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■放送:1991年、TBS
■監督:久世光彦
■出演:黒木瞳、いかりや長介、沖田浩之、西川峰子、白川和子、他
タイトルのクレジットに松本清張作家活動40周年記念とある。松本清張は41歳の時にデビューした遅咲きの小説家であるから40周年となると清張81歳の時に放送されたテレビ番組となる。(実は放送された翌年に清張は82歳でこの世を去っている)演出は久世光彦。
物語は昨日の記事でも書いたように、遊びを知らない中年男性が、水商売に従事する女性にいれあげ身を破滅させてしまう話。その中年男性の役をいかりや長介が好演している。ルックス的にもいかりやは、無骨な感じがするし、お世辞にも女性にモテるタイプには見えない。役柄のようにケチケチ地味に金をためていく街の商店のオヤジにピッタリである。一方、男を狂わせてしまう魔性の女を演じたのは黒木瞳、まだ当時は若さが目立ちます。彼女の透明性を持った存在感は、濃厚で匂いたつようなエロティシズムを感じることはできないけれども、透明なあるいは清潔なイメージが逆に捕え所のないギャップとして、男の理解の範疇を越えた謎めいた部分として惹かれるのかもしれない。あるいはいかにもといったタイプでは男の側がたじろいでしまい、そこに向かうことをしなかったかもしれない。透明感があったからこそ、溺れてしまうというこのなのかも知れない、そうも思えたのである。
いかりやが黒木の魅力に陥るきっかけを意味しているショットで、久世は二つを用意している。一つは黒木が始めていかりやのお店に来店した時の彼の視線、その方向は彼女のうなじに向けられていた。そこでいかりやは無謀にもお店の商品をタダで渡してしまう。もう一つは、女が気になるいかりやは、彼女が住んでいるアパートに訪問し運よくその室に上がった時、彼女のヒップラインに同じく視線が向けられていた。そしていかりやは女の店に通うことになるのである。男が女の肉を感じ取る欲望としての視線である。ボクはこの清張の小説を事前に読んでいて、映像化された場合、主人公の中年男が女に溺れていくのをどう描くのかなと思っていたのだが、久世による男の無意識の欲望を象徴した先のような視線の演出には、男としては日常的に思い当たるふしもあるためわかりやすいことと、その視線のほんの些細な動きの先の先に架かっている欲望の橋を渡るか渡らないかという行為の選択が、新たな展開を生むか否かの分かれ道になるはずに違いない。男は無意識にその橋に向かっていった。そんなもんだと思う。人生なんて。
黒木瞳は、当時の番組についてwebのasahi.comの記事の中に以下のように語っている。“「黒い画集・坂道の家」は、宝塚をやめて5、6年ほどたった頃でした。キャバレーのホステスという、それまで多かった品行方正な女性とは異なる役柄でもありました。そのため演じるにあたって、久世監督に芝居のイロハから教えて頂きました。たとえば、「姿勢が良すぎるから猫背にしろ」とか、「座る時は必ず拳が一つ入るぐらい足を広げておけ」とか。それを元に女の中の究極の意地の悪さや、執念深さを演じました。”松本清張展を開催した世田谷文学館は、今年の9月にはその久世光彦展を企画している。
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■監督:久世光彦
■出演:黒木瞳、いかりや長介、沖田浩之、西川峰子、白川和子、他
タイトルのクレジットに松本清張作家活動40周年記念とある。松本清張は41歳の時にデビューした遅咲きの小説家であるから40周年となると清張81歳の時に放送されたテレビ番組となる。(実は放送された翌年に清張は82歳でこの世を去っている)演出は久世光彦。
物語は昨日の記事でも書いたように、遊びを知らない中年男性が、水商売に従事する女性にいれあげ身を破滅させてしまう話。その中年男性の役をいかりや長介が好演している。ルックス的にもいかりやは、無骨な感じがするし、お世辞にも女性にモテるタイプには見えない。役柄のようにケチケチ地味に金をためていく街の商店のオヤジにピッタリである。一方、男を狂わせてしまう魔性の女を演じたのは黒木瞳、まだ当時は若さが目立ちます。彼女の透明性を持った存在感は、濃厚で匂いたつようなエロティシズムを感じることはできないけれども、透明なあるいは清潔なイメージが逆に捕え所のないギャップとして、男の理解の範疇を越えた謎めいた部分として惹かれるのかもしれない。あるいはいかにもといったタイプでは男の側がたじろいでしまい、そこに向かうことをしなかったかもしれない。透明感があったからこそ、溺れてしまうというこのなのかも知れない、そうも思えたのである。
いかりやが黒木の魅力に陥るきっかけを意味しているショットで、久世は二つを用意している。一つは黒木が始めていかりやのお店に来店した時の彼の視線、その方向は彼女のうなじに向けられていた。そこでいかりやは無謀にもお店の商品をタダで渡してしまう。もう一つは、女が気になるいかりやは、彼女が住んでいるアパートに訪問し運よくその室に上がった時、彼女のヒップラインに同じく視線が向けられていた。そしていかりやは女の店に通うことになるのである。男が女の肉を感じ取る欲望としての視線である。ボクはこの清張の小説を事前に読んでいて、映像化された場合、主人公の中年男が女に溺れていくのをどう描くのかなと思っていたのだが、久世による男の無意識の欲望を象徴した先のような視線の演出には、男としては日常的に思い当たるふしもあるためわかりやすいことと、その視線のほんの些細な動きの先の先に架かっている欲望の橋を渡るか渡らないかという行為の選択が、新たな展開を生むか否かの分かれ道になるはずに違いない。男は無意識にその橋に向かっていった。そんなもんだと思う。人生なんて。
黒木瞳は、当時の番組についてwebのasahi.comの記事の中に以下のように語っている。“「黒い画集・坂道の家」は、宝塚をやめて5、6年ほどたった頃でした。キャバレーのホステスという、それまで多かった品行方正な女性とは異なる役柄でもありました。そのため演じるにあたって、久世監督に芝居のイロハから教えて頂きました。たとえば、「姿勢が良すぎるから猫背にしろ」とか、「座る時は必ず拳が一つ入るぐらい足を広げておけ」とか。それを元に女の中の究極の意地の悪さや、執念深さを演じました。”松本清張展を開催した世田谷文学館は、今年の9月にはその久世光彦展を企画している。
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