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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

伝記小説『黒い蜻蛉』

2024年11月23日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

副題に「小説 小泉八雲」とあるように、
小泉八雲=ラフカディオ・ハーン(1850-1904)についての伝記小説。

宣伝文句が内容をよく表しているので、掲載する。

『怪談』『知られぬ日本の面影』『日本――一つの試論』。
日本人も気づいていなかった日本文化の魅力・価値に気づき、
世界に広めた人物、小泉八雲。
自身の生い立ちに由来するコンプレックス、
葛藤にもがいていたかつての彼、
「ラフカディオ・ハーン」はいかにして
「日本人・小泉八雲」となったのか。
日本へ渡り、日本人の生き方や文化、
そして妻となる女性、小泉セツに出会い、
彼の人生はヤゴがトンボとなって飛び立つがごとく変わっていく――。
アイルランド出身の著者が描く、
空想と史実が織りなす魂の伝記小説。
日本人とは何かという問いを、現代の私たちに投げかける。

他に、次のような紹介文も。
                                        出生によるコンプレックスと孤独を抱えていた
ラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)。
その人生は、日本との出会いによって
大きく変わっていく。
横浜から松江への旅、武家の娘セツとの結婚、
息子の誕生、日本への帰化、
霊峰・富士山への登頂。
彼が日本人よりも日本を愛した男、
「小泉八雲」となるまでをあざやかにえがく。

略歴も引用。

パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、
1850年6月27日に
ギリシャ西部のレフカダ島で生まれました。
父チャールズはアイルランド出身の軍医、
母ローザはギリシャ・キシラ島の出身です。
アイルランドは当時まだ独立国ではなかったので、
ハーンはイギリス国籍を保有していました。

2歳の時にアイルランドに移り、
その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受け、
それに疑念を抱きます。
16歳の時、遊戯中に左目を失明。
19歳の時、父母に代わって八雲を養育した大叔母が破産したことから、
単身、アメリカに移民。
赤貧の生活を体験した後、
シンシナティでジャーナリストとして文筆が認められようになります。
その後、ルイジアナ州ニューオーリンズ、
さらにカリブ海のマルティニーク島へ移り住み、
文化の多様性に魅了されつつ、
旺盛な取材、執筆活動を続けます。
ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、
ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、
1890年4月に日本の土を踏みます。

同年8月には松江にある島根県尋常中学校に赴任し英語教師に。
さらに熊本第五高等中学校、神戸クロニクル社の勤務を経て、
1896年9月から帝国大学文科大学講師として英文学を講じます。
1903年には帝大を解雇され、
後任を夏目漱石に譲り、
さらに早稲田大学で教鞭を執ります。

この間、1896年には松江の士族の娘、
小泉セツと正式に結婚し、日本に帰化。
三男一女に恵まれます。
著作家としては、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に
生涯で約30の著作を遺しました。

1904年9月26日、心臓発作で54歳の生涯を閉じます。            

日本での生活は14年でした。
                                        筆者のジーン・パスリーは脚本家。
長年日本で暮らしていた時、
アイルランド出身だと言うと、
「ああ、ラフカディオ・ハーンですね」
と度々言われて、知るようになる。
アイルランドに帰国すると、
ダブリンで、ラフカディオ・ハーンが幼少期に暮らしていた家の近くに
たまたま住み、興味を抱き、
それが本書に結実した。

本書は小泉八雲の生涯を辿るが、
評伝ではなくフィクション小説)の形を取っている。
しかし、小泉八雲の著作からの文章を
注釈の形ではなく引用することで、
その姿に真実味を与え、
息づいた生身の人間として描いている。

小泉八雲と言えば、
「日本の伝説を収集して『怪談』を表した帰化人」
くらいの知識しかなかったが、
本書によって、
外国人から見た日本と日本人と日本文化の特質が
見事に解明されている。

小泉八雲が来日した1890年は明治23年で、
文明開化の真っ最中。
西洋文化の浸食で、
日本文化が失われつつある時で、
小泉八雲は特に東京や横浜の西洋化を憎んだ。
最初の赴任先が松江という、
都会から離れ、西洋文化に犯されていない場所だったことで、
小泉八雲の日本愛が育まれた。

ハーンは空高く舞う鷹のような気分で、
まだ西洋の手が及んでいない
未開の地をじっと見つめながらつぶやいた。
「ああ、ここだ! 私が求めていた場所はここなのだ。
この地なら、きっとすべてがうまくいく!」
  
