池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

修行

2012年03月20日 | 独特の感覚
修行という言葉についてこの頃ではめっぽう聞く事が少なくなった。
有る意味昭和の響きでも感じられる。
僧籍の有る宗教人、料理人さん、大工さんや左官さん等の職人さん等の職域でも
その言葉も薄らいできているのではないであろうか?

自己の行動によって起りうるさまざまな事象に学習し、
その殆どの学習の元は苦難な事の克服の為の努力と工夫の行動であり、
その苦難を克服していく事で良識的対処法を身をもって体験し、苦難に対する順応の
対応幅を広げることが《修行》で有るように私は考えているのであるが
いかがなものであろうか?

日々の生活において不平不満も多いこの頃であるが、
その日々の事象にこそ、自身を磨く為の修行の素材が落ちているように
私は感じる時が多々有る。

対人関係・職務の事・金銭・未来への不安・欲求に対する満足感の欠如等々・・・・・。
数え切れないほどの自己欲求に対して反意の存在する《修行》の素材が
身の回りに落ちている事が確認できる。

不平不満がその《修行》材料であり始発点である事に最近私は気づく事ができた。

平和である為には・・・・・・・・
不平不満を感じないような心境でいる事。
日々、満足でいる為には・・・・・・・・
現状の今が最良と感じている事。
幸せでいようと考えるなどはもってのほかで、不幸なんだという考えも持つ事は無い。

息をして、食事ができて、偶に病気をして、偶に泣いて、多くの時間を笑っている。
これだけで充分という心境で居るようにこの頃ではなっている。

金や財産には余り興味や執着は昔からない。
↑これは私の短所でも有るかもしれない。なぜなら、その日が生活できれば良いとだけ
 いつも考えているので全く蓄えが無い。将来の事などを考えた事があまりにも無い。

昨日、京阪電車の清水五条駅の自販機のコーナーで面白い立て看板を見た。
格言が記載されていた。
《幸せを築く根源は労働である。》ような事を書いてあった。
この意味は深く、単に資金だけを得るだけの意を表記しているのではないと
すぐに気付き、「そうそう・・・・。」と思わずたいへん嬉しい気持ちになった。

働ける機会が有るだけで幸せ充分。収入は二の次の発想がその時、又、浮かぶ。

最近、私の周りでは人の行動や言動が気になる人が多すぎる。
その方々の話を聞いていると、自身で自身の事に対して自信を持ち合わせてない気が
してならない。
自身に自信が無いから他人の事が気になって仕方が無い。
自身が注目されたり中心であることによって安堵の気を宿らせているようだ。
馬鹿馬鹿しく見えるのは私のいびつな精神ゆえか?

船は水面に浮かんでいるが船底一枚下は死の危険が有る。
いつ何時、誰にだって心臓が止まることだってありうる。
そんな、いつ何時の偶然が訪れる状況が有る人生にあって
目の前の自身の状況を全うせずして、他人のことが気になるのは暇なのか?
人の優位をうらやましく思う事が不満となるのは、既にその人は
うらやましく思っている相手より劣勢である事実を知るべきである。

この事に気付けばその方々の世間世渡りはもっと楽になるのかもしれないが、
所詮他人事ゆえに私は黙っている。

修行の根本を的確に言った昔人が居る。山本五十六だ。
彼は博打好きでも知られる。そのポーカーとブリッジのカードゲームでは
絶対に勝つ博打しかしないから誰を相手にしても強い。
だから楽しい。



男の修行
    苦しいこともあるだろう。

    言い度いこともあるだろう。

    不満なこともあるだろう。

    腹の立つこともあるだろう。

    泣き度いこともあるだろう。

    これらをじっとこらえてゆくのが
                  
    男の修行である。

このようでありたい。が、辛抱する事象が平静に感じられるようになるのも
修行であろうと思うが・・・・・・・・・?

今日はなんかイマイチ文意がバラバラです。お許しください。



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