地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

【帰還】日本の正教会信者のための記憶と追悼の教会が建てられる

2015-02-09 23:59:19 | 今日の御言葉
▼産経 2015.2.8 記事(北方領土の日 「2月7日」 )



特にお願いします。
どうか、わたしがあなたがたのところへ
早く帰れるように、祈ってください。

ヘブライ人への手紙/ 13章 19節
新約聖書 新共同訳




つつましい仕事から
離れてはいけません。

こういう仕事はだれもしようと
しないからです。


仕事が小さすぎるということは
ありません。


わたしたちはとても小さいので、
小さいやり方で物事を見ているのです。


たとえ、わたしたちがだれかのために、


ちょっとしたことをしたとしても、
全能の神は、すべてを
偉大なこととして見てくださいます。


偉大なことができる人たちは、
世の中にたくさんいます。


けれど、
つつましい仕事をする人たちは、
ほんとうに少ないのです。


マザーテレサ

(マザーテレサ『日々のことば』より)






★日本の正教会信者のための記憶と追悼の教会が建てられる
- News - 文化 -

◆The Voice of Russia (ボイス オブ ロシア) 2015年1月22日


今年、福岡県宗像市にロシア正教会の教会ができる予定。対馬海峡の沿岸部に位置する宗像市は、110年前の1905年5月、露日戦争を終結に導いた海戦の場となった。対馬沖海戦では、4830人のロシア人が命を落とした。ロシア海兵の遺体は、潮の流れに乗って宗像市近郊の浜辺に打ち上げられ、地元の漁師たちによって埋葬された。


日本人たちは、自分の国と戦った兵士であったにもかかわらず、仏教の原則に従ってロシア人兵士たちの遺骨を土に返した。宗像市の大島には、対馬沖海戦の慰霊碑が建立されている。そしてここに、アルタイの建築家たちが設計を担当した、木造の正教会の教会も建設される予定だ。

同プロジェクトを立ち上げたのは、フョードルさんという名の日本人。フョードルさんは、ロシア人女性と結婚し、キリスト教を受け入れ、ロシア名も授かった。教会の設計を担当することになったのは、アルタイのバルナウルにある建築スタジオの責任者ピョートル・アニシフォロフさん。アニシフォロフさんは、南極大陸の正教会の教会を設計した建築家として知られている。アニシフォロフさんは、宗像市の教会のための敷地が気に入ったという。日本から帰国したアニシフォロフさんは、次のように語っている。

「私は日本から帰ってきたばかりです。プロジェクトは既に合意を得て、敷地は正教会の教会のために特別に購入されました。これはロシアの木造建築となりますが、もちろん現地の気候状況と文化的伝統が考慮されます。教会のまわりは伝統的なロシア的概観となりますが、私たちは日本の習慣も考慮します。例えば日本人は教会に入る前に靴を脱ぎます。私たちはこの特性も考慮に入れました。また、現地の地震環境もそうです。教会は、アルタイ地方の杉で建てられることが決まりました。建築資材の準備は、近いうちにも始まります。教会はアルタイ地方で建設され、その後、解体されて、極東経由で日本へ運ばれます・それまでに日本では、地元の要求を考慮しながら基礎がつくられます。これは、記憶と追悼の教会となります。そしてこれは、対馬沖海戦で戦死したロシア海兵の記憶をとどめることへの貢献にもなるほか、今も彼らの墓を守り続けている日本人への感謝のしるしにもなります。私はこの依頼をすぐに受け入れました。なぜなら人間関係における情の深さや温かさは、私たちの世界で最も価値のある重要なものだからです。そしてこのようなヒューマニズムの非常に貴重な例は、大切に残し、後世に伝える必要があるからです。」

教会は、聖ニコライ・イポンスキー教会としてきよめられる。ニコライ・イポンスキーは、19世紀半ばに日本へ正教をもたらし、日本正教会を創建し、東京に復活大聖堂(ニコライ堂)を建設したロシアの宣教師だ。アニシフォロフさんは、今年の秋にも、宗像市に正教会の教会が出来上がるとの見方を示している。


| vostok@ruvr.ru





★日本海海戦で戦死したロシア水兵を
追悼し教会を日本で建立へ

◆ 2015年1月30日 ロシアNOW


日本海海戦で戦死したロシア水兵が葬られている日本の墓地の敷地内に、木造の正教教会が建立される。インテルファクス通信が、ロシースカヤ・ガゼータ・ウィークリー(シベリア版)の報道として伝えた。

