![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/a3/28bb5f0c9fe698cd05b0b2e75aad7db7.jpg)
やしまのき
屋嶋城
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/43/c01d581ed9fcb2869bd2cd47b87e25ae.jpg)
これまでに 見たことのない 城門
左側
🔻 左端の方は 地形に沿って カーブしています
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/e9/7da0943ae448cfd168174c711fff97ab.jpg)
🔺 内側に カーブしてます
近世城郭だと 枡形 ということだと思います
石垣は もっと下まであるような気がしますね
埋まってしまった と思う所は 掘ってるはず
無かったから こんな状態なのだろうか…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/0a/c9be1b1d9643a9483c4fb6a4a96c8420.jpg)
中央に城門
右側
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/88/c6b10df58fdc4c5cf7e9d3e10183c430.jpg)
階段 通路が 設けられていますが
石垣の上部には 入れません
上部は 雨水が浸み込まないように
処理されてるようです
カラーモルタルだろうか…
説明ボード
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/4c/a98471dae33be544d9bacc9430613e98.jpg)
門の上部に オープンデッキ?
扉も あったんだ
🔻
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/9c/08b3bbce7baff5b7c1cfb1d262d809e8.jpg)
崖で撮れない 正面から
門入口は 高く 梯子だったという
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/6c/cf58755830f82e47dc8a303b6e38edc5.jpg)
この 区画 だけ
なぜこんな強固な石垣を積んだのか?
ここが 最終防衛ライン?
それとも
近世城郭で言う 大手門 の位置づけなら
ここは 一部で 長く続いていたのか
だとしたら調査してるだろうし
?は増えるばかり
白村江から 逃げ帰った時の
百済の人たちの 石積み技術
なんだろうね
そうなると 古墳時代の 石積みは
やはり 大陸からの 技術か
なんたって 万里の長城があるもんね
遣隋使 遣唐使が 見てきてるだろうし
あ
明日香 石造物 石舞台
スケールさん 連れて行ってなかった
また がんばんなきゃならんな~
なかったことに しようかな~
門の上部
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/b4/86483f798ed6fddbc799ae8b28372dcb.jpg)
開口部の 上部に 丈夫な 砦が
オープンデッキみたいな 砦
設置された 階段 降りてみましょ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/24/e4b77d40fc478e178c510a7a8dba27d3.jpg)
自然石を 積んでるんだけど
きれい
近世城郭の 野面積みとは 全く違う
それとは 部材は 小ぶりなんだけど
丁寧に積まれている
洋風のお宅の門
こういうのあるよね
レンガ風に 積んでる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/f3/dd235ae990612f1717003c3510b745a1.jpg)
見学用 階段と石段 設置
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/df/d43a869d63fc1604fe1d002441ef1aae.jpg)
🔺 🔺
発掘時 柱は残っていなかったが
四角い穴は 残ってたそうだ
ここに 扉があった門
人が ラクラク通れる高さ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/77/0b7c7ee3c0444acc11484ba34c488213.jpg)
門柱の あったことは よくわかる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/4f/3c07056ae47fc8ffd83f02006cef50db.jpg)
この頃は もう 四角い柱に 加工できてたということか
御殿でも ないわけだし
丸太で 良かったような気もするが…
この頃の 建物と言えば
飛鳥寺 法隆寺
興福寺 東大寺
こちらは 反対側
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/cd/4087919d26e71ce3eefcd20bb82207a5.jpg)
1350年前の 角
(復元)
ではありますが
いいですね~
さすがに 算木には なってませんが
角を意識して 部材選び 積み方
ただ 積んでるわけじゃないですね
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/9e/b30fb62674f90b25c54099474ece95d0.jpg)
足元も 石 敷いてます
粗いですが 👍
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/4e/ae7d9f636ef9fb2f4cf753c7325c03b9.jpg)
けっこう いろいろな石があるようです
たまに 転がった 角が丸いのもありますが
おおかた 尖ったのですね
城門 から見た 景色
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/a3/28bb5f0c9fe698cd05b0b2e75aad7db7.jpg)
方角は
南南西くらいか
南西まではいかないくらい
もちろん
1350年前は 入り江
つまり
軍船が上陸する可能性があるということだ
ここから 動向が一望できた ということか
もちろん攻防は 水際だろうから
ここには 指揮官が 居たのでしょう
なんつって 勝手に 思ってる…
威圧的でさえあります。
ここの中を守備していた当時の兵士たちは、防人でしょうかね、ずっと来ない唐の軍隊を待ちぼうけしてたかと思うと、切ないなあ(笑)
それとも唐が攻め込んでこない方が良かったのか、いろいろ考えます。
結局、瀬戸内海の方には来なかったのですよね?
福岡の方には、追撃してきたとか、上陸したとかあるようですが、、、
半島も戦でしたし、唐も大国でしたから
島の方にまで手が回らなかったんですかね
この頃、近江に遷都したり…壬申の乱と…なったり、
唐に攻め込まれてたらおおごとでしたよね