報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

東ティモール:大合唱の中で鳴く蚊

2006年07月19日 22時54分43秒 | ■東ティモール暴動
東ティモールのことを書き続けているが、僕はここで証拠を提示しようとか、あるいは、何かを証明しようなどとは思っていない。証拠を提示したり、証明できればいいが、現実はそんなに甘くはない。永遠に現れない証拠を探しそうとするのは徒労だ。強引に証明と称したりするのは欺瞞だ。

東ティモールで暴動が発生し、オーストラリア政府に軍隊の派遣が要請された瞬間、すべては明らかになったも同然なのだ。東ティモールはミニミニ・イラクであり、オーストラリアはミニミニ・アメリカなのだ。

しかし、それを証明する証拠や手立てはどこにもない。では、黙っているのか。そういう人もいるかもしれない。証拠がないんじゃあ、どうしようもないじゃないか、と。はたして、そうだろうか。証明ごっこというゲームをしているわけではないのだ。そこにいるのは、われわれとまったく同じ人間なのだ。

われわれには、一定の条件付けがある。”証拠を見るまでは信じない”という条件づけだ。

僕は、”すべてを疑え”といつも言っている。だが”証拠を見るまで信じるな”と言ったことはない。”すべてを疑え”とは”証拠さえも疑え”ということだ。世界が「大量破壊兵器の証拠」を信じたために、何十万というイラク市民の命が奪われた。

では、証拠のないものは、もっと疑えということになる。いや、そうではないのだ。別にレトリックで遊んでいるわけではない。

僕は、証拠や証明を軽んじているわけではない。しかし、いままさに、多くの人々の生活や命が脅かされているときに、そうした証拠の探査などという優雅な行為は、敵を益するだけなのだ。

僕を含め、これまで記事を引用してきた人々は、決して「決定的証拠」を握っているわけではない。にもかかわらず、彼らは書いた。世界の有力メディアが反アルカティリの大合唱をし、オーストラリアを救世主と称えているこの時期に、まったく相反することを述べるのは、とても危険なことだ。

デマゴーグだ、陰謀論者だ、とレッテルを張られかねない。そうなればその後の活動に支障をきたすかもしれない。それでも彼らが書いたのは、僕と同じ気持ちだからだと思う。

いままさに、人々の生活や命や未来が脅かされているからだ。いま書かなければいつ書くのか、と。

われわれが艱難辛苦の後”やっと証拠をつかんだぞ!”と高らかに叫んだとき、すでに未来は奪われたあとかもしれないのだ。

では、証拠もないのに、何を頼りに信じればいいのか。残念ながら、普遍的な指針はどこにも存在しない。しかし、こう言うことはできる。指針などないところで、指針になるものを求めようとするから、いとも簡単に操作されてしまうのだ、と。

メディアの大合唱を信じるか、蚊の鳴くようなわれわれの言葉を信じるかは、自由だ。

最後に、もうひとつだけ。大手メディアは、マリ・アルカティリ前首相が「独裁者である」という証拠はいっさい提示していない。そのように大合唱しているにすぎないのだ。