アルタイ地方の設計事務所が担当

 教会建立は、アルタイ地方のピョートル・アニシフォロフ建設事務所の設計に基づいて行われる。敷地は既に、地元の信者たちにより買収、登記が済んでいる。信者の中には、ロシア出身者が少なくないという。

 建材には、アルタイ産のセイヨウスギを使う予定。シベリアのカラマツは、南極での教会建立に際しても使用されているが(このプロジェクトにも、同設計事務所が参加している)、日本の気候には合わないという。教会はまずバルナウル市で組み立てられ、分解された後、ウラジオストクに搬送される。

 教会の基礎部分は、日本人が建設する。地震の多発、強風、時化を考慮し、教会の高さは10m以下になる見込み。


(2015年1月30日 ロシアNOW)




▲読売新聞 1950年12月12日 (朝刊)

ソ連侵攻で31万人未帰還者。

(外務省発表)






【義人】スペイン・コリア「慶長遣欧使節」末裔 「私達は日本人」/高山右近 没後400年記念ミサ

2015-02-08 19:05:50 | Weblog



言っておくが、
あなたがたの義が律法学者や
ファリサイ派の人々の義に
まさっていなければ、
あなたがたは決して
天の国に入ることができない。


マタイによる福音書/ 05章 20節
新約聖書 新共同訳



自ら活動して、
他を動かしむるは水なり。

つねに己の進路を求めてやまざるは
水なり。

障害にあいて激しくその勢力を
百倍し得るは水なり、云々(うんぬん)。

黒田如水 ( 1546-1604)

(『水五則」)




『潮路はるかに』河北新報社
(写真はミュージカル「常長の祈り」より)



★スペイン・コリア「慶長遣欧使節」末裔 「私達は日本人」

◆NEWSポストセブン 2014年12月2日


スペイン南部、人口3万人ほどの小さな都市コリア・デル・リオ(以下、コリア)に、「サムライの末裔」と称するスペイン人が600人以上暮らしている。彼らの姓は「ハポン」(スペイン語で日本の意)。どんなルーツを持つのか。 * * * コリアに

スペイン南部、人口3万人ほどの小さな都市コリア・デル・リオ(以下、コリア)に、「サムライの末裔」と称するスペイン人が600人以上暮らしている。彼らの姓は「ハポン」(スペイン語で日本の意)。どんなルーツを持つのか。

* * *
コリアに暮らす「ハポン」姓のスペイン人は、約400年前に東北から海を渡った「慶長遣欧使節」の末裔とされる。慶長遣欧使節とは1613年10月に仙台藩主・伊達政宗がノビスパニア(メキシコ)との通商条約締結を求め、イスパニア(スペイン)国王及びローマ教皇の元に派遣した使節のことだ。

仙台藩士の支倉常長を大使とした約200人の一行は月浦(現・石巻)を出航し、3年がかりでメキシコ、スペイン、ローマを訪れた。この時、帰国せずスペインに留まった日本人がコリアに住み着き子孫を残したと考えられている。

『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産』(山川出版社刊)の著者で現地を調査した太田尚樹・東海大学名誉教授が語る。

「今も教会に残る名簿の調査などから、8人の日本人が残ったと考えられます。恐らく、現地の女性と恋に落ちたのでしょう。ハポン姓の人々はまさに『サムライの末裔』です」

現在、コリアに住むハポン姓の人々にとって、遥か遠い日本は郷愁の対象だ。

「現地の人々の合い言葉は 『ソモス・ハポネス!(私たちは日本人だ!)』。顔立ちや風貌に日本人の面影はもはやありませんが、誰もが真面目で努力家の日本人を尊敬し、ハポン姓であることを誇りに思っています」(太田氏)

ハポン氏たちは、祖先が出航した石巻が東日本大震災で大きな被害に見舞われたことに心を痛めているという。

一方、ハポン姓の謎をめぐる科学的調査も進む。昨年、日本の研究者らが複数のハポンさんから血液を採取。DNA鑑定の結果は今後、発表される予定だ。

※SAPIO2014年12月号



http://www.christiantoday.co.jp/articles/15229/20150203/takayama-ukon.htm


★高山右近 没後400年記念ミサ 金沢教会:石川

◆中日新聞(CHUNICHI Web) 2015年2月3日



▲高山右近をたたえる歌を口ずさむ参加者=金沢市広坂で

命尊んだ生涯学ぶ

キリシタン大名高山右近(一五五二~一六一五年)の殉教四百年を記念するミサが一日、金沢市広坂のカトリック金沢教会であり、集まった信者らや観光客らが、競争より人生や命を大切した右近の生きざまを学んだ。(沢井秀和)