来日した西洋人の誰もが
必ずしも日本文化を愛するわけではないが、
小泉八雲自身の感性が日本文化と共鳴したようだ。
特にそのことが顕著に現れるのは、
知事の令嬢からいただいた
虫駕籠の中の(クサヒバリ)の鳴き声を
こよなく愛したという点だ。
普通、西洋人は虫の音を聞いても騒音としか思わず、
虫の声にもののあわれを感ずるのは、
日本人特有のものと言われている。
それを小泉八雲は感ずることができたのだ。

八雲は、虫の鳴き声が日本人の暮らしのなかだけでなく、
詩歌などの文学でも履く別なものとして扱われていることを知り、
日本人の美の感受性は突出てして発達していること、
そして、西洋人において、その分野は、
まだほとんど未開発のままだと感じていた。
コオロギ一匹の素朴な鳴き声で、
これほどまでに豊かな空想を呼び起こす民族から、
西洋人は多くのことを学ばねばならない。
たしかに産業技術に関しては、
西洋の方が進んでいる。
だが、自然に対する真摯な姿勢は、
日本の方が何千年も進んでいるのだ。

日本人の自然と共存する姿を、こう書く。

日本では、川や岩、山や木や井戸など、
生物であろうとなかろうと、
あらゆるものに神がいると信じられている。
稀に、岩や木にしめ縄がかけられていることもあるが、
それはその岩や木が神聖なものであることを意味しており、
ハーンは、これほどまで自然に対して
敬意の念を払っている人種を見たことがなかった。

神社仏閣の静謐さへの感性も同様。
特に、日本人が先祖を大切にすることに
感銘を受けているのも、
並の西洋人とは違う。
お盆の行事を見て、
日本人が霊と共に生活していることを感ずる。

日本にはどの家にも先祖を偲ぶ仏壇というものがあり、
家族は毎日、食事の一部と水をそこに供えるとのことだった。
日本における先祖とは、
死んだらいなくなるものではなく、
その後も家族とともにに存在しつづけるものであり、
そのため生きている家族は、
死んだ者に対して、
いつも身近にいる存在のように見守り、
語りかけるらしかった。
それを聞いたハーンは感動した。
ハーンの知る、死者どころか
生きている者にさえ礼節を欠く西洋の家庭とは、
なんとちがっていることだろう。

行方不明で亡くなった船乗りの墓に供えたある食事を見て、
ハーンは激しく心を揺さぶられた。
生きている間はもちろんのこと、
死んだ後でさえも面倒をみてくれる家族がいる。
それほどまでに人から愛されるとは、
どういう感覚なのだろう?

(盆の最終日、精霊舟で先祖の霊を送り出すのを見て)
その穏やかな儀式を浜辺に立って見つめていたハーンは、
ある神秘的なことに気づき、感動に包まれた。
それはハーンがこれまで見聞きしてきたこと、
すなわち、神々とは亡くなった愛しい人たちであるとする
神道の世界観が、
いま、目の前の状況とピタリと合致したことだった。

また、日本人特有の「全体主義」も驚きの対象だった。
個人主義の西洋人から見ると、
公を重んじ、社会に奉仕する日本人の価値観に驚嘆する。
日清戦争に赴く教え子の
国の為に命を捧げる覚悟を見せられた時、涙する。

日本では、他人を犠牲にしてまで、
己の目標や幸福を追求すると
非難されるのだと、
その時、ハーンは学んだ。
個人の欲望は、集団の要求のなかで見出さなければならず、
離反者は、その集団から排斥されてしまう。

ハーンは問う。
「個人の幸福は、重要ではないと?」
友の答えはこうだった。
「そのとおりです。
人間はだれしも、生まれながらにして利己的です。
ですから、それをそのまま放任するということは、
物言えぬ動物にも劣るということなのです」

ハーンは思う。

「結局は動機のちがいなのだ。
西洋人における物事の動機は利己的であり、
日本人のそれは利他的なのだ。
前者は、私利を追求するのだから、
必然的に無秩序や混乱を招くが、
後者は公益を追求するのだから、
平和と繁栄をもたらす」

