札幌市内に住む外国人を毎週紹介している新聞記事を、いつも楽しみに読んでいる。
今日の記事で紹介されていたのは、ロシア出身の若い女性だった。
ロシア出身と言っても白人系ではなく、日本人と変わらない顔立ちの東洋人であり、出身はサハリン州ユジノサハリンスクとある。
ここは戦前までは日本領だったところで、樺太豊原市と呼ばれていた町だ。
戦後40年以上、外国人の立ち入りが禁止されていたが、現在は日本国領事館が置かれ、北海道庁や北海道銀行の出先機関があるそうだ。
そして彼女の国籍はロシアだが、人種は朝鮮族なのだとか。
その彼女が北海道に興味を持つようになったのは、同居していた祖父母の影響だったと書かれていた。
祖父母がまだ子供だった頃、そしてまだ豊原市だった頃、豊原市には祖父母と同じ朝鮮族と日本人が暮らしていたそうだ。
突然ロシア軍が侵攻してきて日本人があわてて北海道へと逃げて行ったあと、祖父母たちが豊原市で暮らしていた日本の友人たちと再会できたのは、戦後40年以上が過ぎた頃だったそうだ。
北海道へ渡った日本人の友人たちの話を、多分良き思い出だったに違いない話を、祖父母から聞いて育った彼女は日本や北海道に興味を持つ。
高校から日本語を学び始め、その後、交換留学生として九州大学で学び、北海道大学大学院へ進学して、現在は市内にある企業で働いているそうだ。
ずっと「ロシアと日本をつなぐ仕事がしたい」と考えていたことが叶ったと書いてあった。
この記事を読んで思い出したことがあった。
それは以前、仕事で訪問していたおばあさんから聞いた話だ。⇒「昔話」
おばあさんが20代の頃、樺太豊原市に住んでいたことを話してくださったことがある。
「寒い所だけれど、よい所だったよ」と懐かしそうに話すおばあさんのお話は壮絶なものだった。
突然ロシア軍が侵攻してくると聞き、ほとんどの持ち物はそのままにして着の身着のままで逃げたこと。
若い女性は長い髪を切り坊主頭になって、顔に炭を塗って男の子に見えるようにしたこと。
稚内行きの引き揚げ船に乗るために、天井板もない列車に乗ったが、雨が降って来たので床に敷かれた布をみんなで剥がしてかぶったこと。
やっと着いた港は大混乱で、船には女と子供と老人しか乗れないと聞いて、おばあさんの父親は残ったこと。(それがお父さんとの最後の別れだったそうだ)
そのような壮絶な体験を話されるおばあさんは、時折「ロスケが」と言って、侵攻してきたロシアを今でも許せないというような感じを受けたが、お話が豊原で暮らしていた頃のことになると、一変してなつかしそうなお顔になった。
「朝鮮人の人がたくさんいたよ。日本人も朝鮮人もみんなで仲良く暮らしていたんだよ」とおっしゃっていたことを憶えている。
「日本人が北海道へ逃げた時、朝鮮の人はどうしたのでしょうか?」と、私はおばあさんに聞いた。
当然、引き揚げ船には朝鮮人たちは乗れなかっただろうし、乗る必要はなかっただろう。
すると、おばあさんは「さぁ、どうしたものかねぇ。わからないねぇ」と心配そうにおっしゃった。
でも、朝鮮の人たちはそのまま樺太に残っていたのだ。
全員がそうとは言い切れないが、今朝の新聞記事を読む限り、樺太豊原に残って現在もロシア人として生きているのだということが分かった。
おばあさんに教えてあげたいと思ったが、それはもう叶わない。
記事に載っていた若い女性には、ロシアとも朝鮮とも、みんなが仲良く平和になるように、頑張ってほしいものです。
今日の記事で紹介されていたのは、ロシア出身の若い女性だった。
ロシア出身と言っても白人系ではなく、日本人と変わらない顔立ちの東洋人であり、出身はサハリン州ユジノサハリンスクとある。
ここは戦前までは日本領だったところで、樺太豊原市と呼ばれていた町だ。
戦後40年以上、外国人の立ち入りが禁止されていたが、現在は日本国領事館が置かれ、北海道庁や北海道銀行の出先機関があるそうだ。
そして彼女の国籍はロシアだが、人種は朝鮮族なのだとか。
その彼女が北海道に興味を持つようになったのは、同居していた祖父母の影響だったと書かれていた。
祖父母がまだ子供だった頃、そしてまだ豊原市だった頃、豊原市には祖父母と同じ朝鮮族と日本人が暮らしていたそうだ。
突然ロシア軍が侵攻してきて日本人があわてて北海道へと逃げて行ったあと、祖父母たちが豊原市で暮らしていた日本の友人たちと再会できたのは、戦後40年以上が過ぎた頃だったそうだ。
北海道へ渡った日本人の友人たちの話を、多分良き思い出だったに違いない話を、祖父母から聞いて育った彼女は日本や北海道に興味を持つ。
高校から日本語を学び始め、その後、交換留学生として九州大学で学び、北海道大学大学院へ進学して、現在は市内にある企業で働いているそうだ。
ずっと「ロシアと日本をつなぐ仕事がしたい」と考えていたことが叶ったと書いてあった。
この記事を読んで思い出したことがあった。
それは以前、仕事で訪問していたおばあさんから聞いた話だ。⇒「昔話」
おばあさんが20代の頃、樺太豊原市に住んでいたことを話してくださったことがある。
「寒い所だけれど、よい所だったよ」と懐かしそうに話すおばあさんのお話は壮絶なものだった。
突然ロシア軍が侵攻してくると聞き、ほとんどの持ち物はそのままにして着の身着のままで逃げたこと。
若い女性は長い髪を切り坊主頭になって、顔に炭を塗って男の子に見えるようにしたこと。
稚内行きの引き揚げ船に乗るために、天井板もない列車に乗ったが、雨が降って来たので床に敷かれた布をみんなで剥がしてかぶったこと。
やっと着いた港は大混乱で、船には女と子供と老人しか乗れないと聞いて、おばあさんの父親は残ったこと。(それがお父さんとの最後の別れだったそうだ)
そのような壮絶な体験を話されるおばあさんは、時折「ロスケが」と言って、侵攻してきたロシアを今でも許せないというような感じを受けたが、お話が豊原で暮らしていた頃のことになると、一変してなつかしそうなお顔になった。
「朝鮮人の人がたくさんいたよ。日本人も朝鮮人もみんなで仲良く暮らしていたんだよ」とおっしゃっていたことを憶えている。
「日本人が北海道へ逃げた時、朝鮮の人はどうしたのでしょうか?」と、私はおばあさんに聞いた。
当然、引き揚げ船には朝鮮人たちは乗れなかっただろうし、乗る必要はなかっただろう。
すると、おばあさんは「さぁ、どうしたものかねぇ。わからないねぇ」と心配そうにおっしゃった。
でも、朝鮮の人たちはそのまま樺太に残っていたのだ。
全員がそうとは言い切れないが、今朝の新聞記事を読む限り、樺太豊原に残って現在もロシア人として生きているのだということが分かった。
おばあさんに教えてあげたいと思ったが、それはもう叶わない。
記事に載っていた若い女性には、ロシアとも朝鮮とも、みんなが仲良く平和になるように、頑張ってほしいものです。