marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(302回目) キリスト教会の一致 Ⅱ (M・ルター)

2017-03-27 21:22:26 | プロテスタント
 キリスト教会ということを文字に表しただだけで一般の方は、そちらの人たちの話なのですねとすぐに思われる方が少なからずいるだろうと思いますがとても残念に思うところです。決してそういうものではなく、生命あるすべての人に関係のあることなのですと大声で言いたいのですね。それは、生きているということは、霊を持ち、肉を持ちと、そしてその合体のような魂と呼ばれるものがあるしすべての生きとし生けるものがすべて関わっているからです。東日本大震災の6年目を迎え、多くの方々が困難の中にあります。そして、未だ2500名もの行方不明の方々がおられるとのこと。
◆自分が未だ死者となったことが理解されない霊もあって現れるようだとのことは、今まで書きました。とても気の毒な事です。キリスト者の肉と霊の事も書いてきました。パウロのコリント人への第一の手紙には、霊のからだと肉のからだのことが詳しく(といっても読んでもその通りと了解するしかありませんが・・・)書かれています。僕らは、イエスの霊に結びつけられる幸いを、誰彼から言われるからではなく本当に感謝して思わなくてはならないのではないでしょうか。それは、理屈からしても、今も行き場のない霊が、誰彼に入り込んで自分の思いを何し遂げようとしているとすれば、それは良い霊、まさに聖霊が私たちの中に入っていただくことが赦されているからです。
◆”キリストのからだなる”教会と言われます。それは、先の回にルターが述べたごとくです。先の回のルターの文章の続きを読んでみましょう。キリストのからだなる教会自体がそのような内なるものと外なるものとしての考え方ができると読めます。
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 外的な集まりとか一致とかがキリスト教会たらしめると言う人は、強引に自分の意見を述べているのであり、そのために聖書を持ち出す人は、神の真理を自分の偽りのために持ち出し、神を偽りの証人としてしているのである。〔・・・・・〕ローマの一致にいることがキリスト者を作らないと同様に、その一致の外にいることが異端者や非キリスト者を作ることにはならない。〔・・・・・〕その中には神の秩序を尊びもしなければ、満たしもしないような人々が大勢いるのに、ローマの権力の外的一致こそが神の唯一の秩序の成就であるなどというのは、聖霊をけがす公然の偽りである。〔・・・・・〕
 私たちはここにふたつの教会をふたつの名でよぶことにしたい。第一は、あるべき、根本的、本質的真実のものであって、私たちはこれを霊的・内的なキリスト教会と呼びたい。第二は作られた、外的なものであって、私たちはこれを身体的・外的なキリスト教会と呼びたい。それは私たちがこのふたつを互いに分けてしまうというのではなくて、ちょうどわたしがひとりの人間について語りながら、その人を魂に応じて霊的人間と呼び、身体に応じて身体的人間と呼んだり、あるいは使徒〔パウロ〕が、内的な人とか外的な人についてよく語っていりとおりである。このようにキリスト教の集まりもまた、魂に応じてひとつの信仰において一致せる集団〔教会〕であるが、からだに応じては例えそれが一箇所に集められることはできなくても、それぞれの場所において、それぞれの群れとして集められるのである。
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       (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p105) ・・・ 続きます  

世界のベストセラーを読む(301回目) キリスト教会の一致 (M・ルター)

