森の空想ブログ

山の畑・森の畑/ケイタ君の畑から【森へ行く道<142>】

毎朝、朝食を作る。特別なことではない。

私は生まれ育った山の村から麓の町へ引っ越すまで、朝飯を作り、病気で寝ていた祖父母と3人の弟に食べさせ、それから40分ほどかかる山道を下って学校へ通っていたから、特にそのことを苦労に思うという感覚は持っていない。小学5年から中学1年の夏までのことだ。父と母は、麓の町の町はずれの石切場に出稼ぎに行っていた。戦後の混乱期に育った私どもの世代の子どもたちにとっては、さほど珍しい体験というのでもないだろう。祖母は、不自由な体を軋ませるようにして、畑でいろいろな作物を育て、その脇で花も栽培した。裏山を歩くと、山菜や珍しい茸が採れた。その調理法や、食べ方、薬草の採取場所などは祖母から教わった。その経験が、今は生かされているのだと思う。

山仕事のリーダーは、毎朝5時過ぎには起き出して、朝食と弁当を作る。そして7時までには食べ終え、仲間たちに台所の後始末を任せておいて、自分は一足先に鉄砲を肩に、出かける。山の道で鹿や猪に出会えば、ズドン、と一発、仕留めておいて煙草を一服。そして後から登ってくる仲間たちを待つのである。追いついて来た男たちから、おおっ、と歓声が上がる。

――今日は仕事は休みとする。山の神様からの授かりものじゃ。

山の男は格好いいなあ。

この話は、宇江利勝著「山びとの記―木の国果無山脈」(中公新書:1980)、「山びとの動物誌」(福音館書店:1983)、「炭焼日記」(新宿書房1988)などで読んだ。宇江氏は、若いころから紀伊半島の山々で炭焼きや山林の仕事などをして暮らしながら、年に数回は山を下って関西の同人誌「VIKING」に参加し、小説やエッセイを書いた作家である。1980年に発表した「山びとの記」は高く評価され、以後、「山」にを本拠とした著作を著した。「山びと・・・」シリーズを私は続けて読んだが、それは、祖父がまだ元気だったころの鹿猟のことや、父母と一緒に行った奥山での焼畑、造林仕事などを思い出させるものだったのである。

山の村での暮らしを思いながら、朝食を作っていると、ケイタ君から野菜が届く。落合圭太君は、各地を巡る旅を続けた理学療法士だが、この春からこの地に住み、畑づくりをしながら過ごしている。早朝から夕暮れ時まで、森のはずれの空き地や敷地内のかつては畑だった草むらなどに彼の姿はあり、終日、草をむしったり、土を耕したりしている。耕した土には落葉や刈り草を埋め込み、丹念に均してゆく。その根気と持続力を、この森で修行中の不登校中学生のカワトモ君に見習うように言ってあるが、現時点ではとうてい彼の及ぶところではない。聞いてみると、ケイタ君のお祖父さんは、開拓農民だったそうだ。なるほど、それならばわかる。彼の身体には、そのDNAが継続・伝承されているのだ。そうして半年の間に空き地や草むらが畑に変わり、「森の畑」「山の畑」といえる景観を形成し始めたのである。そこから得られた野菜は、まだ未熟なものも含まれながらも、まるで果物のように美味である。今朝などは、味噌汁の具にツルムラサキの葉を添え、形の不揃いな小ぶりのピーマンを細かく刻んで納豆に混ぜ、何気なく手に取るとその小さな棘がちくりと痛いほど新鮮なキュウリを薄切りにして塩で揉んだだけの小鉢を付け出したら、夏の朝に爽涼の気が流れ、山の畑の味がしたのである。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事