3年間にわたり京都サンガF.C.の指揮を執った大木武監督が退任した。
結果はともかく、個人的にはとてもとても楽しませてもらった。
せっかくなので、3年間の雑感をまとめておきたいと思う。(だらだら長いのであしからず)
■大木サッカーとは?
「即断」「即決」。――大木サッカーをひと言で表すならば、拙者はこんなふうに表現してみたい。この3年間、メディア等で京都のサッカーを形容する時によく使われたのは「パスサッカー」、「狭い」「クローズ」などなど。しかしそんなレッテルを貼ってしまうと、大木サッカーの本質を見失ってしまうんじゃないか、と思うのである。
祖母井GMをして「今まで見たことないような」と言わしめた特殊性とは何だったのか。その根底には、システムに頼ろうとしない個々の「即断」の連続、縛りのない自主性に最大の特徴があった、と考える。
■選択肢の多いサッカー
例えば、10の選択肢がある状況と、選択肢が2つに絞られた状況。どちらが判断スピードを速めることができるだろうか?―それはもちろん2択の方。選択肢を絞って業務を扶くために、「役割分担」や「決め事」というものは存在する。会社組織でもそうだし、サッカーでもそう。システマチックになればなるほど個人の選択肢や裁量は少なくなって、その分、業務に専念しやすい。
ところが、大木サッカーは役割(ポジション)を分担するのではなく共有し、決め事も少なかった。「サッカーに同じ場面は1つとしてなく、刻一刻と状況は変わるのだから、個々で判断せよ」という考え方。仕事に担当者を付けずに、その時一番素早く対応できる人がやってしまおう、ということだ。サッカーでは「トータルフットボール」と呼ばれ、その源流はヨハン・クライフのいた頃のオランダ代表に遡る。そして一歩間違えば、個々の裁量任せのアドリブサッカーになる。
■大木サッカーの理論
大木式トータルフットボールは、守備から始まる。発動点はごくシンプルなので、その時点での「即断」は難しくはない。原理原則は、
“ボールの一番近くにいる者が、当たりにいく”
ということ。いわゆるボールへのアプローチ、ファーストコンタクト。その際、ポジションを崩しても構わない。2番目に近い人は、次を予測して「囲む」「奪う」または「受ける」ためのフォローに入る。空いたポジションは誰かが埋める。それを同時多発的に起こせば相手を常に先回りできるが、どこかが遅れるとズレが生じて守備に「穴」が空いてしまう。
そこでフォローの動きを有効にするため、守備の網は狭めてしまおう。奪ったボール持ち出すためにその網を伝ってポンポンとパスで繋いでいこう。――理論上はこれで「奪う→攻撃」がスムーズに連動してゆくことになる。実際上手くハマた時は、「次々に人が湧いてくる」(by岡山・影山雅永監督)状態を見せてくれた。
2012年5月20日第15節岡山戦後の影山監督コメント
「ただ、京都のボールポゼッションは素晴らしいですね。このリーグの中でも屈指、独特のポゼッションの仕方ですが、非常に流動的で、次々に人が湧いてくる、そして正確ということで、後手を踏んでしまう時間帯もあったかなと。」
■1年目の錯誤
GKまで含めた11人が各自で判断を下し、適切なフォローを重ねないと破綻してしまう大木サッカーは、それはそれは難しいチャレンジの連続だった。1年目・2011年はまさに試行錯誤。「このサッカーでは、どう動けばいいの?」という状態から始まって、トライアル&エラーで各自が大木哲学を消化することに丸1年を費した。大木サンガ史に刻むべき出来事としては安藤淳のDF化。司令塔タイプだった安藤淳を3バックの1角に入れて、「守→攻」を体現者たらしめたことだろう。安藤はその後サイドバックとして京都に欠かせない存在となるが、それはただ単に苦しい台所事情ゆえの副産物だったのかもしれない。
1年目終盤の快進撃は、アグレッシブな球際への寄せに対して迷いがなくなったことの賜物。攻撃面でも高校3年生久保裕也にはまだ迷いがなく、猪突猛進のドゥトラともども敵陣を突き崩すだけの迫力と破壊力があった。一方で守備面の連動は未成熟で、森下俊の走力頼りな部分も大きく、リスキーだった。3年間で一番攻撃力があったのは、この頃に違いない。
■2年目の障壁