2017-03-26 23:42:11 | プロテスタント
 掲題の文章はルターさんが、「ローマの教皇制」という文章の中で述べていることですが、本来の教会とはどういう事なのかをのべたことですので掲載します。
◆ひとりひとりがすべてのしがらみから離れてイエスのことばを読むことが希望ですので、キリスト教にはいろいろな宗派があるとか、難しそうな神学論争などが起こったりしているなどにふれると、イエスの言葉から離れてしまう方がいるかもしれないと思い、いや、そうものでは決してないのですよ、素直にひとりひとりがまずイエスの言葉に耳を傾けるが最優先なのですということをルターさんは言っているのです。
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 聖書はキリスト教会についてはまったく単純に、ただひとつの言い方で語っている。彼ら〔教皇主義〕がこれにほかにふたつの言い方をするようになったのだ。聖書による第一の言い方は、私たちが使徒信条において、「わたしは聖霊を信ず、また、聖徒の交わりを信ず」と祈るとおり、キリスト教会が地上におけるすべてのキリスト者の集まりである、ということである。この会衆、この集まりは、正しい信仰と希望と愛とのうちに生きるすべての者のものである。このように、キリスト教会の本質、いのち、本性は、身体的集団ではなく、パウロがエペソ人への手紙第4章〔5節〕で「一つの洗礼、一つの信仰、ひとりの主」というとおり、信仰における心の集団である。だから、身体的に互いに1000マイル離れていても、霊においては一つの集まりなのである。なぜならだれでも、ほかの人と同じように説き、信じ、望み、愛し、生きているからである。〔・・・・・〕これこそ本来、霊的一致であり、それだからこそ、人々は「聖徒の交わり」と呼んでいるのである。この一致のみがキリスト教会たらしめるに十分なものであり、これなしでは、町であろうと、時であろうと、人であろうと、行為であろうと、その他なんであろうと、キリスト教会たらしめる一致点はないのである。〔・・・・・〕
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    (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p104) ・・・ 続きます 

世界のベストセラーを読む(300回目)キリスト教会の改善に関してドイツのキリスト者貴族にあててⅢ(M・ルター)

2017-03-25 10:57:48 | 思想・哲学
 他を批判するには、内容はともかく優位性を持つ気分に満足させられるように人という生き物の心のありようはできているものらしい。ドーキンスの”優越なる遺伝子”ではないけれど、人であるが故にやっかいなのだが、人間というのも他者(異物)を排他するようにできているのだが、どうもこれは男性と女性により異なるようだ。女性の場合は、俄然、生きている人間に対してその対象が向かうように思うのだがどうだろう。男性の場合は、結果としてそれは、周囲に知らしめる事が優先して、いわゆる結果、実績だと威張れるし大ぴらにガス抜きができる仕組みもあるようだ。
◆しかし、女性はその社会的基盤がその歴史の中で確立されてくることが無かったからなのかと思う。よって、手っ取り早く批判の対象が周囲の人間に向かうのではないかと思ったりする。男性の場合は、社会的制裁もあり、無論女性にもあるが、それが内面に向かう場合特に留意しなければいけない。これについてはいつか書いてみたい。いずれここでの前書きは、相手がAであろうとBであろうと、またそれが逆であろうと、いずれも”人間の思いからの行動”なのだ。同じ人間でありながら、ただひとり、神(イエス)の前に自分個人で立つということをしないためかと思ってみたりする。
◆哲学者ヘーゲルさんは”精神現象学”とやらで正、反、合という具合に矛盾対立する二つの概念を高次元の段階に統一するように精神的、社会的変動もアウフヘーベン(止揚)するように進むといったけれど(無論、彼もキリスト教抜きには語れない)、ルターがプロテストしたことは、もっぱら神のことばを受けとった朽ちゆく次元の低い人間世界のことに関してとして、それに当てはまるようにも思われてくる。しかしそれは、権威から大衆への言葉の解放、同時に個々人に神のことばが委ねられたのだから、より一層、天の世界から考えられないような被造物たる朽ちゆく人間ひとりひとりにもその命のことばが解放委ねられたということだ。つまり、アウフヘーベンの逆バージョン。よって、それ故に次は、我々がどのように今度はそのことばを自らのものとし、自己の中で霊的にといったらいいかそれをアウフヘーベンしていくかに関わってくるのではないだろうかと考えて見たりする。その勧めが使徒の手紙に見ることができる。
◆くだくだと僕が書いたのはこういうことだ。つまり、ルターは当時のカトリックにプロテストしたのだが、人間であるかぎりプロテスタント内でも似たようなことは起こるであろうということなのだ。それは、時代が今に下るにつれ”神が人間に初め善悪を知る木からその実をとって食べてはいけない”と言われたごとく、その基準がひとりひとりより内面化し、それが霊的な次元といえば良いか、その基準がますます不明瞭になってきているからなのである。
◆だから、プロテスタントしても、それがそうだと自己肯定して言われれば、曲がりなりに神のことばを伝うるにそれで良いのかとその時点で口をつぐわねばならないことが起こっているのではなかろうか。「礼拝と伝道」は、キリスト教の生命線である。フォーサイスという神学者は「神学なきところに教会なし」と言った。けれど、その道の方には、「”伝道はしない”、”伝道”という言葉も使わない、”どのよう”には専門家でありながらも明言しない。ましてfree聖餐とやら・・・。(日本語理解できるのかな?という)」方もおられる。「先生、先生と言われ、耳の聞こえのいい言葉だけを集めて話し自己肯定し、学校以外で習った事以外はまったく、邪推と振り払って、あれやこれやに受け止める言葉を持たない試練に弱い方がおられるのはどうしたものか。それがキリスト者の自由なのか。」ルターは神学に必要な事として第三に”試練”をあげていたではないか。
◆これが 今の僕のプロテストである。 さて、最後となりましたルターの第三の城壁について表題の文章は今回で終わります。
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 第三の城壁は、はじめのふたつが倒れるとき。おのずと倒れる。教皇が聖書に逆らって行動すれば、私たちは聖書に与して、彼を罰し、正す責任がある。〔マタイ18:15〕
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世界のベストセラーを読む(299回目)キリスト教会の改善に関してドイツのキリスト者貴族にあててⅡ(M・ルター)

