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城下の人

2008年08月27日 19時10分02秒 | Books
 城下の人  石光真清

国之さんに 薦められて 手にした本です。
この石光真清さんの 波乱に満ちた人生の日記や手紙を 息子さんが編集して
この 城下の人 と更に 廣野の花 望郷の歌 誰のために と4部作に纏めたものです。

さて 先ず第一部の城下の人を読み終えました。
この作者 石光真清は 明治元年 熊本で 武家の家に生まれました。
この明治元年という時代、幕府政治から天皇を主体とする明治政府へと時代が、社会が大きく転換した歳でした。
先の太平洋戦争が終わり、戦前と戦後が大きく変わったというのは 私の年齢からも、比較的容易に想像できますが、この先の明治元年を起点とする変化は、想像することも難しいように思います。
この石光真清は、まさにその時代と伴に生きてきた一人の人間としての実感を書いてあり、そこには 様々な迷いや 悲喜こもごもの感慨が込められており、歴史書とは違う共感を感じるところが多くあります。
 話は 先ず 教育からはじまっています。真清氏の父親が兄と真清を前にこう話します。
『洋学をやるお前たちとは学問の種類も違っているし、時代に対する見透しも違うが、日本の伝統を守りながら漸進しようとする神風連の熱意と、洋学の知識を取り入れて早く日本を世界の列強の中に安泰に置こうと心掛けるお前たちと、国を思う心には少しも変わりがない。・・・・お前たちが洋学をやるにしても、あの方々の立派な人格を見習い、日本人としての魂を忘れない心掛けが大切だ。・・・・・
いつの世にも同じことが繰返される。時代が動き始めると、初めの頃は皆同じ思いでいるものだが、いつかは二つに分れ三つに分れて党を組んで争う。どちらに組するほうが損か得かを胸算用する者さえ出てくるかと思えば、ただ徒に感情に走って軽蔑し合う。古いものを侮っていれば先駆者になったつもりで得々とする者もあり、新しいものといえば頭から軽兆浮薄として軽蔑する者も出てくる。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、本当に時代遅れの頑固者と新しがり矢の軽薄者が生まれて来るものだ。これは人間というものの持って生まれた弱点であろうなぁ・・・・』 
この時 兄は洋学を学び、また真清は旧態派だあったようだ。
当時、新旧どちらを学ぶかは大きな選択であったようで、これは今の私どもでも容易に想像できることである。やがて、この対立は西南の役となって噴出し、最後は西郷隆盛の死によって日本の意思は統一され、西洋列強に追いつこうと 富国強兵へと向かっていったのである。しかしここで 父の言葉は、時代世の中をよく観て軽挙に走らぬようにとの訓辞であるように思われる。
 この西南戦争の際は、熊本の城下が先ず薩摩軍により占拠され続いて政府軍に奪還され、真清たちは面白いことに両軍に対して好意を抱いていたようだ。その熊本の城下が戦場になるにつれて 多くの戦死者を目の当たりにしているのだが、死というものに対してそれほど恐れを抱いていないのがわかる。お国のためというか自分の意思のもとによる死は、恐怖ではないようである。 この真清の父親の死の場面でも、自分の死期をしっかりと悟っており十分心だけでなくその他の準備も整えた上で粛々と迎えている。当時の人々の死生観がここにも読み取られます。
 その後、真清は 近衛兵となり、大津事件、日清戦争、台湾制圧などに参加してゆく。 その中で 清国に勝った次は ロシアが相手と考え ロシア語を学び始めた。 最後は極東ロシアに留学するというところでこの巻は終わっている。
 大津事件の際は、当時の大国ロシアの皇太子に暴行を加えたことにより、ロシアが極東の弱小国日本に対してどのような仕打ちをしてくるか、明治天皇をはじめ、3500万の日本国民が固唾を呑んで見守っていたなどと当時の状況が生々しく伝わってきます。
 江戸幕府が倒れ、諸外国に対して開国しそれほどの年月が経っていないのに、よくここまで頑張ってこれたものだと思います。 そこには、中国、朝鮮などの東南アジア近隣諸国が、西洋諸外国の植民地化というのを見て、決して日本がそうなってはならないという強い政府の、また教養の高い人々の力があったからでしょう。
多くの国民も、このわずかな期間に日本国という意識と、この世界の中の日本の位置というか状況をよくわきまえられたと思います。
 また この真清さんの 人生の中に 国を守るのだというしっかりとした心棒が存在しているのも感じられます。    
 今の日本に この国を守るのだという意識を持っている人がどれほどいようか?
 私の余生、この心棒探しになるかな。

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