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小説『博覧男爵』

2023年09月18日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

東京国立博物館と上野動物園の開設に尽力し、
「日本の博物館の父」として知られる田中芳男
(天保9年8月9日[1838年9月27日] --大正5年(1916年)6月22日)
の生涯を描く。

信濃国飯田城下で典医を務める医師田中隆三の三男として生まれた芳男。
父・隆三は芳男に漢学を身に着けさせ、特に
「人の人たる道は、この世に生まれたからには
自分相応の事をして世用を為さねばならない」
と教え諭した。

18歳の時、名古屋に出て
博物学者としても著名であった伊藤圭介の門下に入り、
西洋医学を身に着けた他、博物学や本草学を学んだ。

24歳で、幕府の蕃書調所(洋書調所)に仕え、
物産学・本草学の研究開発に当たることとなった。

28歳の時、パリ万国博覧会に渋沢栄一らと共に出張。
航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにし、
パリで、田中は驚愕する。
博覧会本館は鉄骨とガラスを使用し、
エレベーターまで備えていた。
その衝撃は大きく、
諸外国に比して近代文化での著しい遅れを痛感する。

この時、
国立自然史博物館や動物園や植物園が、
広い敷地内に併設されていた、
ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)を
博物館の見本とすることになる。

翌年帰国する前日、大政奉還。
まさに時代が変わる激動の時
明治政府の官僚として従事、
これ以降、日本に博物館を設置して、
日本人の目を世界に向けさせることを企図する。
博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。

「百聞は一見に如かずと申しますように、
そこを訪れる人々は、
まさに実物を見て見識を深めることができます。
文字を読めない人にもわかりやすく、
子供にも興味を持ってもらえるでしょう。
ひとりひとりの知見に厚みが増せば、
国全体の底力も上がろうというもの」

その後、ウイーン万国博覧会(明治6年[1873年])に備えて、
全国各地から取り寄せた出品予定品を公開するため、
湯島聖堂大成殿で湯島聖堂博覧会を実施。
これが後の上野の博物館につながる。

パリ万博の時はスエズで荷下ろしして、陸路を運び、
その後船で地中海を航行したが、
ウィーン万博の時は、スエズ運河が開通していて、
そのままの船で地中海に入った。

その後、フィラデルフィア万博(明治9年)にも芳男は派遣されている。
この時、ベルが考案したた電話機、
レミントン社のタイプライターなどが出品されていた。

黒船の来航で開国を迫られた日本が、
外国の文化に触れ、
近代化に突き進む、
そういう時代に生きた人物。
パリ万博で欧米文化の底力を痛感し、
軍事や産業を中心に明治維新が進む中、
日本が真の文明国になるためには、
武力に頼らない日本の未来、
知の文明開化を成そうとした。

その原点とでもいうべき、
飯田城下の屋敷の天井に掲げられていた
五大州・五大洋の世界地図で、
世界に目が開かれたのも興味深い。
なにしろ、それ以前の日本人は、
世界はおろか、日本全体の姿さえ把握していなかったのだ。

物語の始めの方で、ある人が
「学ぶ」ということの本質を
芳男に向かって語る場面がある。

「何事にも好奇の心で向かえば、
珍しい物を集める楽しみ、
それについての知見を得る喜び、
そして、未知なることを学ぼうという
意欲を味わうことができる」

まさに「知らなかったことを知る」喜びが、
学ぶということなのだ。
学校の授業とは、先生が生徒の知らなかったことを教えてくれるもの。
そんな場所で、他のことをしていたり、
寝ていたりするのは、
本当に愚かだと思う。

流入してきた様々なを植えて、
種まきの時期を調べ、
その料理法を研究する場面など、
ああ、こうして西洋の食材が取り入れられたのだな、と感慨深い。
キャベツや香港菜(白菜)、カリフラワーなどはこの時、入って来た。
平菓花(アップル=リンゴ)の苗もこの時のもので、
それが寒冷地での農作物となっていく。

博物館の設置場所として上野が選ばれた経緯も面白い。

土地の広さをはじめ、
火事や風水害、地震への備え、
来館者の行き来がしやすいこと、
周囲の景観などを考え合わせると、
東叡山寛永寺境内、
つまり上野の山がもっとも適しているとの結論に達していた。

今考えても、絶好の場所に作られたと言える上野は、
博物館、美術館が密集する、文化の発信地だ。
東京国立博物館や国立科学博物館だけでなく、
上野動物園も併設した理由も分かる。
ジャルダン・デ・プラントをお手本にしたからだ。
植物園だけは、
既に小石川植物園があったので、
上野に作ることは断念。

紆余曲折あったが、
ようやく、念願の博物館が開館
黒船が浦賀に来航したのは1853年、
明治維新は1868年、
上野の博物館の開館は1882年、
明治15年だから、
驚くほど早い。
芳男は2代目館長を務めた。

開館の時、芳男は父が教えてくれた「三字経」の一節を思い出す。

「犬は夜を守り、鶏は晨(あした=夜明けのこと)を司る。
いやしくも学ばずんば、
なんぞ人と為さん。
蚕(さん)は糸を吐き、蜂は蜜を醸(かも)す。
人学ばずんば、物に如(し)かず」

1915(大正4年)、男爵を叙爵。
本書の題名の由来だ。
芳男は生涯、農林水産業や博物学の発展振興につとめ、
1916年(大正5年)6月22日、永眠(79歳)。
墓所は谷中霊園にある。

2016年(平成28年)、
国立科学博物館で芳男没後100年記念企画展開催。
前日には、胸像の除幕式が行われた。

日本の博物館のあけぼのに、
こういう人物がいたということを伝えてくれる、
志川節子の労作。
勉強になった。



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