2年目2012年を総括するならば「走りきる術を覚えた年」。体力的にどれだけ走れても、走るべき方向がわからなければ走れない訳で、どうにか各自が判断を下しながら走れるようになった。と同時に「即断」する難しさにも直面する。ぶち当たった壁は「固めてきた相手を崩せない」こと。相手が守備に人数を割けばパスコースが減るのは自明だが、そんな状況でも「即断」しなければならない。そこで何が起こったかといえば、拙速なルート選択。安易なルートにパスを回避させて、ボールは回るけれども前に進まないという状態に陥った。この悪癖は、終始大木サッカーにつきまとう。
攻撃の手詰まり感を打開すべく導き出された結論が0トップだ。確かにストライカーを置かないことで、攻めの選択肢は多彩になった。この布陣の中では中村充孝という異才が輝く。ところが充孝の存在感が増すごとに「とりあえず充孝に出しとこう」的な暗黙の判断基準が生まれ、攻撃のアイデアは充孝次第、充孝の調子がチームの出来を左右するような状態に。緩い相手には充孝を中心に攻撃のアイデア豊富だったが、時間とスペースを削ってくる相手には思考が硬直化してしまう――これもまた、大木監督が最後まで向き合うことになった壁となった。
■3年目の破綻
一方、守備での即断力は3年目である程度実を結んだといえる。密集しすぎて逆サイドに大穴を空けることも減り、ファーストコンタクト→フォロー&カバーという守り方は成熟した。開幕戦(vsガンバ3-3△)と第2節(△0-0vs東京V)は激しい守備がそのまま反転攻撃に繋がり、「これはモノが違うんじゃないか!?」と唸ったほど。ただし陣形を崩してまで奪い取る守備がそのまま攻撃力・得点力には結び付くことは少なく、リスクを抱える割にはリターンは少なかった。
前線はまたもシーズン開始から試行錯誤。ようやく21節栃木戦にして3トップ(実質1トップ)にたどり着き、翌第22節東京V戦(0-5○)では大木サッカーの金字塔といえるゲームを見せた。だがサッカーは相手がいるスポーツ。対策を講じられると好調は長続きせず、低迷→連敗の道をさまよい、30節の岡山戦(●2-4)の大敗を迎える。この試合で大木サッカーは一旦破綻したと、個人的には考えている。
■大木サッカーに足りなかったもの
8月、選手たちは「判断力」を失っていた。即断の連続どころか「どう動けばいいの?」という段階まで戻っていた。建て直す方法はは3つほど(補強・解任・改造)あったと思うが、荒療治は避け、倉貫一毅を処方箋として体内に浸透させてゆるやかに回復基調に戻してゆく。この過程で横谷繁が1トップ(実質0トップ)に収まったことは、大木監督が残した最後の軍学とでもいうべきか。敵陣で身体を張れるMF横谷が最前線でタメながら援軍を待ち、そこに後詰めを突っ込ませて引いた相手を崩す。横谷を「偽の1トップ」にしておくことで敵のマークを幻惑する。横谷を戦術的犠牲にしつつ運動量をセーブしながら、後半勝負。――悪い言い方をすれば騙し騙しで攻撃を成立させ、守りに比重を置きながら勝ち星を拾っていった。
拙者は天皇杯の鹿島戦(2-1●)の戦評に、こんなことを書いた。
「序盤に工藤浩平が絶好機を外したシーンなど、数少ないながら相手を追い詰めるシーンもあった。きっちり獲物を仕留められるか仕留められないかもJ1とJ2の個の力差かもしれない。そうした「差」は痛感しつつも、組織として互角以上に戦えたことはポジティブに捉えていい。」
大木監督は、最後の試合となったプレーオフ決勝・徳島戦後にこう述べている。
「勝負を決める場面で、今日の試合もそうですが、力をつけさせてあげることはできませんでした。そのあたり、特効薬は無いと思いますので(略)」
やはり攻撃型大木サッカーは岡山戦で破綻していたと思う。一方でプレーオフ準決勝・長崎戦のような超現実的サッカーは大木サッカーの新境地だった。もしどこかの段階で2つの大木サッカーを上手く併用していく柔軟さがあれば、また違ったのかもしれない。そして最後の最後で、自らが最も自信のあるサッカーにこだわった指揮官の気持ちは痛いほどかわる。その信念の貫きっぷりこそが大木監督最大の魅力であったと思うし、最大の欠点でもあった。
■大木サッカーの遺産
