名大柔道部ログ

名古屋大学柔道部のブログです。
日々の練習や出来事を記録していきます。

引退ブログ「頑張ろう!名古屋大学柔道部!!」

2022年08月05日 23時11分32秒 | 活動内容

4年の青山です。

 

ブログを書くのは初めてですが、どうやら最後のブログになりそうです。この場に急に現れた形になりますので、自己紹介も書こうと思います。

助っ人として大会に参加させていただいただけで、正式な部員でもOBでもないのにOB面して偉そうにしていますが、少々お付き合いください。

自己紹介に始まり引退ブログに終わる構成で書いてみます。

 

 

<<自己紹介>>

 

はじめまして!

 

相撲部主将、4年の青山と申します。

柔道部には正式には入部していません。

 

僕のプロフィールは以下の通りです!

 

名前:青山遼太郎(あおやまりょうたろう)

所属:工学部機械・航空宇宙工学科

学年:4年

出身高校:一宮高校

誕生日:1999年6月29日

 

趣味は家でゴロゴロしながらYouTubeを見ることです。ゲーム実況動画が好きです。

 

柔道は中学から初めて、高校まで続けました。中学のときに柔道部に入部したきっかけは、顧問のニコニコしながら入部を待っているよと言っていた姿が少し怖かったのと、小学校のときにいじめを受けたことのある先輩が見当たらなかったことです。3年のときに初段になり黒帯をとりました(たぶん)。夏大は個人で県大会出場まで行きました。

高校入学後もそのまま柔道部に入り、部員が各学年1人ずつになりながらも続けていました。高2なりたてのときに部員を増やそうとして、1年生の教室に乗り込んでバカリズムのネタをやったのは、何でそうしたのだろうなと思います。そのせいで、柔道部としての僕の認知度が異常に上がってしまいました。2年の最後に弐段へ昇格して、昇格戦では菅沼先輩とも対戦しました。名大生相手に上四方で先制点を取りましたが、逆転負けしまして、他の人と対戦してポイントを満たすことができました。

そして、3年生の4月4日は僕にとって人生の転換期だなと思うことがありました。露橋スポーツセンターでの稽古中に右膝前十字靭帯を断裂してしまいました。さらに、高2の秋分の日に捻挫と診断された左足首が、痛みが治まってもたまにピリッとした痛みが突然襲うことがあり、何が起きていたか気になっていたので、靭帯断裂を聞いたときに一緒に診てもらったら左腓骨筋腱脱臼であり、両方とも手術しないと治らないと宣告されました。両足を1度に手術することは好ましくないということと、怪我を治すなら早めに治したいと考えていたので、5月に右足を手術するための入院できるよう手続きし、夏休みのお盆くらいに左足を手術するため入院する予定を立てました。

どちらとも順調に手術が完了し、無事退院してあとはリハビリして通院続けるだけだと思っていましたが、手術した左足首が9月に術後感染してしまいました。理由は負担をかけ過ぎたとのことでした。ちょうど術後1ヶ月以内が学校祭の時期で、学校祭の準備は何も参加せずに家で安静にしていて、行くか行かないか迷ったのですが文化祭と体育祭に参加し、そこでよろしくない負担が左足首にかかってしまったのだと思います。そのせいで学校祭のことが嫌いになりました。(今は何とも思っていない。) 塾バイトしているときによく、学校祭の準備が忙しくて勉強ができないんですと言われますが、よく返事に困っていました。

術後感染が判明した経緯は、左足首が腫れていて、僕はそこまで心配しなくてもいいのにと思いましたが母に病院に連れてかれるという形で医者に診てもらったことです。その場で太めの針を刺して黄色い液体を抽出して、脱臼を治すために固定した金属が汚れていたので1部抜いて掃除する手術をしました。また入院となり、一宮西病院が第2の我が家みたいな感じになってしまいました。この時期の入院中に後輩ちゃんの好きな子にお見舞い来てもらって嬉しかったです。後でアイスを奢り、1年以上空いてジュースを奢りました。そんなけ。

