クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

埋もれた男“広田直繁”(17)

2007年06月23日 | ふるさと人物部屋
「卯三郎もいいけんども、正光寺は羽生城と関わっていることも知ってもらいたいんだよ」と、先生は言います。
月清正光大姉の位牌を寄贈したのも、
そうした願いのもとだったのだそうです。
「元々位牌はなかったんですか?」
先生は首を横に振りました。
「最初はあったんだろうで。だけんども、宝暦と明治に火事にあったから一緒に焼けちゃったんだよね」
位牌のみならず、寺宝や記録等はことごとく焼失してしまったのでしょう。
もし広田直繁の位牌があったならばそれも……。

「羽生城関係の面影は月清正光大姉の墓碑だけ?」
「そう」
先生は短く答えます。
同寺の境内には月清正光大姉の墓碑が現存していますが、
ひっそりと佇んでいるだけです。
もともと羽生城は跡形もなく消滅し、幻と言われる城。
清水卯三郎に比べて時代も古く、
羽生城との関連性を強調するには地元民の認識も希薄です。

「広田直繁が羽生のどっかに眠っているとしたら、正光寺の気がするんだよね」
先生は直繁の戒名を見ながら言いました。
正光寺の山号院号は「直場山廣應院」。
「直」と「廣」(広)の文字があることから、
直繁の菩提寺でもあると先生は捉えています。
「境内のどこかに直繁の骨が?」
「そう」
月清正光大姉が正光寺を開基したのは天文12年(1543)、
直繁が館林にて謀殺されたと考えられるのは元亀元年(1570)です。
遺体の行方は不明ですが、
羽生に戻ってきたのだとすれば正光寺に埋葬されたということでしょうか。

「源長寺ではなくて?」
「あそこには木戸忠朝の墓と言われてる古塔があるけんども、もしかすると忠朝も正光寺に眠っているかもしれないよ」
わたしは思わず唸りました。
源長寺は城のすぐ近くに所在する羽生城主ゆかりの寺。
直繁の弟である木戸忠朝が開基し、
その本堂の裏には城主の墓と伝えられる古塔が建っています。
それが本当かどうかは不明ですが、
羽生城主が眠っているのは正光寺と源長寺が有力なのは確かです。
(「埋もれた男“広田直繁”(18」に続く)」)

※画像は源長寺(羽生市藤井上組)の山門です。

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2 コメント

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はじめまして (羽生のHito)
2007-06-23 21:16:06
ホームページを色々見ていたら偶然、このブログに出会いました。若い方で羽生市の地方史を調べている方がいたことをうれしく思います。自分も中学の頃から市内の古墳や社寺仏閣を調べていましたが、20才過ぎてから身近な自然に興味が移り、今でも市内の野鳥やトンボなど観察しています。これからも羽生市の歴史を解き明かし記録に残して下さる事を期待しています。
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はじめまして! (クニ)
2007-06-24 02:32:20
>羽生のHitoさん

はじめまして!
コメントを寄せていただきありがとうございます。
中学生の頃に市内の古墳や社寺をお調べになったとのことで、
まさに“早熟”ですね。

羽生の自然、ぼくも好きです。
特にいまの時期は田んぼの水にたくさんの生き物たちが見られて、
ついしゃがみこんだまま時間を忘れてしまいます。
発展もいいけれど、身近な生き物たちの自然環境も残しておきたいですよね。

いまは羽生城と社寺を中心に拙文を書き綴っています。
若輩者で至らない部分もあるかと思いますが、
今後もおつきあい下さいますようよろしくお願いします。
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