6月19日 キャッチ!
自分自身との結婚「自分婚」。
自分婚は新しい形の結婚としてメディアでたびたび取り上げられている。
ニューヨーク。
エリカさんの結婚式は完璧に見えた。
(エリカさん)
「最高に幸せ。
とてもうれしいわ。」
ドレス・指輪・誓いの言葉・花束を選んだ。
結婚式のすべてが揃っている。
「バラの花に
友人も20~30人招待しました。」
いないのは花婿だけ。
36歳のエリカさんが愛を誓う相手は自分である。
(エリカさん)
「結婚相手に自分を選んだんです。」
Q.みんなに自分を認めてもらいたいから?
「そのとおり。
世間の常識に従わないとけっこう大変ですよね。
誰かと結婚しないと一人前ではないと言われます。」
(ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」)
「ハーイ!キャリーよ!
私結婚するの!
自分とね!」
自分婚という概念は人気ドラマで広がった。
(ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」)
「学校を卒業したら
独身はお祝いされる機会が無いのよ。」
このようにして自分を愛する運動が始まった。
「私には大きな一歩
独身女性には小さな一歩。」
自分婚は現実を受け入れる1つの方法である。
独身女性の数は過去最高で
結婚しているアメリカの成人は約半数と記録的な低さである。
60年代には72%が結婚していた。
サッシャさんは10年以上も自分婚を研究している。
(作家 サッシャさん)
「自己愛の助けになるでしょう。
いまはSNSで他人と比較してなかなか自分を愛せませんから。」
サシャさんも自分と結婚した。
「自分婚によって人間的に成長できますし
他人を大切にできるんです。」
自分婚の概念は主流になりつつある。
(テレビドラマ「グリー」)
「“私と私の結婚”を祝うためお集まりいただきました。」
テレビドラマ「グリー」。
そして映画「I Me Wed」でも。
そのタイトルも「私と私の結婚式」。
ブライダル産業も注目している。
自分婚をするための道具が揃ったキット。
(自分婚キット考案者)
「どうやって自分婚をするのか分からない人がたくさんいると思ったの。」
キットはこの3年間で200個以上売れた。
売れ行きは伸びている。
ペトラさんも自分と結婚することにした。
(ペトラさん)
「『なぜ結婚しないの』『何か問題を抱えているの』という質問ばかりされて
少しうんざりしていたんです。」
そこで決意した。
(ペトラさん)
「私たち女性は社会の中で求められ価値を認められるのはほんの短い間です。
35歳までに家族を作り
すべてを手に入れるなんて非現実的です。」
テトラさんはデザイナーとして成功し歌手活動もしていたが
結婚は考えていなかった。
「30代の終わりになるにつれ若いときのような勢いがなくなり
40代になると婚期を逃したというプレッシャーを感じ始めました。」
これも1つの選択肢だという。
指輪を買い
ドレスをデザインした。
友人たちに自分婚を発表するのは少し難しかったようだ。
「私自分と婚約するの!」
(友人)
「それってどういうこと?」
「冗談ではなく本気なのよ。」
(友人)
「それは誰も傷つけないし
誰からも何も奪わない。
自分自身との関係を祝福しようというんだね。」
分かってくれたようである。
Q.1年目が一番大変だと言いますよね?
(エリカさん)
「山あり谷ありでした。」
エリカさんは最近結婚1周年を祝った。
Q.式の前と後で自分との関係は変わりましたか?
「ええ。
誰かとつきあうのもいいかなと思い始めました。
オープンな結婚ですから。」
Q.デートもあり?
「ええ。」
Q.一人でも充実しているということですが
今もあなたは誰かと一緒になってもいいということですね?
「ええ。
なにもそうしなくちゃというわけではないわ。」
今は自分婚に満足しているという。
離婚もない。
7月13日 編集手帳
国語学者の金田一春彦さんに初恋の回想がある。
旧制浦和高校に入ってまもない初夏のこと。
学生寮から東京に帰省したとき、
近所の道で可憐(かれん)な少女ににっこり挨拶(あいさつ)された。
〈魂が宙に飛ぶというのはこういうときだろうか〉(東京書籍『ケヤキ横丁(よこちょう)の住人』)。
恋文をしたため、
少女宅の郵便箱に託した。
やがて返信が届いた。
〈私の娘は、
まだ女学校の一年生である。
貴下の手紙にお返事を書くようなものではない。
貴下は立派な学校に入学された前途ある方である。
どうか他のことはしばらく忘れて学業にいそしまれよ。
少年老い易(やす)く…〉
何年かして応召するとき、
見送りの人垣のなかに少女の顔を見つけた。
金田一さんが少女と初めて言葉を交わしたのは、
それから30年余り後のことである。
「あの日、
理由は何も告げず、
父は言いました」。
きょう出征する人の見送りには必ず参列しなさい、
と。
かつての少女は、
「うたのおばさん」として親しまれる童謡歌手になっていた。
安西愛子さんの訃報(ふほう)(享年100)に接し、
金田一さんの失恋談議を読み返している。
謹厳にして情けあり。
昔は立派な父親がいた。
7月8日 おはよう日本
岐阜各務野高校野球部。
春の県大会で3位に入るなど
ここ数年で急速に力をつけ
甲子園を目指す夏の県大会は優勝候補の一角である。
その強さの秘密は
先輩と後輩の上下関係がないというユニークなチーム作りである。
上下関係のないチームを支えてきたのは
三兄弟である。
「長男の湧大です。」
「次男の暁です。」
「三男の朝陽です。」
といっても本当の兄弟ではなく
3年生を長男
2年生を次男
1年生を3男と呼ぶことで“家族のようなチーム”という意識を選手間に浸透させてきた。
昼休みはミーティングも兼ねて野球部のみんなでお弁当。
下級生でも敬語は使わない。
「楽しいです。
友達です。」
(3年生)
「3男から来てもらえるんで話しやすい。」
4年前から導入したこのスタイルが評判を呼び
ここ2年は3分の2以上の部員が入部の決め手にあげた。
(1年生)
「ほかのチームだと多分
1年生だけで話して3年生について行って終わるという感じですけど
先輩が日常生活でも気軽に話かけてくれて
前に出やすい。」
独特の制度を導入した江崎大輔監督。
自分が球児だった頃の真逆を目指して
このやり方を始めた。
(岐阜各務野高校 江崎大輔監督)
「しかられないように先輩より目立たないように毎日を過ごすのが精いっぱい。
その中で本当に野球が上手になるのかなと思ったら
自分はそうではなかった。
自分の体験の逆をやれば
のびのびと前向きな気持ちで練習に取り組んでくれるのではないか。」
するとグラウンドでの結果も伴い始める。
夏の岐阜大会は2年連続ベスト8.
