二条河原の楽書

京都サンガF.C.を中心にJリーグを楽な感じで綴るサッカー忘備録(予定)

ユース出身選手の巣立ち

2016-01-11 | 蹴球
 2015年オフ、京都に激震が走った。
 アカデミー出身、地元出身でクラブの象徴的な存在だった駒井善成をはじめ、宮吉拓実、伊藤優汰、原川力の4名がJ1クラブへ移籍。杉本大地も期限付き移籍する。

「どういうことだ!?育成型クラブじゃなかったのか」
とか何とかいう前に、育成型クラブとは何なのかをもう一度考えてみたい。
(※無駄に長い駄文となっておりますので、ご了承ください)


■育成型クラブとは
 そもそも「育成型クラブ」とは何だろう?例えばコンサドーレ札幌は育成型クラブに当てはまりそうだ。道内からスカウトしたプロの卵たちを育てながらユース年代を戦い、継続的にトップに昇格させて戦力にしてきた。選手紹介時にドームの大型ビジョンに「札幌市」とか出身地を付けて道産子をアピールするのもステキな演出。「育成型クラブ」と聞いて真っ先に思い浮かぶのがこの札幌と、東京ヴェルディ(ヴェルディも都内出身アピールがある)と、梅崎・西川・東・清武らを輩出した大分トリニータあたりだろうか。

 では、京都は育成型クラブとしてどうなのか。まずは歴史をひもとくことから始めよう。現在に目を向けるとき、歴史を学ぶことはとても重要だ。


■スカラー・アスリート・プロジェクト
 京都が「選手育成」に舵を切ったのは2005年のこと。当時全権監督だった柱谷幸一(現・ギラヴァンツ北九州監督)が、稲盛和夫名誉会長に、「選手を買うたけでなく、若い優秀な人材を自前で育てていく必要がある」ということを進言したことに始まる。こうしてアカデミー制度の拡充が始まった訳だが、モデルケースはサンフレッチェ広島。全寮制で皆が同じ高校に通うという「サッカーに没頭できる環境」を用意して選手を育成し、2004年にはクラブユースと高円宮杯全日本ユースの2冠を制した“ユース界の雄”である。その時のメンバーが凄い。エースは前俊こと前田俊介で、森脇良太、柏木陽介、槙野智章らが黄金時代を築いた。

 京都は、それをパクった。いや、参考にした。いやいや、さらに発展させた。参考にするにあたり柱谷幸一が招聘したのが、槙野らの世代の広島のジュニアユースを率いていた上野展裕(現・レノファ山口監督)。上野を育成部門の統括として始まった育成システムは「スカラー・アスリート・プロジェクト(以下SAP)」と名付けられ、広島より一歩踏み込んだシステムを構築する。京都サンガ=京セラ=学校法人立命館という産学提携でお金と環境を提供し合う形で、「サッカーをしやすい環境・きちんと学べる場・進路のケア」という理想的な育成環境が整った。


■第1世代たち
 実際に第1期の育成が始まったのは、2006年度から。すぐにはプロは出ず、トップチーム昇格は4期生の駒井善成、伊藤優汰、下畠翔吾、山田俊毅の92年組(=2011年トップ昇格)まで待たなければならなかった。ただし、92年組にはSAPを飛び越してトップデビュー&プロ契約をしていた宮吉拓実がいた(2008年高校1年でプロデビュー)。

 ところで2000年代までの京都は、大金をはたいて有力な(あるいは知名度のある)選手を引っ張ってきては浮き沈みするクラブだった。これではいかん、と始まったSAPだったが、柱谷氏も上野氏も去り、再び金満補強で屋台骨を組み上げる加藤久GMの時代が到来する。それでも柱谷氏らの蒔いた種はきちんと育った。それが「育成型京都」の第1世代、駒井ら92年組だ。


■黄金期と翳り
 第1世代の彼らがトップに加わった2011年、舞台は降格1年目のJ2だった。監督は大木武。大木は絶対的エースながら自我の強いディエゴよりも、若手に積極的にチャンスを与える指揮官だった。戦術の浸透に時間がかかり成績は伸びなかったものの、選手は伸びた。宮吉は主力だったし、駒井や伊藤も使われた。最大の驚きは高校3年生(93年組)の久保裕也の抜擢。シーズン後半には快進撃が始まり、天皇杯を決勝まで駆け上がる。京都のアカデミー出身選手は、早くも黄金期を迎えようとしていた。