高3という、大学受験において非常に大事な時期に3回の入院をしました。手術名を時系列にまとめるとこんな感じです。

 

5月:右膝前十字靭帯再建手術(1週間)

8月:左腓骨筋腱縫合術(2泊3日くらい)

9月:洗浄デブリードマン(1週間)

()は入院期間を表す。全て一宮西病院。

 

最後の手術したときに、左腓骨筋のところにつけた金属を1部外したので、もしかしたらまた脱臼するかも知れないと言われました。浪人中までは何とも無かったのですが、アメフトの新歓に参加したときに左足首のくるぶし周辺からピリリという衝撃が走り、まだ脱臼する状態なのだと思い知らされ、とてもショックでした。今でも稀に亜脱臼で痛みを感じることがあります。

今度は母が冬に雪道で転んで大腿骨を折って一宮西病院に入院しました。完全に厄年です。よく名古屋大学の赤本持ってお見舞いに行き、母の病院食をバクバク食べていました。

僕が入院や退院後の生活などで苦しんでいる間、周りの受験生は人権週間も含めて障害者(自分のことを差しているわけではない)がこの世に存在していることを全く気にかけることなく勉強だけに励んでいると考えると、より一層苦しくなりました。今でもたまに思い出してしまって考えこむことがあります、いや、もう今はない。なんかんやあり、前期名大、後期名工大を受験するも虚しく落ちて、進学先の選択肢が無かったのでそのまま河合塾に入塾しました。完治扱いになったのは河合塾に入塾して5月になったときです。

この様な辛いことがあり、一宮高校から同期として名古屋大学に現役合格してきた人達(つまり、僕の1つ年下の一宮高校出身で名古屋大学に現役合格してきた人達)に対してあまり良く思わず、無意識的にも距離を取ってしまいます。もしかして、バカリズムの紙芝居やった人だと思われて恥ずかしかったからかも知れません。

浪人が決定したときの春に成績が伸びたことを実感して、名大上位コース5番目の席に座っていました。1年を通して特に成績に困る事はなく、センター804点取ってそのまま名大受験し合格して進学しました。入院していなかったら、怪我していなかったら、柔道やらなかったら現役合格していたかも知れないと考えたことが何度かありました。

それまでで、僕にとっては浪人期が1番幸せなひとときでした。浪人のときが1番楽しかったという話をすると、いつも異常だとよく言われます。僕も何故だかよく分かりませんし、勿論分かってくれる人は誰もいません。健常者の浪人生の友達に向かってよく、入院していないからずるいじゃん的な発言をしていましたが、よくネタにされていました。許せません。

普段の授業から1番前の席に座り、隣の人とすごく仲良くなりました。先生のモノマネをしたり、自習中にベンゼン環の下にオベンベンと書いた紙を友達に見せつけて笑かしたり、合格が決まった後、自習している高校生もいる中ラウンジで大富豪をしていたときにキングのことをキングオブデブと言ってガヤガヤしたりしてすごく楽しかったです。最高の思い出ででした。これらの出来事が、1年前の高3での3回からなる入院したつらい出来事の直後であり、1年前と比べた相対的な楽しさがそのときの人生の中でズバ抜けていたことが原因で、浪人生活が楽しかったのかも知れません。

河合塾名古屋校の10階が毎回の午前の授業で使うので、朝8時の開門と同時に階段で10階まで駆け上がるのが毎日の日常でした。今やったら確実に死んじゃいますね。目的は運動不足になりがちになるので、運動することと、足のリハビリのためです。このお陰で大学入学後の部活体験でそれほど体力に困りませんでした。

このようなことがあり、1年遅れという形で名古屋大学に進学しました。1年遅れはある意味望んでいたことだったのかも知れません。中学のときは1つ下の後輩達が1番上の学年だけで団体様メンバーが揃っていて、その下の学年も沢山いて羨ましかったです。さらに、部活の中では同期とも仲は良かったですが、後輩達との方が仲は良かったです。お見舞いに来てくれた女の子も、付き合ったことのある子も一個下の後輩でした。それに、大学では相撲部にめちゃくちゃ仲のいい同期とめぐり遇ったし、4年生では、3年ぶりに復活した大会がいくつか開催されたし、七帝柔道に参加して素敵な仲間と出会えたので、特に浪人に関しては何も悔いは残ってはいないです。あとは、9月の相撲の七帝は無事開催されてくださいお願いします。

