報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

取材準備:覚悟

2005年03月13日 20時26分13秒 | 報道写真家から
 そんなもの、できるわけがない。
 もちろん、死ぬ覚悟のことだ。
 豊かな国で生まれ育った者が、死ぬ覚悟などできるわけがないのだ。
 そもそも死ぬ覚悟というのは、自覚できる類のものではないと思う。

 宮本武蔵は、常に死の覚悟を持つために、細い紐で巨岩を天井から吊るし、その下で毎晩寝たと伝えられている。単なる伝説だろう。はたして、それで、死の覚悟ができるかどうかもあやしい。おそらく、たとえ武蔵といえども、死の覚悟を持とうと思えば、そのくらいしなければならなかったはずだ、という後世の作り話だろう。

 豊かで不自由ない暮らしをしている日本人が、ちょっと戦場で写真を撮ったくらいで、死ぬ覚悟などできはしないのだ。
 ただし、こう言うことはできる。
 死ぬ覚悟ができたと、本気で「錯覚する」ことはできると。
 本気で錯覚しているので、本人にとって、それは「事実」に思えるだけなのだ。それだけの話だ。しかし、死に直面したとき、それが単なる錯覚であったことを思い知らされる。

 僕自身がそういう「錯覚」に陥っていた時期がある。
 どのようにして、そうしたマヌケな錯覚に陥っていったのか。
 僕の場合は、空襲やロケット弾の飛来が、一番効果があった。
 いわば目の前で戦争が行われているのに、怖くなかったからだ。本能的な防衛本能は働くが、心理的な恐怖心はなかった。そこが落とし穴だ。戦争を知らない日本人が、空襲やロケット攻撃を目にしても、まったく「現実感」がなかっただけの話なのだ。天敵のいない南極のアデリーペンギンが、人間を恐れないのと同じだ。アデリーペンギンは、勇気があるから人間を怖れないのではない。
 しかし、残念ながら人間は、恐怖心の湧かない理由を、おのれの勇気と勘違いしてしまう。それは、100%勘違いなのだ。しかし、本人は気づかない。
 そして、いつしか僕はこうつぶやく。
「オレは死ぬ覚悟ができている」と。
 バタバタした程度の現場ばかりなら、ずっと錯覚したままで一生を終えただろう。
 だが、はるかにシリアスな状況に直面し、間違いなく自分は死ぬと悟ったとき、恐怖に凍りつく。覚悟のかの字もない。

 99年に東ティモールでそういう体験をした。
 独立の是非を問う住民投票を3日後に控えたときだった。
 泊めてもらっていた独立派幹部の家が、武装民兵に襲撃された。インドネシア国軍特殊部隊コパスス2名によって指揮された民兵9名は、自動小銃や刀で武装し、悠々と襲撃にやってきた。その場にいた我々は散り散りになり、家の中に飛び込んだ。
 襲撃者は、家にガソリンを撒いて火をつけた。我々は、家に閉じ込められた。しばらくすると、激しい銃撃がはじまった。家の周りで、ほんものの自動小銃が乱射されているのだ。家の中にも次々と撃ち込まれた。
 これで助かる余地があるなどと思えるわけがなかった。僕はベッドの下で、死の恐怖に心臓が凍りついていた。死は逃れようのない確定的な未来だった。僕はただ死ぬのを待っていた。僕だけではない。家のあちこちに孤立して潜んでいた人はみな同じだった。後々のインタビューで「あのとき(逃れる)何の希望もなかった。ただ殺されるのを待っていた」と、誰もが口にした。我々には、死がはっきり目の前に見えていた。
 頭に浮かぶのは”生きたい!生きたい!生きたい!”ただそれだけだった。しかし、生きる望みなど微塵もない。外の銃撃は鳴り止むことがなかった。襲撃はまる一時間にもおよんだ。戦争でもないのに、民家一軒を襲撃するのに、襲撃者はおそらく1000発以上の銃弾を消費したはずだ。異常と言うしかない。
 東ティモールの独立を望まないインドネシア政府、国軍、警察、民兵は四位一体の強力な体制をとっていた。つまり、この襲撃を止めようという機関はないということだ。我々には、助けなど来ないことがわかっていた。

 この襲撃の中、家長のヴェリッシモ氏65歳が、民兵数人と格闘し、刀で滅多切りにあって惨殺された。この襲撃のとき、家の中には、僕を含めて8人が潜んでいた。しかし、我々は散り散りになり、互いのことがまったくわからなかった。ひとりひとりが、どん底の恐怖の中で、ただ、死の到来を待っていた。
 もし、家が木造だったら、我々は炙り出され、穴だらけになっていただろう。しかし、家は火に耐えた。おそらく襲撃者は、家の中に8人も人がいるとは知らなかったのだろう。最大のターゲットであるヴェリッシモ氏を殺害したことで、満足したのかもしれない。一時間後、特殊部隊に率いられた武装民兵は、凱旋を上げながらトラックで現場を去った。ヴェリッシモ氏を除く、我々7人は生き延びた。

 いずれ、この話は詳しく書くつもりだが、5年経っても、いまだに書けない。とても長い物語になるだろう。

 今の僕は、日本で最も死を怖れるカメラマンのひとりだと思う。
 一時間も死を待ち続けたのだ。
 二度と同じ体験などしたくない。
 次は、きっと心臓が止まるだろう。
 あの恐怖に、二度耐えられる自信などない。

 この襲撃から一週間後、東ティモール全土で、インドネシア国軍、警察、民兵による苛烈な虐殺と焦土作戦がはじまった。ほんの二週間ほどのあいだに1000人から3000人が殺害された。そしてすべての町や村が焼きはらわれた。

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2 コメント

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死への恐怖 (redxspider)
2005-03-17 23:00:10
中司さんは、そんな怖い体験もしているのですね。

銃はハリウッド映画でやたら乱射されていますが、狙われたら怖いでしょうね。



私は、身内の二人が癌になり、一日違いで相次いで死んだとき、自分が癌になったらどうだろうと良く考えました。

病気と戦争は全く違いますが、癌になっていない今は、その立場になったら、静かに死んで生きたいなどと思っても、実際にはそうは行かないでしょうね。



銃を作って儲けている大会社がある限り、戦争はなくならないのでしょうか。
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回復 (中司)
2005-03-18 15:27:50
redxspiderさんへ

襲撃事件から数年間は、「ああ、半年生きた」、「1年生きた」と自然にカウントしていました。生きているだけで、ほかには何もいらないと本気で感じたものです。でも、今思えばそれはあまりいい状態だったとは言えないです。生きている喜びを過剰に意識するのは、その裏で、つねに死の恐怖を意識しているという歪んだ状態だったと思います。変な言い方ですが、生きていることに感謝しなくなって、ようやく普通の人間にもどれたように思います。いまでは、怠けたいときは、思いっきり怠けるまでに回復しました。少し回復しすぎたきらいはありますが。
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