この春は県3位に入り夏は優勝候補の一角である。
上下関係がないとなぜ強くなれたのか。
理由は選手たちの自主性だった。
この日は実戦形式の練習。
そこで走塁ミスが出てしまう。
すかさずチームを一喝したのは2年生だった。
(2年生)
「今のプレーで誰もストップをかけられないのか。
集中してもとやれよ全員。」
一方こちらの場面
(2年生)
「ピッチャー代わったときに俺に先頭で代打行かせてくれ。」
声をあげたのはレギュラーではない2年生。
大会メンバー入りしようと猛烈アピール。
誰にチャンスを与えるかも選手間で決めている。
つかんだ打席で見事にヒット!
結果が出るとみんなで喜ぶ。
上下関係がないからこそ
部員57人それぞれが
自分がチームを強くするとチーム力を高めてきた。
(岐阜各務野高校3年 加藤湧大主将)
「次男三男が前面に出てきてくれる。
どの立場でも勝たせたいという思いがある。
上下関係のないことや
選手主体が勝ちにつながってきている。」
この日は夏の初戦をイメージした練習試合。
岐阜各務野は監督とともに選手もサインを出す。
この試合は2年生の杉山暁選手が担当した。
0対0の6回裏。
3番の3年生大滝選手が出塁する。
初球のサインはヒットエンドラン。
しかし大滝選手は首を振りサインを取り消す。
(3年 大滝竜弥選手)
「そこは自分が行けないと思って。」
(2年 杉山暁選手)
「そこはもう任せたた。」
そして4球目に盗塁成功。
チャンスが広がって5番新井選手。
左中間へのタイムリー。
選手たちの判断・決断が先制点につながり
試合を制した。
(2年 杉山暁選手)
「選手が言っていることの方が成功したりするので
バンバン監督に意見を言って
涼しい顔でサインを出せるように練習します。」
従来のチーム作りに一石を投じる岐阜各務野高校。
独自のやり方を貫き
甲子園を目指す。
(岐阜各務野高校 加藤湧大主将)
「夏も苦しい試合になると思うんですけど
上下関係がないチームはどこにもないので
自分たちの持ち味を最大限発揮して
選手主体を貫いてやっていきたいです。」
先輩と後輩の上下関係はないが
授業中の態度を先生に注意されたら練習に出られないなど
野球部独自のルールを作っていて
野球が上手いだけではダメという意識が部員間に浸透している。
7月6日 編集手帳
いま頃の季節だろう。
北原白秋の詩集『思ひ出』に「水路」という一編がある。
〈ほうつほうつと蛍が飛ぶ
しとやかな柳(やな)河(がわ)の水路を〉。
幼少期を過ごした水郷・柳川の風景である。
詩人にとって、
水路と蛍の取り合わせは忘れがたい記憶であるらしく、
詩集の序文でも触れている。
小舟は、
〈あをあをと眼に沁(し)みる蛍籠に美(うつ)くしい仮(かり)寝(ね)の夢を時たまに閃(ひら)めかしながら〉夜の水を流れくだるのだ、
と。
詩文の印象から、
福岡県内の川は穏やかに流れるものと勝手に思い込んでいた。
暴れ狂う濁流の映像から目が離せずにいる。
梅雨前線の影響で、
西日本の各地が豪雨に見舞われた。
気象庁はきのう夕刻、
「数十年に一度」の重大な災害が迫っているとして、
福岡県の筑後・筑豊地方などに「大雨特別警報」を発表した。
土砂崩れや河川の氾濫におびえつつ、
多くの住民が眠れない夜を過ごしたことだろう。
〈定紋(じょうもん)つけた古い提灯(ちょうちん)が、
ぼんやりと
その舟の芝居もどりの家族を眠らす〉。
白秋の詩は、
水路をゆく人の幸せなひと時をうたっていた。
家族そろっての穏やかな眠りを一刻も早く――と、
思いはそれに尽きる。
6月17日 経済フロントラインン
家具や日用品を販売するニトリの技術開発室。
この日担当者が始めたのは商品の電子レンジの分解である。
部品を1つずつバラバラにして
耐久性や設計どうりに作られているかを調べる
通称“全バラ検査”。
電化製品やキッチン用品など
安全性が問われる商品の多くを対象にしている。
部品にどんな材料が使われているのかを調べる検査機器など
この10年で1億円を投資。
スタッフを100人に増員した。
ニトリが品質管理に力を入れることになったのは
10年前に中国製の土鍋を自主回収したことがきっかけである。
土鍋のふちについていた物資を消費生活センターが調べたところ
鉛やカドニウムが検出されたのである。
商品の品質統括責任者 杉山清さん。
自動車メーカーで開発を担ってきた手腕を買われ引き抜かれた。
(ニトリホールディングス 品質統括責任者 杉山清さん)
「当時の品質検査は文字通り“検査”だった。
見ていいか悪いか以上のものはできなかった。
私たちはメーカーと同等の技術を持って検証できるようにした。」
杉山さんは届いた商品を調べるだけでなく
月に2度は海外の下請け企業に出向きチェックを行っている。
さらに独自に開発した品質保証マニュアルを海外の下請け企業にまで公開。
ノウハウを下請け企業に伝えることで
さらにその先にある孫請け企業などにもチェックが及ぶように考えたのである。
(ニトリホールディングス 品質統括責任者 杉山清さん)
「全部を含めて全方位的にやらないかぎり
漏れが出てくる。
モノづくりのグローバリゼーションをやるときには
必ずうちだけでなく
うちの考え方を理解してくれるような取引先や従業員の育成
上から下まで同じ考え方を持ちながら進んでもらうということをやらざるを得ない。」
