先だっての台風が太平洋側に大きく逸れてくれたのでホッとした事だったが、
その前からたて続けに台風の被害がニュースに流れたりしてた・・・・そのせいもあるのかな?
竜飛岬の下・・・海底トンネルの話も出たことがあった・・・・それもあるかな?
私の生まれた時が明け方で・・・とは聞いていたが、何処で?・・・という質問に、ハテ?!
アラマ、忘れたんかい?場所は?などと・・・それもあったかな?
とんでもない記憶を蘇らせてしまったようで・・・(笑)
話は1954年(昭和29年)9月26日に起こった台風15号による大事故。
死者1155名。
海上瞬間最大風速50mの強風に押し流され、エンジン故障。
七重浜で転覆、沈没した青函連絡船「洞爺丸」の記憶。
水上勉著の「飢餓海峡」などで知ってはいたが、私自身には全く関係は無く、大変な事故がベースでこんな物語が出来たんだなぁ・・という一読者でしかなかった。
だいたい、私は28年生まれだしね、赤ん坊な訳で、記憶なんかある訳ない~。
まさか母の背に負ぶわれて、乗り損なった連絡船だったとは想像もつかない。
もしかして、
その連絡船に乗っていたら、私も母もその時はまだ生まれていない妹もこの世に存在していなかった・・・っつう。
およよよ!!!・・・と驚いたのなんの!
母は幼い私を連れてその時、函館の連絡船乗り場で乗船を待っていた。
小さな村役場の職員だった父が、組合の会合で函館に行くはずだったが、父は何を思ったか母にも函館を見せたいと思ったのかもしれなく、母を代理で行かせた。
けれど何しろ私が赤ん坊、一緒に連れて行かざるを得ない(笑)
母と私は組合の方々と一緒にその旅に同行していた。
母は几帳面なところがある。何でも早め早めに動く。だから、乗船する船にも遅れないようにと子連れで焦っていたのかもしれない。
その日は、何故か朝から私がよく泣くんだそうで、同行していた組合長さんもな~してこんなに泣くかなぁ~と心配してくれたらしい。
普段からあまり泣く子で無かったらしい。手間の掛からぬ子だったんかね?(笑)
しかし、その日は背中で私がダメダメと母の背を叩いて泣くんだとか。
今にして思えば、不思議だったんだよなぁ。
泣かない子のお前がとにかく宿を出る時からずっと泣いて泣いて、ワダシの背中でむずがって私を叩きながら泣くんだもの・・・行くなと言ってるみたいだったんだけど・・・と母。
折しも台風が接近・・・という事態ではあったが、当時は気象衛星なんて無い時代。
ところが、一緒に乗船するはずの組合長さんが遅れていて、中々来ない。
そこへ、宿の人が台風が近づいてし雨風も強くなってきたし、今夜も一泊して様子をみた方がいいと迎えに来たという。
私も泣き続けているし、肝心の組合長は来ないしと、困り果てた母は、言われるままにまた宿に戻ったのだという。
で、その乗るはずだった「洞爺丸」・・・もしも乗っていたら・・・
へぇぇぇぇぇ・・・・人生には不思議な事もあるものだ。。。。
ちょっと直ぐには信じられないような事を思い出せてしまった(笑)
私には記憶は無いし、物語を聞くような気分でしか聞けないのだけれど(笑)
この事故が、今の青函トンネルが出来ることに繋がっていくようだが。
私には過去の悲惨な災害事故でしかない訳だけど、
その時間の一端に、母と赤ん坊の私も共有していた時間があったのかというリアル感に驚く。
九死に一生の母が津軽に戻った時、父の優しくない憎まれ口の記憶の方が、実際は大きなショックだったようで(笑)、あの言葉は今でも忘れないっ!
母の目は今でも怒りにギンっと見開く(笑)
・・・何と言ったかは、、、ま、言わぬが花(笑)
あぃやぁ~~んだのがい?!