 

大学へは、30分に1本の最寄り駅から1時間〜1時間半かけて通っています。帰るときはよく30分に1本の電車を逃さまいと努力しています。大学入学後は、10個くらいの部活を体験して、どの部活に入ろうか悩んでいました。高3のときの入院の記憶もありましたので、即決はせずに色々な部活を見回っていました。この中で相撲部と関わったのは、武道系新歓がきっかけです。1番体の大きい人が、自分の服を柱に巻き付けて来てよ〜来てよ〜と言っていたので面白くなり、足を運んでみました。何回か稽古に参加していると、先輩から京都旅行行けるから、国公立大会出てみないかと誘われ、誘いに乗りました。先輩達の団体戦を見た後、新人戦、その次に個人総合に出ました。最初の団体戦を見ていたときは、3年生以上で5人揃っていて羨ましさを感じました。団体戦が終わり、次の新人戦、僕にとっての初試合では勝ち、その次の試合も勝ちました。正規の部員じゃないのに2連勝できて嬉しかったです。その後は普通に負けました。大学に戻り、日が経つに連れて周りから相撲部と呼ばれるようになり、シャワー、トイレ、キッチン、豊富な設備に出入り自由な相撲道場であること、体験期間中に左足首の脱臼をしなかったことから、入部を宣言しました。なんと、相撲部に入部したから相撲部と呼ばれるようになったのではなく、相撲部と呼ばれるようになったから相撲部に入部したのです。入部してちょっとくらいしたときの稽古中に左足首が前と同じく脱臼して、少し後悔したこともありました。1年生のときの七帝戦では、3年生が1人公務員講座のために抜けて、国公立大会のときから団体戦メンバーが1人少ない状態になり、2年が4人もいたのに僕がレギュラー選手として大抜擢されました。団体戦の結果としては優勝し、個人的には6戦4勝で、いい思いができました。

2年生のときからコロナが流行し始めたこともあり新入部員が全然いなく、3年、4年となる内に沢山いた先輩達が引退して1つ上の先輩が居なくなった後は、内訳選手2人、マネージャー2人の4人の部員しか残されませんでした。団体戦が5人制ということもあり、主将となったときの自分としての目標は、周りから何と言われようとも試合に勝つことではなく、人数を増やすことにしていました。あのときは人数少なくて団体戦に勝つ望みが薄いのに、どうしてOB方は稽古に来て胸を貸してくれるのか、ご飯を沢山食べさせるのかが分かりませんでした。OB方は名大相撲部がここ1番の危機だと感じたのか、様々な新歓に関することに積極的に協力するということを明言し、勧誘に乗り出してくれました。2月に土俵改修をする際に、約10年ぶりの土俵改修ということで、色々な報道機関に取材依頼を出しました。結局、まん防によって取材関係者が大学に立ち入ることが出来ずにこの内容が放送されることはなかったですが、NHKから部活存続の危機ということで是非新歓の様子を撮影させていただきたいということになり、東海エリアで中継が1回、特集が1回、好評だったらしく全国でも特集が放送されました。ブログ作成の時点では記事が残っていますので、是非ご覧ください。

 

NHK東海NEWS WEB【特集】コロナ禍で存続の危機 名大相撲部 部員獲得大作戦

https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20220525/3000022718.html

 

NHK名古屋「手を尽くして部員獲得を!名大相撲部」

https://www.nhk.or.jp/nagoya-blog/300/469502.html

 

第2段として、七帝戦編に続く予定です!

お楽しみに!

