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気ままに新書NO.16・・・「ニーチェ入門」竹田青嗣・著(ちくま新書)を読む

2012-03-16 | 新書(読書)

最近私のなかでニーチェというキーワードに触れる機会が増えてきたように思います。ひとっ飛びにニーチェの本を読むのもいいのですが、そこはまず周辺の本をと、軽い感じの本を読んでみました(昨日までの記事を参照)。今回はもう少し突っ込んだものにしようと新書に手を出してみた次第です。以下は、この手の本を読んだ時の私のスタイル、つまり私なりに、本から引用し要点や気になった箇所をまとめたものを列記しました。

◆ニーチェの人生は5つの時代に分けることができる。
第一期…ニーチェの誕生(1844年、牧師の息子として生まれる。
第二期…ボン大学、ライプツィヒ大学の修業時代とバーゼル大学教授の時代(ワーグナーとショーペンハウアーと出会う)
第三期…病気のため大学を辞し、著述家として「ツァラトゥストラ」を書くまで(ルー・ザロメとの出会い)
第四期…「ツァラトゥストラ」を完成し<永遠回帰>の思想を確立(思想形成において2度の啓示体験)
第五期…錯乱期

◆「悲劇の誕生」…処女作であり、ショーペンハウアーとワーグナーの体験が結実している書籍。よく知られたのが<アポロン的>と<ディオニュソス的>という対立的概念で、アポロン神は混沌に形を与える力を、ディオニュソス神は、秩序化され形式化された世界にもう一度根源的なカオスを賦活するような力を司る。これはショーペンハウアーの哲学「意志と表象としての世界」の変奏にもなっている。しかし、ニーチェの力点は、人間はその欲望の本性によってさまざまな苦しみを作り出す存在だが、それにもかかわらずこの欲望以外には人間の生の理由はありえないという点にある。あくまで知識と理性に信頼をおき正しく思考し推論し、真理へと達するという理論的楽天主義というの考え方をソクラテスがギリシャ世界にもたらしたことによってディオニュソス的本質を持ったギリシャ悲劇の精神は滅んでしまった。

◆「反時代的考察」…<より高い人間>の創出ということ。これがニーチェが設定した人間の文化の目標である。この意味は二つある。第一は、ルサンチマン思想によって人間を平均化、凡庸化することへの対抗。第二は歴史の目標を人間以外のものに設定することへの対抗。つまり、イデア、神、絶対精神、最高善などといったものは実在しない。それらはもともと人間が頭の中で考え出したものにすぎない。ありもしないものを目標としないこと。ならば<人間>それ自身が、<人間の生それ自身>が目標となるのでなくてならない。

◆「道徳の系譜」…ニーチェのキリスト教批判の書で、そのテーマにおいて郡を抜いたものとなっている。キリスト教の人間観の本質は<ニヒリズム(=虚無への意志)>にほかならない。その理由はキリスト教の思想が根本に<ルサンチマン(=弱者の反感)>の本性を隠し持つことによる。キリスト教の<ニヒリズム>の本質は、その後のヨーロッパの一切の思想=近代哲学や近代科学にそのまま受け継がれている。それによってヨーロッパに非常に根の深い<ニヒリズム>の諸形態(無神論、懐疑主義、相対主義、デカダンなど)が顕在化しはじめている。ニーチェは、本来自己の<力の感情>を本質としていた<よい>が、いかにして<利他的」な意味へと顛倒されるにいたったかを考察する。この「道徳の系譜」全編がそういう試みとなっている。

◆キリスト教は、自然な肉体とエロス、現世の欲望、快楽、陶酔、愉悦、といった人間の本性を徹底的に否認し、それとまったく究極の反対物として<神>を打ち立てた。人間の肉体の自然性を<悪魔>の属性として敵視し、その上で、現世における生の欲望を一切否定すること。また、人間のこの世における生は、かりそめのもの、謝ったもの、つまり<仮象>にすぎず、ほんとうの生(世界)は、最後の審判の後(彼岸)においてのみ存在すると主張。これがパウロたちによって打ち建てられた。

◆ニーチェは、さまざまな問いの<真の動機は何か>という観点から、いわば人間の思想行為それ自体に対するひとつの根底的な批判を投げかけた。ニーチェの思想は、何らかの世界観を絶対的なものとして信奉するイデオロギーの一切を、原理的に批判しつくような力を持っていた。