大木サッカーはシステムに頼らなかった。とにかく人間の能力を信用し、その場での「即断」によってチームは動いた。攻撃的に戦おうが守備的に戦おうが、それぞれがその都度思考し、決して他人任せにすることなく、一人ひとりが小さな司令官として判断を下しながら走った。体力以上に脳を使うサッカーだったと思う。脳が疲れた時に、マークを外したり、プレゼントパスをしたり、人間らしいミスをした。そんな失敗も含めて財産だ。それぞれの思いがバッチリ噛み合った時の躍動感は「サッカーってこんなに面白いんだ!」と見る者を悦楽の境地に誘った。
昨今、「普通」という言葉が不思議な重みを持つ形容詞として歓迎されている。「普通においしい」「普通に好き」という響きに「very」と同様の価値を見いだす世代もいるという。個人的には普通とか平凡とかオーソドックスって言葉にまったく魅力は感じない。欠点があっても突出した個性があった方が面白いと思うのだ。
大木サッカーは「普通」ではなかった。極めて個性的だった。「京都のサッカーといえば?」と問われて答えが出せるようなスタイルが確立したことは大きな功績だ。その答えが「パスをつなぐ」でも「よく走る」でも「何となく特殊」でもいい。個性があるゆえにこうしていろいろ論評するに価するチームになった。新しい監督でどんなサッカーになるかはわからないが、勝てば何でもいい、ってサッカーにだけは戻ってほしくない。キャラの立っているサッカーを続けてほしい。
大木サッカーという魅惑に毒されてしまった一人として、そんなことを願う。
〈京右衛門的ベストゲームセレクション5〉
2011年 38節 vs岐阜
→好守が流動的に噛み合い、凄まじい攻撃力。いいお手本のような試合。
2011年 天皇杯準決勝 vs横浜M
→とにかく勢い。ミスまでも魅力的に映った。うまい酒が呑めそうな試合。
2012年 J2第37節 vs徳島
→肉を切らせて骨を断つ。攻撃バカが泣いて喜ぶ真骨頂のような試合。
2013年 第1節 vsG大阪
→勇猛プレスと果敢な攻撃が表裏一体に躍動。個人的ベスト1の試合。
2013年 第22節 vs東京V
→豊富な攻撃パターンと締めの確実さ。最も進化が感じられた試合。
結果はともかく、個人的にはとてもとても楽しませてもらった。
せっかくなので、3年間の雑感をまとめておきたいと思う。(だらだら長いのであしからず)
■大木サッカーとは?
「即断」「即決」。――大木サッカーをひと言で表すならば、拙者はこんなふうに表現してみたい。この3年間、メディア等で京都のサッカーを形容する時によく使われたのは「パスサッカー」、「狭い」「クローズ」などなど。しかしそんなレッテルを貼ってしまうと、大木サッカーの本質を見失ってしまうんじゃないか、と思うのである。
祖母井GMをして「今まで見たことないような」と言わしめた特殊性とは何だったのか。その根底には、システムに頼ろうとしない個々の「即断」の連続、縛りのない自主性に最大の特徴があった、と考える。
■選択肢の多いサッカー
例えば、10の選択肢がある状況と、選択肢が2つに絞られた状況。どちらが判断スピードを速めることができるだろうか?―それはもちろん2択の方。選択肢を絞って業務を扶くために、「役割分担」や「決め事」というものは存在する。会社組織でもそうだし、サッカーでもそう。システマチックになればなるほど個人の選択肢や裁量は少なくなって、その分、業務に専念しやすい。
ところが、大木サッカーは役割(ポジション)を分担するのではなく共有し、決め事も少なかった。「サッカーに同じ場面は1つとしてなく、刻一刻と状況は変わるのだから、個々で判断せよ」という考え方。仕事に担当者を付けずに、その時一番素早く対応できる人がやってしまおう、ということだ。サッカーでは「トータルフットボール」と呼ばれ、その源流はヨハン・クライフのいた頃のオランダ代表に遡る。そして一歩間違えば、個々の裁量任せのアドリブサッカーになる。
■大木サッカーの理論
大木式トータルフットボールは、守備から始まる。発動点はごくシンプルなので、その時点での「即断」は難しくはない。原理原則は、
“ボールの一番近くにいる者が、当たりにいく”