品質管理にどれくらい労力をかけるのか。
専門家は“経営トップの決断”しだいだという。
(中央大学理工学部 経営システム工学科 宮村鐡男教授)
「実際に実行するためにはトップのコミットメント(かかわり)
リーダーシップが不可欠になってくる。
積極的に対応していく
そういう必要性が高まってきている。」
6月17日 経済フロントライン
サイレントチェンジは
メーカーが知らないうちに下請け企業などが部品の材料を買えてしまうことで起きる。
使う側にとっては多大な影響が生じる。
サイレントチェンジが原因とみられる事故は
内部でショートが起き故障したパソコンの場合
2015年以降500件以上起きている。
除湿器が発火し5人が負傷した事例もある。
身の回りのさまざまな製品にサイレントチェンジの危険が潜んでいる。
事故を起こした製品が次々と持ち込まれる場所がある。
製品評価技術基盤機構
通称nite(ナイト)である。
消費者庁などから依頼を受け
事故原因など詳細に迫る。
研究員の片岡孝浩さんは
最近サイレントチェンジによる事故が増えていると感じている。
その1つが4月に山形県で起きた火災の火元となったコタツである。
ヒーターが焼け焦げて変色していた。
電源が入っている状態で突然落下し周囲に燃え移ったのである。
原因はヒーターを止めるプラスチックの部品にあった。
「プラスチック製の留め具が
サイレントチェンジによって本来の使用より耐熱温度が低いものになってしまったため
使用時の熱に耐えきれずに溶けて
ヒーターの重さで落下した。」
コタツは日本のメーカーが東南アジアの工場に製造を委託したものだった。
留め具には本来溶けにくい素材が使われているはずだったが
日本のメーカーが気づかないうちに安価なリンに変えられていたのである。
同様の事故は2010年以降15件以上発生していた。
「実際に出てきた分析データを見ると
性能よりも値段を最優先して作られた材料ではないかと思われるものが結構ある。
見た目には全く分からないので
メーカーは仕様通りのものだと信じてしまう。」
サイレントチェンジは製品が作られてから事故が起きるまで時間がかかるのが特徴である。
ある通信機器のプラグで起きた事故。
使用中に溶けだした。
金属部分のショートが原因だった。
ショートを防ぐための絶縁樹脂の材料が粗悪なものに変えられていたのである。
発売当初は問題は起きなかったものの
4年ほどで事故が相次ぐようになった。
すでに100件以上が報告されている。
サイレントチェンジによる事故は日本の企業にも深刻な影響を及ぼす。
かつて製品の回収に置き込まれたメーカーの担当者。
(電機メーカー 品質管理担当者)
「たちが悪いですね 本当に。
サイレントチェンジの場合は経年劣化を伴なった形で出てくる。
相当な数を作ったあとで市場で問題が出てしまう。
被害額も規模も大きいので対応することもすごく大変。
気付いたときには“もうお手上げ”という状態。」
サイレントチェンジを防ぐことは出来ないか。
通信機器のプラグのケースからは対策の難しさも明らかになっている。
今回のケースでは通信機器は海外メーカーのものだった。
そのメーカーはプラグやアダプターの製造を台湾のメーカーに委託していた。
台湾のメーカーを呼び聞き取りを行った片岡さん。
なぜプラグの使用を変えたのか聞くと意外な答えが。
(台湾メーカー)
「われわれは何も変えていません。
仕様通りの材料で作っているはずですが・・・。」
(片岡孝浩さん)
「本当にキョトンとした顔をしていた。
『そんなはずはありません。
こういう材料が使われているはずです』
その場では鳴った九せずに『一度持ち帰って調べ直してみる』と。」
実は台湾のメーカーは金属部品の製造を中国にある部品メーカーに託していた。
この部品メーカーは樹脂の加工をさらに別の会社に委託。
材料の変更を行ったのはこの樹脂加工メーカーだったのである。
ものづくりのグローバル化が進み
下請け企業に目が届かなくなるなかでサイレントチェンジは起きていた。
(製品評価技術基盤機構 製品安全技術課 片岡孝浩さん)
「ものづくりが海外に出ていき
サプライチェーンも複雑化して
今後もさらに複雑化していくと考えられる。
問題としては根がかなり深い。」
6月17日 おはよう日本
“少年よ 大志をいだけ”
クラーク博士の言葉を理念に掲げる北海道大学。
今年4月に発足したのが
「寄付で応援!北大の研究」プロジェクト。
研究を守ろうと
有志で集まった教授4人が起ち上げた。
“生き物を観察。認識するための新しい方法論を提案したい”
“欧米に比べ
日本ではがん予防研究に十分な研究費が提供されていない”
“長期的に研究を続けるためにも
資金面での支援が必要である”
市民が興味を持った研究に1口1万円から寄付ができる仕組みである。
プロジェクト発足の背景にはきびしい研究費の削減がある。
発起人の1人
遺伝子病制御研究所 藤田恭之教授。
いま取り組んでいるのは
極めて初期段階のがん細胞を発見するという新たな研究テーマ。
しかし研究機関は10~20年単位。
長期間研究するための資金繰りに苦しんでいるという。
細胞を培養するために必要な牛の血清。
「これ1本 4万5000円。
去年 うちの研究室で90本買いましたので
これだけで400万円近くかかっている。」
これまで研究費の資金としていた交付金は年々減っている。
