空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

映画『薬の神じゃない!』

2022年04月16日 23時03分22秒 | 映画関係

[映画紹介]

Netflix で観たが、
既に日本でも公開されているから、
「旧作を観る」に属する。

上海で、回春薬を売る店を営むチョン・ヨンは、
店の家賃さえ払えず、妻にも見放され、
人生の目標を見失っていた。


ある日、慢性骨髄性白血病患者リュから
白血病の治療薬のインドからの密輸をもちかけられる。
というのは、当時の中国では、
外国の製薬会社の独占で高価なため、
白血病患者が苦しめられていたのだ。
一旦は断ったチョンだったが、
金に目がくらんでやってみると、
これが莫大な利益を生むことに気づき、
購入グループを作り、
より大量の密輸・販売を拡大していく。
権益を侵害された製薬会社の働きかけで、
警察の捜査が始まったため、
チョンは一旦グループを解散し、
貯めた資金で縫製会社の経営に乗り出す。
しかし、再び白血病患者の苦しみを目にすると、
グループを再結集して
危険な薬の輸入を再開し、
縫製工場の儲けをつぎこんで、
仕入れ値以下の価格で薬を売り、
患者たちに感謝されるが、
製薬会社の圧力で警察の捜査は激しくなる・・・

実話だという。
と言っても、人物設定などは創作で、
こういう薬の密輸で患者を助けた人がいて、
その結果、薬価が見直されて、
白血病患者たちが救済された、
という実際の事件をモデルに描いたものらしい。
中国の医薬業界に改革を促すきっかけともなり、
白血病の生存率が2002年の30%から
2018には85%に改善されたという。
                
チョンが密輸した薬は、
偽薬ではなく、
薬効も同じジェネリック薬
ただ、中国国内で未認可だというだけだ。
そのことは捜査をする刑事の口で語られる。

最初は金儲けのために始めた密輸だったが、
やがて、患者のため、儲けは度外視で薬を提供し続ける、
という主人公の変化がミソ。
最初はダメ人間として描かれたチョンだったが、
後半は、義侠心にかられるイイ男に変身する。
チョンを演ずるシュー・ジェンがいい味を出している。

グループのメンバーも、
依頼人のリュを始め、
白血病患者が集まるネット上コミュニティの管理人で、
自身も白血病の娘を持つポールダンサー、
中国語なまりの英語を操る牧師、
力仕事が得意な不良少年など多彩。
これも映画のための創作だろう。

上海の猥雑な雰囲気、
インドの喧騒など、
うまく取り入れられている。
冒頭の音楽など、インド映画か、と思うほどだ。

最後、判決を受けて車で護送されるチョンの見たものは・・・
という感動のオチが待っている。

邦題の「薬の神じゃない! 」は、あまり良い題名ではなく、
さぞ観客が減っただろうと思うが、
原題が「我不是藥神」と同じでは仕方ないか。

監督はウェン・ムーイエ

2018年10月の「中国映画週間」で、
「ニセ薬じゃない! 」の邦題で上映され、
2020年10月に一般公開された。

 


アカデミー賞のビンタ事件 

2022年04月15日 22時00分03秒 | 映画関係

3月27日夜(アメリカ時間)に開催された
アカデミー賞授賞式の最中に起こった「ビンタ事件」。

事件の経緯は、こうだ。
ドキュメンタリー映画部門のプレゼンテーターとして登壇したクリス・ロックが、

客席にいたウィル・スミスの奥さんの
ジェイダ・ピンケット・スミスの髪型を笑いのネタにした。
「『G. I. ジェーン2』で観られるのを楽しみにしてるよ」

ジェイダの髪形は、女性には珍しいスキン・ヘッド。


本語にすれば、坊主頭。

↓は、髪があった頃のジェイダ。美しい。

「G. I. ジェーン」(1998)は、
軍隊生活をしている主演のデミ・ムーアが、
男に負けないようスキンヘッドになって訓練に挑む話。

実は、奥さんのジェイダは、
自身が脱毛症の悩みを抱えていることを公表しており、
昨年12月には、症状を隠すことが難しくなったため、
スキンヘッドにすることをインスタグラムで発表していた。
そういう悩みを抱えている人のことを
知ってか知らずか
「G. I. ジェーン」にかこつけて、
笑いを取ったのだ。

