藪に覆われてかろうじて見え隠れするような山道を、車の底部をがりがりと擦ったり、草むらに隠れている枯れ枝にドアを引掻かれたりしながら進んでゆく。中古で買った小型の普通乗用車は、平地を走る時には快適だが、険しい山中の道には適していない。だが、そんなことは言っていられない。「夏のヤマメは一里一匹」「ヤマメの土用隠れ」などという釣り師の俗諺があるほどこの季節は釣れにくいのだ。ゆえに、人里離れた深山の渓谷をめざし、さらに山道に乗り入れ、途中で乗り捨てて崖を下り、沢に降り立つ。そうして出会う珠玉の一尾が夏ヤマメの醍醐味なのだ。
夏休みの家族連れや冒険少年たちなどが入り込む下流域の騒がしさや、高い水温を嫌って岩陰や上流の沢に移動する夏のヤマメの習性を同行のカワトモ君に教授しながら、森を歩く。午前11時入渓。真夏の真昼という最も釣れにくい条件下の釣りであることも、伝えておく。
この渓谷は、20年ほど前、この地に越してきてすぐのころに通った谷だ。そのころ、大きなフクロウが先になり後になり、谿を遡上した。その後、奥深い九州脊梁山地の渓谷を訪ね歩く時期があったから、この沢を歩くのは久しぶりだが、フクロウの姿はなかった。そして、両岸を分厚く覆っていた照葉樹は成長して原始の森に還り、見違えるような渓谷美を形成していた。巨岩がどっしりと座り、その脇を早瀬が流れ下る良いポイントが連続している。
入渓後、まずカワトモに大木が倒れ込んでいる淵の上流部の落ち込みを狙わせてみる。大物が潜んでいる場合があるのだ。私は木陰の岩場に腰を下ろし、その様子を見る。一投目、崖の手前に振り込んでみるがアタリなし。二投目は大岩の下の深みに引き込まれるように流してゆく。だが、目印はピクリとも動かない。三投目で釣れたのはアブラメだった。ここは見切って上流へ向かう。この季節は、ヤマメたちは淵から瀬へ出て、急流の中で餌を拾う。最も活発な時季だ。早瀬の流心を流すと、15センチ程度の小物がきた。さらに次のポイントで一匹。いずれも放流サイズだが、
――今日は釣れる日だ!!
という感触。そのことを伝えたうえで、カワトモに崖の手前で流れが細くなり、白い泡立ちとともに流れ下る早瀬を狙わせてみる。私は竿を担いで後ろから見ている。釣り始めて2年半になる彼は、ようやく谷になじんで、ポツリポツリと魚果を得はじめている。出水後の増水した谷を恐れげもなく渡渉し、崖を攀じ登って釣り場へと向かう度胸と体力も備わって来た。ここで夏の一匹を体験させておくと、それが自信になり、実力となる。釣りの初心から次のステップへと移行できるチャンスがここだ。
ふわりと目印が飛び、着水し、流心に沿って流れてゆく。流れの半ばを過ぎたポイントで、私は、
――そこだっ!!
と呟いている。そのタイミングと彼の「合わせ」が一致した。竿がぐんと撓り、ギラリと反転する魚体が見えた。
――おおっ、掛かったっ。慌てるなよ、そのまま泳がせて、次のタイミングでひきつけ、その勢いのまま抜き上げろっ。
と指示したのも聞いたか聞かぬか、彼は一気に小石混じりの岸辺へと魚を引きずりあげていた。
この谷独特の虹色をした魚体が跳ねた。
――やったな。
――やりましたあっ!!
ひと息入れて弁当にする。
濃いめの塩味おにぎりと、目刺、焼いた塩鱈だけの食事だが、これがうまい。岩場からしみ出る水を両手で掬って飲む。渓谷のご馳走。
午後はさらに険しい岩場続きの谷を遡上する。巨岩が行く手を阻む難所に来た。糸を手首に巻きとって竿を畳み、迂回して上部へ出る。後ろを見るとカワトモがいない。下方を見ると岩場を伝って先へ行き、すでに釣り始めている姿がある。
――ふむ、それで良し。
私は一人前になった弟子を見るような気分で、糸をほどき、竿を伸ばして一段上のポイントを流してみる。「かけあがり」と呼ばれる淵の上部のポイントだ。淵の上段へ出た大物が、ここで餌を狙っている場合が多い。
一投、アタリなし。ニ投目は泡立ちの向こう側から下段へと流れ落ちてしまった。三投目で、がつん、と水中の倒木に引っ掛かったような手ごたえがあった。直後に、糸は伸び切って、上流部へと引き上げられてゆく。大物だ。竿を立て、引き寄せるが、岩場から水面までは5メートルほどもある崖だ。
――釣れたぞっ、大物じゃ!!
と声を上げると、間髪を入れずカワトモが岩場を移動して来て、手網で掬い取ってくれた。網を掲げてカワトモが笑っている。渓流釣りの楽しみの一つは、収穫を共に喜び合えるだ仲間感覚だ。
これを機に納竿。まだ真昼の2時前後だったが、これで十分。シャツを脱ぎ捨て、ざぶざぶと水に入り、清冽な流れに身を任せる。
二匹のカワウソと化した釣り師二人が獲物を岸辺に並べる会心のひととき。
前回も紹介したが、この谷のヤマメは、体側を鮮麗な虹色が染める。釣りあげた瞬間、虹色の光が走ったように思えるほどだ。6月の時も今回7月の獲物も同様だから、婚姻色と判定するには時期が早い。この谷にだけ棲息する原種のヤマメである。それゆえこの谷の存在は公開しない。私とカワトモだけの秘密の谷として、一年に一度か二度だけ入渓することにしてある。これは厳格な釣り師の約束事である。
・手前の27センチ級がカワトモ君、向こう側の24センチ級が筆者の釣果。
・撮影は川上智嗣君。