そこで頼りにしているのが科学研究費である。
国の審査を経て獲得できる。
藤田教授はこれまで2度科学研究費を申請。
しかしいずれも不採択となった。
自分たちが行うような長期的な研究は国からなかなか評価されないと感じている。
(藤田恭之教授)
「政府あるいは現在の風潮としては
すぐに成果が出るようなものがより尊ばれるような感じが残念ながらある。
長いスパンで見ないといけない研究にはなかなかお金が下りにくい。
そこに非常に苦しんでいるのが現状。」
さらに深刻な資金不足により研究が頓挫してしまったケースも出てきている。
電子科学研究所の所長を務める中垣俊之教授。
粘菌など単細胞生物の動きを
インフラなど社会の様々な仕組みに応用する研究を行っている。
しかし研究室を案内してもらうと
(中垣俊之教授)
「ここは計測室。
がらんとしてますけど
人があんまりいない。」
年間予算はわずか70年万円
3年前から研究院を雇うこともできず思うように研究が進まない
(電子科学研究所 中垣俊之教授)
「たくさんの実験もしなくていけないし計算もしないといけない。
いよいよ厳しい感じになっている。」
市民から研究費の寄付を募る新たなプロジェクト。
しかし始まって2か月が経ったが寄付は無い。
どうしたら寄付をしてもらえるのか
アイデアを出し合う会議が開かれた。
目をつけたのが海外の寄付制度。
イギリスでは大学ではなくさまざまな団体をまき込んで寄付を募っていることが分かった。
さっそくイギリス在住の研究者にアドバイスを求めた。
(ロンドン大学 ギョーム・シャラス教授)
「例えばロンドンマラソンでは慈善団体が一定の出場枠を持っています。
ロンドンマラソン出場は名誉なので
その枠を使い出場希望者から寄付を募ります。」
社会をまき込むことで研究を守ることができるのか。
研究者たちの試行錯誤は続く。
(遺伝子病制御研究所 藤田恭之教授)
「この研究をより一般の方にわかりやすい形で伝える。
サポートしていただく。
そして『できました』と。
双方向性のあるやりとりができたらいい。
研究ががより社会に還元できるようないい関係ができればいい。」
プロジェクトを起ち上げた北海道大学の研究者たちは
今年度中に
それぞれの研究内容を一般市民に説明する講演会を開き
理解を深めてもらうことで寄付につなげていくことにしている。
6月17日 おはよう日本
泣きながら走ってくる子どもたち。
ベトナム戦争のさなかに撮影され
世界中に衝撃を与えた写真である。
撮影したのはベトナム出身のカメラマン ニック・ウトさん。
この写真が撮影されてから45年になる今年
次の世代を担う若者たちにメッセージを送った。
ニック・ウトさん(66)。
ベトナム戦争当時AP通信の現地カメラマンとして
10年間戦場の最前線を撮影し続けた。
(ニック・ウトさん)
「落ちてくる爆弾を撮っていると
その先でナパーム弾が爆発したんだ。」
45年前ウトさんが21歳のときに撮影した「ナパーム弾の少女」。
爆撃で燃えさかる村を背に
泣き叫びながら逃げてくる子どもたちをとらえた写真である。
子どもや女性など一般の住民が犠牲になっている現実を世界中に知らしめたとして
世界的に権威があるピュリツァー賞も受賞。
反戦の機運がさらに高まり
ベトナム戦争が終結に向かうきっかけとなった。
ベトナム戦争のあとアメリカに移り住んだウトさん。
この写真とウトさんが当時使っていたカメラをベトナムの博物館に寄贈することになり
5月に式典が開かれた。
(ニック・ウトさん)
「泣き叫びながら逃げる姿は
誰が見ても悲惨さが伝わってきます。」
ウトさんは世界各地を回り
この写真を通じて戦争の悲惨さを訴えてきた。
式典の翌週
ウトさんはこの写真を撮影したベトナム南部のチャンバン村を訪れた。
写真を撮った通り。
そのときの様子を撮影した貴重な映像が残っていた。
空爆する飛行機をウトさんが撮り終えたところ
ナパーム弾が村を直撃。
住民たちは逃げ惑った。
そのときウトさんに向かって走ってきたのがやけどを負った子どもたちだった。
(ニック・ウトさん)
「とてもおびえながら『水が欲しい』と叫んでいました。」
その場にいたジャーナリストの多くが一刻も早く写真を現像しようと村を離れたという。
しかしウトさんはカメラを置き
取材に使っていた車で子どもたちを病院に搬送。
大やけどを負った女の子は一命をとりとめた。
(ニック・ウトさん)
「子どもたちは車の中でも泣き叫び
なんとか助けたいと思ったんです。」
写真の中の子どもの1人が今も現場近くに暮らしている。
食堂を営むヒエンさんである。
今回久しぶりに再会することができた。
「まだ戦争のことが忘れられない?」
「大きな音を聞くと思い出してしまうんです。」
あのとき近所の子どもたちと遊んでいて爆撃に巻き込まれたヒエンさん。
ウトさんは自分たちを救ってくれた恩人である。
(ヒエンさん)
「ウトさんは家族の一員のようです。
毎年でも会えれば本当にうれしいですね。」
ウトさんはこの村を訪れるたびにジャーナリストとしての原点を思い出すという。
(ニック・ウトさん)
「毎日多くの人の死を目の当たりにし
戦争を止める写真を撮りたいと思いました。
誰も人の死なんか見たくないのです。」
ふだんはアメリカで暮らすウトさん。
今回のベトナム訪問にはもう1つ目的があった。
ジャーナリストを目指す学生たちとのシンポジウムである。
