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小説『江戸一新』

2023年05月12日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

明暦3年(1657)、
後世「明暦の大火」別名「振袖火事」と呼ばれた大火により、
江戸のほとんどが焼土となった。
江戸城は天守が完全に崩壊、本丸御殿も全焼した。
将軍家綱は西の丸に避難し、
本丸再建までの間留まった。

この歴史的難事にあたり、
老中の松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清が合議しながら、
江戸の再建に当たる。
主人公の松平信綱は、代官の家に生まれ、
自ら望んで、叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となり、
三代将軍家光の小姓となったことで出世し、
次の四代将軍・徳川家綱(火災当時17歳)に仕え、
聡明な頭脳により、「知恵伊豆」と呼ばれた。

大火後の主な施策としては、
江戸城天守閣の再建を断念、
御三家を江戸城から外に移し、
火事で亡くなった十万とも言われる人を埋立地に葬り弔う場所を作り、
賑わう通りとして広小路を作り、
物価の高騰を抑え、
隅田川の東西を結ぶ大橋を作り、
江戸の地域を拡大する、まさに「江戸一新」
現在の東京に繋がる大都市・大江戸への「建て替え」である。

こうした人物の生き様を、軽快なタッチで描く。
幡随院長兵衛と水野十郎左衛門をという、
町奴と旗本奴の対立など、
漫画チックに描かれる。
幼いころ姉に「臆病者」と言われたトラウマなど、面白い。

「家康、江戸を建てる」に続く、門井慶喜“江戸もの”
東京に住んでいながら、
過去のことには思いを馳せず、
元からこのような大都会だった、
と思っているのが、
大多数の都民だが、
実は、災害と復興によって、
拡大を続けてきた町だったと分かる。

隅田川の向こうの本所、向島、深川は、
当時、江戸とみなされなかった、など興味深い。
隅田川東岸は、埋め立てによって新興居住区として造成されたのだ。

天守を再建しなかったのは、
大老の保科正之の意見が強かったという。
「現今は、天下万民の命の瀬戸際である。
天守再建などに使う金や人手があるなら
市中にまわせ。
町人に使え」
天守の役割は民衆や敵への威嚇であり、
天下平定より50年経過して、
もはや謀叛など起きようがない、という理屈。
そのとおりになり、今も皇居には、
天守の土台だけが残っている。

当時、江戸には沢山の牢人(浪人)を抱えていた。
それについて、信綱の姉、おあんはこう思う。

そんなに食う米がほしいなら、
田舎に引っ込んで、刀を捨てて、鋤鍬を取ればいいではないか。
農民には農民の充実があるのだ。
なのに彼らがそうしないのは、
ひとつには田舎よりも都会で暮らしたいという見栄であり、
もうひとつは農民より武士のほうが
人間の質が上だという選民思想であり、
どっちにしても自尊心だろう。
自尊心というのは、
単なる自意識であるうちは
美しくも崇高にもなるけれど、
他との比較にの転じたとたん
浅ましくなる。
自尊がそのまま他虐になるのだ。

当時余剰人員を抱えていた江戸幕府。
旗本は5千、御家人は1万5千。
この者たちに、住いを与えるためには、
江戸を拡大させるしかなかったのだ。

再建に使う木材の価格が高騰した時、
信綱は、領地川越から木材を提供して価格を下げるなと、
経済にも精通している。

大火で亡くなった10万ともいわれる亡骸を
葬るのに腐心するのも興味深い。
数が多すぎて、もはや埋葬など考えず、海へ流すほかないのでは、
という意見がある中、
信綱は、埋葬はやる。絶対にやる、と決意し、
「死者は、ねんごろに扱わねばならぬ。
それが政治(まつりごと)の心得じゃ」
それが目指したのは、心の区切りで、
いつまでも死体がそこにあるのでは、
生き残った者たちは思いを断つことができない。
埋葬というかたちで
人為的に、永遠に姿を消してやらなければ、
この世の生は先に進まず、復興ふの足どりも重くなる。

というわけで、埋葬、供養したのが回向院だという。
知らなかった。

城中にあった御三家の屋敷を城の外に出したのも、見事。
ことあるごとに首を突っ込んで来る御三家を遠ざけることで、
政務が円滑に進むようになった。
また、御三家の住民を順繰りに屋敷をあてがい、
江戸の拡大にも寄与した。
この交渉事の際、
若い水戸光圀(当時,光国)を論破する場面など、胸がすく。

大火で消失した地所を
新たに町割する好機ととらえ、
その中央に広小路を据えたのも見事。
遊郭を日本橋から吉原に移すための移動行列も面白い。

地震という災害を抱える日本の
復興について、様々な示唆を与えてくれる

松平信綱は67歳(満65歳)で老中在職のまま死去した。
最後まで政治家としての頭脳は衰えなかった。

本書には出てこないが、
家光は
「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、
我ほど果報の者はあるまじ。
右の手は讃岐(酒井忠勝)、
左の手は伊豆」と評し、
また「伊豆守のごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」
小姓に語ったという。
酒井忠勝は阿部忠秋に
「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。
あれは人間と申すものではない」と評している。
阿部忠秋は
「何事にもよらず信綱が言うことは速い。
自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、
2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、
信綱の申すことは料簡のうちにある」
とその才智を認めている。
これだけ多くの人々に評価されていながら、
人望は今ひとつで「才あれど徳なし」と評されてもいる。
これは信綱が茶の湯や歌会、舞、碁、将棋などを好まず、
生真面目に政務だけを行なっていたためともいわれている。
また信綱は下戸で酒を嗜まなかったといわれており、
ここにも一因している。
信綱の好きなことは、暇な時に
心を許した者を集めて政治などの話を問答することだったという。

家光の死の際に殉死しなかったことで非難されたが、
信綱が殉死しなかったのは、
家綱の補佐を家光から委託されていたためであり、
先代に御恩を蒙っている者が皆殉死したら
誰が徳川家を支えるのかと反論している。
論理的で、悪弊を退けた。

門井慶喜の“江戸もの”は、
面白くて、ためになる