2017-03-24 19:55:39 | プロテスタント
 昨日に続きルターの書かれた掲題、三つの城壁の二つ目の文章の抜粋です。仲良くしようと向こうさんも言っているのに、いくら宗教改革から500年とはいえ、あまり欠点を書き連ねるのも何かと思いますが、僕は”神が創造されし人間とはいかなるものか”という命題みたいなものを常に思ってしまう訳です。社会の中で人のステータスをもってしまった人間の思考のようなこと・・・。
◆時代の制約、世界情勢、社会事情、その時代に生きた人々、そしてその個人の出生の起源、成長の環境など諸々。この地球上で、国は異なってもこの地球上で、永遠の命を願い、追求して、あるいは漠然とでも信じてきて、今、自分では選べない親の元に生まれ、その彼、彼女もまた、同じ地上の人生を歩んで来たわけです。その中で、このとき少なくとも自分が永遠の命に出会う。
◇これは、「わたしがあなたを選んだのだ」と神からそのように導かれたのであろうなぁと曲がりなりにも他には迷惑かけることではないだろうから、思っても許されるのじゃないかなと考える。
◆さて、ルータさんの第二の城壁について述べた掲題文書の抜粋です。
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 第二の城壁は、なおいっそう根拠のない、不当なものである。彼らは一生涯聖書についてなにも学んでいないのに、自分たちだけが聖書の教師であろうとする。自分たちだけに権威があると僭称し、教皇は悪人だろうと全員だろうと信仰に関しては誤ることはないのだという恥知らずな言葉で私たちをだまし、しかもそのために一字たりとも証明しえないでいる。〔・・・・〕どれほど無学で、悪かろうと聖霊は彼らを見捨てないと考えているので、大胆にもおのれが欲するだけのことを付加していくだろう。そうだとすれば、聖書はどんな必要があり、役に立つだろうか。〔・・・・〕
 鍵は聖ペテロにあたえられたのだから、権力も彼だけに与えられたのだと主張しても、(※使徒ペテロの正当な継承者は教皇のみとされている)鍵が聖ペテロだけでなく、全教会にあたえられていることは十分明らかである。しかも鍵は、教理や支配のために定められたのでなく、罪をつなぎ、あるいは赦すためだけに定められたのである。彼らがそれ以上に、違ったことを書き加えるなら、それはまったくの作り話に過ぎない。〔・・・・〕
 私たちは、上述したように、実際みな祭司であって、みなひとつの信仰とひとつの福音と同一の聖礼典をもっているのだから、信仰において何が正しいか、何が正しくないかということを味わい、判断する力を、わたしたちもまたもってはならないのだろうか。〔・・・・〕信仰を受け入れて、これを理解し、擁護し、誤謬を罰することはすべてのキリスト者が当然なすべきことである。
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 ・・・続きます。 
 