 黄金期は、1~2年後大輪の花を咲かせるんじゃないかとう予兆を感じさせた。駒井善成は先日、「(2012、13年の)J1昇格プレーオフで大分と徳島に負けた2試合は忘れられない。昇格していたら人生は変わっていた」と語っている。たらればになるが、2012年または13年に昇格できていたら、育成クラブとして大輪の花が咲き、実を結んだだろう。駒井個人だけでなく、クラブ自体の運命も大きく変わっていたことは想像できる。

 だが現実は厳しかった。2012年は最終節で3位に転落して失意のプレーオフ敗退。2013年はプレーオフ決勝一発勝負で涙を飲んだ。この間、育成第1世代で順調に伸びたのは駒井のみで、宮吉は怪我に悩まされ、伊藤は愛媛へレンタル、下畠はJFL佐川印刷にレンタル。山田俊はプロを引退。チームが“結果”を追求しはじめると、20歳前後の選手に高い壁がそびえてしまう。ただ、2012年に関しては高卒生え抜きの中村充孝や福村貴幸らが育ったし、久保は海外移籍の扉を開いた。

 久保はともかく、J2で活躍→J1鹿島移籍という道を辿った中村充孝が示したのは、「J2の枠内に収まらない若手はJ1に持っていかれる運命」だということ。育てては奪われ、育てては奪われ…という賽の河原状態こそが、実は「育成型クラブ」が避けては通れない道のりだ。冒頭に挙げた、札幌や東京Vや大分がそうだし、広島にしても、ユース黄金世代の選手は誰一人残っていない。


■暗転
 京都の場合は、久保を除き「育成第1世代」を失うことなく2014年を迎えた。92年組は4年目、93年組は3年目。年齢的にもプロとして主力を張らなければならない年だった。ところが、大木監督の後任として連れてきた監督は戦術レスのちゃらんぽらん。その後任も技術面は仕込めるが戦術は絶対的エースの大黒柱を立ててそこにボールを集めるだけだった。結局は「結果にコミットしようとベテランをたくさん連れてきたけどプレーオフ圏外」「ベテランが大きい顔して若手は頭打ち」という二兎追う者一兎も得ずの惨状。半年ごとに上司が代わり方針もブレブレの職場で経験の浅い若手社員が実力を発揮できるはずがないのである。そんな中でも主力を張り続けた駒井のサバイバル能力には舌を捲く。

 大失敗した2014年のオフは、体制をリセットするチャンスだった。何が何でも昇格ではなく、腰を据えて駒井、宮吉、伊藤らの育成第1世代+横谷、三平ら中堅世代を融合させたチーム作りに舵を切ることが望ましいと考えたファンも多かったはずだ。ところが今井社長(当時)は「本来強化を主導すべきではない人間」の意のままに、20代後半の中堅を一掃し、ベテランを多く抱え込むという異常なチーム編成をやってのけた。育成選手が収まるはずの器(チーム)の方が先に崩壊した。

 2015年、序盤から若手は使われたはしたもののベテランの優遇は変わらす。一方で1年目の奥川雅也を促成起用しては早々に海外移籍するなど「育成とは何ぞや?」ということを考えさせる事態が頻発した。ようやくアカデミー出身の選手たちが正当な競争の元で切磋琢磨できる状況になったのは、石丸監督の就任後のことだった。


■5年の賞味期限
 京都には「アカデミー出身選手は、5年は面倒を見る」という不文律のようなものがある。1年で引退した山田俊は例外的な昇格だったそうだが、とりあえず余所に貸してでも5年はサッカー選手であり続けるように面倒を見る。育成した選手に対する手厚い親心は、SAPの理念通りであり、美徳であり、そして甘さでもある。

 5年というのはJリーグで可能な最長契約年数で、23歳はトレーニングコンペンセーション (育成費)を受け取れることのできるリミットになる。“若手”で通用する23歳・5年目はいわば育成の賞味期限。当然ながら1年目より2年目、2年目より3年目、3年目より4年目…と出場機会を積み重ねていくのが理想なのだが、京都の場合、そういうキャリアを重ねたのは、プレにブレたトップチームの方針に付いていけた駒井だけ。当然ながらスタイルが一貫したチームほど、安定した育成に繋がりやすいのだが、京都は2014年~2015年にクラブとしてのスタイルを見失い、戦術よりも個の能力頼みのチームを編成してしまったことが痛恨の極みだった。経験がモノをいうサッカーを志向した時点で、「育成型クラブ」としては出口の見えない迷路に入ったようなものだった。

 賞味期限ギリギリの5年目の後半に、ようやく石丸監督が組織的なサッカーに着手し、連携や献身性が求められる中で、駒井、宮吉、伊藤、下畠らがチームの主軸となった。ようやく育成選手たちがトップを引っ張る形が見えた矢先で、クラブは史上最低の順位(J2-17位)でシーズンを終え、5年のリミットが訪れた。


