白樺峠からまいめの池は本来5分くらいなんですが、通行止め。 奈川経由で20キロ以上になってしまいました。 この時間で空の様相に変化が・・・ 風もなく映り込みも見れました。 残念ながら空が白っぽくなって来ています。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
上高地乗鞍スーパー林道白樺峠からの乗鞍岳の絶景です。 峠から少し西の展望台からは乗鞍高原が見下ろせます。 ここから乗鞍高原はすぐですが、通行止めとは・・・ ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
もう4年以上前になりますが、敦煌を訪れました。 今日、写真を整理していて初めて気づいたのですが、 砂漠の上の雲、飛天(天女)が現れたような雲でした。 場所的には鳴沙山の東、ちょうど莫高窟あたりになります。 不思議な雲です。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
大学のサイクリングサークルの同窓会関西支部という事で遠足です。 先づは嵯峨野トロッコ列車 高いところから保津峡を楽しみます。 続いて保津峡下り 鉄橋をくぐってしばらく進むと嵐山 嵐電で四条大宮に出て木屋町へ 仙鶴さんで床を楽しみます。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
保津川下りも後半です。 嵯峨野観光鉄道のトラス鉄橋をくぐると嵐山はもうすぐです。 天気も良くたくさんのボートが出ていました。 意外と見ることの無い上流からの渡月橋。 月を見るなら確かに上流からのはずです。 嵐山はなぜ綺麗か? ブラタモリによると、嵐山はかなりの急斜面に樹木が茂っています。 通常の斜面であれば後方の樹木は上部しか見えません。 しかし嵐山では急峻な斜面により後方の樹木も大きく顔を出すことになります。 そのため、桜にせよ紅葉にせよ色づく範囲が大きくなり、綺麗な景観を作り出すとの事です。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
トロッコ列車の後は保津川下りです。 桂川は京都府の中央部丹波高地に源を発し、山間をめぐりめぐって園部から亀岡市に至り、再び山間の峡谷16kmを流れて天下の名勝嵐山につき、鴨川と合流して淀川に入ります。 この川の亀岡から嵯峨嵐山までを、峡谷の美と舟下りで有名な保津川といいます。 川の両岸は累々たる山、そしてその高峰に京の愛宕山がそびえ、川が右に左にと谷間を縫って曲るたびに、舟の前に後にと見え隠れします。 岩山・松山・雑木山、桜に紅葉と、自然は四季を通じてさまざまの顔を見せてくれます。 ちなみにトロッコ列車と手を振り合うのは暗黙のルールです。 流れは激流あり深渕ありで、きわめて変化に富んでいます。 河原には流れをさえぎるかと思われる大岩・奇岩巨石が点在、その一つ一つにえもいえぬ趣があり、物語をもって伝えられています。 また岩には船頭のさす竿の跡やもどり舟を人力で引きあげた綱の跡が、ところどころについており舟下りの歴史を物語っています。 「川下り」というのは、保津川の水流を利用して下流にある京都・大阪に物資を輸送することにはじまった言葉です。 いわゆる水運であって、この歴史は古く京都に都が造営される以前、長岡京市に都があった頃から行なわれ、その後京都嵯峨の天竜寺をはじめ臨川寺、大阪城築城、伏見城造営と、保津川の水運を利用して、筏によって遠く上流の丹波から木材が輸送され、その資材は整えられました。 木材だけでなく、慶長11年、川大名といわれた京都の豪商角倉了以によって水路が開かれてからは、米・麦・薪炭なども高瀬舟で輸送されるようになりました。 丹波の豊富で質のよい木材・穀類・薪炭は、戦後の昭和23年頃まで水運によって京都に運ばれていましたが、山陰線の開通(明治32年)により、また戦後のトラック輸送の発達によって、筏と荷船による水運利用は次第に姿を消していきました。 しかしながら保津川峡谷の自然美は四季を通じてすばらしく、巨岩をはじめ、囲繞する山々と、しぶきをあげて落流する水、神秘をたたえた鏡のような渕など、変化に富んだ景観は、まさに人の目をとらえて離しません。 従って明治の28年頃から、遊船として観光客を乗せた川下りが始まりました。筏や荷船が姿を消した今では、専らこの観光の舟下りとなりました。 亀岡から嵯峨まで16km約2時間に及ぶ保津川下りは、今日世界的に有名な舟下りとして知られ、年間を通じて約30万の観光客が訪れ、四季それぞれの自然美とスリルを満喫しています。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
大学時代の後輩が訪ねて来てくれて、サラッと観光することになりました。 嵯峨野観光線のトロッコ列車乗って、保津峡下りして、鴨川の床の予定です。 嵯峨野観光線の路線は山陰本線の嵯峨嵐山駅・馬堀駅間の旧線を利用していて、保津峡の渓谷沿いを走っているため優れた景観が楽しめます。 国鉄は山陰本線の輸送力改善の一環として、嵯峨駅・馬堀駅間の保津川沿い屈曲部をトンネルで直線状に短絡する線路付け替え工事を着工し、JR西日本発足後の1989年に開通、 このため旧線は廃線となって放置されていたが、保津峡の優れた景観を活用するためにJR西日本の完全子会社の手により1991年から観光専用鉄道として営業、以来、多くの観光客を集めています。 車両は塗装などを変更したDE10形ディーゼル機関車1104号機を動力車とし、トキ25000形貨車を改造した客車5両が使用されています。 客車には平安ロマンをモチーフとした塗装を採用、平安の王朝色である緋色、山吹色でまとめられています。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
近江八幡の水郷です。 天正13年(西暦1585年)、四国征伐で軍功を挙げた豊臣秀次は43万石を与えられ、近江国八幡山に城を築き、城下町を開町しました。 その際、琵琶湖畔を埋め立て、八幡山周囲に八幡堀を開削しました。自由商業都市を目指し安土城下などの商人・職人を呼び寄せ、碁盤上に区切った城下町に居住区を設けました。 堀の北側を武士、南側を町人の居住区域とし、さらに、町人の居住区の西を商人、北東を職人の居住区としました。 堀は、八幡山城の防衛と湖上交通による物流の役割を兼ね備え、城下町の発展・繁栄に大きく寄与しました。 秀次の自害を受けて八幡山城は廃城となりましたが、城下町は商家町として存続し、近江商人により繁栄を極めました。 近江商人は八幡堀の地の利を活かし、地場産物(畳表、蚊帳、米、酒など)を陸路や水路を利用して各地へ搬出し、各地の産物を持ち帰り、再び各地へ送り出すといった「諸国産物回し」と呼ばれる商法によって、各地の産業振興に貢献しました。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |
しばらく中国上海近郊の水郷が多かったので、日本の水郷も。 近江八幡の水郷です。 安土桃山時代に豊臣秀次が八幡山城を築城した際、市街地と琵琶湖を連結するために造られました。 城下町の都市計画として整備され、城を防御する軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵琶湖の水運を利用する商業的役割を兼ね備えました。 八幡堀により船や人の往来が増えたことで商業が発達し、八幡山城廃城後の江戸時代には、近江商人(八幡商人)による町の発展に大きな役割を果たしたとの事です。 町は大阪と江戸を結ぶ重要な交易地として発展し、堀沿いには裕福な豪商たちの白壁の土蔵や旧家が建ち並びます。 八幡堀を含む旧市街地約13.1ヘクタールは、「近江八幡市八幡」の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。 ランキングに参加して居ます。 ポチッとよろしくお願いします。 にほんブログ村 |