「心貧しき者は幸いである」ということですが、
これは普通に考えるとやっぱり、おかしい!、と思えますので、
これはどういうことだろう? とふと想像してみました。
すると、何かしらよく似た感じ?の教えが思い浮かんできました。
●ソクラテスさんの「無知の知」
●親鸞さんの「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
それで気付いたのですが、これらは全て「自覚」のこと。
自分の意識がどうであるかを説いているのだと思います。
心貧しき者、とは自分の心はまだまだきたない、ということを自覚している者。
自分は無知である、ということを知っている者。
自分は悪人(心が汚れている)であることを自覚している者。
ということのようです。
私だけでなく、私たち地球人は心の底からのこの深い静かな自覚があまりなくて、
謙虚さに欠けていたのでしょう。
このことは、宇宙学の創始者であられた田原澄女史が、
「私の心はきたない。」と繰り返し仰っていたこともあり、
そのお心が真の神と繋がれることになったのだなぁ、
と思われます。
ただ、田原女史は私のような地球人から見れば、とても尊敬する先生ですが、
神から「お前の心はきたない。」と仰られたことや、
優良星界人からの通信を受けて、優良星界人と交流してその心の美しさを知らされたことにより、
「私の心はきたない。」という自覚を得られたものと思います。
私たちは日頃、周りは同胞の地球人ばかりですので、この自覚がむつかしい^^;
これは普通に考えるとやっぱり、おかしい!、と思えますので、
これはどういうことだろう? とふと想像してみました。
すると、何かしらよく似た感じ?の教えが思い浮かんできました。
●ソクラテスさんの「無知の知」
●親鸞さんの「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
それで気付いたのですが、これらは全て「自覚」のこと。
自分の意識がどうであるかを説いているのだと思います。
心貧しき者、とは自分の心はまだまだきたない、ということを自覚している者。
自分は無知である、ということを知っている者。
自分は悪人(心が汚れている)であることを自覚している者。
ということのようです。
私だけでなく、私たち地球人は心の底からのこの深い静かな自覚があまりなくて、
謙虚さに欠けていたのでしょう。
このことは、宇宙学の創始者であられた田原澄女史が、
「私の心はきたない。」と繰り返し仰っていたこともあり、
そのお心が真の神と繋がれることになったのだなぁ、
と思われます。
ただ、田原女史は私のような地球人から見れば、とても尊敬する先生ですが、
神から「お前の心はきたない。」と仰られたことや、
優良星界人からの通信を受けて、優良星界人と交流してその心の美しさを知らされたことにより、
「私の心はきたない。」という自覚を得られたものと思います。
私たちは日頃、周りは同胞の地球人ばかりですので、この自覚がむつかしい^^;
懐かしい教えを読みました。
「心貧しきもの・・・」は学生時代、教会に通っていた頃に
牧師さんの説教を聞いた事があります。もともとは(ヘブ
ライ語なのか何語なのかは分かりませんが)「霊に貧し
いもの」だそうで、わかりやすく言えば神の言葉を求め
ている者の事なんだそうです。天国はそういう人たちの
ものだから神の教えに従って生きていくようにといった内
容の説教だったように記憶しています。
聖書は「自覚」の問題や逆説的なという難しい表現は
無かったと思います。ちょっと解説してもらわなければ
わからないことはありましたが。
確かに・・・
私もネット検索してみました。
確かに「霊に貧しいもの・・」、とそういうことのように書かれていました。
・・しかし、イエス様は本当にそういうふうな意味で仰ったのだろうか??
と自分で感じてみて、ボーッと思っていましたら、
上に書いたようなことが浮かんできたのです。
これは私の直感ですので・・、
まぁ間違っている場合はお許し下さい。^^;
すべもありませんが、あの牧師さんの説教には
素直に納得がいきました。
また、神のお言葉=宇宙の真理と考えれば
主イエスは案外宇宙からの言葉をお聞きに
なっていたのかもしれませんね。
なっていたのかもしれませんね。
私もきっとそうだと思います。
・・問題はイエス様が神より受けられたメッセージ(宇宙の真理)を
当時の言葉(ヘブライ語?)に翻訳?され、
それを弟子たちが聞いて、言い伝え、語り継ぎ・・、
(たぶん二千年以上も前ですので、その言葉や文字は
高邁な真理を表現する手段としては、今の日本語よりも格段に低かったことでしょうし、
記録するのにテープレコーダーはなく、十分な辞書も筆記用具さえ無かったことでしょう。)
そして何十、何百年と経ったか・・・?
その後に、どなたか?が「聖書」として編纂された。
聖書にも旧約と新約があるわけですね。
私は「聖書」を通読したことはありませんので、確かな事は分かりませんが、
あれだけの分厚い「聖書」ですので・・、
以上のことから全てがイエス様のお言葉やお考えではないということは明白だと思うのです。。
聖書はどのような意図でどなたが編纂されたものなのでしょうか??
というのが私の興味深いところです。
ト記はモーゼが書き、レビ記はヨシュアが引き継ぎ、そ
れ以後ユダヤの指導者が引き継いでいったと言われて
います。
新約聖書は主イエスの弟子たちが主の御言葉を伝える
ために書いています。
「心貧しきもの・・・」から始まる山上の垂訓はマタイの福
音書ですがルカの福音書にも同じことが書かれている
のですが両者は若干ニュアンスが異なり、両方を比べ
て読んでみると本当はこうなんだろうと思えるんですよ。
弟子たちが直接主イエスから聞いた事なのですが、そ
れぞれ思いや解釈が入ってこんな事が起こるんでしょう
ね。
聖人には共通する点があって、誰も著書を残していない
んだそうです。聖書は上記のとおりですが、論語も孔子
の言葉を弟子たちが書き残したもので、仏教の経典も
お釈迦様が書いたものではない。
旧約は、イエス様以前。。
あっ!出だしのところの記述を思い浮かべてみればそうですね(笑)
教えてもらってありがとうございます。
> 新約聖書は主イエスの弟子たちが主の御言葉を伝える
ために書いています。
素朴な疑問なのですが、その弟子たちの記述は残されているのでしょうか??