 

コロナ禍の自粛期間中はapexをしていました。プレイ時間が1年程で1000時間を超えるくらいずっとやっていました。オンラインゲームは本当に楽しいです。院試と9月の相撲の七帝が終わったらまたやりたいです。

ここ最近は、外で遊ぶことの楽しさに気づいて飲みに行くことや、旅行に行くこと、買い物に行くことなどを楽しみにしています。

 

 

<<七帝柔道との出会い>>

中学の顧問が七帝柔道記の本を持っていて、本の中身を見た訳ではないですが、そこで七帝の存在だけを知りました。

高校時代には夏合宿や寝業講習会、名大総長杯に参加し、七帝柔道に本気で打ち込んでいる部員の方と実際に柔道をしました。石川先輩が強すぎて一生かけても勝てないなと思い知らされました。

夏合宿では、1年のときは尾骨を骨折していて見学だけして、2年のときから柔道着を来て参加しました。あのとき、石川先輩が無洗米を洗剤で洗ったものを、洗米と思い込んでいたのを今でも鮮明に覚えています。今では母校の柔道部が廃部して、他の高校も存続が怪しいかも思われます。今後の高校生合宿はどうなることやらと心配しています。名大総長杯では試合が終わった後に名古屋大学柔道部についての説明会を受けました。何よりも、15人制ということにびっくりしました。あのとき、石川先輩が五郎丸キックして受け身していたのを今でも鮮明に覚えています。

もともと僕は私立の競合選手と試合をするのが理不尽にすぐ負けるからという理由で嫌いで、実力がそこまで高くない人と試合するのが好きでした。そこで、国公立同士でやり合う大会に素晴らしさを感じて七帝戦がまさに自分の力を試すのに相応しい競技だと思いました。高2の名大総長杯の時点では、名大柔道部に入部する気満々でしたが、高3での大怪我や度重なる入院により大学では柔道部入部はしないことを心に誓いました。

 

大学入学後は柔道部に一度顔を出しましたが入部せずに、怪我の心配がそこまで必要なく、七帝戦の格闘技ができて柔道の経験を活かせる相撲部に入部しました。七帝では1年のときに真面目にやっているからと理由で僕よりも強い先輩を差し置いて5人の団体戦メンバーに組み込まれ、対戦相手にも恵まれて大活躍し優勝して本当にいい思いをできました。そのときは、相撲部として正直満足していました。

 

2年生になるとコロナが流行し始めて、コロナ禍で部活やっていても国公立同士でやる試合は2年の間なかなか開催されず、その上、僕が主将になったとしても選手としての後輩が極端に少なくなるのを感じて相撲で勝つというモチベが段々薄れていきました。現に、4年生になったときは自分含めて2人しか選手がいなくて5人の団体戦のことを考えたら優勝は現実的ではなくなるので、団体戦で勝ちに行く気は全くありませんでした。そして、5月の国公立大会では会場は北海道で、大会が日曜日だったので、助っ人達への待遇も兼ねて前日の土曜日に試合を控えているとは思えないほど遊んでいました。元々この北海道遠征が新歓目的でもあったこともあり、全く罪悪感などはありませんでした。大会当日では、即席のメンバーで東大と防大に勝利してしまって、相撲のモチベが上がるきっかけとなり、9月の相撲の七帝を頑張ろうと思いました。

 

ここからはどのようにして柔道に戻ってきたかを説明します。

大学2年生のときは、コロナ流行により学内での春新歓があまりできなくて秋に新歓活動をしていました。ビラ配りしているときに、あまりに成果を感じられなく、小林さんと西くんも一緒にビラ配りしていたので、冗談半分でビラを貰いました。相撲部で1年間国公立の大会が開催されずにモチベが下がってきている中、柔道では国公立大学との定期戦、七帝戦ができるのではないかと思い、冬くらいから気分で、西くんか松下くんのどちらかを選んで事前に参加連絡をしてから柔道部に通い始めました。