右近が一六一四年に国外追放され、マニラで病死したのが殉教にあたるとして、日本のカトリック教会が最高位の「聖人」に次ぐ「福者(ふくしゃ)」に認められるようにローマ法王庁に働き掛けており、今年にも認定されるという期待が高まっている。

ミサは、没後四百年を迎える三日に、全国のミサが神戸市で開かれるのを前に、金沢教会が催した。参列者が列福を求める祈りをささげた後、右近賛歌を高らかに歌った。

続いて、金沢市出羽町の県立美術館で八日まで開かれている「高山右近とその時代」を企画した学芸第一課担当課長の村瀬博春さん(55)=美学・芸術学=が講演。禁教令が出たころには、右近の家臣らを中心に二千人の信者が金沢にいたと推測。「当時、加賀藩で殉教したことを伝える記録が今のところ見つかっていない。なぜ殉教者が極端に少ないのか」と問い掛けた。

仮説として「これまで命と向き合う生き方を貫いた右近が、家臣ら信者に殉教を禁じ、茶の湯に信仰の真理を見いだすように説得したのでは」と指摘。また「激しい競争原理にさらされる今日こそ、追放の身を選択した右近の真価が深い共感をもって理解されると確信している」と話した。

高山右近 現在の大阪府豊能町高山に生まれ、洗礼名はユスト(義の人)。黒田官兵衛、蒲生氏郷らに洗礼を勧めた。バテレン追放令が出た後も信仰を捨てず、1588年から加賀・前田家に26年間預けられ、金沢城の石垣の修復、高岡城(富山県高岡市)の縄張(設計)にかかわったとされる。

▼右近にちなむ舞踊が披露された慰霊祭=金沢市鳴和町で



右近しのび創作舞踊

金沢・鳴和の教会 孝藤流家元ら奉献


高山右近の没後四百年を前に、金沢市鳴和町の殉愛キリスト教会で一日、慰霊祭が開かれた。孝藤(たかふじ)流家元の孝藤まりこさんらによる右近の生涯を描いた創作舞踊の奉献などがあり、バテレン追放の苦境に遭っても信仰を貫いた故人をしのんだ。

慰霊祭には三十人が来場。教会の山県実牧師(71)が右近をたたえて作詞作曲した賛美歌などを歌った。

山県牧師は、右近が前田利家を頼って金沢に二十六年間住んでいたことを振り返った。宗派の違うカトリック教会で広がっている、右近を聖人に位置付けようとする運動に協調する考えも語った。

山県牧師は「権力者に屈せず、心の生き方を大切にした右近に学ぶことは今も多い。四百年を機に、あらためて魅力を発信したい」と力を込めた。

教会併設の茶室「右近庵(あん)」にはキリストの最後の晩餐(ばんさん)を描いた彫刻を展示。慰霊祭後、来場者が茶を楽しんだ。(福岡範行)


中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井




▲『新書太閤記』吉川英治 (写真)




▲北陸中日新聞 2014年8月8日

青山俊董 (愛知専門尼僧堂長)
2014.8.8 平成26年
今週のことば



【多くの実】後藤さん、湯川さんの解放を祈り、宗教を超えて集まった人たち

2015-02-08 06:23:33 | Weblog




はっきり言っておく。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。

だが、死ねば、多くの実を結ぶ。


ヨハネによる福音書/ 12章 24節
新約聖書 新共同訳




わたしたちにできることは、
さまざまな方法で、
彼らに手をさしのべ
続けることなのではないか。


後藤健二さん

(『もしも学校に行けたら』(汐文社))



★追悼 国際ジャーナリスト・後藤健二さん : 論説・コラム :

◆クリスチャントゥデイ 2015年2月3日

http://www.christiantoday.co.jp/articles/15221/20150203/memorial-message-journalist-kenji-goto.htm


国際ジャーナリストの後藤健二さんがイスラム国に殺害されたとみられる動画が、日本時間の2月1日早朝に公開されました。日本政府はこの動画が本物である可能性が高いとしています。これが事実であるならば、深い悲しみを覚えます。ここに、後藤さんのご家族に謹んで哀悼の意を表したいと思います。悲しみに沈むご家族の内に、主なるイエス・キリストが共にいて慰めと平安を下さいますように。