母国の若者に戦場で取材を重ねてきた自らの経験を語り継ぎたいと考えていた。
(ニック・ウトさん)
「ヘリコプターに乗っていたとき
竹林を見下ろすと
兵士が我々に向けて発砲するのが見えたんです。
“ああ私はここで死ぬんだ”と覚悟しました。」
ウトさんが見せたのは戦場の真っただ中で撮影した写真の数々。
学生たちからは戦争を取材することの難しさについて質問が投げかけられた。
(学生)
「ベトナム人が米軍に殺される様子を写真に撮るのはつらくなかったのですか。」
(ニック・ウトさん)
「そうですね。
でもこれが仕事なんです。
戦争の真実とは何か
伝えようと努力してきました。」
(参加した学生)
「あの写真は才能だけではなく彼の心から生まれたんだと思います。」
「いつか僕も戦場に行って
社会に大きな盈虚を与え世界を変える写真を撮りたいと思いました。」
世界を動かした1枚の写真。
戦争の無い世界を目指してきたウトさんの思いは
ベトナムの若者たちに受け継がれようとしている。
(ニック・ウトさん)
「写真には人々に訴えかける力があると信じています。
若い人たちに写真を通じてそうしたメッセージを伝えたいのです。」
6月14日 国際報道2017
日本では
この10年で約460もの高校が閉校に追い込まれるなど
教育現場は少子化による生徒の減少に悩まされている。
こうしたなか高知県のある私立高校は
新たな生き残り戦略として
ナイジェリアから8人の留学生を招いた。
その名も「アスリート留学生」。
高知市にある高知中央高校。
過去に生徒数が定員の4割に減り
廃校が検討されたこともある。
4月 鳴り物入りで入学したのが8人のナイジェリア人留学生である。
今年度からこの高校が始めた“アスリート留学生制度”。
部活動で好成績をおさめ知名度を上げることが狙いである。
(高知中央高等学校 近森正久理事長)
「全国から生徒さんに来てもらうには部活動の強豪校でないと。
注目してもらうために
留学生に頑張ってもらって
県外の生徒を獲得しないと
学校経営自体がやっていけない時代が来ると思います。」
部活動の即戦力として注目したのがアフリカの選手。
ナイジェリアで幅広い人脈を持つ商社マンの力を借り
留学生の選抜を行うことにした。
ナイジェリア政府の協力を仰ぎ
各地で選抜テストを開催。
選ばれた留学生は将来有望な選手ばかりである。
バスケットの本場アメリカの高校からのオファーを断り日本行きを選んだ選手もいれば
190cmの長身に跳躍力を兼ね備えた女子バレーボール選手。
学費は高校が全額負担を約束。
卒業後は日本の実業団やプロでの活躍も期待できる。
(留学生)
「日本に行けるなんて本当に夢みたい。
部活動でベストを尽くしたいです。」
しかし日本での生活は苦労の連続である。
放課後は毎日日本語の授業。
それだけにとどまらない。
2mの体に窮屈な寮のベッド。
慣れない日本食。
環境の変化についていけない留学性も出てきた。
男子バスケットボール部のアデオラ・シェウン・アデロラさん。
たび重なる遅刻や朝から大音量で音楽を流すなどの行動が問題視されていた。
そのシェウンさんが不満をあらわにしたのが日本の部活動特有の集団行動である。
(ナイジェリア人留学生 アデオラ・シェウン・アデロラさん)
「ナイジェリアは集団行動など無いのに
日本は厳しすぎる。」
シェウンさんの態度に日本人の部員も困惑を隠せない。
特に悩み続けたのはキャプテンの中岡陸斗さんである。
(キャプテン 中岡陸斗さん)
「すぐ調子に乗ってすぐどっか行ったりすぐ手を出したりするので
ガツンと言わないとなめられるんで。」
留学生が入学して1か月。
寮にガラスの割れたあとが。
ついに中岡さんとシェウンさんが大喧嘩をしたというのである。
(キャプテン 中岡陸斗さん)
「シェウンが強い口調で手を出してきたリ
もう自分も腹立ってて。」
(ナイジェリア人留学生 アデオラ・シェウン・アデロラさん)
「肩をたたいただけなんだ。
ケンカしたかった訳じゃない。」
急きょ留学生のスカウト担当者が部員を集めミーティングが開かれた。
(スカウト担当 伊藤政則さん)
「部活でも言葉の壁でもストレスを抱えて
相当なストレスだと思う。
その気持ちだけは分かってあげて欲しい。」
一方で留学生にも辛抱強さを求めた。
「大変だが
日本のやり方に合わせないといけない。」
それから4週間後のインターハイ県予選の直前。
中岡さんはシェウンさんの変化を感じていた。
少しずつ規律を守ろうとする努力が見え始めたのである。
(キャプテン 中岡陸斗さん)
「今度の試合でベストを尽くそう。」
5月末
全国大会への切符がかかる決勝戦。
相手は強豪校に勝ち続け勢いに乗る高知追手前高等学校。
序盤 中岡さんを中心に試合のペースを握る。
後半シェウンさんがコートへ。
チーム最多42得点の活躍だった。
試合は115対35の圧勝。
目標の全国制覇に向け弾みとなる勝利だった。
(キャプテン 中岡陸斗さん)
「これから四国大会とインターハイがあるので
コミュニケーションの面では日頃から話していく。」
(ナイジェリア人留学生 アデオラ・シェウン・アデロラさん)
「日本一になるため誇りを持って頑張るよ。」
生徒確保のため外国人に見出す地方の高校。
文化の違いを乗り越えようともがく
高校生たちの青春が始まった。
6月14日 キャッチ!