セツのような先祖への感謝や畏敬の念こそが、
日本人が最も深く尊ぶもので、
それが民族の生活と精神のよりどころであり、
且つ、国民性そのものなのだろう。
そうであるが故に、
親孝行は当然の義務であり、
家族愛はそこに根を生やし、
忠義心はその上に構築されているのである。
八雲はキセルをふかすうちに、
日本人の義務感は両親や血縁者だけでなく、
祖父母や曽祖父母、
さらにもっと前に亡くなった
すべての者にまで及ぶのだと悟った。
そして、いざ、国家に危機が迫れば、
その義務感は国民全体を
まるでひとつの大きな家族のように連帯させるのだ。
それは八雲の理解していた愛国心という概念を
はるかに上まわる深くて強い感情だった。
だからこそ、日本の軍隊は非常に手ごわいのだ。
この家族愛と忠義と感謝の心が一体となった感覚は、
いくぶん曖昧ではあるものの、
生きている親族と同じくらい
現実的に過去の者たちへの広がっているのだ。

日本=理想郷について、こう考える。

その理想郷とは、
古くからの神道の理念が最高点に達するということだ。
つまり、無意識の無私無欲の精神とか、
人の幸せを己の喜びとする願望とか、
万人が普遍的な道徳心を持つこととか、
己の良心の声に耳を傾け、
それに基づいて行動すれば、
いかなる宗教の法典も不要になるということであり、
それらが叶うほど人類が進歩すれば、
より高い次元の世界が実現するのではないか

ラフィカディオはミドルネームで、
ファーストネームはパトリックという。
キリスト教的、アイルランド的な名前なので、
パトリックは使われなかったらしい。

「小泉」は妻のセツの名字。
「八雲」は、松江の八重垣神社に伝わる
スサノオノミコトが稲田姫を娶った時の喜びの歌
八雲立 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造 その八重垣を
から取っている。

黒い蜻蛉とは、
人間の魂を示す。

「人間の魂も、トンボも、
最初は地上に縛られていますが、
いずれ羽を広げ、自由になるからです」

小泉八雲の死去の時、
黒い蜻蛉が八雲の胸に止まる。

訳者あとがきに、こうある。

著者のジーン・パスリー氏が
これほどまでの多大な愛と畏敬の念をもって、
八雲の魅力を描いてくれたおかげで、
「小泉八雲=怪談を再話した人」だけの認識から、
私たち読者をもう一歩、
八雲の世界へ引きこんでくれたのではないでしょうか。
その一歩とは「日本人とは何か?」という
問いを投げかけてくれたことです。

まさに本書は「日本人とは何か」に対して
新発見させてくれる良書である。

なお、小泉八雲の写真がことごとく右側からなのは、
失明した左目を隠すため、右側からの撮影を求めたから。

 


ドラマ『64<シックス・フォー>~陰謀のコード~』

2024年11月22日 23時00分00秒 | 映画関係

[ドラマ紹介]

日本でも映画化、ドラマ化された
横山秀夫の小説「64(ロクヨン)」
イギリスで再映画化したドラマシリーズ。
WOWOWで放送。
全4話3時間2分

映画化と言っても、
すこぶる換骨脱胎

換骨脱胎・・・骨を取り換え、胎盤を奪うという意味で、
   外形は元のままで、中身を変えることをあらわす。
   転じて、先人の詩や文章や著作の
   着想・形式などを借用し、
   新味を加えて独自の作品にすること。
   そっくりそのまま盗用する「パクリ」とは違い、
   先人の作品に敬意を持ち、
   良い部分を活かしつつ
        新しいもの生み出していくもの。

換骨奪胎の度合がものすごく、
ほとんど原型を留めていないので、
比較するのも虚しいが、
主なものを示す。

「64」の意味は、
わずか7日間で幕を閉じた昭和64年(1989年)に、
D県警管内で起こった7歳の少女誘拐・殺害事件が未解決のままで、
符丁として「ロクヨン」と呼ばれているのだが、
年号などないイギリスで、どう扱われるのかと思っていたら、
過去のスコットランド独立に関する
政治的工作のコードネームという設定。