■人生の分岐点
 アカデミーから育てた選手たちには、5年が経過した時点で人生の分岐点が訪れる。理想としては、欠かせない戦力として6年目以降もクラブの象徴するプレーヤーであり続けること。器を彩るメインディッシュに、看板メニューになることが望ましい。

 だが、残念ながら現状の京都は、J2下位のみすぼらしい器でしかないことが「現実」であることを受け入れなければならない。魚が育てばより大きな水槽が必要な訳で、結局はトップチーム自体がJ2にとどまっている以上、選手を大きく育てれば育てるほど、魚は水槽が飛び出してしまうのだ。

 今オフ、駒井が浦和(J1-3位)、宮吉が広島(J1王者)、原川が川崎(J1-6位)、伊藤が新潟(J1-15位)からオファーを受け、それぞれ移籍を決断した。すなわちそれは、彼らがJ1上位クラブが欲しがるほどのタレントであることの証であり、特に駒井と宮吉については「戦力」として計算されてのオファーである。二人が戦う舞台は日本のトップランクにとどまらず、アジアチャンピオンズリーグ、その先にはクラブワールドカップもある。既にスイスで活躍している久保を含め、「世界水準の人材を輩出する」ことは、SAPの目標のひとつ。世界へ通じる扉を開けるチャンスがあれば、そこに向かうのはプロとして当然のこと。柱谷氏の提言で始まった育成システムが輩出したい選手は、決してJ2レベルの選手ではないのだ。


■10年スパン
 SAPについては、広島ユースと一緒に取り上げられている2010年3月のJリーグニュースプラスVol.12をぜひ一読したい。その中に、こんな言葉がある。「本気で育成を志すなら、1年生が卒業を迎える3年間を1サイクルとして3サイクル分、すなわち10年ほどは我慢しなくてはならない。育成とはそれだけ時間のかかるものだ」。広島ユース三矢寮・稲田稔寮長(当時)から細川浩三(現・強化本部長)へのアドバイスだ。

 2006年にスタートしたSAPは、ちょうどその10年の区切りを迎えた。10年間の育成で育った選手は、スイス1部ヤングボーイズの久保裕也を筆頭に、J1浦和の駒井、J1広島の宮吉がこれに続く。「せっかく育てたのにクラブには残っていないじゃないか!」というかもしれないが、お手本にした広島の育成選手たちですら、より大きなクラブに奪われていったことを思えば、大きなクラブに買い取られることは1つの成功例と捉えることもできる。

 もちろん、若い頃からずっと成長していく姿を見続けてきた選手がクラブから去ることは、感情的にはつらいことだし、いつまでも手許で見ていたい気持ちもわかる。けれど彼らが「J2レベル」ではないことは、本当のファンならば一番理解できていることではないのだろうか。


■育成第2世代へ
 10年を終えたところで、第1世代の多くがチームを去った。このタイミングでクラブは大型補強を敢行。今、クラブが手を付けようとしていることは、「水槽」を大きくすることだ。J1レベルの選手が育ったら、そのまま泳げるくらいの大きな水槽を、新スタジアムのオープンの2018年までに構築することを目標に掲げる。

 主力となるべきだった若手が去ったあと、新チームですんなりスタメンを奪えるようなアカデミー出身選手は残念ながら見当たらない。筆頭格は讃岐から復帰したDF高橋祐治、鳥栖から復帰のFW田村亮介、2015年終盤にスタメンを掴んだDF下畠の3人だが、彼らにはぜひ新しい育成世代「育成第2世代」を切り拓いてもらいたい。駒井が、もがきながらも得意なプレーだけでなく労を惜しまぬ献身性を身に付け、何度も脱皮を繰り返したように、厳しい競争に身を投じることこそが、プロとしての成長を促す。ただし、同世代で固まりすぎる甘さは拭い去らなければならない。駒井が順調に伸びたのは、積極的に上の世代とコミュニケーションをはかれたという点と無関係ではない。


 柱谷氏が創設したSAPは、他クラブもうらやむほどの優れた育成システムであることに疑いはない。当然ながら、維持するにはお金もかかる。だが、これを継続すれば、素材がしっかり出てくることは、最初の10年が証明した。次の10年でより大きな果実を手にするためには、アカデミーで育てた選手が迷わないようなスタイル、ブレない方針をトップチームが持つことが何よりも重要になる。

 一見、育成クラブと相反する大型補強が、次の10年間ブレないスタイルの土台になることを期待している。