昨年10月末にシリアに渡航したとされる後藤さんからは、ちょうどその時期、毎月1回の掲載を予定していた連載コラムの最初の寄稿「戦争に行くという意味」を頂きました。これが最初で最後のコラムになってしまうとは、想像すらしていませんでした。

後藤さんの霊は、今、神様の御許(みもと)にあります。数カ月にわたる恐怖、不安から解放され、安らぎを得ていることでしょう。

「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(黙示録21:3~4)

聖書は、天国についてこのように語っています。後藤さんは、たくさん流した涙がぬぐい去られ、悲しみも嘆きもない場所にいるのだと思います。

しかし、この世に残された私たちには、それを知りつつも、後藤さんを失った悲しみが残ります。もう後藤さんにこの地上で会うことができないのか、彼の口から話を聞くことはできないのか、もう二度と別れの握手を交わすこともできないのか・・・。

後藤さん、どんなに苦しかったでしょう、どんなに寂しかったでしょう、どんなにつらかったでしょう、どんなに無念だったでしょう・・・。

昨年5月のインタビュー記事を何度も読み返しました。あの時もシリアに向かう前日でした。「今回は、今までで一番危険かもしれない」。そう言って、少し緊張した横顔を見せた彼を今も忘れません。それでも、数週間後に帰国した後藤さんは、いつものように時折SNSやメールを通して連絡をくれました。テレビでの出演も多く、元気で活躍している姿に安堵したものです。

別れ際はいつも「気をつけてくださいね。またお会いしましょうね」と声を掛けました。後藤さんは決まって「大丈夫。無理はしないから。またお会いしましょう」と笑顔を見せてくれました。そう、あのシリア入国前に見せた「必ず生きて帰りますけどね」と語ったあの笑顔です。誰にでも安心感を与えるような温かなあの笑顔に、もう会うこともできないと思うと、寂しさで胸が張り裂ける思いです。

インタビュー記事の中で、「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と語っていた後藤さんを思い出します。この言葉を話し終えた後、少しだけ寂しそうな顔をして、クスッと笑ったように見えました。昔のことを思い出して恥ずかしかったのか、それとも「そんなこと、起こるわけないだろう」と自答したのか・・・。

荒い岩砂漠の土の上にひざまずき、ナイフをかざされ、死を前に何を祈り、何を思ったのか・・・。今は、推測しかできませんが、少なくとも彼が最期に遺した「この内戦が早く終わってシリアに平和を・・・」という言葉に嘘はないと思います。

「関心を持ち続けてほしい。シリアで起こっていることは、『遠い国で起きていることで、われわれ日本人に関係ないこと』ではないということを忘れないでほしい。なぜ僕がカメラを向けたときに、シリアの人々は話をしてくれるのか? それは、彼らがその映像を通して、日本にいる人たちに訴えたいことがたくさんあるからなのです」と、多くの講演会で後藤さんは語っていました。

彼が命を懸けて伝えたかったのは、イスラム国の恐ろしさでも、政府への不満でもなく、「なぜ、こんなことが世界で起きてしまっているのかを真剣に考えてほしい」ということではないかと思うのです。「分かち合い・奉仕・愛」の気持ちが世界中の人にあれば、あんな残忍な事件は起きないはずです。われわれ一人ひとりにできること、それはあらゆる状況下で暮らす人々のことに「関心」を持ち続けること。そして、隣人を思い、祈ることだと思います。

「後藤さんはキリスト者ですか?」と、初めて聞いた時のことを思い出します。「そうです。不敬虔極まりないキリスト者ですが・・・」と、照れたように笑った顔。

後藤さん、あなたは不敬虔なキリスト者なんかじゃありません。立派なジャーナリストであり、立派なキリスト者でした。私たちは、あなたを誇りに思います。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)

後藤さんと天国で再会する日を期待して。新聖歌508番「神共に在(いま)して」を心静かに賛美します。

また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝身(ながみ)を離れざれ

(昨年5月に後藤健二さんをインタビューした本紙記者より)


★紛争地の子を取材、手をさしのべ続けた後藤さん : 社会 :

◆読売新聞(YOMIURI ONLINE)2015年02月02日 08時47分


法政二高(神奈川県)から法政大に進学し、学生時代はアメリカンフットボールに親しむスポーツマンだった。

卒業後は番組制作会社を経て、96年に映像通信会社「インデペンデント・プレス」(東京都港区)を設立。ソマリア、イラク、ルワンダなど中東やアフリカの紛争地で取材し、テレビのニュース番組でリポートしていた。

