クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

館林の中世館跡“北大島館”にて

2020年02月11日 | 城・館の部屋
祝日なのに、保育園で行っているプールに入りたいと息子が言ったので妻が連れていき、
2人がいなくなったあとで、3歳になる娘と足を運んだのは群馬県館林市にある館跡でした。

館の名前は“北大島館”。
館林市大島町にかつて存在したとされています。
それを示すかのように「寄居」や「堀の内」の地名が残り、
土塁跡や堀跡とおぼしき遺構を目にすることができます。

堀跡は南と北側で東西に延びており、どうやらそれは川の旧流路のようです。
つまり、北大島館は自然堤防上の微高地に位置しています。
過去に実施された発掘調査では、
中世と思われる“カワラケ”や“常滑甕胴部”が出土したということです。

館林に残る近世成立の『館林城城主覚書』等の記録によると、
北大島館には“片見因幡”が居館していました。
この片見氏は、長尾7騎衆の1人に数えられる人物です。

同書等の記録では、長尾顕長率いる7騎衆は善長寺で開かれた会合を襲い、
館林城主「諸野因幡守」を討ち取ったことが記されています。
永禄後期から元亀年間にかけて起こったとされる事件です。

この諸野因幡守は、前館林城主赤井氏の重臣“茂呂氏”に比定される人物ですが、
そもそも赤井氏は、永禄5年に上杉謙信の進攻によって退去を余儀なくされているため、
永禄後期から元亀年間には在城していません。
在城していたのは、永禄13年に上杉謙信から館林城を与えられた羽生城主広田直繁です。

ということは、善長寺で殺害された「諸野因幡守」に比定されるのは、
広田直繁ということになります。
それを示すかのように、直繁の消息は永禄13年以後プツリと絶ってしまうのです。
越相同盟の破綻後、長尾氏の謀略によって直繁は最期を遂げたと見るべきでしょう。

したがって、北大島館の片見氏は、
広田直繁を襲った一人ということになります。
城沼の畔に佇む善長寺は、北大島館からほぼ南に位置。
したがって、片見氏は同寺の様子や直繁近辺の情報を集め、
長尾顕長に伝えていたかもしれません。

僕は羽生育ちの人間ですが、
何も恨みがあって北大島館を訪ねたわけではありません。
昨年から書き進めている戦国時代の原稿の取材がてら訪ねた次第です。

とはいえ、北大島館は史跡になっているわけではないので、
文化財説明板はどこにも建っていません。
十二権現神社が一つの目印ですが、車のナビには登録されていない同社。
地図を見ながらの探訪で、情報を知らなければまず立ち止まることのないこの手の館に、
どこか懐かしさを覚えました。

地域史に興味を持ち始めたばかりの頃がそうだったからでしょう。
地元の人間ですら知られていない館城跡を訪ね歩き、
見つけ出すのにいつも苦労したのを覚えています。
いまからおよそ20年前のことです。

言い換えれば、20年間もこんな探訪を続けているわけです。
歴史系の会に属し、誰かと一緒に訪ねたこともありましたが、
一人で行動することの方が多く、館城とじっくり対話していました。

子どもができてからは一緒に連れていく機会が増え、
何の変哲もない町の一角でシャッターを切っています。
子がまだ幼いからついてくるものの、
あと数年もすれば一緒に館城跡に立つこともないのでしょう。

息子はプールのあと、妻と大型ショッピングセンターへ行き、
明るくにぎやかな子ども広場で遊んできたそうです。

一方、僕と娘は北大島館から磯ヶ原城と羽附陣屋をハシゴ。
遊具と言えば、館跡に建つ明善寺のブランコに乗ったくらい。
ひと休みしたのは、館林内のショッピングセンターと羽生の鬼平江戸処で、
ジュースとアイスとB級グルメをつまんで娘は満足した様子でした。

文句一つ言わないのは、まだ3歳児だからでしょう。
いつもニコニコして館城跡を歩く娘。
とはいえ、父と館跡を訪ねたことなど、すぐに忘れてしまうのかもしれません。

20年以上もこのようなものを追い続けている父を、
大きくなったらどう感じるのでしょう。
父の本を手に取ることはあるでしょうか。
20年前がそうであったように、
20年後を想像するのは容易なことではありません。

北大島館を訪ねたとき、陽はすでに西日を帯びていました。
館跡に落ちた僕と娘の長い影。
幼い娘の手を引いて歩く自分の影を見たとき、ふと気付きました。
20年が経ったんだな、と。
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