オーストラリアには現在人口の約3%の先住民がいる。
2つの系統があり
1つは数万年前から大陸にいるアボリジニと
もう1つは数千年前から北東部のトレス諸島に暮らしている人たちである。
しかしヨーロッパからの入植者によりオーストラリアが1901年に建国されて以降
同化政策のもとで先住民の権利はないがしろにされてきた。
オーストラリア政府はいま国をあげて先住民の生活向上を目指しているが
先住民の人たちはかなり深刻な状況に置かれている。
5月27日 メルボルンであるイベントが開かれた。
先住民の文化に関心を持ってもらおうとNPOが開催したものである。
この日はオーストラリアの先住民が憲法で国民と認められた50年目の記念日だった。
ターンブル首相もイベントに参加。
先住民の生活向上を目指す姿勢を示した。
(先住民)
「こうした行事を通じて先住民問題についてメッセージを発信できる。」
オーストラリア政府は先住民のための関連予算として毎年5,000億円近くを投入している。
予算には
遠隔地に暮らす先住民のための医療サービスの充実や
識字率向上のための学習支援などが含まれている。
2008年には教育と健康など7つの分野で具体的な改善目標を設定し
その進捗状況を報告書にまとめているが
改善が見られたのは高校を卒業する生徒の割合が増えたことのみである。
(オーストラリア ターンブル首相)
「非先住民との格差解消は国の責任です。
すべての国民が協力して取り組んでこそ
初めて達成可能なのです。」
格差解消の障害となっているのが先住民への差別である。
大学の調査によると
半数以上の先住民が学校や職場 街なかで差別を受けてきたという。
また去年8月
シドニーにあるNPOの調査では
オーストラリアの先住民の自殺率はかなり深刻だとしている。
(若者支援団体 代表 ケイティ―・アチェソンさん)
「とても衝撃的ですが
25歳から29歳の先住民男性の自殺率が世界で最も高いんです。」
自殺率が高い理由の1つが
仕事に就けないこと。
先住民の就業率は48%余で
非先住民より24ポイントも低くなっている。
社会からの疎外感から薬物に手を出し
その乱用の末に自殺に至るというケースが少なくないと言われている。
5月のイベントで司会を務めたジョー・ウィリアムズさん(33)。
10代のころからアルコールを飲み
薬物にも手を染めたウィリアムズさん。
かつてはプロのラグビー選手として活躍したが
20代の後半には5年間連れ添った妻と離婚。
将来を悲観して自殺を図った。
(ジョー・ウィリアムズさん)
「離婚など良くないことが人生の中でいくつかあった。
それらに耐えきれなかった。」
ウィリアムズさんは自分のような目に合う若者を1人でも減らすために
全国各地を回って
先住民の若者たちにもっと目を向けるよう呼びかけている。
(ジョー・ウィリアムズさん)
「自殺を防ぐための方法は何か。
入植前に自殺がなかったのはみんながいたわり合っていたからです。」
(参加者)
「彼は多くの人の心を打ちました。」
若者を救う活動は地域社会でも地道に行われている。
首都キャンベラから160km内陸の町ワガワガ。
先住民が良く集まるというコミュニティーセンター。
ボクシングを通じて若者とのコミュニケーションを深めている。
指導しているのは施設職員のクライブ・ライオンズさん(46)。
毎日のようにトレーニングをするスティービー・チャールズさん(22)。
飲酒による暴力でたびたび問題を起こしていたところを
ライオンズさんの誘いでジムに通うようになった。
(スティービー・チャールズさん)
「練習で忙しいと薬をやらなくてすむよ。
プロになってタイトルを取るのが夢だよ。」
ライオンズさんの親戚の20代の男性が薬物中毒が現認で自殺した。
ライオンズさんは「1人でも多くの若者を救いたい」と決意を新たにしている。
(ボクシングトレーナー クライブ・ライオンズさん)
「この町の最大の問題は酒と薬物で
先住民に雇用がないのが原因だ。
若者に心配する人がいることを伝えたい。」
先住民の若者が自殺する問題をオーストラリア政府は深刻に受け止めている。
(先住民健康担当相 ケン・ワイアット氏)
「私の選挙区でも多くの若者が自殺している。
先住民の組織と政府が一緒になって自殺の原因について究明している。」
背景となる雇用や飲酒 薬物の対策を行うことが急務となっている。
先住民の就業率の低さは
先住民が現代の情報化社会になじみにくいという点も指摘されている。
将来に希望が持てない親が犯罪に犯して刑務所に服役する割合が年々増加している。
親子が一緒に過ごす時間が短くなり
子どもたちが将来について考えられないという悪循環も生じている。
国民的スポーツであるラグビーのプロリーグで
先住民チームと非先住民チームが対決する試合が行われるなど
関心を持とうと呼び掛ける動きはある。
しかし学校の授業では先住民の歴史をあまり習わないという指摘もある。
また人口の3%程度であるために選挙の争点になりにくく
先住民の問題について関心を持つ政治家は多くない。
オーストラリアで1960年代まで続いた先住民同化政策では
先住民の家庭から大勢の子どもたちが引き離され
白人の家庭などに住まわされた。
これについて政府は2008年になってようやく当時のラッド首相がアボリジニに謝罪するが
それまでのオーストラリア政府には先住民に対する敬意が欠如していたと言わざるを得ない。
同じ先住民でも隣のニュージーランドでは状況が異なる。
ニュージーランド国歌を公式の場で歌う時は
英語だけでなく先住民の言葉でも歌われるなど敬意がはらわれている。
シリアから難民を受け入れたり
世界中から難民を受け入れたりと
多民族・多文化社会になってきたオーストラリアだが
同じ国民である先住民についてきちんと話し合おうという社会の雰囲気はまだ造成されていない。
オーストラリアの先住民でつくる組織は5月
自分たちの見解を政策により反映させるため
住民の代表組織を作ることを政府に求めていくことを決めた。
先住民が何を望むかというのが大事である。
7月5日 編集手帳
その会話は球場のマイクが拾い、
放送で流れた。
金子鋭(とし)プロ野球コミッショナー「この僕が頭を下げて頼んでいるんだ」。
阪急・上田利治(としはる)監督「それがどうしたのですか」
1978年(昭和53年)、
ヤクルト―阪急の日本シリーズ第7戦である。
ヤクルトの大杉勝男選手が放った左翼ポール際の飛球を本塁打と認めた判定に、
上田監督はファウルを主張して譲らない。
線審の交代まで要求し、
抗議は1時間19分に及んだ。
ファン置き去りの抗議は、
当然ながら非難の十字砲火を浴びた。
内容といい、
時間といい、
むちゃな抗議であり、
執念を褒めるわけにはいかない。
いかないのだが、
いまでも何かの時にふと、
その人の背中を思い浮かべることがある。
こらッ、
早く再開しろ!