稽古に行く度、

「松下昇太朗ウィリアムをぶっ倒ーす」

「倒さねばならないのです」

と連呼していたあのころが懐かしく、同時に恥ずかしさを感じます。あの頃は2週間に1回くらいの稽古に参加するたびに言っていました笑

相撲部の部員であるため、相撲部の予定を優先して予定が空いていたら柔道部に行くようにしていました。相撲部が火木土、月がバイトだったので、毎回ではないですが土曜日は相撲を午前やって午後柔道に行き、長期休みのときは火曜木曜の午前に相撲やって午後に柔道行くということにし、約2週間に1回のペースで通っていました。何で午前相撲部の稽古やって、午後柔道部の稽古という2部練をできたのかよく分かりません。同じ人生を繰り返していたら柔道は続いていなかったかも知れません。

3年生の秋になり、京大と阪大との初の実戦となりました。コロナ禍としては、相撲部より先の国公立大学だけの大会となりました。試合が土曜日の午後からでしたので、いつも通り午前に相撲部の稽古をしてから試合に臨みました。京大戦は取られてしまいましたが、名阪戦では亀の状態から逃げ切って分けることができました。ものすごく成長していたなと思います。

3年3月からは腰を痛めたのと、相撲部の新歓で忙しくなったことで4年生の5月末までまともに柔道をやりませんでした。6月中旬には腰の状態が改善したので柔道部に約1週間に2回のペースで通い、七帝戦1ヶ月前からお腹周りの脂肪を落として寝技で動きやすいようにし、2週間前くらいからは綱で懸垂して引きつける力をある程度付けました。相撲部とNHKの記者からはシュッとしたなと言われましたが、体重計に乗ったら体重は落ちていませんでした。

 

七帝戦が終わったときに西くんから部誌を1部いただいて、ホテルや帰りの新幹線で読んでいました。僕への記述がいくつかあり驚いています。

写真は僕が船で部誌を読んでいる様子です。

今度は道場にあったら七帝柔道記を読んでみようかなと思います。

 

 

<<引退ブログ>>

4年の青山です。

 

まず、なぜ助っ人であり、正規の部員ではないのにも関わらず引退ブログなるものを書くのか。それは、某マネージャーから青山先輩のブログ楽しみにしていますと言われたのがきっかけである。

 

さて、ようやく本ブログの主題に入ろう。

 

七帝柔道が終わってからもう1か月が経とうとしている、、

 

本来でしたらもっと早く引退ブログを書くべきでしたが、時の流れは意外にも早く、投稿が遅れてしまいました。申し訳ありません。

 

まずは、

 

二村師範、小川監督、山本副監督、コーチ陣の皆様、今までご指導ありがとうございました。

特に、毎稽古の最後の研究では、自分が普段来られない分1日1日の稽古を意味のあるものにしようと、乱取り中に気になったことを積極的に質問することを意識し、それに私のスタイルに合った動きを一つ一つ丁寧に答えてくださりありがとうございます。少ない練習量ながら、大きく成長できたと思います。

 

個人としては初戦の北大、敗者復活戦の東北大共に殆ど何も出来ずに取られて終わってしまい、情け無く幕をおろしました。正直とても悔しかったです。

もしも春に腰を痛めていなかったらもっと動けていたかも知れない、もしも上級生と当たらなかったら、もしも阪大や京大と当たっていたら複数人抜いていい思いをできたかも知れない、などのifストーリーをいろいろ考えることもありましたが、七帝柔道に参加したことに後悔は何もありません。

七帝柔道をきっかけに、9月11日の相撲の七帝戦では北大と東北大を破り、必ず優勝してやるという情熱が込み上げてきました。

 

今回の参加で色々な人と出会えたので本当によかったと思っています。部員のみんなをはじめ、高校からの顔見知りなど色々な人と再会しました。以下その例です。

 

沢田くん(北大)

瑞陵高校出身4年

お互いに覚えていたってことは名大総長杯か何かで見たことがあるってことかな?旭ヶ丘での合同練習だったっけ?高校以来1回も顔を合わせることなく、共通の友人からお互い浪人していることを知りました。そして、共通の友人から沢田くんが北大柔道部に所属していたことを一方的に知りました。

七帝の前日練習で再開して少し喋って、試合当日の朝は空いているトイレの個室を開けたら、沢田くんがいてビックリしました。そして初戦で当たるっていうね。

 