◆<道徳>はそれ自体としては人間社会に必要不可欠なものである。しかし、それはある場合徐々にうさんくさいものになり、また徐々に危険なものになる。<ルサンチマン>によって道徳の自然性が反転し、内向し、そして現世を超えたある<絶対性>と結びつくときである。

◆ニーチェの有名な言葉「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」<客観>とか<物自体>とか<世界そのもの>とかいったものはまったく存在しない。存在するのは、さまざまな人間が世界に対してさまざまな評価を行うというそのことだけである。<解釈>とは、世界が何であるかについていわば任意の物語を立てることである。人々の欲求が多様であるのに応じて無数の解釈が存在する。その中でもっとも力を持った(説得性を持った、または権力を持った)<解釈>がこれまで<真理>と呼ばれていたにすぎない。

◆すべての生あるものは保存・生長を不断の要請として自らに課している。ニーチェはそれを「力」と呼ぶ。この「力」が世界をさまざまに<解釈>する。その根本は、何が有用で、何が不可欠で、何が利益かということ。だからこそさまざまな<生>の数だけ、さまざまな<真理>が存在することになる。

◆「ツァラトゥストラ」…ニーチェにとっては「新約聖書」に拮抗すべきヨーロッパの新しい啓示の書たるべきものだった。彼はここで、かつて「アポロン的なもの」に対して「ディオニュソス的なもの」を体置したように、キリストの言葉に対して古代ペルシャの予言者ツァラトゥストラ(ゾロアスター)の言葉を対置した。

◆より大きな「エロス」と「力」を生み出させるような「道徳」と「理想」を創出すること。そのために、さらに「高い」人間のモデル(超人)を生み出すこと。そして、いま生きている人間は、このより高い人間の創出ということをおのれの「目標」として生きること。このニーチェの構想は、しかしナチズムに利用された。「超人」や「階序」についての思想はファシズム権力に利用されるような潜在的な可能性があった。しかし、ニーチェの思想を「強者の論理」、「弱肉強食の論理」と見なすわけにはいかない。「強者の論理」とは、じつは<理屈で何を言っても結局は力のある者が勝つんだ>という見方、つまりニヒリズムの一形態だからである。

◆ルサンチマン思想は、願望と信仰から、すべての人間が平等であったらよいのにとか、平等であるべきだという考え方から身を起こすのだ。そしてこの考え方を追いつめると必ず<生の否定>にまでいきつくことになる。このようなルサンチマン思想の根拠をきっぱりと取り払うこと、これがニーチェの「階序」の思想の核心点である。人間の<平均化>は何を意味するか。お互いにその<自由>を拘束しあうこと。そのことによっていっそう凡庸化し、虚弱化した人間を制度的に作り出すことである。ニーチェはそう考える。

◆キリスト教的、ルサンチマン的推論は、強い人間と弱い人間が存在するという動かしがたい現実を否認することによって、個々人が人間として持っているはずの真の課題を取り逃す。弱者にとってほんとうに重要なのは、自分よりよい境遇にあるある人間に対して羨みや妬みを抱くことではなく、より高い人間の生き方をモデルとしてそれに憧れつつ生きるという課題である。また強者にとって重要なのは、他人の上にあるということで奢ったり誇ったりする代わりに、自分より弱い人間を励ましつつ、つねに「もっと高い、もっと人間的なもの」に近づくように生きるという課題なのである。

◆「永遠回帰」…①機械論的思考の極限形式としての「永遠回帰」 ②ニヒリズムの極限化としての「永遠回帰」 ③育成の、理想形成としての「永遠回帰」 ④ルサンチマン克服の、生の肯定としての「永遠回帰」

◆機械論的思考の極限形式としての「永遠回帰」…世界は何から何までことごとく同じ順序と脈絡で反復するという考え方。

◆ニヒリズムの極限化としての「永遠回帰」…世界は、始まりも終わりもなく、したがって動機も目的も意味もなく、いわば永遠運動する自動機械のようにただ単に存在しているにすぎない。「永遠回帰」のイデーは、何をやっても一切は決定されているという観念によって、人間存在の自由ということを決定的に脅かす。人間が有限の生に閉じられているという観念は、その一方で無限大への憧れと有限のうちで<だからこそ>という意欲を作り出す余地がある。しかし、「一切が永遠に反復する」というイデーは、人間存在を、宇宙の壮大な自動運動の一部分にすぎないものへとおとしめるのである。しかし、ニーチェによれば、まさしくこのような「ニヒリズムの徹底化」を通る以外にはニヒリズムを克服する術はどこにもない。

