由布院に来た時は、空想の森美術館の一室、私の私室(アトリエ)兼展示室として使っている部屋で寝る。天井に故・野々下一幸作の竹の灯りが下がっており、終夜、その網目から漏れ出る光が空間に独特の雰囲気をつくる。深夜、目覚めると、その丸い籠のような舟に乗って、異次元の世界を逍遥しているような気になることもある。野々下氏は、この由布院の町に住んだ竹工芸作家であった。彼は子供のころ、梯子から落ちて脊髄を損傷し、歩行には松葉杖を必要とする身体になったが、心身も精神も健康で頑健であった。その太い手から編み出される籠や照明器具は、画廊主であり美術評論家の故・州之内徹氏が「岩のような」と形容したほどであった。彼は、初期から中期へかけての「ゆふいん音楽祭」を牽引した音楽好きでもあった。工房にはタンノイのスピーカーが据えられ、重厚なクラシック音楽が流れ、それを背景に竹を削る彼の風貌は、古い肖像彫刻を思わせた。
仮面展示室を照らすのは、野々下の弟子で私の弟・高見八州洋の作品。野々下に弟子入りした弟と私との三人は、ともにヤマメ釣りに行き、野に遊び、酒を呑み、音楽を聴いた。その芸術や作品に向き合う態度は、こうして受け継がれ、仮面たちを照らしてくれているのだ。
「竹」の歴史は、難しい。一般的には竹は中国から輸入・移植されて日本列島に広まったと認識されているが、それは孟宗竹のことで、縄文時代の遺跡からは竹で編んだ籠類や漆塗りの竹櫛などが発掘されているから、真竹や淡竹などの列島固有種が自生し、それを使いこなした人々がいたことはあきらかである。
この認識をもとに、「竹」の歴史とその奥に潜む神秘の世界を解明してくれるのが本書である。沖浦氏は被差別民のを数多く訪ね、アジアの海洋諸島を巡って竹の文化を調査したすぐれた民俗学者である。
記紀神話には、木花咲邪姫の出産に使われた竹刀(竹の箆)、兄に借りた釣り針を無くした山幸彦が自らの剣を打ち千本の針を作って「箕」に載せ兄に詫びを入れる場面、それでも許してもらえず途方にくれている山幸彦を竹で編んだ舟に乗せてわだつみの国(海神国)へと送り出す塩土翁のことなど、竹とその呪力に関する事例が多く記される。「竹」は、呪力を持った聖なる植物であった。
沖浦氏は、その竹の主産地は黒潮文化圏であり、南九州を本拠とした「隼人」の文化圏にその分布が重なると分析する。隼人族は大和王権樹立に参加し、畿内に移住して同化して王権の守護職や竹器、楽器、武具等の製作者となった一族と、最後まで服属せず、王権に反抗した一族に分かれる。
そのまつろわぬ民「隼人」の原像が投影されるのが、「竹取物語」すなわち「かぐや姫」の物語なのである。竹取の翁こそ、隼人文化圏の祖神であり、竹から生まれ、美しい娘に成長したかぐや姫が、言い寄る貴族たち(それは当時の実在の人物らしい)をことごとく拒否し、無理難題を突き付けてその嘘や欺瞞を世にあきらかにして権威を失墜させ、遂には「王」の要求も拒んで月の世界へと「帰って」しまう。これこそ、反骨の文人たる竹取物語の作者の本領である、と沖浦氏は喝破するのである。
かぐや姫の故郷は、南九州隼人族の本拠であった。そしてその竹の民俗は「箕作り」を本業としたサンカや被差別民、芸能民などによって連綿と受け継がれ、いま、わが国のすぐれた「芸術」として、アジアの竹文化とともに世界のアートシーンの注目を集め始めている。
この本は、さらに読みこむ価値がある。