
夜中に、おでこの辺り、頭髪部がかなり後退している額の生え際が、何かに齧られている気配がして、飛び起きた。
ーームカデだな。
瞬時の、直感的、体験的(これまでに何度か刺されている)判断である。
案の定、枕に大きなムカデが這っている。ちょっと頭を持ち上げて、少し首をかしげて、
――オレの獲物はどこへ逃げた・・・?
という顔つきをしている。
刺されたのではないということもすぐに分かった。あの激烈な痛みがないのだ。
ということは、やはりこいつは、当方の頭部を大きな肉塊すなわち食物と認めて、かじりついたものとみえる。
――失礼なヤツじゃ。
とばかりに私は手近にあった本で叩き潰した。その本は、硬い外箱入りの立派なものだったが、ムカデが居たのは枕の上で、逃走路は敷布団の上だったので、一発では仕留められず、畳の上に逃げるやつを追いかけて、ようやく潰したのである。
齧られた箇所は、痛くはないが、少し痒みがある。やはり、刺されてはいないが、齧られてはいたようだ。薬酒「蛇いちご酒」を塗るという応急処置をしてまた寝たが、朝には少し腫れて痒いだけだったので、夢うつつの中で判断を誤っていたわけではなかったことがわかった。昼ごろにはその腫れも消えており、一大事には至らず。
ムカデを潰した硬い本(日本の古典)と並んで千葉徳爾著「狩猟伝承研究」が手元にあったので、分厚い本の中の「日光山の狩猟伝承」関連のページを開いてみる。
『昔、日光男体山(栃木県)の神と上州赤城山(群馬県)の神とが中禅寺湖の水をめぐって争った。赤城山の神は大ムカデとなり、日光山の神は大蛇(オロチ)となって戦った。激烈な戦いが続き、日光の神が形勢不利になったその時、日光山の猟師・猿丸太夫が大ムカデの左目を射て、戦いに決着がついた。猿丸はこの地の狩人の祖である』*以上要約。
これに類似する狩人の古伝承は「日光派」と「高野派」の狩猟文書や「諏訪信仰」などが各地に分布している。古代の領地争い、山岳宗教の起源伝承などと絡み合いながら、狩人の秘法と狩場の権利を権威化し、正当化したものである。
この「狩猟伝承研究」は第一巻が700ページに及ぶ大著である。そして「続」があり、「後」「総括」「補遺」(各々500ページ)と続く膨大な著作群である。それらは、著者が全国を回り、丹念に調査し、記録した集積である。そしてそれらのデータは、消滅寸前であった山村文化・狩猟文化の最後の姿を写し取った貴重な記録群ともいえよう。
私は、この本の本編と続編の二著に島原半島・島原市の一角にある古書店で出会った。旧知の古書店主とその時一緒に旅をしていた妙齢の女性とが便宜を図ってくれて、入手できた記念すべき一書である。
そして、長い年月、探し続けていた古式の鹿狩りの法「さす神の法(阿律智神法)」の記述が見つかったのである。膨大な著述の中のほんの数行だが、それは千金の価値のあるデータである。方位・方角により、獲物(主として鹿)の逃走路を知る狩人の秘伝であった。一子相伝の口伝であったため、文字化されない秘法だったが、これにより解明の糸口が見つかった。私はそれを「豊後鹿猟師」といわれた父と祖父から聞き取り、メモしておいたのである。それから半世紀が経過している。いずれまとめて発表する予定。