実は、この発言の直後、ウィル・スミスは笑っており、
奥さんは浮かない顔。
その表情を見て、ウィル・スミスは
妻が侮辱されたと気付き、
壇上に上がってクリス・ロックを平手打ちし、
席についてからも
「オマエの汚い口で妻の名前を呼ぶんじゃない」
などと、
放送禁止用語を含めてクリスを罵倒し続けた。
その直後、テレビ中継の音声はオフになり、
放送も一時中断されるなど、現場は大混乱
最初はシナリオ通りのショーの一部だと思って笑っていた
観客席の俳優たちも、困った表情に。

この間、放送はされていないが、
アカデミーはウィル・スミスに退場を求めたものの、
ウィルが拒否。
楽屋裏では、ウィルを逮捕すべきかを警官と協議していたという。
何で会場に警官がいるんだ。

そして、事件は更なる展開に。
その数十分後、
ウィル・スミスが主演男優賞を受賞してしまったのだ。
スピーチでは、
受賞作の「ドリーム・プラン」で、
テニス選手のセリーナ&ヴィーナス・ウィリアムズ姉妹の父親、
リチャードを演じたことに触れ、
「リチャード・ウィリアムズは家族を守る人でした」と、
自分とリチャードを重ねるかのようにコメント。
アカデミーに対しても、先の振る舞いについて
謝罪とも取れる言葉を口にした。

で、授賞式閉会後、
ウィル・スミスの行為について、
話題沸騰。

翌日、ウィル・スミスが行為をSNSで謝罪
「クリス、私は公の場であなたに謝罪します。
私の行動は一線を超えていたし、間違っていました。
暴力はどんな形にせよ、有害で破壊的なものです。
昨夜のアカデミー賞授賞式での私の振る舞いは、
受け入れられるものでも許されるものでもありませんでした。
私に関するジョークはあなたの仕事の一環でしたが、
ジェイダの病気についてのジョークは私には耐えられず、
感情的に反応してしまったのです」
そして、アカデミーの会員を辞退、
追いかけるようにアカデミーが
「2022年4月8日から10年間、
アカデミー賞のいかなるイベントや番組の出席を、
直接であれバーチャルであれ、認めない」
という厳しい処分を下した。

なお、一部には、主演男優賞の剥奪、
という声もあったが、
そういう決定にはならなくてよかった。
投票は既に終わっており、
アカデミーの会員がウィルを主演男優賞に選んだ、
ということは尊重しなければならない。
選考結果は、「総意」という神のわざ、

神聖なものと考えなければ、
賞など存在の意義を失う。

この事件を巡るアメリカと日本の反応
ちょっとしたずれがあり、
比較文化論(それほど大げさではないが)として、
興味深いと思われるので、書いてみる。

まず、アメリカの世論は、
ウィル非難の一色。
「どういうことであれ、暴力はいけない」
という論調で一貫している。
アメリカ社会の暴力忌避の風潮は、
日本で考える以上だ。
また、アメリカ社会の同調圧力の強さもうかがえた。

それに対して、日本では
ウィルに対する同情論が見られる。

公衆の面前で自分の妻を笑いものにされた時、
へらへらと笑っていられるか、と。
特に、ウィルはジェイダが長年の間、脱毛症に苦しみ、
抜け毛に悩んだ挙句、頭を丸めるという選択肢を選んだ、
その苦悩の過程を身近で見ていただけに、
公衆の面前で妻を笑い物にされ、
黙っていられるわけがない、と。

つまり、ウィルも悪いかもしれないが、
そんな行為を引き出したクリスも悪い、と。

「喧嘩両成敗」の伝統のある日本でなら、
「あんなことを言って済まなかった」
「いや、カッとして手を出した俺も悪かった」
と双方が謝りあって、
カメラの前に握手をして、おシマイにするところだっただろう。

ところが、
アメリカではそうではない。
アカデミーの決定でも、
クリスの発言には無罪放免で、
アカデミー理事会は
「異常な状況下で冷静さを保たれたロック氏に深く感謝申し上げます」
と謝意を示している。
冷静に対応した
(つまり、暴力で応戦してかった)
クリスを賞賛さえしているのだ。

その背景には、アメリカには、
政治家や俳優や歌手などのセレブを
公衆の面前でこき下ろす文化があり、
何を言われても、彼らは抗弁できない、
という伝統が存在し、
判例もそれを後押ししている。
「ジョークはクリスの仕事」とし、
ジョークを笑って流せないウィルが大人気ないというのだ。