世界のベストセラーを読む(298回目)キリスト教会の改善に関してドイツのキリスト者貴族にあててⅠ(M・ルター)

2017-03-23 07:36:07 | プロテスタント
歴史において僕らはいかに学ぶかということに関して、今年は2017年 今から500年前の1517年10月31日、M・ルターがヴィッテンベルグの城教会の扉に掲示したといわれている贖宥(ショクユウ)(通称:免罪符)についての提題-95個条。(この掲示には異論を挟む学者さんもいるがそういうことにしておく) いずれ、この話題が短時間の内に各地に広がった。何に対してかはあえて詳しく書きませんが、時代が時代とはいえ、やはり神の導きによるものだったのだろうと考えざるを得ない。「神、我らの見方ならば誰が我らに敵せんや!」しかり・・・「われ、今ここに立つ」とルターさんは戦った。(感激だー!)
◆それにしてもだ!。我々の常識からしてもあまりに何というか聖遺物や聖体拝領など言葉にできないほどひどすぎた。たまたまyoutubeで昨日それらを見てしまったので具合が悪く(ちょと怖い物見たさも正直あったけど・・・)といっても今もその場所の方々は、うやうやしくそれらに頭を下げてお祈りしているのですからどうしたものだろうと。これほど、人々の日常生活から神のことばが隔絶されると、何かに追従、物体に隷属するものなのかは心理学の学問の対象にするのもおこがましいというものであると思ってしまう。
◆聖書に書いてあることは、確かに僕らの言葉で捕まえきれないところはあるけれど、どこ読んでも、あがめ奉る対象物が三次元的にそのままあるなんてことはどこ読んでも書いていない。むしろ禁止なのに。おまけに金まで取っているとは。遺体を切り刻んで、腐敗防止の薬づけで各教会に配ったのがこれとか、聖人は死んでも腐敗しないとかで当時の最先端の防腐剤で処理してガラスケースに安置・・・おい、どうなっているんだ と今以上にルターさんは、極めて理性的に怒った訳だ。ご遺体は当時以降の物であろうけれど、ルター時代には本当に読むと笑えるような聖遺物もある。
◆今、改めてルターの掲題の文章の中から抜粋を掲載します。もろに批判対象は書きません(少しふれてますけど)。ルターさんの対抗(プロテスト)すべく三つの城壁としての見解の抜粋です。
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◇第一、霊的階級や世俗階級などの解説は偽りである。誰も、怖じける必要はない。その根拠は、すべてのキリスト者は真に霊的階級に属し、職務のため以外には、彼らの間になんの区別も存在しないということである。パウロがコリント第一の手紙12章〔12節以下〕で「私たちはみなひとつのからだであるが、それぞれの肢体は、他の肢体に仕えるためにそれぞれ独自の働きをもっている」と言っているとおりである。
 私たちがひとつの洗礼、ひとつの福音、ひとつの信仰をもっており、みな同じキリスト者であるということはすべてに値する。なぜなら、洗礼と福音と信仰とのみが霊的にするし、キリスト者をつくるからである。しかし、教皇とか司祭(※僕にも知人がいるけどこれ当時の)とかが油を注ぎ、剃髪させ、叙品し、聖別し、平信徒と違った衣服を着せると、偽善者やでくのぼうをつくることはできようが、決してキリスト者、すなわち霊的な人間を作ることはできない、私たちはみな洗礼によって、祭司として聖別を受けているのである。(※万人祭司のことだな)〔第一ペテロ2:9、ヨハネ黙示5:10〕 
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◆人間とは弱いものです。時代は違えどです。だから、宗教による戦争も起こってきたのだろう。だからこそ、今も生きておられるイエスに従え、人にではなく自分の言葉でイエスと対話することだ。「耐えず祈れ」とはそういうことだろうと僕は考える。「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がる。」(コリント第2の手紙3:17)のだから。・・・ 続く