困難な環境に置かれた子供に焦点を当てた取材が多く、アフガニスタンの少女を追った著書「もしも学校に行けたら」(汐文社)のあとがきには「わたしたちにできることは、さまざまな方法で、彼らに手をさしのべ続けることなのではないか」と記している。

97年には洗礼を受けた。キリスト教徒向けのニュースサイト「クリスチャントゥデイ」に掲載された昨年5月のインタビュー記事では、その理由について「取材先で、ひとりで命を落とすような場合を考えた」と説明。小さな聖書を肌身離さず持ち歩き、「命を脅かす現場もあるが、必ず、神様は私を助けてくださる」などと語っていた。

2015年02月02日 08時47分 Copyright © The Yomiuri Shimbun




◆「イスラム国」拘束:後藤さんの解放祈る 官邸前に宗教者 - 毎日新聞

★毎日新聞 2015年01月27日 20時13分
(最終更新 01月27日 21時32分)




▲後藤健二さんの解放を祈る日本イスラム文化センターのクレイシ・ハールーン事務局長(中央)ら、宗教を超えて集まった人たち=東京都千代田区の首相官邸前で2015年1月27日午後1時23分、森田剛史撮影

後藤さんの命を救え--。国内のキリスト教、仏教、イスラム教の信徒約80人が27日、東京都内の首相官邸前に集まり、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)とみられるグループに拘束されている後藤健二さん(47)の解放を祈った。宗教や宗派を超えて呼び掛けた鈴木伶子(れいこ)さん(76)は「命や平和を重んじるのはどの宗教も同じ。後藤さんには元気に帰ってきてほしい」と訴えた。

鈴木さんは、後藤さんが通っていた代々木上原教会(東京都渋谷区)の信徒で、牧師や僧侶らによる「平和をつくり出す宗教者ネット」でも活動する。

10年ほど前、教会で後藤さんと知り合った。いつも穏やかで笑顔が印象的だったが、アフリカ・ルワンダの残虐な内戦を生き抜いた人たちの話をしてくれたこともあった。

後藤さんが先に拘束された湯川遥菜(はるな)さんを助けに向かったと聞いた。「人を助けるためつらい決断をしたのかもしれない。それだけに家族のためにも帰ってきてほしい」。どの宗教者も同じ思いだと考え、今回の行動を呼び掛けた。

官邸前では、キリスト教のプロテスタントの牧師やカトリックの神父、仏教の僧侶らが順にマイクを手に、聖書の一節を朗読したり、お経を唱えたりして、後藤さんの解放と世界の平和を祈った。

宗教法人日本イスラム文化センター(東京都豊島区)のメンバーでインド出身のムハンマド・ユスフさん(42)は、アラビア語で後藤さんの無事を祈り「罪のない人を殺してはいけないというのが神の教え。信仰があるなら早く解放してほしい」と訴えた。

パキスタン出身のクレイシ・ハールーン同センター事務局長(48)も「宗教は関係なく手伝いたいと思って来た。希望を持ちたい」と話した。【藤沢美由紀】




★「果敢な記者」人質に 後藤さん、
10月下旬に音信不通

◆朝日新聞 2015年1月20日22時14分




▲人質となったとみられる後藤健二さん=テレビ朝日から


人質となったとみられる後藤健二さん(47)は、報道で紛争地の実態を広めようとしていた。湯川遥菜さん(42)は「イスラム国」に拘束された後、消息がわからなくなっていた。知り合いだった2人が荒れた大地にひざまずかされ、黒覆面の男がナイフを持つ。インターネット上に20日投稿された卑劣な動画に関係者は無事を祈った。

「海外出張に行く。29日午前中に帰国する」。ジャーナリストの後藤健二さんと10年来の友人という愛知県豊田市の高校教諭、伊藤和正さん(43)が後藤さんからメールを受け取ったのは、昨年10月22日。その後、連絡が取れなくなった。

同月末に「世界の子どもたちは今 紛争取材の最前線から見えること」という題で子どもたちに話をしてもらう予定だった。「紛争地の子どもを一貫して取材していた。厳しい環境にいる子供たちの現実を伝えたいという思いを持っていた」。毎日、後藤さんの携帯に電話をかけ続ける。

後藤さんは番組制作会社を経て、1996年に映像通信会社「インデペンデント・プレス」(東京都港区)を設立した。フリージャーナリストの綿井健陽(たけはる)さん(43)は「後藤さんは90年代半ばから小型ビデオカメラを持って戦場や紛争地帯を取材していた。近年はシリアで果敢な取材をしており、尊敬していた」と言った。