そぃはオヤジもひでぇなぁ~~・・・同情このうえなし(笑)
その前からたて続けに台風の被害がニュースに流れたりしてた・・・・そのせいもあるのかな?
竜飛岬の下・・・海底トンネルの話も出たことがあった・・・・それもあるかな?
私の生まれた時が明け方で・・・とは聞いていたが、何処で?・・・という質問に、ハテ?!
アラマ、忘れたんかい?場所は?などと・・・それもあったかな?
とんでもない記憶を蘇らせてしまったようで・・・(笑)
話は1954年(昭和29年)9月26日に起こった台風15号による大事故。
死者1155名。
海上瞬間最大風速50mの強風に押し流され、エンジン故障。
七重浜で転覆、沈没した青函連絡船「洞爺丸」の記憶。
水上勉著の「飢餓海峡」などで知ってはいたが、私自身には全く関係は無く、大変な事故がベースでこんな物語が出来たんだなぁ・・という一読者でしかなかった。
だいたい、私は28年生まれだしね、赤ん坊な訳で、記憶なんかある訳ない~。
まさか母の背に負ぶわれて、乗り損なった連絡船だったとは想像もつかない。
もしかして、
その連絡船に乗っていたら、私も母もその時はまだ生まれていない妹もこの世に存在していなかった・・・っつう。
およよよ!!!・・・と驚いたのなんの!
母は幼い私を連れてその時、函館の連絡船乗り場で乗船を待っていた。
小さな村役場の職員だった父が、組合の会合で函館に行くはずだったが、父は何を思ったか母にも函館を見せたいと思ったのかもしれなく、母を代理で行かせた。
けれど何しろ私が赤ん坊、一緒に連れて行かざるを得ない(笑)
母と私は組合の方々と一緒にその旅に同行していた。
母は几帳面なところがある。何でも早め早めに動く。だから、乗船する船にも遅れないようにと子連れで焦っていたのかもしれない。
その日は、何故か朝から私がよく泣くんだそうで、同行していた組合長さんもな~してこんなに泣くかなぁ~と心配してくれたらしい。
普段からあまり泣く子で無かったらしい。手間の掛からぬ子だったんかね?(笑)
しかし、その日は背中で私がダメダメと母の背を叩いて泣くんだとか。
今にして思えば、不思議だったんだよなぁ。
泣かない子のお前がとにかく宿を出る時からずっと泣いて泣いて、ワダシの背中でむずがって私を叩きながら泣くんだもの・・・行くなと言ってるみたいだったんだけど・・・と母。
折しも台風が接近・・・という事態ではあったが、当時は気象衛星なんて無い時代。
ところが、一緒に乗船するはずの組合長さんが遅れていて、中々来ない。
そこへ、宿の人が台風が近づいてし雨風も強くなってきたし、今夜も一泊して様子をみた方がいいと迎えに来たという。
私も泣き続けているし、肝心の組合長は来ないしと、困り果てた母は、言われるままにまた宿に戻ったのだという。
で、その乗るはずだった「洞爺丸」・・・もしも乗っていたら・・・
へぇぇぇぇぇ・・・・人生には不思議な事もあるものだ。。。。
ちょっと直ぐには信じられないような事を思い出せてしまった(笑)
私には記憶は無いし、物語を聞くような気分でしか聞けないのだけれど(笑)
この事故が、今の青函トンネルが出来ることに繋がっていくようだが。
私には過去の悲惨な災害事故でしかない訳だけど、
その時間の一端に、母と赤ん坊の私も共有していた時間があったのかというリアル感に驚く。
九死に一生の母が津軽に戻った時、父の優しくない憎まれ口の記憶の方が、実際は大きなショックだったようで(笑)、あの言葉は今でも忘れないっ!
母の目は今でも怒りにギンっと見開く(笑)
・・・何と言ったかは、、、ま、言わぬが花(笑)
あぃやぁ~~んだのがい?!
そぃはオヤジもひでぇなぁ~~・・・同情このうえなし(笑)