実際、アカデミー賞授賞式でも、
事件の前にもスミス夫妻はいじられていた。
司会者の一人のレジーナ・ホールが、
ハリウッドのセクシーな俳優たちの名前を挙げた後に、
「ダメね、みんな結婚してるわ。
あ、待って、ウィル・スミスがいるじゃない。
彼だったら、結婚しているけどジェイダは許してくれるみたいだし、
いいかも」
と発言。

というのは、ジェイダは2020年に
20歳年下のミュージシャン、オーガスト・アルシナと
不倫の関係だったことを認め、
2021年にはウィルも、
「結婚外で関係を持ったのは妻だけではなかった」
と、自分も浮気していたことを仄めかす発言をしている。
つまり、「オープンマリッジ」の夫婦として、
笑いのネタにされていたのだ。

この時は、スミスは、自分たちが自ら公言したことであり、
反応はしなかった。
が、何度も自分と妻を馬鹿にされるような発言をされて、
ウィルもイライラしていたのかもしれない。

今回の経過を見て、
アメリカでは、
クリスの言葉は、あまり問題にされていないのが不思議だ。
暴力はいけなくて、暴言は許されるという奇妙なダブルスタンダード。
日本では「言葉の暴力」と言われているが、
言葉の暴力には、言葉で返すべきで、
物理的暴力はいけない、ということだろうか。
そんなに「言葉の暴力」に対して、
アメリカ社会は鈍感なのだろうか。

(なお、ウィルは、グーではなく、平手で叩いている。
ビンタは警告の意味もあって、
拳骨とは違う、というのは、私だけらしい)

では、公の場でなかったら、どうなのか。
私的な会合で妻を侮辱されたら、
言葉では足りず、「鉄拳制裁」に及ばないのか。
また、クリスの言葉が
脱毛症に対してのものでなく、
もっとはっきりと障害者(不具者)に対してのものだったら、どうなのか。
抜け毛の苦しみは、身体的不具者よりも軽いから、
ネタにしていいとでもいうのか。
もし、ジェイダがクリスの言葉に傷つけられて、
自殺でもしたら、
世論は全く変わっていただろう。
言葉ひとつで人を殺すことだってできる
それくらいに言葉の破壊力も大きいはずなのに。

まだクリスは一言もジェイダに対して謝罪の言葉を発していない。
それを批判する風潮もない。
公式の場で、人の外見、その原因である病気に対して
ネタにしていいはずがない。
クリスはジェイダの病気については、
知っていたのか、どうなのか、言及していない。
知らなかったという説もある。
しかし、無知は、罪ではないが、恥ではある。
クリスの発言でスミス夫妻が深く傷つけられたのは
厳然たる事実で、
先に書いたように、
スミスは、
「ジェイダの病気についてのジョークは私には耐えられず、
感情的に反応してしまったのです」
と言っている。
知らない間に言葉で人を傷つけていることもあるのだと、
公の場で発言する人は自戒すべきだろう。

アカデミーは、ウィルの行為に対しては非難しているが、
クリスの言葉に対しては何も言わない。
クリスは2016年のアカデミー賞でも
アジア人を馬鹿にするような発言をして、
物議を醸した人だ。
そのような人物をプレゼンターに起用した責任もあるだろう。

他の司会者の発言も、出席者を揶揄するような発言も多かった。
そういう文化なのだろう。
しかし、アカデミーは、今後、
個人のプライバシーに関するものは発言しない、
という指針を示してもいいだろう。
アカデミーは、「ウィルの行為は式の品格を貶めた」というなら、
クリスの発言も「品格を貶めた」ものとして批判すべきだったのだ。

ネットで見た、次の意見が
最もアメリカと日本の違いを示している。


日本人で同じ事が起きれば
平手打ちした側は法的な制裁を受け
差別的な発言をした側は社会的な制裁を受けるだろう。
勿論手を出した側が悪いとなるのだが
侮辱罪と言う罪もあるし
拳で感情のままに何度も殴り付けると言うよりも
平手打ち一発なので、暴行と言うよりは
指導の範囲だと個人的には思うが
アメリカでは通用しない考え方なのだろう。