「イスラム文化の理解が深まるよう発信を続けていた本人がこうした形になったことは複雑。無事を祈っています」。児童出版社「汐文社」(東京都千代田区)の編集者、門脇大さん(39)は言った。帰国中の後藤さんと昨年9月に会い、「イスラム国」も含めたシリアの現実を子どもたちに伝えるような児童書の執筆を依頼していた。

小中学校での出前授業で使う映像資料を制作したり、紛争地の現状などについて自ら講演したり。後藤さんは、世界の子どものために活動をする日本ユニセフ協会にも協力。協会を通じて、東日本大震災の被災地支援に取り組み、宮城県石巻市や気仙沼市で活動の記録係をしていた。

12月には出身地の仙台市でシリアの現状を伝える講演会を開く予定だった。協会の中井裕真広報室長は「途上国や紛争地で学校に行けなかったり兵士にさせられたりした子どもの現状を懸命に追いかけ、伝えていた。無事の帰国を祈りたい」。

シリアでの取材に同行したことがあるというシリア人のアラッディーン・アルズィームさん(34)は、10月24日に後藤さんと会って「イスラム国の支配地域へ行く」と聞いていた。「危険だ」と止めたが、「つてがある。行かなければならない」と語ったという。

キリスト教系ニュースサイト「クリスチャントゥデイ」(東京都千代田区)に後藤さんからメールが届いたのは、このころだった。イラク戦争の取材で米軍兵士に銃口を向けられた経験を書いたコラム「戦争に行くという意味」。戦場の兵士と市民の間に見えない一線があるとし、「『見えない一線』を越えてしまったら、命の保証はほとんどありません」とつづっていた。


■後藤健二さんの足取り
(※関係者の証言などによる)

2014年4月 シリアで取材中に湯川遥菜さんと知り合う。
その後、いったん帰国

10月2日 トルコ経由でシリアに再入国

3日 シリア北部で取材した動画をツイッターに投稿。
「イスラム国が街を取り囲み、攻撃を仕掛けています」と解説

6日ごろ 日本に帰国

8日 東京でテレビ番組に出演

22日 友人に「海外出張に行く。
29日午前中に帰国する」とメール
   
同日ごろ 日本を出国。シリアへ

23日 ツイッターへの投稿が途絶える

24日 日本のニュースサイトの担当者にコラムをメール送信
      
シリア北部で現地の関係者に「イスラム国に行く」と話す

25日 イスラム国の支配地域近くで別の現地関係者と会う


(朝日新聞 2015年1月20日22時14分)





2015.2.1 産経新聞号外
2015.2.7 産経新聞号外

【愛に歩みこと】進化論を信じぬ人たち

2015-02-06 20:32:14 | 今日の御言葉



愛とは、
御父の掟に従って
歩むことであり、

この掟とは、
あなたがたが
初めから聞いていたように、
愛に歩むことです。

ヨハネの手紙二/ 06節
(新約聖書 新共同訳)



あなたは
この世にのぞまれて生まれてきた
たいせつな人

あなたがなんであり
どこの国の人であろうと
金持ちであろうと
貧乏であろうと
それは問題ではありません。

あなたは
同じ神さまがおつくりになった
同じ神さまのこどもです。


マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)





▲『創造論の世界』久保有政 (徳間書店)

聖書から生まれた先端科学

★進化論を信じぬ人たち - 西日本新聞

◆2015年02月05日
(最終更新 2015年02月05日 17時15分)


米国人の31%が「人間と他の生物は最初から現在の姿で存在してきた」と考えているという結果を、米世論調査機関ピュー・リサーチセンターが発表した。また24%が「人間の進化が神によって導かれた」と信じている。

米国ではかつて、公立学校でダーウィンの進化論を教えるかどうか、あるいは神による創造論を基にした創造科学を教えるかどうかをめぐり、論争が続いた。テネシー州やアーカンソー州の反進化論法が違憲と判断された後も、両方を教える授業時間均等法をつくる州が出現。1980年代に「創造科学は科学でない」という判断が出て、やっと決着した。

だが近年は、生命がより高次の知的存在によって設計されたとする考え方が生まれ、これを提唱しているキリスト教保守派が教育に取り入れることを要求している。

同センターの一昨年の調査では民主党支持者の67%が進化論を信じていたが、共和党支持者は43%。科学研究の最先端でありながら、市民レベルでは信仰や政治信条が科学の判断基準の基となる不思議な国だ。 (井手)