ということ。いわゆるボールへのアプローチ、ファーストコンタクト。その際、ポジションを崩しても構わない。2番目に近い人は、次を予測して「囲む」「奪う」または「受ける」ためのフォローに入る。空いたポジションは誰かが埋める。それを同時多発的に起こせば相手を常に先回りできるが、どこかが遅れるとズレが生じて守備に「穴」が空いてしまう。
そこでフォローの動きを有効にするため、守備の網は狭めてしまおう。奪ったボール持ち出すためにその網を伝ってポンポンとパスで繋いでいこう。――理論上はこれで「奪う→攻撃」がスムーズに連動してゆくことになる。実際上手くハマた時は、「次々に人が湧いてくる」(by岡山・影山雅永監督)状態を見せてくれた。
2012年5月20日第15節岡山戦後の影山監督コメント
「ただ、京都のボールポゼッションは素晴らしいですね。このリーグの中でも屈指、独特のポゼッションの仕方ですが、非常に流動的で、次々に人が湧いてくる、そして正確ということで、後手を踏んでしまう時間帯もあったかなと。」
■1年目の錯誤
GKまで含めた11人が各自で判断を下し、適切なフォローを重ねないと破綻してしまう大木サッカーは、それはそれは難しいチャレンジの連続だった。1年目・2011年はまさに試行錯誤。「このサッカーでは、どう動けばいいの?」という状態から始まって、トライアル&エラーで各自が大木哲学を消化することに丸1年を費した。大木サンガ史に刻むべき出来事としては安藤淳のDF化。司令塔タイプだった安藤淳を3バックの1角に入れて、「守→攻」を体現者たらしめたことだろう。安藤はその後サイドバックとして京都に欠かせない存在となるが、それはただ単に苦しい台所事情ゆえの副産物だったのかもしれない。
1年目終盤の快進撃は、アグレッシブな球際への寄せに対して迷いがなくなったことの賜物。攻撃面でも高校3年生久保裕也にはまだ迷いがなく、猪突猛進のドゥトラともども敵陣を突き崩すだけの迫力と破壊力があった。一方で守備面の連動は未成熟で、森下俊の走力頼りな部分も大きく、リスキーだった。3年間で一番攻撃力があったのは、この頃に違いない。
■2年目の障壁
2年目2012年を総括するならば「走りきる術を覚えた年」。体力的にどれだけ走れても、走るべき方向がわからなければ走れない訳で、どうにか各自が判断を下しながら走れるようになった。と同時に「即断」する難しさにも直面する。ぶち当たった壁は「固めてきた相手を崩せない」こと。相手が守備に人数を割けばパスコースが減るのは自明だが、そんな状況でも「即断」しなければならない。そこで何が起こったかといえば、拙速なルート選択。安易なルートにパスを回避させて、ボールは回るけれども前に進まないという状態に陥った。この悪癖は、終始大木サッカーにつきまとう。
攻撃の手詰まり感を打開すべく導き出された結論が0トップだ。確かにストライカーを置かないことで、攻めの選択肢は多彩になった。この布陣の中では中村充孝という異才が輝く。ところが充孝の存在感が増すごとに「とりあえず充孝に出しとこう」的な暗黙の判断基準が生まれ、攻撃のアイデアは充孝次第、充孝の調子がチームの出来を左右するような状態に。緩い相手には充孝を中心に攻撃のアイデア豊富だったが、時間とスペースを削ってくる相手には思考が硬直化してしまう――これもまた、大木監督が最後まで向き合うことになった壁となった。
■3年目の破綻
一方、守備での即断力は3年目である程度実を結んだといえる。密集しすぎて逆サイドに大穴を空けることも減り、ファーストコンタクト→フォロー&カバーという守り方は成熟した。開幕戦(vsガンバ3-3△)と第2節(△0-0vs東京V)は激しい守備がそのまま反転攻撃に繋がり、「これはモノが違うんじゃないか!?」と唸ったほど。ただし陣形を崩してまで奪い取る守備がそのまま攻撃力・得点力には結び付くことは少なく、リスクを抱える割にはリターンは少なかった。
前線はまたもシーズン開始から試行錯誤。ようやく21節栃木戦にして3トップ(実質1トップ)にたどり着き、翌第22節東京V戦(0-5○)では大木サッカーの金字塔といえるゲームを見せた。だがサッカーは相手がいるスポーツ。対策を講じられると好調は長続きせず、低迷→連敗の道をさまよい、30節の岡山戦(●2-4)の大敗を迎える。この試合で大木サッカーは一旦破綻したと、個人的には考えている。