つかさくん(京大)

旭ヶ丘高校出身4年

夏大の西尾張大会の順位決定戦?で当たり、結果はどうなったか覚えていません。一宮高校柔道部副顧問の息子さんで、副顧問の先生は名古屋大学柔道部出身でした。京大戦のときに見たときは金髪だったからびっくりしたけど、僕も今年の4月金髪でした。

 

國次くん(北大)

?高校出身3年

彼との出会いは相撲部で、まさに今年の5月に開催された国公立大会団体戦で当たり、負けてしまいました。相撲ではなく、柔道に専念したいと言っていたけど、どうするのだろうな。

相撲もできて柔道もできてボディービルダーもできてイケメン。かっこよすぎる、、羨ましい、、、

 

以上の人達と再会することができました。

名古屋大学柔道部の同期や後輩とも出会えて良かったなと思います。

 

今回の七帝参加にあたって、後輩たちから何故か頼られている気がしました。同期からも何でそんなに仲良くなれたかよく聞かれましたが、僕が一番よく分からないです。仮に変なこと言って嫌われても助っ人の立場で部外者だから許される、別に縁を切れば問題ない、と思って気が緩んでいたのが、逆にいい感じの人間関係を構築できたのかも知れないです。

マネージャーとは4月に相撲部に一度だけ見学来ていたので、ある程度認知していました。柔道部での練習後、帰りの電車が途中まで同じだったのでそこでも馴染めたのかもしれないです。

今となっては、相撲部のオフ期間中くらいしか顔は出せないが、可能か限りの応援をさせていただきたいなと思います。大事な新歓期にお手伝いすることは難しいですが、新歓も何かしらの力になれたらなと思います。

 

最期はみんなへのメッセージ

 

同期達へ

 

小林さん

岩中(岩倉中学校)、牧南(小牧南高校)の小林、堀くんがこばって呼んでいた気がします。

 

奥城くん

強いから乱取りの相手したくないなと思って滅多に相手にせずに終わっちゃいました。

唯一、取れなかった部員です。

 

西くん

地獄からのカウンターだったけな?西くんがしていた足絡みの固定が外れていて、その隙に腕十字で取った。

 

林くん

七帝戦前日練習のときに、三角を受けてからのカウンターで初めて林くんを押え込むことができました。とても嬉しかったです。

 

松下昇太朗ウィリアムくん

みんなから変人と呼ばれていることが、僕にとっては七帝戦後の幹部交代式で知り、非常に驚きました。

今度こそ、皆様もご一緒にー、→

松下昇太朗ウィリアムをぶっ倒ーす。

 

大橋さん

1年生の入学したてのときに一宮高校の大橋が合格したことが柔道部のホワイトボードに書いていて、正直誰のことか全く分からず、現役合格した人で急に柔道やりたい人が出てきたのかなと思ったら、まさかの同期でした。高校1年生のときは同じクラスでしたね。高校のときも柔道やればよかったのになと思います。

途中から全然来なくなったみたいだけど、結局最後に残ったのは僕になりましたね。

 

後輩たちへ

 

近藤くん

マイベストライバル

腕十字では近藤くんの腕が柔らかすぎて取れなかったけど、横四方でたまたま抑え込めた気がします。

毎回の稽古で乱取りをやり合っていた気がします。いつしか心の底で、今日こそは近藤くんを取るということを目標にして柔道部に来たことも何度かあります。最近近藤くんとやるときは横四方で抑え込まれそうになっても、僕が首周辺を突っ張るせいで抑え込めない状況にする場面が多いですね。顔に近い部分ばかり狙ってすみません。

 

永田くん

まずは、いろいろと協力してくれてありがとうございます。肩の調子が優れないようだけど、本当にお大事にしてください。これからのご活躍を期待しております。

七帝の後沖縄行ったり、また東北行ったり、大学卒業したら海外行くとか、色々飛び込んでいける様な印象を持ちました。新歓でも大いに活躍して頑張ってください!