主人公の刑事・三上の広報室での
警察発表を巡る報道陣との軋轢、
警察庁長官の視察を巡る葛藤も、
日本独特のものなので、
その部分は全面カット。

三上の娘・あゆみが、
父とよく似た醜い自分の顔を憎むようになり、
整形を反対されたために家出してしまう、
というのは、
スコットランド、グラスゴーの警官
クリス・オニールと妻ミシェルの娘が失踪して3週間、
娘の失踪に本当の父親の犯罪者が絡んでいると思いこんだ妻は、
ロンドンに出かけて、その犯罪者に会う、
という展開になる。
娘が荷物を取りに戻った時、
クリスは娘と会い、
本当の父親がクリスではないと知った娘が
「両親に騙されていた」と怒って家出した、
と変えられている。

自宅にかかってきた無言電話があゆみからのものではないかと
美那子が気に病むが、
この無言電話は、管内の各家庭にかかっており、
実は、64年の事件の被害者の父親が
脅迫電話の声を聞いており、
その声が誰かを確かめるために、
電話帳の順番にかけていたもの、
と判明する。
これも全面カット

新たな誘拐事件が起こり、
犯人から要求された身代金を運ぶ父親の車を追う、
という下りも全面カット。
イギリス版でも誘拐は起こるが、
実は前の事件で法務大臣が関与していて、
その法務大臣の娘アナベルが誘拐される。
アナベルと親しかった高校教師が疑われ、
尋問の場で、昔の誘拐事件に
法務大臣が関与していたことが判明する。

64年の事件時、
脅迫電話の録音ミスにからむメモは、
脅迫電話があった事実の隠蔽に、
捜査担当だったクリスの兄フィリップが
関わっていたという疑惑に発展する。
脅迫電話の事実を知っていた刑事が殺され、
その犯人とされ、刑に服した男をクリスが尋ねて、
昔の誘拐事件のいきさつを知る。

その殺された刑事の同性の愛人の警察官が
被害者の父親と結託して
法務大臣を追い詰めるが、
スナイパーに殺され
真実は闇の中に封印される。
法務大臣は党の副党首になる。

アナベルを救い出すのはいクリスで、
人里離れた農場の家で
ついにアナベルを見つける。

というわけで、
① 主人公の刑事の娘が失踪する。
② 管内に昔の失踪事件が未解決事件として残っている。
③ 失踪事件の遺族の父親が
  犯人を追い詰めるために、娘を誘拐する。

という3点だけ残し、後は全部新たな創作。
つまり、「ロクヨン」の原作なしに、
話は成立する。

想像するに、「ロクヨン」の映画化権を取ったが                  脚色の段階で、多くのカットが生じ、
原型を留めなくなったため、
なんだ、映画化権料払っただけ、損しちゃったね、
ということではないか。(想像です)
                                        「ロクヨン」のドラマ化ということがなければ、
ちゃんと見れる内容なので、
その点で損をしている。

「ロクヨン」のキモは、
①子供の遺族の父親が、市内に順番に無言電話をかけて
 犯人の声を聞こうとする。
②それで判明した犯人の娘を誘拐(実は違うのだが) 
 したとして身代金を要求し、
 64年当時と同じルートで金を届けさせる。
という2点なので、
それを外したドラマ化は、
もはや原作とは言えないのではないか。
ドラマを観た横山さんは、何と言ったのだろう。
                                        なお、「64(ロクヨン)」は横山秀夫の最高傑作で、
『2012年週刊文春ミステリーベスト10』や
『このミステリーがすごい!2013年版』で
第1位を獲得するなど、国内のミステリー賞を総なめにした。
2015年にはNHKでドラマ化(主演・ピエール瀧)、
2016年には前・後編の二部作として映画化(主演・佐藤浩市)された。
ドラマ版は原作に忠実だったが、
映画版はラストが改変されている。


NHK放送博物館

2024年11月21日 23時00分00秒 | 名所めぐり

前回の名所めぐり、愛宕神社のすぐ前にあるのが


NHK放送博物館

その名のとおり、
日本放送協会 (NHK)が運営する
放送に関する博物館。
1956年に開館し、
1968年、4楷建てビルとしてリニューアル。

なぜここにあるかというと、
ここ愛宕山がNHK発祥の地だからです。


前回の名所めぐりで紹介したとおり、
愛宕山は、東京で自然に存在する山で一番高いところ。
そこにラジオのアンテナを立てて放送したわけです。

入場無料。

入口で確認すると、
撮影は自由だが、
映像素材は撮影禁止という話でした。

放送に必要だった、
マイクやカメラ、受像機などが展示されています。

ラジオで始まった放送も、
テレビになり、
白黒からカラーへ、
ステレオ放送、ハイビジョン、デジタル化、衛星放送と
進化の過程が見られます。

昭和60年代の人が今のハイビジョンを見たら、驚くでしょう。

ラジオの本放送の開始は1925年7月12日、
テレビの本放送は1953年2月1日。

中2階は8Kシアターと体験スタジオ

海中との合成

ご覧のとおり。(顔の部分は加工。お面ではありません。)