▲『荒れ野の40年』ワイツゼッカー(写真)

★ワイツゼッカー氏 貫いた過去への眼差し:社説
・コラム(TOKYO Web)

◆東京新聞 2015年2月3日


ワイツゼッカー元独大統領が亡くなった。欧州連合(EU)の理念が揺らぐ今こそ、ドイツの負の歴史に常に向き合い、欧州の平和的統合を説き続けた象徴的指導者の言葉に耳を傾けたい。

祖父は州首相、父は外務次官、兄は著名な物理学者というドイツの名門。それでいて身に付いた気さくさ。政治家というより言葉による伝道師を思わせた。

「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」。よく知られる戦後四十周年の議会演説はその白眉だろう。政治活動の半面、生涯を通してドイツ福音主義信徒大会の指導的役割を担い続けた。数々の演説を貫く過去への眼差(まなざ)し、人道、平和主義に基づく現代社会への鋭い問いかけは、第二次大戦、冷戦体制崩壊という二つの「戦後」の復興を担ったキリスト教的価値観に立脚していた。

回想録「四つの時代」の中で、「キリスト教」の名前を冠している政党に入ることの意味を、ルターの教えに言及しながら「欠陥があるわれわれへの戒め」と述べているのも、その表れだ。

理想主義的な言動は、政治上の実質的な権限を担う政権内から折に触れて批判の対象となった。特に十六年の長期政権を通じ、絶大な権力を誇示したコール元首相とは度々衝突、大統領の退任後、党籍剥奪問題にまで発展したこともある。発覚したコール氏の金権体質を徹底して批判したのも大統領だった。

退任後は、国連の機構改革の委員に名を連ねる一方、ドイツ連邦軍改革委員長として軍縮小の改革案をまとめるなど活躍。中日新聞社主催の戦後五十年企画で一九九五年訪日するなど度々来日した。

九九年、二十世紀を総括する企画で本紙に登壇願った。ワイツゼッカー氏は、世界が今後直面する課題は政治的な民主主義、経済的な競争力、社会的な人間的紐帯(ちゅうたい)の三つをいかに共存させるかという点にあると指摘、欧州統合の理念はそこに至る歴史的な実験、との思いを語っていた。

「欧州が二十一世紀の世界にもたらし得る貢献の最大のものは、平和裏に統合を進めるプロセスとしてのEUだ」。すでに拡大、深化の大きな分岐点を迎えていたEUを語る口調には強い思いが込められていた。

欧州統合の危機は、統合の理念を語る指導者の不在に起因するといわれる。ワイツゼッカー氏の死去により欧州が喪(うしな)うものはあまりにも大きい。


(ワイツゼッカー氏 貫いた過去への眼差し:社説・コラム(TOKYO Web))



▲『黄金の拘束衣を着た首相』三橋貴明
(飛鳥新社)

<マクロ経済政策入門>
黄金の拘束衣を着た首相

【御子】イスラム国の蛮行で暴かれる「韓国が知られたくない恥史」

2015-02-02 22:32:49 | 今日の御言葉


万物は、天にあるものも
地にあるものも、

見えるものも見えないものも、
位も主権も、支配も権威も、
みな御子にあって造られたからである。

これらいっさいのものは、
御子によって造られ、
御子のために造られたのである。


‭コロサイ人への手紙‬ ‭1‬章16節
新約聖書 口語訳




あなた方が泣き悲しむ時、
そこには神様の悲しみが
あなた方と共にあります。

あなた方が無限に幸福を感ずる時、
神様もまた、無制限に
幸福を感ずるのです。

ですから私たちが
歓喜の勝利を得るために
前進を重ねる時、
神様もその時
喜びを感じておられることを
私たちは知るのです。

その神様の愛とその力で、
私たちは前進するのです。

私たちの前方には、
希望と喜びが、あるのみです。




▲石堂順子氏 (写真) 笑顔 !?