 

井上くん

三角がやたら強くて、初めて乱取りやった七帝の前日練習では三角外したのに直ぐにまたかけられ、絶望しました。君ほどの実力者が柔道部にいないのは何とも勿体無いと感じてしまいます。是非考えを改めて、入部まではしなくても月に数回稽古に参加し、名大柔道部を支えて欲しいと思います。

 

西村くん

西の村、西村くん。

七帝後1回乱取りしたけど、また今度やろう。

 

宮城くん

最初話しかけたときは、環境土木科を志望した理由について教えてくれたね。すごく真面目だなという印象を持ちました。真面目な練習の結果、急成長していると聞いていて、今度やるときに呆気なく取られそうで怖いな。

宮城くん80キロ計画楽しみにしています。

 

相撲部では、女子マネージャーを名前でちゃん付けをして呼んでいるのでこの場でもそうします。

 

みつきちゃん

柔道やってみたいって言っていたけど、相撲部のマネージャーも柔道やってみたいって言っていたから、いつか一緒にできるといいね!

立ち止まって考え込む前にすぐ行動に移している。間違いなく、新歓の主力級の存在。うちの新歓に欲しいくらいや。

スタバでのお説教してから改善が見られなかった相撲部のマネージャーに、今度はパフェ屋さんでお説教するので、ついでに君にもお説教するから、覚悟しろ!

 

わかなちゃん

どうも、インスタフォロワー100人の青山です。わかなちゃんがインスタフォロワー100人しかいないんだと言っていたことを、みつきちゃんが教えてくれました。え?、ぜーんぜん気にしていないよ笑

柔道部に入る前、相撲部の見学に来たときに、みつきちゃんが部活を選べなくなっちゃうからご飯行きませんて言ってたことと、津島高校出身だということだけ何か覚えています。あと、柔道部のTwitter見ていて、この前見学来た人だと思いました。みつきちゃんと比べると、行動に至るまでは速くないけどゆっくり計画を立ててから動くタイプなのかなと思います。

変な顔になるモードでスマホを自撮り画面にしていたらシャッター押されたりして、とんでもないことするなと思いました。だけど、シャッター押される前にマスク付けるの間に合ったから僕の勝ちです。

それにしても、何かなめられている気がするので、今度相撲部のマネージャーとまとめてパフェ屋さんでお説教だ!あーあ、可哀想だなー

 

最後に写真を何枚か添付して終わりにします。(漢字間違っているのは内緒です)

 

 

結果的に僕が引退ブログ最後になってしまいましたね。

近藤君のブログに書いてあったからまねして、次は永田君、ブログの更新お願いします。

 

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近況報告

2022年08月03日 16時52分55秒 | 活動内容

新しく主将になりました近藤です。

指名いただいてから更新するまでに時間がかかってしまいました。申し訳ありません。

 

まず、4年生の先輩方は本当にお疲れさまでした。

引退されてからは院試、教員採用試験の勉強でそれぞれ忙しくされているようですが、

道場にも来ていただいてありがとうございます。

 

さて、新体制になって3週間ほど経ちました。

ようやく練習のペースがつかめてきたような気がします。笑

現役部員が少ない中でOBの先輩方にはとてもお世話になっていて、

特に在学OBの先輩方はよく練習に来ていただいて嬉しいです!

いつもありがとうございます。

引き続きよろしくお願いします。

 

夏の練習は基礎固めを中心にやって行きます!

宮城くんは増量プロジェクトも合わせて頑張ろう!

 

これは宮城くんが綱のぼりをしてる様子です。

最近はよく自主的に取り組んでいて、足を使わずに登れるようになりました。

正対下からの攻撃もどんどん上達していて頼もしいです。

 

最後に、

感染拡大の兆しがあり、思うような練習が行えるかは今後の状況次第ですが、

実りある練習となるように頑張っていきます!

 

 

 

 

お知らせ

インスタのアカウントあります。

上の写真にあるような投稿をしていきます

ツイッターと同時に使っていくので、こちらもよろしくお願いします。

 

次は永田お願い!

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