kyon's日誌

つれづれに・・・

「家」という存在感

2013年09月30日 | 日記
朝夕が涼しくなって、寒いと嘆く日が多くなりそうだね(笑)
人は贅沢だ。
暑けりゃ暑いと愚痴り、寒けりゃ寒いと筋肉だけでなく気持までが萎む。
同じような贅沢感は身の回りに沢山ある。
いつもいつもテンションを高くして生きていられるだけのパワーは私には無いなぁ~とつくづく思う。この少なめのエネルギーを如何に細く長く続けて行くかが毎度の課題~(笑)

先だって能代で2時間ばかり、墓参りに帰省した友人と会った。
お互いに物々交換のお土産(笑)
久しぶりだねぇ~から始まって、話すうちに、墓参りまでして来たのに、空き家状態の実家に寄って風通しして来るのをスッカリ忘れて来た・・・と。
お墓に行く途中に我が家があるのに「寄る」という行為自体を忘れてたんだよ、オカシイべ?と。
思えば、それだけ頭の中にも心の中にも「家」という存在感が無くなってしまったんだなぁと・・・何だかとても奇妙な感じがした・・・と。

なんと、一体、何しに行ったのかねぇ・・・相槌を打ちながら、私にも奇妙に感じられた。
「家」の存在そのものが記憶から消失してしまったという、違和感?
そんな事があるんかねぇ~・・・
少なくても、自分が生まれ育った家なのだ。
母上を引き取って施設に入れるまでの数年以前に、そこに母上が一人暮ししていた家なのだ。
生活用具もそのままあるのに、だ。
失念したというより、存在そのものを意識出来なかったという事実に彼女は打ちのめされたかのようであった。そして、そこに一人で泊ろうとも泊まりたいとも一切思えなかったと。
完全に自分にとっての「家」ではなくなっていたんだなぁと感じたらしい。

彼女の話はこれから先、自分にとっても母が居なくなったら、あの実家はどうするのかという漠然とした自分の将来にも似た状況に思えた。
私にもいつかそうなる日が来るんだろうか?

自分の帰りたいと思うのは、家なのか?、親なのか?

東京から長期休みや盆暮れに帰省する時に自分は思っていた。
帰る所があるというのは幸せなことなんだなぁ~と。
それを「故郷」とボンヤリ思ってただけで、実は自分が青春を過ごした場所でそこに家があって、親兄弟が居るからだと頭の中で単純に思ってただけだった。
けれど、
結婚し、子供らが居て、何十年も親元を離れ・・・

つまり親とは違う環境の違う空間が自分の居場所になっている訳で、
実家というのは単純にそこに親が住んでいるからな訳で、
その住み主が居なくなったら、そこはタダの「家」という「箱」に過ぎないのかしらね?
自分は青森は津軽で生まれ、数年そこで暮らし、能代に10年弱の学生時代だけを過ごし、東京に4年、以後はずっと秋田市だ。
今、住んでる秋田市が一番長く過ごしている場所で、
この秋田市内でさえ、幾つも住居を変えている。
自分が今現在暮す場所が帰る所には違いない。

「国」とは、実は「人」なんだという言葉もある。
大事な人が何処に住んでいても、その人が居る場所が故郷であり「家」なのではないかとも思えるが、果たして本当にそうなのか?
見慣れた風景、気づかないくらいに当たり前な空気、空間。
使い込んだ道具の数々、思い出の写真・・・
それらも「家」という箱に無くてはならないもので・・・

母はあの家に思い入れがある。
あの家で死にたいとも言う。
その後のことを不安がる。
母と同じ所でずっと暮らして来ていない自分。

よもや、あの家が自分の記憶から抹消される事は無いだろうが、友人の言葉にはつい考えさせられてしまったのだった。
コメント (6)
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