◆育成の、理想形成としての「永遠回帰」…「ディオニュソス的な」大いなる「肯定」にまで「徹底しようと欲する」試み。<真理>というものはない。それらはすべて何らかの「虚言」にすぎない。「永遠回帰」が「力に奉仕する」原理だということ。つまりそれは「永遠回帰」のイデーが保存し創造するようなひとつの理想=フィクションであるということを意味する。この観点から言えば「永遠回帰」の思想は、ひとつの試練であると同時に一つの意欲でもある。それが試練であるとは、それが耐えがたいヒニリズムを踏み越えていかねばならないからである。またそれが意欲であるのは、いわば一切の超越的な意味を拒否することにおいて、人ははじめて自分のうちの「力への意志」を解き放つ条件をつかむからだ。このふたつのことはべつべつのことではなく、ひとつに結び合っている。こうして「永遠回帰」は人がそれを「欲する」ことにおいてはじめて、ニヒリズムを極限にまでもたらし、一切の超越項を没落させるものとなるのだ。

◆ルサンチマン克服の、生の肯定としての「永遠回帰」…第一に、「永遠回帰」は、人間の理想についてのこれまでの「超越的価値」を一切禁じ手にするためのものである。第二に、「永遠回帰」は新たな価値を創造するような「聖なる虚言」でなくてはならない。そして第三に「永遠回帰」は、弱者がそれによって自己自身のニヒリズムとルサンチマンを超え出るような、何らかの「命法」でなくてはならない。世界のあるがままを「是認」することを通してむしろそれを「肯定」するところまで徹底すること。「是認」から「肯定」へと進む道としての「永遠回帰」。「永遠回帰」を一つの「意欲」をつかみとる可能性としてとらえる。「永遠回帰」が一つの「意欲」であり「然り」と言う意志であること。それはまた「永遠回帰」が生への深い了解でなくてはならないということを意味する。巨大な苦悩にもかかわらず生を是認し、さらにそれに「然り」ということ。この態度ニーチェは「ディオニュソス的」態度と呼んだ。

◆その生において「魂がたった一回」でも、「幸福のあまりふるえて響きをたて」たことがあるなら、つまりたった一度でも、ほんとうに深く肯定できる瞬間があったなら、人は、その瞬間にかけて生の「無限の反復」を欲するという可能性をもっている。

◆「苦痛(苦悩)」は、時間に対して「過ぎ去れ、戻ってくるな」と言う。それは絶えずじぶんの「いま」を振り捨てて、よりよいものへと憧れる。これに対して「快楽(悦楽)」は「いま」それ自身を強く肯定し、したがって「何度でも戻ってこい」と告げる。自分自身を、この瞬間を、そしてその永遠回帰を欲する。

◆「永遠回帰」は人間の実存に一つの極限態決定をつきつける。自分の力を尽くした上で、その結果現れた生の現在にいかなる態度を取れるかが問題なのだ。というのも、そもそも自分の力を尽くしていたのでなければ「わたしはかく欲した」決して現れないからである。したがって「永遠回帰」の問いかけは一度きりのものではなく、自分自身に対する不断の問いかけとしてのみ成立する。

◆「なんのためにわたしたちは生きているのか、なんのために苦しんでいるのか」ニーチェは答える。この問いに答えるものはもはや誰もいない、この問いの答えは存在しない。世界と歴史の時間にはどんな「意味」も存在しないと。そして、それにもかかわらず君は生きねばならず、したがって「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはならないと。