【野口裕之の軍事情勢】イスラム国の蛮行で暴かれる
「韓国が知られたくない恥史」


★産経新聞 2015年2月2日 06:00



▲1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、
金浦空軍基地に到着した
ダグラス・マッカーサー元帥を迎える
李承晩・韓国初代大統領(右)。

李氏はこのころ、
“危険分子”として大量の民間人や政治犯の処刑を命じ、
犠牲者は60万~120万人ともいわれる
 


イスラム過激武装集団《イスラム国》と韓国が、小欄の頭の中で混ざり合った。両者に共通するのは「民主主義とは異質な法治体系」の他「歴史への常軌を逸した執着」ではないか。片や歴史を遡り、現代の主権国家枠を否定。片や歴史を遡り、主権を捏造し人権否定を覆い隠す。と、考えを整理していた1月23日、イスラム国の蛮行がきっかけで、日韓併合(1910年)の正統性や、百ウン十万と報じられてもいる韓国政府が行った自国民大虐殺など、「韓国が知られたくない哀史/恥史」へと筆を走らせる仕儀と成った。

独立認めなかった米国

 1月23日。イスラム国が拘束したジャーナリスト、後藤健二氏(47)のご母堂(78)は会見で、父親が日韓併合時代、朝鮮・馬山(マサン)に駐屯した大日本帝國陸軍の部隊長だった旨示唆した。調べると、朝鮮軍管区の馬山駐屯直轄部隊指揮官(中佐)がご母堂と同姓だったが、追加取材はしなかった。小欄の興味は、会見が誘った朝鮮軍管区を通して思い出した「韓国の哀しい生い立ち」にある。


https://mobile.twitter.com/kohyu1952

 大日本帝國は1945年8月15日、大東亜戦争(1941~45年)敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂う朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ聯軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。だが、自治組織に過ぎぬ委員会は45年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。

 一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875~1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886~1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。

 しかし“独立宣言”直後、進駐した米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-

 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。軍政に正当性を持たせた。朝鮮が別国家ならば解放したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。従って終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。上陸後も、日本人官吏は相当期間軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景も在った。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-



強弁だけの「抗日戦」

 統治能力欠落や、度を超した自己主張、激高しやすい民族性に加え、偏狭な民族主義者や共産主義者が入り乱れ、一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など。こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。実際45年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。そも朝鮮人民共和国ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様。

 斯くなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ聯軍に対する力の均衡維持は覚束ない。米国の最重要課題はソ聯の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。

 しかも朝鮮人は戦前~戦中~戦後と、日本に向けまともなゲリラ抗戦も民族蜂起も起こしていない。むしろ帝國陸軍内の朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。42年と43年の場合、募集各4000/6000名に25万5000と30万人超が受験。競争倍率63/50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。

 韓国が「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」と強弁しようと、独立は日本敗戦3年後。米国は聯合国による長期の半島信託統治を描いたが、北朝鮮に統一国家を建設する動きを見せたソ聯に対抗、韓国の独立実施を大きく前倒しした。日本ではなく、日本に勝った米国に棚ぼた式で譲ってもらったのだ。



無辜の民を大虐殺

 哀れ韓国は「歴史の不完全燃焼」に身悶えるだけでコンプレックスを癒やせない。制御不能な嫉妬の炎は“歴史の新作”を次々ひねり出すエネルギー源と化す。半面、取り憑かれたような情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たない。韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける。

 《国民保導連盟事件》も反日の激しさで埋没させたい超弩級の傷。会見で具体名が出た「馬山」も事件の舞台だった。

 保導連盟とは、共産主義者が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられた思想保護観察組織。ところが、朝鮮戦争(1950~53年休戦)勃発で連盟加入者名簿は虐殺リストに変わる。北朝鮮軍がソウルに迫るや初代大統領・李承晩(イ・スンマン)大統領(1875~1965年)は国民や韓国軍将兵を見捨てて逃亡。その際、連盟登録者を“危険分子”として処刑するよう軍・官憲に命じた。北朝鮮側間諜が紛れた可能性は有るが、大多数は無辜の民。食料の優先受給目的で登録した人もいた。政治犯ら政権に目障りな人々もついでに抹殺された。韓国紙によれば60万~120万人、政府も《子供を含む最低10万人以上》の国民を虐殺し、排水溝や海に遺棄した暴挙を認めた。馬山でも廃坑や刑務所内で殺戮が行われた。

 おびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座った。そうか。(南北)朝鮮とイスラム国の最大の共通項は凶暴で残忍。であるが故に大量の死者・棄民を輩出しても心痛まぬ思考回路。まだある。日本を歴史捏造でいたぶり、つきまとって離さぬ韓国。日本人を拉致・誘拐する北朝鮮とイスラム国。わが国を「解放」でじらす外道ぶりはソックリだ。

(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)



▲『韓国の悲劇』小室直樹 (写真)


http://www.sankei.com/premium/news/150202/prm1502020007-n1.html