小説『同志少女よ、敵を撃て』

2022年04月13日 23時37分50秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

第11回アガサ・クリスティー賞を受賞し、

先の第166回直木賞の候補
そして2022年本屋大賞を受賞。

1942年、
第2次世界大戦の中、
ソ連に攻め込んだドイツ軍が
モスクワ近郊のイワノフスカヤ村を襲い、
村民を皆殺しにする。
猟師の母のもとに生まれた少女・セラフィマも
母がイェーガーという狙撃手に撃たれて死に、
自分も死を覚悟していたところ、
赤軍の女性兵士であるイリーナに命を助けられる。
イリーナはセラフィマに「戦いたいか、死にたいか」を問い、
母親の遺体を燃やした。
怒りにとらわれたセラフィマは、
母を殺したイェーガーを殺し、
更にイリーナも殺すと心に決め、
女性狙撃手となる道を選んだ。

イリーナのもと、女性狙撃訓練学校で実務教育を受けたセラフィマは
最後まで残った5人の一人として、
スターリングラードの前線に送り込まれる。
狙撃専門の特殊部隊として・・・

独ソ線の過酷な前線での戦いが
すさまじい臨場感で描かれる。
筆者は、戦争の経験がないはずなのに、
このリアリティは何だろう。
資料を深く読み込み、自分の内面で体験しなければ、
書けるものではない。
そこが小説家の才能というものだ。

ソ連には、女性狙撃兵が多数存在し、
中でも代表的なのが、リュドミラ・パブリチェンコというスナイパー。

なんと300人以上のナチス兵を倒したという。
その戦績を買われて、アメリカに外交宣伝のため送られ、
ルーズベルト大統領夫妻と親しく交わった。
その話も本書には出て来る。
作者の逢坂冬馬さんは、
リュドミラ・パブリチェンコの回顧録を読み込んだようだ。
また、終わりの方で、
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの取材申し込みの挿話も入る。
スヴェトラーナは、
女性狙撃手にスポットをあてた「戦争は女の顔をしていない」で、
ノーベル文学賞を受賞している。
こうした資料を逢坂さんは、丹念に読んで、
小説世界を構築したようだ。

セラフィマは、スターリングラードはじめ、
あちこちに転戦し、
沢山のナチスを殺し、
セラフィマたちの第39独立親衛小隊は、
「魔女小隊」と呼ばれるようになる。
やがて要塞都市ケーニヒスブルクで、
ついにイェーガーと対決する。
それまでに狙撃訓練学校での学友を失い、
自身も捕虜になり、死を覚悟する。
そして、イリーナの真実にも触れる。

訓練学校での同僚の中にはウクライナ出身者もおり、
否が応にも、現在のロシアによるウクライナ侵略が重なった来る。

本書中には、次のようなセリフが語られる。

「ウクライナがソヴィエト・ロシアに
どんな扱いをされてきたか、知ってる?
なんども飢饉に襲われたけれど、
食糧を奪われ続け、
何百万人も死んだ。
たった二〇年前の話よ。
その結果ウクライナ民族主義が台頭すれば、
今度はウクライナ語をロシア語に編入しようとする。
ソ連にとってのウクライナってなに?
略奪すべき農地よ」

同じ人物は、独ソ戦についても、
次のように語る。

「本当はあなたも気付いているんじゃないの?
これは、異常な独裁国家同士の殺し合いなんだと」

敵兵を初めて殺した後、
罪悪感にとらわれそうになるセラフィマたちをイリーナは、
こう言って鼓舞する。

「敵兵を殺したことを思い出したなら、今誇れ!
いずれ興奮は消え実感だけが残る。
そのときには誇りだけが感じられるように、今誇るんだ!
お前たちが殺した敵兵は、
もうどの味方も殺すことはできない!
そうだ、お前たちは味方の命を救った。
侵略兵を一人殺すことは、く
無数の味方を救うことが。
それを今誇れ。誇れ、誇れ、誇れ!」

幼なじみと再会して、
戦争の残虐行為に触れた時、
幼なじみの隊長は、言う。

「それって、指揮官が悪魔だったからじゃない・・・
この戦争は、人間を悪魔にしてしまうような性質があるんだ」

白眉は、リュドミラ・パブリチェンコとの交流で、
そこでセラフィマは、自分の未来を透徹する。
講演会の後の質疑応答で、
「戦後、狙撃兵はどのように生きるべきか」
を問われて、リュドミラは答える。

「私からアドバイスがあるとすれば、二つのものだ。
誰か愛する人でも見つけろ。
それか趣味を持て。
生きがいだ。
私としては、それを勧める」

そして、セラフィマにも直接言う。

:「分かったか、セラフィマ。
私は言った。
愛する人を持つか、生きがいを持て。
それが、戦後の狙撃兵だ」
誰もがリュドミラ・パヴリチェンコに憧れていた。
彼女になりたがっていた。
だが眼前にいるのは、
孤独で悲しみに満ちた一人の女性だった。