◆ニーチェが歩んだ「すべての価値の転倒」の道…①ドイツにおける既成の俗流文化、つまり、素朴なロマン主義、営利主義、歴史主義、そして道徳や宗教的迷妄への批判。(「悲劇の誕生」「反時代的考察」) ②この批判の論拠としての心理主義的視点変更。さまざまな主張、主義、信条はすべて何らかの「解釈」にすぎない。この「解釈」を支えているのは何か。(「人間的、あまりに人間的」) ③これまで「真理」だと見なされていたヨーロッパ形而上学への根本的批判。「力への意志」という仮説の提出。(「曙光」「閲覧ばしき知識」 ④キリスト教およびヨーロッパ哲学の教説への総体的アンチテーゼとしての「ツァラトゥストラ」。「永遠回帰」と「超人」の思想。(「ツァラトゥストラ」) ⑤ヨーロッパ的「価値」の源泉徴収としての「ルサンチマン」を明るみに出すこと。ルサンチマンを核とするヨーロッパ思想は必然的に「ニヒリズム」にいきつくという事態の解明。(「善悪の彼岸」「道徳の系譜」)

◆「力への意志」…①徹底的認識論としての(認識の破壊としての)「力への意志」 ②生理学(生命の根本理論)としての「力への意志」 ③「価値」の根本理論としての(世界理論としての)「力への意志」 ④実存の規範としての「力への意志」

◆徹底的認識論としての(認識論の破壊としての)「力への意志」…<事実>それ自体なるものは存在しない。ただ「解釈」が、多様かつ無数の「解釈」だけが存在する…。これがニーチェの「力」の思想の第一テーゼである。つまり、ある対象(事物)が「何であるか」という「認識」は、その対象(事物)に向き合う生命体の「肉体」(欲望=身体)によって決定される、生命体だけが「解釈」し、生命体だけが世界に「遠近法」を持ち込むのである。生命体における、自己自身の「保存と生長」をめがける「力」こそが、およそ「価値評価なるもの」の根源なのである。

◆ニーチェが「力」という概念によってなしとげた視線変更の核心…知覚・認知・認識・客観・真理といった認識論的あるいは機会論的概念の系列を、肉体・欲望・快苦・力の感情・自我感情といった欲望論的、エロス論的概念へと還元すること。

◆生理学としての「力への意志」…生長しようと欲する何ものかがある根本的「力」として働いている。生命体、有機物、動物の身体の形成、そしてまた身体器官、感官、知覚能力の秩序、そういった系の根本を貫通しているこの「何ものか」を「力への意志」と呼べばいい。こうして一切は生命体「力への意志」に発し、ここから身体や器官自体が形成され、またそれが発する「世界解釈」からさまざまな「世界秩序」が生成されると考えられる。

◆「力」は意識とは関係がないという命題…あくまで「より強くなろうと欲すること」が本質で、人間が頭で作り出す「目的」や「意味」などはその仮象にすぎない。ニーチェが人間の新しい「価値」の根拠を見出だそうとするとき、それを「個々の人間の生」とその「意識」から引き離し、その上位に「強力な固体の創出」というメタ・レベル(上位のレベル)を設定したのはおそらく妥当だった。

◆「価値」の根本理論としての「力への意志」…「力への意志」は生の「価値」の根本基準をなすもの、言い換えれば生に意味を与える根拠である。「最も強い、最も富める、最も独立的な、最も気力のある者」に現れる「力への意志」のありようを、つねに価値の客観基準とすること。ルサンチマンを持たない「強者」、高貴な人間における「生への欲望」のありようを、人間一般の「価値」のモデルとすること。「超人」というプランはこういう思考のプロセスから導かれたのである。

◆実存の規範としての「力への意志」…一切の価値の源泉は「力への意志」だが、人間においてはそれはとくに、「性欲、陶酔、残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠なのである。ニーチェは肉体、性の力、陶酔、恋愛、恍惚、支配欲といった諸感情の中心を貫いているのは「力への意志」という強靭な本質にほかならないと言っているのである。生のもっとも深い根拠は人間それ自身内的のな「力」にあることを深く教えているのである。

◆著者(竹田青嗣)がニーチェから学んだ最も重要な点…①キリスト教および近代哲学の「真理」と「道徳」観念への批判 ②「ヨーロッパのニヒリズム」についての根本的考察 ③これまでのすべての「価値の転倒」と、新しい「価値の創造」の思想

※上記の文章は「ニーチェ入門」竹田青嗣・著(ちくま新書)から引用および改変をしたものを掲載した。

ニーチェ入門 (ちくま新書)
竹田 青嗣
筑摩書房
ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
Friedrich Nietzsche,氷上 英廣
岩波書店
ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)
Friedrich Nietzsche,氷上 英廣
岩波書店

 

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