バックは青。
最近緑のスクリーンの前で撮影することが多いようですが、
と訊くと、
ブルースクリーンの場合、
外人の目が青いので、抜けてしまうから、
グリーンを使うことが増えたそうです。
理論的には赤でも可能。
でも、そうすると、女性の唇がみんな抜けてしまいます。

ここはニューススタジオの体験コーナー

ご覧のとおり。

これも顔の部分は加工。

マジックミラーを使って、鏡に原稿を反射。
意外とアナログですが、
アテウンサーが書き込みをするので、
この方法がいいのだそうです。
アメリカで見たのは、カメラの前面ガラスに文字が出ました。

2階はテーマゾーン。

紅白歌合戦の優勝旗。

ドラマのセットの模型。

風の音を作る装置。

こちらは波の音。

3階は歴史。

初めてのテレビ映像実験。イロハの「イ」。

玉音放送

この録音盤の奪い合いがありました。

録音機の様々。

昔、秋葉原で番組の流出テープが売られていました。

こんなテレビも。

こういうテレビが茶の間に鎮座。

テレビ普及に貢献した街頭テレビ

ズームが出来る前は、レンズを切り換え。

当時の茶の間。

ビデオテープが登場。

その前に、相撲中継では「分解写真」というのがありました。

ビデオテープの編集機。

職人わざだったそうです。

今のハイビジョンカメラ。

4階はライブラリー

過去の映像素材が見られます。

ここで番組選択。

音楽番組を観ました。

昭和歌謡はやはりいい。
なぜなら、プロの作詞家、プロの作曲家によるものだからです。
その後、若者たちの自分の曲で、
過剰な言葉、メロディー不在の
石原慎太郎によれば、
「へたくそな日記みたいな歌」がはびこりました。

帰りは、この階段を下りて、

トンネルの脇に。

ちょっとした楽しいひと時でした。

 


小説『星を編む』

2024年11月19日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

第20回本屋大賞受賞作である
凪良ゆう「汝、星のごとく」続編
というか、スピンオフのような、
アナザーストーリー
2024年本屋大賞にもノミネート。

3つの部分で成っており、
「小説現代」に半年ほどの間を置いて掲載された。

「汝、星のごとく」の簡単なあらすじを紹介する。

瀬戸内の島で、17歳の高校生の男女が出会う。
井上暁海(あきみ)と青埜櫂(あおのかい)。
二人は、家に問題を抱えていたという共通点から接近する。
高校を卒業した櫂は、友人の尚人と組んで、
漫画家を目指して東京へ上京する。
暁海も一緒に行くはずだったが、
母親を捨てられず、島に残る。
櫂の原作、尚人の作画のコンビは、
編集者の植木の目に止まり、
連載開始、単行本も出、
人気漫画家として、
想像もしなかった大金が入って来る。
暁海が東京を訪ねる形で遠距離恋愛は続くが、
次第に二人の間に溝が出来る。
東京へ行き変わってしまった櫂。
島と母に縛られている暁海。
暁海は父親の恋人の瞳子から指導を受け、
刺繍作家として一人立ちできるが、
櫂の方は、
尚人が高校生男子と付き合っていたことが
週刊誌に暴露され、
連載も休止、単行本も廃盤となる。
櫂は酒に溺れ、病気になる・・・

私の2023年2月24日のブログで、
「久しぶりに恋愛小説で心が震えた」と書いた作品。

本書の紹介に戻る。

「春に翔ぶ」は、
櫂と暁海の高校教師であり、
暁海の夫にもなる北原先生の若い頃の話
経済的理由から研究生活を諦めて、
高校教師になった北原が
教え子の明日見菜々の
人生の転換点に関わってしまう。
と同時に
そのカードを切った瞬間、
ぼくはそれまでの人生のレールから外れた。
という、北原の人生の転換点ともなり、
シングルファーザーになった秘密が明らかになる。
お人好しの父母との関係、
研究生活での事件、
等も描かれ、
これだけで、人生の重さを感じさせる
見事な短編となっている。

