「内閣府・北方対策本部」の「歴史」
日本政府はロシアに対し、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島」の返還を求めていますが、その根拠はこれらの条約にあるようです。
すなわち、日本はサン・フランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが、千島列島には「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島」は含まれていない、という論理です。
以下では、もっとわかりやすく説明します。
なお、以下で引用する条約は上記内閣府北方対策本部のホームページで紹介されているものです。
「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す。つまり、「得撫島(ウルップ島)よりも北の方にある千島列島」と書いてあります。
したがって、「国後島や択捉島は、千島列島には含まれない」という論理が成り立つわけです。(千島列島のロシア名がクリル諸島です)
第二款には、「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島…(略)…第十八「ウルップ」島共計十八島…(略)…ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り…。つまり、「千島列島、すなわち占守島(シュムシュ島)から得撫島(ウルップ島)までの計18島を日本に譲る」と書いてあります。
したがって、「国後島や択捉島は、千島列島には含まれない」という論理が成り立つわけです。
以上が、日本政府がロシアに対し、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島」の返還を要求する根拠になっています。
しかし、この (日本政府の) 主張は成り立たないと思われます。
西牟田靖『ニッポンの国境』( p.140 )
榎本武揚の「意図的な行為」、つまり改ざんして翻訳したものである、という部分は「たんなる推測」にすぎませんが、
それ以外の部分には説得力があります。
Wikipedia によれば、
「日露和親条約」
「樺太・千島交換条約」
ということなので、この Wikipedia の記述が正しいとすると ( Wikipedia には信頼性の面でやや難がある ) 、樺太千島交換条約の「正文」が日本語ではないことから、「国後島と択捉島」が千島列島に含まれない、という日本側の主張には無理があると考えられます。
以上により、「歯舞群島と色丹島」についてはともかく、「国後島と択捉島」については、日本政府の主張は成り立たないと考えます。
したがって日本がロシアに対し、「国後島と択捉島」の返還を要求する際には、別個の論理を組み立てなければならないことになります。
それではどう主張すればよいのか、については、下記の関連記事をお読みください。
■関連記事
「日本は千島列島全島の返還を主張し得る」
■追記
島の名前等、表記を一部修正しました。
★日魯通好条約
1855年(安政元年)、伊豆下田において「日魯通好条約」が締結されました。この条約で初めて日ロ両国の国境は、択捉島と得撫島の間に決められ、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領として確認されたのです。
また、樺太は今までどおり国境を決めず両国民の混住の地と定められました。
★樺太千島交換条約
1875年(明治8年)、明治政府は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つ挙げていますが、列挙されている島は得撫島以北の18の島であって、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島は含まれていません。
★ポーツマス条約
(略)
★サン・フランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。この結果、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。
日本政府はロシアに対し、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島」の返還を求めていますが、その根拠はこれらの条約にあるようです。
すなわち、日本はサン・フランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが、千島列島には「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島」は含まれていない、という論理です。
以下では、もっとわかりやすく説明します。
なお、以下で引用する条約は上記内閣府北方対策本部のホームページで紹介されているものです。
日本国魯西亜国通好条約
日本国と魯西亜国と今より後懇切にして無事ならん事を欲して条約を定めんか為め、魯西亜ケイヅルは全権アヂュダンド、ゼネラール・フィース、アドミラール、エフィミュス・プチャーチンを差越し日本大君は重臣筒井肥前守、川路左衛門尉に任して左の条々を定む
第1条
今より後両国末永く真実懇にして各其所領に於て互に保護し人命は勿論什物に於ても損害なかるへし
第2条
今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし
「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す。つまり、「得撫島(ウルップ島)よりも北の方にある千島列島」と書いてあります。
したがって、「国後島や択捉島は、千島列島には含まれない」という論理が成り立つわけです。(千島列島のロシア名がクリル諸島です)
樺太千島交換条約
大日本国皇帝陛下ト
全露西亜国皇帝陛下ハ今般樺太島(即薩哈嗹島)是迄両国雑領ノ地タルニ由リテ屡次其ノ間ニ起レル紛議ノ根ヲ断チ現下両国間ニ存スル交誼ヲ堅牢ナラシメンカ為メ
大日本国皇帝陛下ハ樺太島(即薩哈嗹島)上ニ存スル領地ノ権理
全露西亜国皇帝陛下ハ「クリル」群島上ニ存スル領地ノ権利ヲ互ニ相交換スルノ約ヲ結ント欲シ
大日本国皇帝陛下ハ海軍中将兼在露京特命全権公使従四位榎本武揚ニ其全権ヲ任シ
全露西亜国皇帝陛下ハ大政大臣金剛石装飾露帝照像金剛石装飾露国「シント、アンドレアス」褒牌「シント、ウラジミル」一等褒牌「アレキサンドル、ネフスキー」褒牌白鷺褒牌「シント、アンナ」一等褒牌及「シント、スタニスラス」一等褒牌仏蘭西国「レジウン、ド、オノール」大十字褒牌西班牙国金膜大十字褒牌澳太利国「シント、エチーネ」大十字褒牌金剛石装飾露生国黒鷲褒牌及其他諸国ノ諸褒牌ヲ帯ル公爵「アレキサンドル・ゴルチャコフ」ニ其全権ヲ任ゼリ
右各全権ノ者左ノ条款ヲ協議シテ相決定ス
第一款