テレビ桟敷では、
おそらく列島の何百万人かが毒づいたことだろう。
孤立無援のグラウンドに立ち、
無言の罵声を1時間19分にわたって受け止めつづけた背中である。
阪急を三度の日本一に導いた名将、
上田さんが80歳で亡くなった。
〈われ生かす信(しん)はわれには唯一(ゆいつ)なり評する者のあらば我(われ)のみ〉(窪田空(うつ)穂(ぼ))。
あの日の、
男の背中よ。
6月30日 編集手帳
〈寝テ居ルモ奉公ナリ〉は江戸期の儒学者、
荻生(おぎゅう)徂(そ)徠(らい)の説である。
『太平楽』という文章に書いている(岩波書店『日本思想大系36』)。
ぐうたら寝てばかりの家臣でも、
何かの役には立っている、
と。
天下太平の世はそれでいいが、
核ミサイルだ、
領海侵入だ、
と天下不穏のご時世にはそう寛容でいられない。
ましてや国の安全保障を所管する人である。
へたに起きていて何かしゃべられるよりは、
〈寝テ居ルホウガマシ〉の大臣は困りものだろう。
「(自民党候補の当選を)防衛省、
防衛相、
自衛隊としてもお願いしたい」
稲田朋美防衛相が都議選の応援演説で発言した。
閣僚を含む公務員が地位を用いて選挙運動をすることは公職選挙法が禁じている。
あまつさえ、
政治的に中立の自衛隊を一族郎党のように扱うのは、
寝言、
たわごとに等しい。
「寝ていろ」と言うべきか、
「起きろ」と言うべきか、
安倍首相も指示に迷うだろう。
ひとつ訂正がある。
冒頭に引いた徂徠の著述を『太平楽』と書いたのは誤りで、
『太平策』が正しい。
緊張感の乏しい政府・自民党の“太平楽”に感染し、
間違えてしまった。
6月14日 おはよう日本
大手コンビニチェーンのファミリーマート。
全国8割の店が必要な人員を確保できず深刻な人手不足に直面している。
店員はレジでの接客はもちろん
商品の発注や清掃といったいくつもの業務をこなさなければならない。
公共料金の支払い
電子マネーやコンサートチケットの発券など
次々とサービスを増やしてきたことで業務の多さに拍車をかけてきた。
たとえば宅配便では発送や受け取りに14のパターンがあり
マニュアルは数センチの厚さになっていた。
(店長)
「大変のひと言です。
覚えることも多い。」
アルバイトの時給はここ数年上がってきているが
思うように人材を確保できていない。
なぜアルバイトが集まらないのか。
現場の意見を吸い上げようと
社長自らがアルバイトから話を聞く機会が設けられた。
(アルバイト店員)
「いつも仕事を見られるじゃないですか。
知人からは
忙しそう大変そうというのをまず最初に言われてしまって
私には無理かなってみんな尻込みしてしまう。」
「楽しいというイメージがあまりない。」
「支払方法だけでもそんなにあるのと
やっぱりそういう大変さばかりが。」
出てきたのは
仕事の忙しさからバイト先として敬遠されているという声だった。
(ファミリーマート 澤田貴司社長)
「本当にまったなしというくらい店舗の現場は労働力不足が顕著なので
できるタイミングからどんどんやる。」
店員の忙しさを緩和しないと人材は確保できない。
会社では現場の負担軽減に向けて
主な業務にどれだけ時間がかかっているのか把握する取り組みを始めた。
まず見直しの対象としたのは
店内のあちこちにある販売促進のためのポスターや値札シールである。
その数実に500。
多くは週に1度
深夜のうちに取り替えなければならない。
台紙から切り取り折り曲げて値札を取りつけるという
手間のかかる作業を1つ1つ計測した。
ドリンクの棚1列に16枚の値札を取りつけるのにかかる時間は7分17秒。
こうした作業は単純に足し合わせただけでも3時間。
実際には他の業務との兼ね合いでそれ以上の時間がかかっていることが分かった。
コンビニの深夜時間帯の仕事。
ポスターや値札の張り替えがあるとき
作業は未明から朝までかけて行われている。
しかしその時間は商品の補充や朝の接客のピークなどと重なるため
スタッフの忙しさが増していた。
そこでポスターや値札の数を削減し
作業にかかる時間を半分に減らすことで
朝の時間帯の忙しさを緩和しようと考えている。
このほか発注業務の簡略化や清掃作業の見直しなども検討していて
具体的には店員の業務を全体として半減させることを目標にしている。
(ファミリーマート 澤田貴司社長)
「店で楽しく仕事をしてくれることが一番大事なので
それは作業を減らしてあげないと人手不足解消はなかなか達成できない。
これはもう目の前の課題なので
大至急やっつけなければいけないと思い取り組んでいる。」
人手不足が深刻な中小企業では
入社した貴重な人材を定着させる取り組みが進んでいる。
椅子やソファーの革張りを行っている社員11人の町工場。
高い技術を持つ職人を中心に仕上げの難しい加工を行っている。
この会社で長年若い人材が定着しないことに悩んできた。
理由の1つが長時間労働である。
これまで現場では職人が採寸から仕上げの革張りまで1人で行っていた。
このため受注が増えたり急ぎの仕事が入ると残業が増え長時間労働になってしまう。
専務の原田直美さん。
人手不足にもかかわらず社員が定着しない状況に危機感を抱いていた。
(リーファ 原田直美専務)
「社員が入社しては退社するということも繰り返されていくことがあった。
“ここで何をしたらいいか分からない”ちう言葉を残し退社した社員もいた。」
そこで会社では労働時間の短縮に乗り出した。
全ての作業工程を6つに分類。
ベテランの職人しかこなせない難しい作業と
若手でもできる簡単な作業に区分した。
こうすることで職人の作業を見ているだけだった新入社員も分担できるようになった。
さらに職人任せだったスケジュールを共有するようにした。