戦争で家族を失った少女が
優秀な狙撃兵となる中、
戦争と直面し、
生と死のはざまで
成長する物語。
そして、彼女は、
真実の「敵」に直面する。

アガサ・クリスティー賞選考会では、
全員が満点(5点)をつけ、
文句なしの受賞となったのも納得の仕上がり。
構成、登場人物の配置、その造形、
戦争の描写、恐怖、孤独、後悔・・・
先の直木賞では、26年ぶりのデビュー作受賞が期待されたが、
あと一歩のところで落選した。
しかし、「本屋大賞」では選ばれた。
現場の書店員が選ぶ本屋大賞は、大きな勲章だ。
いわば、直木賞の選考委員より、
本屋大賞の選考委員の方が
見る目、読む力があったと言ってもいい。
なにしろ、直木賞選考会では、
「リアリティーに欠ける」、
「海外の戦争をなぜ扱う必要があるのか」という、
ケチを付けたとしか思えない反対意見が出たという。
特に、「海外の戦争をなぜ扱う必要があるのか」という意見にはあきれる。
小説の題材は、何でもいいのであって、
海外が舞台で、日本人が一人も出て来ない小説があってもいいはずだ。

戦争が終われば、狙撃兵は存在価値を失う。
エピローグで、セラフィマとイリーナのその後だけでなく、
同僚たちのその後も伝えられるが、
なんだか胸が熱くなるエピローグだった。
                                        

↓は表紙に一部が表出されている
雪下まゆさんによる装丁画。


映画『親愛なる同志たちへ』

2022年04月12日 10時00分42秒 | 映画関係

[映画紹介]

1962年、フルシチョフ政権下のソ連。
物価高と食糧不足、給与カットに対する労働者の不満が高まり、
ロシア南西部の町ノヴォチェルカッスクの国営機関車工場で
大規模なストライキが発生した。
5千人を越える群衆が集まり、
共産党幹部が管理する工場を占拠するなど暴徒化した。


事態を重大視したモスクワのフルシチョフ政権は、
スト鎮静化と情報遮断のために高官を現地に派遣。
そしてスト勃発の2日目、
デモ隊や市民を狙った無差別発砲事件が発生、
沢山の市民の命が奪われた。
KGBのデータによると死者26人(非公式では約100人) 、
負傷者数十人、処刑者7人、投獄者数百人に達した。
西側諸国なら大事件として報道されるのだが、
政権は事件の情報を秘匿、
ソ連が崩壊するまで約30年間隠蔽されていた。

この実話を、85歳のロシアの監督、
アンドレイ・コンチャロフスキーが、
一市民のリューダの一家を中心に描く。

リューダは第二次世界大戦の最前線で看護師を務め、
今は共産党市政委員会のメンバーで、
元白軍の老いた父と

18歳の娘スヴェッカと3人で生活していた。
人々が砂糖を求めて列を作るのを尻目に、
係とつるんで贅沢品を無料で手に入れるなど、
党の特権を使いながらも、
スターリンの時代を懐かしむ体質を持っていた。

しかし、発砲事件に娘が巻き込まれ、
リューダは、娘の身を案じ、
パニックが巻き起こった広場を駆けずり回る。
病院に行っても娘は収容されておらず、
死者の中にもいない。
だが、霊安所に収容されずに、
秘密裡に埋葬された人々がいることを知り、
KGBの友人と共に市街の外の墓地に行き、
そこで娘の特徴と同じ遺体を埋葬した事実を掴む・・・。

という一部始終を、
モノクロ、スタンダードで、
一切のBGMを排した緊迫した映像で描く。
息がつまるような臨場感
そして、暴きたてる旧ソ連の人民抑圧の体質。

主人公のリューダは、
実は体制側の人間で、
党と国家と共産主義体制を信じていた人物。
しかし、目の前に晒された現実は、
その理想を厳しく裏切るものだった。

マルクスとエンゲルスによって創設され、
レーニンによって具体的国家の形を取った
社会主義・共産主義は、
元々人間の本姓に反していたために、
その運営においては強圧的にならざるを得ず、
人間にとって最も重要である自由を奪い、
その結果、破綻してソ連の崩壊に至り、
20世紀において、
その壮大な実験を終えた。
(いまだにその残滓となる国家は存在しているが)