■大木サッカーに足りなかったもの
8月、選手たちは「判断力」を失っていた。即断の連続どころか「どう動けばいいの?」という段階まで戻っていた。建て直す方法はは3つほど(補強・解任・改造)あったと思うが、荒療治は避け、倉貫一毅を処方箋として体内に浸透させてゆるやかに回復基調に戻してゆく。この過程で横谷繁が1トップ(実質0トップ)に収まったことは、大木監督が残した最後の軍学とでもいうべきか。敵陣で身体を張れるMF横谷が最前線でタメながら援軍を待ち、そこに後詰めを突っ込ませて引いた相手を崩す。横谷を「偽の1トップ」にしておくことで敵のマークを幻惑する。横谷を戦術的犠牲にしつつ運動量をセーブしながら、後半勝負。――悪い言い方をすれば騙し騙しで攻撃を成立させ、守りに比重を置きながら勝ち星を拾っていった。
拙者は天皇杯の鹿島戦(2-1●)の戦評に、こんなことを書いた。
「序盤に工藤浩平が絶好機を外したシーンなど、数少ないながら相手を追い詰めるシーンもあった。きっちり獲物を仕留められるか仕留められないかもJ1とJ2の個の力差かもしれない。そうした「差」は痛感しつつも、組織として互角以上に戦えたことはポジティブに捉えていい。」
大木監督は、最後の試合となったプレーオフ決勝・徳島戦後にこう述べている。
「勝負を決める場面で、今日の試合もそうですが、力をつけさせてあげることはできませんでした。そのあたり、特効薬は無いと思いますので(略)」
やはり攻撃型大木サッカーは岡山戦で破綻していたと思う。一方でプレーオフ準決勝・長崎戦のような超現実的サッカーは大木サッカーの新境地だった。もしどこかの段階で2つの大木サッカーを上手く併用していく柔軟さがあれば、また違ったのかもしれない。そして最後の最後で、自らが最も自信のあるサッカーにこだわった指揮官の気持ちは痛いほどかわる。その信念の貫きっぷりこそが大木監督最大の魅力であったと思うし、最大の欠点でもあった。
■大木サッカーの遺産
大木サッカーはシステムに頼らなかった。とにかく人間の能力を信用し、その場での「即断」によってチームは動いた。攻撃的に戦おうが守備的に戦おうが、それぞれがその都度思考し、決して他人任せにすることなく、一人ひとりが小さな司令官として判断を下しながら走った。体力以上に脳を使うサッカーだったと思う。脳が疲れた時に、マークを外したり、プレゼントパスをしたり、人間らしいミスをした。そんな失敗も含めて財産だ。それぞれの思いがバッチリ噛み合った時の躍動感は「サッカーってこんなに面白いんだ!」と見る者を悦楽の境地に誘った。
昨今、「普通」という言葉が不思議な重みを持つ形容詞として歓迎されている。「普通においしい」「普通に好き」という響きに「very」と同様の価値を見いだす世代もいるという。個人的には普通とか平凡とかオーソドックスって言葉にまったく魅力は感じない。欠点があっても突出した個性があった方が面白いと思うのだ。
大木サッカーは「普通」ではなかった。極めて個性的だった。「京都のサッカーといえば?」と問われて答えが出せるようなスタイルが確立したことは大きな功績だ。その答えが「パスをつなぐ」でも「よく走る」でも「何となく特殊」でもいい。個性があるゆえにこうしていろいろ論評するに価するチームになった。新しい監督でどんなサッカーになるかはわからないが、勝てば何でもいい、ってサッカーにだけは戻ってほしくない。キャラの立っているサッカーを続けてほしい。
大木サッカーという魅惑に毒されてしまった一人として、そんなことを願う。
〈京右衛門的ベストゲームセレクション5〉
2011年 38節 vs岐阜
→好守が流動的に噛み合い、凄まじい攻撃力。いいお手本のような試合。
2011年 天皇杯準決勝 vs横浜M
→とにかく勢い。ミスまでも魅力的に映った。うまい酒が呑めそうな試合。
2012年 J2第37節 vs徳島
→肉を切らせて骨を断つ。攻撃バカが泣いて喜ぶ真骨頂のような試合。
2013年 第1節 vsG大阪
→勇猛プレスと果敢な攻撃が表裏一体に躍動。個人的ベスト1の試合。
2013年 第22節 vs東京V
→豊富な攻撃パターンと締めの確実さ。最も進化が感じられた試合。