大日本国皇帝陛下ハ其ノ後胤ニ至ル迄現今樺太島(即薩哈嗹島)ノ一部ヲ所領スルノ権理及君主ニ属スル一切ノ権利ヲ全露西亜国皇帝陛下ニ譲リ而今而後樺太全島ハ悉ク露西亜帝国ニ属シ「ラペルーズ」海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
第二款
全露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲ子コタン」島第六「ハリムコタン」島第七「ヱカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チェルポイ」並ニ「ブラット、チェルポヱフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及び君主ニ属スル一切の権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパッカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以て両国ノ境界トス(以下略)
第二款には、「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島…(略)…第十八「ウルップ」島共計十八島…(略)…ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲り…。つまり、「千島列島、すなわち占守島(シュムシュ島)から得撫島(ウルップ島)までの計18島を日本に譲る」と書いてあります。
したがって、「国後島や択捉島は、千島列島には含まれない」という論理が成り立つわけです。
以上が、日本政府がロシアに対し、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島」の返還を要求する根拠になっています。
しかし、この (日本政府の) 主張は成り立たないと思われます。
西牟田靖『ニッポンの国境』( p.140 )
択捉・国後両島は歴史的に千島列島には含まれないとしているが、本当だろうか。
1855年の日露通好条約(日露和親条約)のオリジナルはオランダ語である。オランダ語・ロシア語版では国後・択捉島も千島列島に属すように書かれているが、日本語版ではウルップから北が千島列島であり、択捉や国後は千島列島に入らないと記述してある。
1875(明治8)年に結ばれたペテルブルク条約(樺太千島交換条約)でも日露の千島列島の扱いは異なっている。ロシア語では「クリルのうちシュムシュからウルップの十八島というグループを譲渡する」としているのに、日本語版は「シュムシュからウルップに至るクリル諸島を譲渡する」となっている。この条約のオリジナル版はフランス語だが、ロシア語と文意は同じである。
ロシア語版やオリジナルは「千島列島=国後・択捉両島を含むすべての島」としているのに対し、日本語版だけが「千島列島=国後・択捉両島を含まないウルップより北の18島」としているのはなぜか。その理由をロシア語研究者の和田春樹は次のように説明する。日露通好条約の誤訳は「単純な誤解から生じたもの」であり、千島樺太交換条約は日本側の交渉責任者であった榎本武揚の「意図的な行為」、つまり改ざんして翻訳したものである、と。
日本政府はこれら二つの条約に書かれた千島列島の範囲を根拠にして、国後・択捉両島の返還を求めているわけだが、誤った条文に法的な根拠を求めても疑わしいのは明らかである。
1992年、モスクワの日本大使館が四島返還を啓蒙するロシア語の小冊子をロシア国内で配布したことがある。条文についてはロシア語版を転載せず、日本語版を翻訳し転載したため、ロシア国内で反感を買った(長谷川毅・著『北方領土問題と日露関係』より)。そうしたことからもわかるとおり、日本の主張に国際的な信用は得られない。
榎本武揚の「意図的な行為」、つまり改ざんして翻訳したものである、という部分は「たんなる推測」にすぎませんが、
それ以外の部分には説得力があります。
Wikipedia によれば、
「日露和親条約」
条約交渉はオランダ語で行われ、オランダ語・ロシア語条文から日本語・中国語条文が翻訳された。このうちロシア語とオランダ語の条文は一致しているが、日本語条文には、第二条のクリル列島の部分に異なる箇所がある。ただし、ロシア語・オランダ語・中国語・日本語共に有効な条約である[12]。
「樺太・千島交換条約」
樺太・千島交換条約の正文はフランス語である。ロシア語および日本語は正文ではなく、また条約において公式に翻訳されたもの(公文)でもないため、条約としての効力は有していない。
ということなので、この Wikipedia の記述が正しいとすると ( Wikipedia には信頼性の面でやや難がある ) 、樺太千島交換条約の「正文」が日本語ではないことから、「国後島と択捉島」が千島列島に含まれない、という日本側の主張には無理があると考えられます。
以上により、「歯舞群島と色丹島」についてはともかく、「国後島と択捉島」については、日本政府の主張は成り立たないと考えます。
したがって日本がロシアに対し、「国後島と択捉島」の返還を要求する際には、別個の論理を組み立てなければならないことになります。
それではどう主張すればよいのか、については、下記の関連記事をお読みください。
■関連記事
「日本は千島列島全島の返還を主張し得る」
■追記
島の名前等、表記を一部修正しました。
一口に、千島列島の定義と言っても、
1)国際法上の千島・・これが不明瞭(色々な解釈が可能)なので、もめる根源になっている。そもそも、日露の解釈が異なる。
2)歴史上の千島・・千島の先住民はアイヌ人。
尚、樺太の先住民はアイヌ人(南部)、ニブフ人(中北部)、ウイルタ人(北部)。
少なくとも、ヤマト人やロシア人の固有の土地ではない。
3)地理学上の千島・・海底地形から判断する。
これは、私の個人的見解ですが、国後と択捉は分けて考えます。
国後・・・北海道の付属島(奥尻、礼文と同じ)
択捉・・・千島列島の一部
ではないかと、、、
なお、海底地形で判断すると、択捉島と得撫島(ウルップ島)の間が境界になるはずです。
よって、最後は「政治決断」しかないと思います。
日本国との平和条約における千島等の範囲は、日本国との平和条約の発効条件を満たす締結国の是認する範囲でなければなりません。従って日米が是認する範囲で、批准せずに連合国入りしなかったインドネシアを除く第二三条の主要な連合国の過半が是認する範囲でなければなりません。日米が是認しないため、北方四島は第二次世界戦争の結果として、日本国との平和条約における千島の範囲に含まれません。
第二十三条
(a) この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。
(b) この条約が日本国の批准書の寄託の日の後九箇月以内に効力を生じなかつたときは、これを批准した国は、日本国の批准書の寄託の日の後三年以内に日本国政府及びアメリカ合衆国政府にその旨を通告して、自国と日本国との間にこの条約の効力を生じさせることができる。