「星を編む」は、掲載時、読んでいたが、
こうして一冊にまとまると、感慨深いものがある。
櫂の書いた小説を世に送り出するにために
尽力する二階堂絵理と、
櫂と尚人の未完の作品を
完結させるために奔走する植木という
二人の編集者の姿を描く。
特に、植木の場合は、
櫂と尚人が悪意の週刊誌報道で
世間から叩かれた時、
守ってやれなかった
編集者としての自分に対する
悔恨の念で突き進む。
また、二階堂絵理の女性ゆえの
出版業界での風当たりの強さも描かれる。
編集者と作者が二人三脚で
本を世に送り出す姿と
「作家と作家の表現を護るのが
編集者の仕事だ」
という矜持が胸を打つ。

「波を渡る」は、
北原先生と娘・結、暁海の「疑似家庭」のその後を描き、
時系列的に見て、
「汝、星のごとく」の続編と言えるのは、この作品。
北原先生の「浮気」の真相が明かされ、
結の結婚と離婚、
その後の経営者としての成功まで描かれる。
また、北原と暁海が本当の夫婦になるまでの過程が描かれる。
いくつもの人生が織りなす糸が
編まれて、一つの絵柄になり、
繋がる未来と新たな愛の形が描かれ、
感動的だ。

印象的な記述

雨降りではないが、
晴れ渡ってもいない。
年齢を重ねていくほど、
日々はそういうものになっていく。

置かれた場所で咲くことを美徳とするこの国の文化。
身の程をわきまえ、謙虚で辛抱強くあれ。
それが真の美しさというものであるという無形の圧。
けれど置かれた場所で咲ききれない花も
この世にはある。

けれど今の時代、
善であることと弱者であることは、
ときに同じ意味を持つ。
天秤はいつだって不条理に振れ、
与えた情けの分まで
正しく秤られることは稀だ。
父と母が他に分け与えた情けは
返ってこなかった。
盾を持たない善人として
搾取されただけだった。

(母親が)体力もないし、
残り時間も少ないし、
できるだけ身軽にいきたいのだという。
どこへいくのかは訊かなかった。
わたしたちはみな、
そのときのために
荷物を下ろしていく。
軽やかに波間を泳ぎ、
どこか遠い果てにある
約束の島へと辿り着くために。
                                        凪良ゆうは、
やはり只者ではない


映画『グラディエーターⅡ』

2024年11月18日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

史劇の金字塔、「グラディエーター」の続編
前作は、2000年に公開され、
第73回アカデミー賞で、
12部門にノミネートされ、
作品賞、主演男優賞(ラッセル・クロウ)、
衣裳デザイン賞、録音賞、視覚効果賞
5部門で受賞した、名作。

24年の歳月を経ての続編製作だが、
監督は前作と同じリドリー・スコットだから、
正統的な続編と言える。
前作の15年後のローマ帝国に設定されている。

北アフリカのヌミディアで、
農民として、平穏な暮らしを送っていたルシアスは、
将軍アカシウス率いるローマ帝国軍の侵攻により、
戦いの中、愛する妻を殺され、捕虜になる。
格闘の才能と内面に燃える怒りを見込まれて、
奴隷商人・マクリヌスに買われ、
剣闘士《グラディエーター》としてローマへ赴き、
円形闘技場<コロセウム>で闘うことになる。
ルシアスの活躍に、
ローマ市民の賞賛を得ていくが、
ルシアスの目的は将軍アカシウスへの復讐だった。
その頃、ローマ帝国は、
ゲタ帝とカラカラ帝という
双子の皇帝の独裁下にあり、
元老院は無力化していた。
それを覆す動きに巻き込まれて・・・

冒頭、タイトルバックに
前作の場面が絵として流れ、
音楽と共にワクワク感が高まる。
そして、火炎球と弓矢が飛び交う圧巻の戦争描写、
ローマの町の再現、コロセウムでの剣闘、疑似海戦と、
目を見張る光景が続く。
今では金がかかるせいか、
あまり作られなくなった歴史劇だが、
「ベン・ハー」「十戒」「スパルタカス」「エル・シド」などを
遥かに凌駕する映像が続出する。
前作でも、コロセウムの描写はCG合成で、
映画の表現に革新をもたらし、
アカデミー賞視覚効果賞受賞も納得の出來だったが、
24年前より進化したCGにより、
更に豊富な映像がスケールアップしており、
特に、コロセウムのアリーナを水で満たした
海戦シーンは(現実にはあり得ないが)新機軸で、
なにしろ、水の中にサメを放って、
落下した戦士を食いちぎるというのだ。