ホワイトボードには作業ごとに締め切りの日が記してある。
こうすることで遅れている作業が一目でわかり
従業員を適切に配置できるようになった。
「赤丸がついていたとしたら
本当はやらないといけない工程が遅れていることをみんなで把握できる。」
こうした作業の見直しが進んだことで仕事の効率が大幅にアップ。
完成までにかかる時間が約半分に短縮し
残業時間も3割近く減った。
さらにこの町工場では新入社員の育成方法も変えた。
これまで仕事は先輩から盗むものと放任してきたが
若い社員同士を一緒に作業させ手厚く教えることにした。
その結果最近入社した5人の社員はみな残り
現場で働き続けている。
これまでの働き方を大きく見直すことで人手不足の解消が実現した。
(リーファ 原田直美専務)
「いかに自分たちが1つのことにとらわれず違った視点で見ていけるか
働きがいのある職場であったり
みんなが思ういい会社の幅がどんどん広がっていくと思う。」
6月10日 経済フロントライン
太陽光発電は昼間必要以上に発電をすると電力会社が買取ってくれなくなる可能性がある。
この弱点を克服しようというのが
「仮想発電所」という仕組みである。
ポイントは
電気をためる場所を作ること。
蓄電池が家庭や企業、公共施設をインターネットで結び
どこに余裕があるか情報を共有する。
電力会社は電気を買い取ったうえで空いている蓄電池に電気を送る。
そして需要のあるときに
電力会社はためられた電気を使うのである。
このネットワークが仮想発電所である。
好きなときに電気をためて
好きなときに使い
またためる。
こうすれば電力会社は積極的に電気を購入できる。
この仕組みにより
太陽光発電の事業者も気がねなく発電量を増やすことができるのである。
仮想発電所は実用化に向けて動き出している。
国の補助を受けて
関西電力が中心となり
企業や家庭などと情報をやり取りするシステムを開発している。
今年度中に実験に参加する企業の蓄電池とネットでつなぎ
太陽光の発電量に合わせた出し入れを試す予定である。
(関西電力 地域エネルギー本部 森望副本部長)
「再生可能エネルギーのポテンシャルを十分に享受できる形をつくろうと思うと
VPP(仮想発電所)の形で
電気の出し入れを自由にできるような
リソースを活用することが非常に大事。」
6月11日 勝衛材フロントライン
岐阜県可児市の工業団地の跡地。
ここに東京のベンチャー企業が運営している太陽光発電所がある。
パネルが1,100枚
出力が1,1メガ強のメガソーラー。
1日で約280世帯分の電力をまかなうことができるこの発電所。
社長の三浦さんは
今後この規模の発電所を全国に20か所以上増やしたいと考えている。
しかし今大きな壁に直面していると言う。
(エンブルー 三浦洋之社長)
「新規の発電所をつくろうといい土地を見つけてきても
断念しなければならないケースも
以前と比べて激変というくらい増えている。」
その大きな理由が
電気の買い取り価格の下落である。
40円/kWhだった当初の買い取り価格。
パネルの値段が下がったことで初期投資も少なく済むとして
現在21円/kWhに設定されている。
その結果
たとえばこの企業が検討した京都の物件。
小高い丘になった土地が安い値段で売り出されていた。
「2メガくらいパネルが置けるから土地代としては安いけど。」
しかしパネルを設置するには丘を削る必要があり
かなりの費用が見込まれる。
21円/kWhの買い取り価格では採算が見込めないという。
建設が進まない理由はコストだけではない。
インフラにも問題が起きている。
三浦さんが目をつけた静岡県富士宮市の土地。
平らで日当たりが良く
太陽光発電には適している。
しかし地域は送電線の容量がすでにいっぱいになっている。
電気を買い取ってくれる東京電力への送電ができないのである。
太陽光で発電した電気は
既存の送電線を使って電力を送っている。
国が積極的に参入を促した結果
この地域では想定よりも発電所が増え
送電線の容量がほとんど残っていないのである。
自ら送電網を整備するとなると
巨額のコストがかかり
ベンチャー企業には負担が難しいという。
(エンブルー 三浦洋之社長)
「日当たりが良くて平坦な土地は日本にまだまだある。
系統(送電線)の空きがないというのは
事業者として創意工夫でやりようがない。
そこが我々にとっての一番の壁。」
一方
発電所をつくっても買い取ってもらえない可能性も出てきている。
岩手県滝沢市で建設中の太陽光発電所。
環境ビジネスに力を入れてきた企業が32億円を投じ計画を進めてきた。
しかし電気の買い取り先である東北電力から送られてきた書類には
今後は電気を買い取らない場合があると書かれていた。
国の制度では
当初は電力は全て電力会社が買取るよう義務付けていた。
しかし太陽光発電所が増えたことで
東北地方では
電気が一時的に余るおそれが出てきた。
こうした場合
国は電力会社は電気を買わなくてもいいように
制度を変更したのである。
必ず買い取ってもらえるという前提が崩れたことで
事業の見通しが不透明になったと言う。
(洸陽電機 伊藤靖専務)
「電力会社の方で抑制(買い取り中止)が無制限の可能性があると
事業の採算が読みづらくて
銀行もなかなか融資してくれない。
この状況は非常に厳しい。」
再生可能エネルギーを推し進めてきた国は
普及が失速している現状をどう見ているのか。
(資源エネルギー庁新エネルギー課 山崎琢矢課長)
「コストがかかってなかなか事業が成り立たない
始められないという事業者の声を多数いただいている。
問題点が制度的にあれば
それを克服して進めていきたい。」