近頃の若いものは・・・というセリフは、ソクラテスも吐いているという。
老人が若者に対する態度というものは古今東西を問わず似たような傾向を示すものらしい。
それにしても、近頃の若者は、と言わずにはいられない。
15字以上は読まない、というインターネット社会の若者たちの傾向に続き、15行以上は「読めない」という現象が浸透・蔓延し始めていると憂慮するのは、前・法政大学総長で作家の田中優子氏である。優子先生は私よりは若いが1952年生まれなのでほぼ同時代の年寄り仲間と言っていいだろう。
――それは困るな。
と私も思うのである。
長い文章を読む力がなくなるということは、ヘミングウェイやドストエフスキー、森鴎外や江田露伴などを読む能力を無くした「大人」が増えているという事ではないか。戦記文学の傑作、五味川順平「人間の条件」、大西巨人「神聖喜劇」、さらには菅江真澄の「東北紀行」や鈴木牧之「北越雪譜」、松尾芭蕉「奥の細道」等の江戸期の名作を読む人などは絶滅危惧種のリスト入りしたとみていいのかもしれない。
話が長くなってはいけない。
「露伴集」を開こう。
江田露伴は明治から昭和にかけて活躍した小説家・随筆家・考証家。この一冊(講談社:1963「日本現代文学全集」)には、代表作の他、随筆や考証など多くの作品が収録されている。そのどれもが長大で、難解である。が、漢文で文章を書いていた江戸の時代から明治維新を経てわずか50年足らずで、口語体を手中にし、名文の数々を著した才能に驚嘆し、敬服せざるを得ない。その文は格調高く、含蓄に富む。日露戦争から太平洋戦争に至る時代には、小説からは遠ざかり、考証や評伝に立脚点を移す。その時代を読む力と身の処し方も鮮やかである。このような作家の作品を難解だとか長文過ぎると言って遠ざけてはいけない。
露伴先生の骨董談議は痛快である。世を挙げて欧州の文化を摂取し、模倣している時代に、
――イギリスやフランスなどの博物館などは、いずれも、盗賊の手柄比べである。
と喝破するのである。
短編「幻談」では、穏やかな日和の江戸湾で釣り師が出合った一本の釣竿を読者の眼前に描き出す。釣狂が釣りあげた竿の先には、一本の竿を握りしめた溺死人の手があった。その指を一本一本外して釣り師は竿を持ち帰る。以後、名竿に違わぬ大釣りが続くが、風もなく波静かなある一日、釣果がないままに日暮れ時となり、大物が掛かる。慎重に引き上げると、その糸の先に死人の手が・・・・
釣り文学の名作だが、奥山の渓流釣りで糸を大岩と大岩の間に引っ掛け、手を差し入れて外そうとしている時などにこの場面を思い出すと、ぞっとして、もう釣りにはならない。
若者よ、露伴を読みなさい。
*ブックカバーアートは筆者。