幼い子供が熱を出したり、お腹をこわしたりするのは親の責任だということですが、
全くその通りであることを今回私たち家族は追体験したわけです。
親の責任というと、一般によく考えられているのは、
子供を薄着にさせていなかったか?とか、何か食べ物に中ったのではないか?とか、
そういう物理的なことに注意が向きがちですが、
もちろん、そういった物理的原因もある場合もあるかも知れませんが、
ほとんどの場合は、親の発信する想念にあるのでした。
おそらく、幼い子供というのは、本人の思考がまだ発達していない純真無垢な状態ですので、
親の想念をそのまま受信して、体に反映させるのでしょうね。
親と子は霊体波長が似ていますので、共振しやすいということなのだと思います。
「子は親の鏡である」ともいいますが、
子は親の想念の結果を映している、ということなのでしょう。
普通、親にとっては小さな子供は自分よりも大切な宝物ですので、
宇宙創造神の御教えの中の「心配ごころはご法度の心」と少し聞いた?ぐらいでは、
心配するのは当たり前と思っても無理はないわけで・・・。^^;
それで、今まではS君は、
Rがお医者さんに行き、薬を処方してもらって、Rがその薬を服む服まないにかかわらず、安心した結果、
心配しなくなって熱が下がり、
元気を取り戻すといったことになっていたのではないでしょうか!?
今回はS君にとって、自分の発信した想念の作用を知るちょうどいい機会であったのだと思います。
・・・・・・
もともと人間には天の法則に基づいて、
○ 実際体験によって必要な多くのことを会得する方法
と、
○ 思弁(論理的思考)によって実際体験を補充・増補する方法
とが与えられている。
この思弁というのは、考えめぐらすことにより、常々に実際体験以上の効果を揚げ得る知的な方法である。
これを端的に申せば、
たとえば愚鈍な者は火に触れてやけどを負い、初めて火が熱いことを信ずるが、
知的な者は火の性質を学んで、火傷を負わずに火が熱いことを信ずるようなもの。
地球人はこの火に触れて初めて火の熱いことを信ずる型の者が多く、
直接至高な道を選ぶ者は少ない。
そのため、実際体験の反復が必要な訳である。
宇宙創造神の御教えに「我を折り、宜しからぬ欲を捨て」と在るのは、
この「体験の反復を容易に導く奥義」でもある。
最近自分自身思いますのは、
今生クリアーするべきと感じる課題は、
クリアーするまで繰り返し繰り返し繰り返し与えられているのだなぁ。。
それがなかなかクリアーできないでいたのだなぁ。。
しかしまぁ、少しずつ出来つつあるのだなぁ。。^^;
クリアーすると環境は変わるのだなぁ。。
ということです。
その意味でも、人はわが師です。
全くその通りであることを今回私たち家族は追体験したわけです。
親の責任というと、一般によく考えられているのは、
子供を薄着にさせていなかったか?とか、何か食べ物に中ったのではないか?とか、
そういう物理的なことに注意が向きがちですが、
もちろん、そういった物理的原因もある場合もあるかも知れませんが、
ほとんどの場合は、親の発信する想念にあるのでした。
おそらく、幼い子供というのは、本人の思考がまだ発達していない純真無垢な状態ですので、
親の想念をそのまま受信して、体に反映させるのでしょうね。
親と子は霊体波長が似ていますので、共振しやすいということなのだと思います。
「子は親の鏡である」ともいいますが、
子は親の想念の結果を映している、ということなのでしょう。
普通、親にとっては小さな子供は自分よりも大切な宝物ですので、
宇宙創造神の御教えの中の「心配ごころはご法度の心」と少し聞いた?ぐらいでは、
心配するのは当たり前と思っても無理はないわけで・・・。^^;
それで、今まではS君は、
Rがお医者さんに行き、薬を処方してもらって、Rがその薬を服む服まないにかかわらず、安心した結果、
心配しなくなって熱が下がり、
元気を取り戻すといったことになっていたのではないでしょうか!?
今回はS君にとって、自分の発信した想念の作用を知るちょうどいい機会であったのだと思います。
・・・・・・
もともと人間には天の法則に基づいて、
○ 実際体験によって必要な多くのことを会得する方法
と、
○ 思弁(論理的思考)によって実際体験を補充・増補する方法
とが与えられている。
この思弁というのは、考えめぐらすことにより、常々に実際体験以上の効果を揚げ得る知的な方法である。
これを端的に申せば、
たとえば愚鈍な者は火に触れてやけどを負い、初めて火が熱いことを信ずるが、
知的な者は火の性質を学んで、火傷を負わずに火が熱いことを信ずるようなもの。
地球人はこの火に触れて初めて火の熱いことを信ずる型の者が多く、
直接至高な道を選ぶ者は少ない。
そのため、実際体験の反復が必要な訳である。
宇宙創造神の御教えに「我を折り、宜しからぬ欲を捨て」と在るのは、
この「体験の反復を容易に導く奥義」でもある。
最近自分自身思いますのは、
今生クリアーするべきと感じる課題は、
クリアーするまで繰り返し繰り返し繰り返し与えられているのだなぁ。。
それがなかなかクリアーできないでいたのだなぁ。。
しかしまぁ、少しずつ出来つつあるのだなぁ。。^^;
クリアーすると環境は変わるのだなぁ。。
ということです。
その意味でも、人はわが師です。