大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(17)

2015年03月05日 | 労働者福祉
賀川豊彦のことを学ぶうちにどんどんと惹きこまれていく自分を感じました。
そしてなによりも大切なことは“実践する”ことであることをあらためて教えていただきました。
また労働運動の根本目的に賀川が使った言葉で「人格の建築運動」というのがあります。
労働組合は労働者の意識の高まりによって自主的に作られなければなりません。
他からの強制は不可ですから、ここでも教育の重要性を実感します。
労働組合による社会改造の実現のためには、より多くの労働組合を作らなければなりませんから、やはり基本は教育にあります。


さて「賀川豊彦伝」もいよいよ最終回です。

賀川の最後の10年間は、健康の許す限り、教会の牧師兼巡回伝道者でした。
また平和運動にも注意を向け続けており、世界連邦運動の方針に沿って国際的な秩序を保とうと力説しました。
彼の考え方は「友愛の経済」にまとめられており、その考え方とは、戦争の原因は主要な強国の強欲と搾取とに根ざしており、平和と世界の富の平等な分配は、秩序ある世界経済と世界連邦によってのみ可能となるというものでした。
賀川の活動は健康が優れなかったために速度が落ちましたが、国際的な活動についてもこつこつと働き続けました。
1954年、米国とカナダへ最後の旅をした後は、病床からの主張が多くなります。
彼は繰り返し平和を求めるメッセージを語り、日本国憲法第9条を肯定し、日本が外的脅威に対してとるべき道は、侵略行為を予防できる警察力をもつ真の世界政府を創設することだと主張し続けました。

賀川の生涯にわたる働きのゆえに、1954年にはノーベル平和賞受賞への運動が起こります。
その運動は広く海外にも広がり、シュバイツアー博士も陳情運動に加わってくれました。
けれども賀川はこうした支援にもかかわらず受賞することはありませんでした。
賀川が戦時中に反米の宣伝活動に携わったことや、反核運動に同調したことや、単にノーベル賞受賞選考過程の歪みだったのか、その理由は未だ不明です。

1959年にひどい風邪にかかっていましたが、まわりの反対を振り切って、郷里の四国に伝道旅行に出かけます。
しかし船旅の途中で心臓の具合が悪化して倒れ、高松の病院に3ヶ月間入院させられます。
その後、東京の自宅で療養を続けますが、1960年4月23日息を引き取ります。
72歳の昇天でした。


賀川が奮闘した改革の多くは現代の社会に数多く具体化しています。
日本は今や、普通選挙権、労働組合や政治団体の自由、十分な医療保護、優れた教育制度、かなりの住環境、大幅に改善された土地所有権、その他多くの社会事業が育っています。
しかしながら、もし賀川が今日生きていたなら、今の日本の状況を見て、どう考え、どう行動するでしょうか。


(参考文献)
ロバート・シルジェン「賀川豊彦 愛と社会正義を追い求めた生涯」
神戸学生・青年センター編「賀川豊彦の全体像」
賀川豊彦記念講座委員会「賀川豊彦から見た現代」
賀川豊彦「貧民心理の研究」