その幻滅の淵に立つリューダを真正面から捉えた本作は、
観客の胸に痛みを巻き起こす。

と同時に、
今起こっている
ロシア(旧ソ連)によるウクライナ侵略を想起せざるを得ない。
ロシアでの公開時の2020年には
ウクライナ問題は発生していなかったのだが、
今の事態を見ると、
ロシアという国は、何一つ変わっていないのだな、
と思わされる。
社会主義・共産主義の特色は、
どうしても一党独裁の党の無謬性に固執する。
だから、誤謬を指摘するデモもストも認めるわけにはいかない。
そして、対外的にはもっと誤ちを認められないから、
情報を隠蔽する。
ソ連もロシアも中国も北朝鮮も、どうしてもそうなる。

映画の中で、
市民に発砲しろと迫る党上層部に対して、
軍の幹部が、
軍は外敵と戦うためにあるのであって、
人民に銃を向けるのは、それは憲法違反だ、
という場面が印象的だった。

市民に銃弾を発射した天安門事件は、
いまだに中国では、タブーだ。

つくづく、日本、今の日本に生まれて幸運だったと思う。

リューダが、KGBの友人と車の中で

ソ連を讃える歌を歌う場面の皮肉。

歴史の暗部に光を当てる、
老監督渾身の力作

リューダを演ずるユリア・ヴィソツカヤは、
監督の奥さん。

第77回ベネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。

5段階評価の「4」

予告編は↓をクリック。

https://youtu.be/-f11lPk-W3A

ヒューマントラストシネマ有楽町他 で上映中。

 

スタンダードサイズの映画なのに、

スクリーンサイズはワイドのまま、

左右に黒い部分が残る。

幕を引いて、スタンダードサイズに出来るはずだが、

なぜ、しない。

 

 

 


引っ越し完了、第2の歴史開始

2022年04月11日 20時17分17秒 | 日記

本日、ブログ「空飛ぶ自由人」は、
「空飛ぶ自由人・2」として、再出発します。
前のブログ管理会社が、サービスを停止することになったため、
こちらの goo blog にお引っ越し。
前のブログのURL↓

https://star.ap.teacup.com/shokuniku/ 

は、
8月1日午後1時まで生きていますので、
昔のブログを読みたい方は、

そちらで閲覧することが出来ます。
8月1日午後1時以降は、
管理会社が削除し、
内容は、宇宙の彼方に消え去ります。

それでは忍びないので、
サイトをまるごとコピーするソフトを使って、
パソコンに取り込みました。
ただ、データが大きすぎるのか、
始めの方の3分の1がコピーされませんでしたので、
今後のアクセス数の減少を見て、
ある時点で、3分の2を自ら削除して、
再度コピーを試みようと思っています。

昔のブログ、特に旅行記
ブログの冒頭にインデックスを作成していますので、
削除する前に、閲覧して下さい。

さて、本日からブログ「空飛ぶ自由人・2」は、
新たな歴史に入りますが、
ここで、旧ブログを総括してみたいと思います。

開始は2005年の10月25日。
従って、16年6カ月続いたことになります。
始めは、職場の「事務局長のブログ」という位置付けでしたが、
定年退職と共に、個人のブログに移行。
それからでもそろそろ10年になります。
総投稿数は5038、
総画像数は70007枚
つまり、1回あたり13.9枚という、写真満載のブログ。
それだけに使用容量は4.29GBと膨大。

ジャンル分けすると、

映画関係 25.0%
旅行関係 23.8%
書籍関係 23.4%
雑記もの 15.6%(身辺雑記、耳より情報、様々な話題、わが町浦安、お食事 等)

政治関係  7.3%
その他   4.9%(オペラ、ミャージカル、演劇、音楽、美術、テレビ関係 等)

私は、映画は映画館で年間75本、
ビデオや配信を加えると、年間163本(昨年の実績)を観、
本は4日に1冊のペースで読んでいます。
その結果が、上記の割合。
ただ、時節柄、旅行関係は激減しています。
というか、旅行自体が皆無。
あの空港の喧騒、ゲート前の時間、
テイクオフの瞬間、機内でのくつろぎ、
着陸の緊張、
通関を過ぎて、異国に踏み出すわくわく感
がなつかしい。

この新ブログは、そういうわけで、
映画紹介、書籍紹介、身辺雑記を中心に
書いていくことになります。

新運営会社のフォーマットで、
文字や写真が大きくなり、
色や文字も多彩になります。

昔からの継続読者の方も
新しい読者の方も、
ブログの続く限り、
よろしくお願いします。