大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(15)

2015年03月03日 | 労働者福祉
朝の連ドラ「マッサン」にも特高が出てきますが、戦時中は個人の自由などはあって無きが如きだったのでしょう。
報道統制も敷かれていましたから、都合の悪い事実は伏せられていました。
戦争で最後に泣きを見るのは罪のない国民です。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

賀川は日本の戦争への傾斜に反対することを止めましたが、平和主義者ゆえに、第2次大戦中はずっと疑いの目で見られていました。
全体主義体制の思想統制下に置かれ、憲兵隊の監視と尋問は厳しさを増し、何度も逮捕の憂き目に遭います。
憲兵隊は、戦争に反対する者を投獄するか、脅して黙らせていました。
賀川もその例外でなく、自分の主宰する雑誌「雲の柱」で、政府に対する謝罪文を載せなければならなくなります。
結局、賀川は自らの国際主義と暴力反対の態度を和らげて、国民の思想を統制している体制を支持していきます。
平和主義も妥協的なものになっていき、暴力をひどく嫌っていた彼が、戦争を自衛の最後手段として支持したのです。
戦争は賀川の態度を大きく変えていきました。
東京大空襲では数時間のうちに10万人もの死者が出ました。
米国に対する彼の怒りは、本土に対する空爆で頂点に達します。
彼は反米宣伝活動にも手を染めていきます。

平和主義者としての賀川、愛国主義者としての賀川、この矛盾の中で彼は苦しみました。
しかも空爆で彼の築いてきた生涯の仕事が次々と焼失していきました。
戦時中の最後の数週間は右翼の狂信者たちに狙われ、彼の暗殺計画を耳にした友人から東京を離れるように警告されます。
彼は栃木県近くの田舎に逃げて行きます。
広島と長崎への原爆投下で日本は降伏し、新しい政府が大急ぎで設けられます。
この時、新政府から呼び出された人物のひとりに、ほとんど目が見えず、病気と飢えとでやせ衰えた賀川がいました。

(つづく)