡正篤記念館理事長  安岡正泰

講師 「人生を拓く・安岡正篤の思想」
         ノンフィクション作家  神渡良平

挨拶              事務局長 若宮幾馬

閉会



安岡正篤先生については、改めて書くまでもなく皆さんよく御存知だと思います。特に有名なのが終戦の詔書で「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」を入れられたことですね。

祝辞で塩川正十郎氏が戦前にお会いしてから、戦後再会され安岡先生に教えられたことなどや、戦後占領軍によって破壊された教育がやっとまともに成りつつある事を話されました。

安岡正篤先生の御次男である正泰氏の講演では、今、安岡先生が生きておられたらどのように思われているだろうかと述べられていました。
また、東京裁判で所謂A級戦犯として処刑された松井石根大将が作られた、熱海にある「興亜観音」の事を話されました。

神渡良平氏はご自身も脳梗塞で一時右半身が効かなくなった経験を持たれ、松下幸之助氏を出されたりして、人生における幸不幸と言うか、簡単に例えれば「人間は病気になって初めて健康のありがたみが分かる」と「病気になったらなったで精一杯出来ることで、今まで考えつかなかったことに人生の生き甲斐を見出す」と言うような内容の話しを、「ニューヨーク州立大学病院のリハビリセンターの壁」に書き残された詩を読まれたりして講演されました。


関西師友協会「細領」
1、本会は、安岡正篤先生の教学並びに東洋文化の歴史的・伝統的精神を探求すると共に、変動する世界情勢を究明し、日本の進むべき道を提唱する。
2、本会は、会員各自、一燈を点じて一隅を照らすことを信条とし、家庭・社会・職業生活を通じて、人間形成をはかり、本会の使命を遂行するように努力する。
3、本会は、国民の教化と啓発のため、随時に適切な社会文化活動を行う。


「師と友」との出逢いが人生に大切です

「師友」の二字は、有名な吉田松陰の「士規七則」の中の『徳を成し材を達するには、師の恩友の益、多きに居る。故に君子は交游を慎む』より採ったものです。
いかなる人間も独りよがりはだめです。人として大成するためには、善い師、善い友を持って謙虚に学ばなければなりません。
世に処して善い師友を持っことは、測り知れない力であり、幸福であり、それだけに真につきあえる人を選びたいものです。



安岡正篤先生の風格

安岡正篤先生は、四条綴中学(大阪府)より第一高等学校を経て、大正十一年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業され、特に東洋政治哲学を専攻されました。明治三十一年二月十三日大阪にて出生。もと堀田家の出。その遠祖は小楠公を助けて有名な四条畷に戦死した堀田彌五郎正泰。懐良親王を奉じて遠州井伊谷に勇戦した尾張津島勤皇の豪族で、現在四条畷神社に合祀されております。その因縁で四条畷中学に学ばれました。
先生の兵隊検査の時に、面白いエピソードがあります。大学時代、自ら記念して書かれたものを、玄黄社が異例の刊行をした「王陽明研究」は一世を風靡したものでありましたが、これを読んでいた聯隊区司令官が、「『王陽明研究』の著者先生の何か縁者か」と尋ねて、当人なることを知り驚いた由です。
東大卒業後は、出世街道を去って、学問に潜心され、翌大正十二年には東洋思想研究所を興されました。二十七歳にして、当代の雄八代六郎大将らの敬重師事を受け、山本五十六元帥の如き、少佐で海軍大学におられましたが、親交は元帥の戦死されるまで続きました。
昭和元年には、金鶏学院を創立。軍・政・官・財・青年志士の仰望する泰斗となられた。先生に対して、偶々理論右翼の総帥であるなどという浮説もありますが、これは一知半解の徒の曲解であります。
昭和六年、埼玉県に由緒ある畠山重忠の居館をトして、日本農士学校を設立、曽て金鶏学院で養成された方々を以てこの任に当らせ、又篤農協会を作って全国に隠れていた篤農家・精農家を多く世に出し、測り知れぬ效験がありました。又満州事変後の趨勢を憂えられて、政界官界の逸材を選んで国維会を興し、先生を中心に国事を論じ、一世を聲動しました。
第二次大戦の直前、欧米を歴遊して各国の東洋関係者と懇談し、朝野に正論を行い、終戦前、故本間中将と共に小磯総理顧問、小磯・鈴木両内閣の大東亜省顧問として終戦に苦心されました。大詔の原案剛修に当られたことはすでに周知であります。
戦後は先生も追放となられましたが、時局の要請により、昭和二十四年、師友会を設立、今日その門流は全国に普く及んでおります。
「時世と活学」より
(安岡正篤没後、師友会は関西師友協会だけになりました)