そういう技術的なものはさておき、
どうしても前作と比較されてしまうのは、
続編の宿命。
まず、捕らわれた主人公が
闘争能力を買われてグラディエーターになり、
ローマの競技場で自由を目指す、
というのは、前作の踏襲で新味がない。
敵役が将軍というのも的外れ。
前作の主人公・マキシマス将軍同様、
職務を忠実に果たしただけで、
裏には皇帝の存在がある。
その皇帝も双子の若い皇帝で、
狂気をはらんだ存在。
というか、軽い青年だ。
前作のコモドゥスのような、
歪んだ性格で、父親の信頼を受けられず苦悩する、
人間味のある存在ではない。
ホアキン・フェニックスの好演によるものでもあるが) 
ルシアスの出生にまつわる因縁物語が
ドラマを支えるものとなっているが、
予告編や公式ホームページの相関図で、
それを明かしているのはいかがなものか。
私は知らないで観たので、
途中で、もしかして、あの男は・・・
という驚きがあった。
観客のその楽しみを事前に奪うとは。

そして何より、前作と比べて足りないもの。
それは、ルシアスを演ずるポール・メスカル


「aftersunアフターサン」で
アカデミー賞主演男優賞にノミネートされたこともある
実力ある俳優だが、
顔がこの役にふさわしくない。
前作のラッセル・クロウは、
その顔つきとたたずまいで、
悲劇と哀愁を感じさせてくれた。


賢帝アウレリウスから次の皇帝を嘱望されながら、
皇帝の嫡男コモドゥスの裏切りに遭い、
妻子を殺された悲劇の将軍、
「今生か来世で、その復讐を果たす」男の執念。
ラッセル・クロウはその姿かたちそのものが
観客に強く訴えかけていた。
それを継ぐ者の役は、特別な人間にしか演じられないが、
残念ながら、ポール・メスカルはその水準に到達していない。
かといって、誰なら、というのはないのだが。
「スター・ウォ-ズ」の再開三部作で鮮烈なデビューをした
デイジー・リドリーのような
誰が見ても適役、
どこでこの俳優を見つけて来た、と驚かせたような
新人俳優を発掘できなかったのか。

前作から継続出演しているのは、
コモドゥスの姉投のコニー・ニールセン
(他に元老院の議員)


そして、その夫のアカシウス将軍を演ずる
ペドロ・パスカルが精彩を放つ。
どこかで見た人、と思ったら、
「スター・ウォーズ」のスピン・オフ「マンダロリアン」で、
全編マスクをかぶって演じ、
各エピソードで1度だけ、
仮面を取って素顔をさらす、あの俳優だ。


奴隷商人はデンゼル・ワシントン

衣装、メイク、美術、照明、音響、
どれをとっても素晴らしい。
技術と金をかけ、その成果をあげている。
「グラディエーター」の続編としては、
そのスケールにおいて、満足した。

5 段階評価の「4」

拡大公開中。
アメリカ公開より1週間早く、
15日から日本で公開。

ところで、
「Ⅱ」の公開に合わせて、
WOWOWが前作の放送をしたので、
20年ぶりに再見。
歴史劇の頂点をなすストーリー作り、
豪華なセット、衣裳、
俳優の演技、
そしてリドリー・スコットの演出と、
素晴らしさを堪能。
音楽も最高だ。

途中、あれ、この曲は・・・
とひっかかり、
これは、ホルストやワーグナーではないか、
なぜ、この映画で使われたのか、
と思って、後で調べたら、

戦闘シーンの楽曲はホルストの組曲「惑星」の「火星」と酷似しており、
ホルスト財団から著作権侵害で訴訟を起こされた。
コモドゥスの凱旋式シーンに使用された曲は
ワーグナーの「ニーベルングの指環」と酷似している、
と指摘を受けたという。
ハンス・ジマーともしたことが、
盗作したとは思えず、
たまたま似たのだと思うが、
録音時、誰か指摘する人はいなかったのだろうか。